傘さし狸と迎え人 ――蛙――6


 先ほどの蝶が、ちょこんと大人しく少女の手の平にとまっていたのだ。いや、違う。いつの間にか元の折り紙の姿に戻っている。


「い、いや、ちょっと待ってくれ。その蝶、さっきまで飛んでなかったか?」


「ええ、だってそりゃ式神ですから」


「……は?」


「平安の頃に安倍晴明って陰陽師がいたでしょう? あれと同じで式神として使役してるんですよ。確か〈宇治拾遺物語〉でしたかね。〈懐より紙を取り出し、鳥の姿に引き結びて、呪を誦じかけて空へなげあげたれば、忽に白鷺になりて、南を指して飛び行きけり〉ってね。ま、結ぶと折るじゃ違いますが、理屈としてはだいたい似たようなもんですよ」


 まさに立て板に水――というか、あまりにすらすら言葉が出てくるので驚いた。どうやら一つ訊くと十返ってくるタイプらしい。


 そして予想を遥かに超えてファンタジーだった。けれど、この目で見てしまったからには信じるより他にない。


内心頭を抱えた漱也など知らぬげに、少女は手中の蝶をためつすがめつすると、


「やっぱりウチの店のものですね。ねえ、アンタ、この蝶は地図代わりの案内状みたいなものなんですが、どうしてアンタが持ってるんです?」


「……いや、実は俺もわからなくて」


「は?」


「変な話なんだが、その、父親の形見のようなものなんだ」


 本当は、形見と呼ぶのも相応しくない。生きているか死んでいるか――そもそもどこの誰かすら知らないのだから。


 漱也が祖父のもとで暮らし始めたのは、わずか五歳の頃だった。


 それ以前のことは、なぜか霞がかかったように思い出せない。ただ、それまでの数年間、父一人子一人で暮らしてきたような、そんな曖昧な記憶だけが残っている。おそらく母は物心つく前に漱也のもとを去ったのだろう。そして父もまた、祖父の家に漱也を置いて、それきり行方をくらませてしまった。


残されたのは、折り紙の蝶一匹と――時折夢としてよみがえる紅い夕暮れの記憶だけだ。


(……どうして手放せないんだろうな)


 戸籍を見ると、父親の欄は空白になっていた。つまり父は、その名すら漱也に残さなかったことになる。


 しかし。


 たとえ、もはやただ一つきりの父との繋がりなのだとしても――いや、だからこそ、腹いせに捨ててしまってもよかったはずだ。なのに漱也は今も肌身離さず持ち歩いている。


 と。


 まじまじと漱也を見つめた少女は、不意にことりと首を傾げて、


「アンタ、もしかして早冬漱也って人じゃないですか?」


「え」


 驚いた。彼女とはこれが初対面ではなかったろうか。


「どうして俺の名前を?」


「どうしてって、そりゃアンタ……いや、そうか……お父さまのことは、もう」

 独り言めいたその言葉は、漱也にとってまさに不意打ちの一撃だった。


「親父のこと、何か知ってるのか?」


 はっと少女が口をつぐんだ。しまった、と顔に書かれているのが見てとれる。

しかし直後、ガラ、と背後の格子戸が開いて、


「瓦版屋でござーい!」


 戸口から現れたその姿に、今度こそ漱也は絶句した。


 異形、としか言いようのない貌だった。


 にょきっと黒いくちばしの突き出した顔。一本歯の下駄をはいた山伏装束。とどめに背中から生えた真っ黒な翼。どこからどう見ても烏天狗だ。


「えー、そろそろ来月分のお代を……やや、こりゃ失礼! なんと先客が!」


 慌てた声がくちばしから聞こえる。


 そして漱也に向かって「どうぞごゆっくり」と頭を下げると、ぱたぱたと夕焼け空に飛び去ってしまった。


「……………コ、コスプレ?」


「正真正銘、まじりっけなしの本物ですよ。なんせ、ここは茜辺原ですからね」


 ふう、と少女の口から溜息がこぼれる。


「この場所はね、あの世とこの世の境界にあるんですよ。お陰で、昼も夜も逢魔ヶ刻の茜空。辺りの森には妖怪たちがうじゃうじゃいて、町の人々と度々悶着を起こしましてね。昔からその解決を担ってきたのがこの折紙堂というわけです」


 にわかには信じがたい話だった。しかし実際に目の当たりにしてしまった以上、受け入れるより他ないのだろう。


「今じゃあ妖怪専門のよろず相談所と化してますが、少し前まで町の人から相談事を請け負うこともあったんですよ。妖怪と関わりの深い人間は、自然とこの場所に足が向くようになってますからね。しかし近頃じゃあ、とんとご無沙汰だ。アンタは、実に十数年ぶりの客人ですよ」


 と言うや否や、すっと少女は姿勢を正して、


「二代目店主、蒼生と申します。どうぞ、よろしくお見知りおきください」


 流れるように頭を下げたその所作に、思わず漱也は見惚れてしまった。

 が、何よりもまず気になるのは――。


「えっと、さっきの話なんだが、もしかして親父はこの店の客だったのか?」


「……ええ、まあ、そういうことになりますね」


「どんな用件で?」


「さてね。たとえ身内だとしても、勝手にお客のぷらいばしぃを漏らしたんじゃあ、店の沽券にかかわります……と言いたいところですが、その顔じゃ納得できなそうですね」


 はあ、と溜息を吐いて、青硝子の目が漱也をにらんだ。


 しばし思案げに腕組みすると、やがてポンと手を打って、


「よし、こうしましょう。アンタに一度チャンスをあげます。これから折り紙の蛙を折ってください。上手く跳ばせた方が、一つだけ相手にいうことをきかせられるってことにしましょう」


「……はい?」

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