傘さし狸と迎え人 ――蛙――5
暗く濃く茂った木々の緑に隠れるように、見馴れない石段がのびていた。
ざっと百段はあるだろうか。ところどころ苔むした石段は、一見、影繪神社のものに似ている。しかし、その先は離れ森の木々に呑まれてよく見えなかった。そして奥へ奥へと羽ばたく蝶の姿は、今にも木の下闇に消えようとしている。
このままでは見失ってしまう。焦った漱也は、石段に足をかけて上り始めた。
そうして半ばまで上ったところで、
「え?」
急に辺りが暗くなった。妙に視界が茜色を帯びているように感じられる。
まさか、と空を仰ぐ。
すると頭上には、燃えるような夕暮れ空が広がっていた。
(――嘘だろ)
慌てて腕時計を確認すると、午後一時を指していた。
やはり、まだ日没からほど遠い時刻だ。
「一体、どうして」
振り向いて、背後に広がる町並みを見下ろした。
密に生い茂る緑の向こう、家々の屋根が黒いシルエットとなって連なる光景は、町名通りに鋏で切り抜いた影絵細工のようにも見える。天上の赤、地上の黒――その妖しい対比に、漱也はぞくりと背筋を粟立たせた。
(引き返そう)
たまらず踵を返そうとしたその時、ふと石段の下から風が吹き上げた。
誘われるように顔を上げる。
すると石段の先に、鬱蒼とした木々に隠れるように小さな朱色の鳥居を見つけた。
と、その下に一人の少女が現れる。
眼差しを伏せた白い面輪。鴉の濡れ羽色をした長い黒髪を高く結い上げ、その耳元に折り鶴をかたどった髪飾りを差している。凛とのばされた翼は、まるで大輪に咲いた花のようだ。そして、白い折り鶴を散らした裾模様の、晴れやかな暖色の着物。
今どき珍しい着物姿であることを抜きにしても、浮世離れした美貌だった。これまで目にした人の中で、おそらく最も整っているのではないだろうか。
舞い上がった黒髪が、風の軌跡を描いてうねる。
不意に、伏せられていた瞼が上がった。
――青い。
まるで青硝子のように、澄んだ双眼。
顔立ちは、あくまで水際立って美しい日本人のそれだ。なのに目ばかりが息を呑むほどに濃く青い。
と。
ひらり、と少女の肩に蝶がとまった。
直後、おもむろに踵を返した少女の背中が、すっと鳥居の向こうに消えてしまう。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
消えた後ろ姿を追うようにして石段を上った。
丹塗りの鳥居をくぐると、上りの斜面が一旦途切れて、平らな草地が広がっていた。ちょっとした広場のような草原を、鬱蒼とした森の木々が取り囲んでいる。
どことなく箱庭めいた美しさのある景色だった。
茜色に染まった草が、ザアッと風の在り処を示して波打つ。潮騒めいた音をたてる様はまるで日没を迎えた海のようだ。
そして、そこに一軒の店が立っていた。
木造平屋建てのわびしげな店構えには、かえって老舗らしい風格がある。近づいてみると、戸口に下がった木彫りの札に、達筆な墨字で〈折紙堂〉とあった。和紙店のようなものなのだろうか。
「ごめんください」
木枠のガラス戸を引いて中に入った。
背後から差しこむ西日が、手前に広がる土間を茜色の矩形に切り抜いていく。
正面には、幾らか床の高くなった小上がり。その向こうに、緋色の暖簾がかかった出入口があった。やはり商店のように見えるものの、和紙や千代紙の類は見当たらない。一体、何の商いをしている店なのだろうか。
「すみません――」
奥に向かって呼びかけようとした、その時だった。
「おや、驚いた。十数年ぶりのお客ですか。アンタまさか、狸や狐が化けてたりしませんよね?」
突然、暖簾の向こうから声がかかった。
やがて姿を現した声の主に、思わず漱也はぽかんと口を開けてしまった。
――蒼い蒼い双眸。
一瞬遅れて先ほどの少女だと気がついた。凛と背筋ののびた立ち姿は、どことなく一輪挿しの百合を思わせる。
と。
「あ」
驚き声が口からこぼれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます