傘さし狸と迎え人 ――蛙――4
侘美たちと別かれて一人校舎を後にした。
面接先のコンビニは、二十分ほど路線バスを乗り継いだ先にある。
見上げた空は、薄墨を刷いたような曇天だった。しかし雲は薄く色も淡い。この先、降るかどうか微妙な線だろう。
校門脇にのびる坂道を下ると、トタン屋根つきの停留所に着いた。頭上では、丈高くのびた木槿の木が白い花を咲きほころばせている。赤インクを一滴垂らしたように、どの花も芯から紅色を滲ませていた。
前のバスが発車したばかりなのか、珍しく辺りは閑散としていた。ただ一人だけ、灰色のスーツを着た長身の男性が、煙草をふかしつつ腰かけている。
時刻表を見ようと近づいた漱也は、その直後に足を止めた。
「え」
驚きの声が、喉につかえてそのまま凍った。
顔が、ない。
正しく言うと、目鼻口のあるべき部分が、鉛筆で塗り潰したように真っ黒だった。短く刈りこまれた黒髪の下、まるで黒塗りの面をかぶっているかのように。
お化け。
なぜか思い浮かんだのは、その三文字だ。
ひゅっと喉が鳴る。悲鳴だ。理性よりも先に本能が、それがひどく恐ろしいものだと告げていた。まるで巨大な蛇の目玉のように、じっと漱也を見すえるその顔からは、どろどろに澱んだ害意だけが伝わってくる。
(逃げなきゃ)
恐怖と混乱の中、なんとか漱也はその場から逃げ出そうとした。
けれど体が動かない。これではまさに蛇ににらまれた蛙だ。
と。
「……也、か?」
名前を呼ばれた、ような気がした。
耳の穴に泥水を注ぎこまれたような不快感に、ぞっと総毛立つ。暴れる心臓の鼓動が痛いほどだ。しかし口から出る声は悲鳴にならず、苦痛のうめき声にしかならなかった。
そんな漱也を嘲笑うように、すくっと男が立ち上がる。
近づいてくる。
何かとても恐ろしいものが、こっちに。
「や、め……」
かすれ声でうめいた直後、ひらりと視界を横切るものがあった。
「あ」
蝶だ。
咲きこぼれる木槿の花心と同じ、紅色。
それも、ただ視界をよぎったのではない。漱也が肩にかけたスクールバッグの、そのサイドポケットから飛び出したのだ。
(ま、まさか⁉)
一瞬、痛みや恐ろしさすら忘れて、漱也はスクールバッグを探った。
――なかった。
本当に、なくなっている。
寒椿のような紅色をした折り紙の蝶。
昔ながらの手漉き和紙で折られたそれを、漱也はずっと神社のお守りのように通学鞄に忍ばせてきた。小学生の頃にはランドセル。中学生の頃には黒革の学生鞄。そして今、ナイロン製のショルダーバッグにしまっていたそれが、跡形もなく消え失せている。
まるで紙から生き物へ。
今、目の前で羽ばたいている蝶に、突然姿を変えてしまったかのように。
「え、ちょっ!」
すいっと滑るように蝶が動いた。顔なしお化けとは反対側、坂の上へと向かって。
慌てて追いかけると、呪縛が解けたように体が動いた。
羽ばたく蝶に先導され、顔なしお化けから逃げるように足を進める。
新興住宅地である表町の界隈から、古くからの工場や民家が密集する裏町へ。まだ昭和の匂いの残った路地を、アミダくじを辿るようにして抜けると、やがて急勾配の坂道に差しかかった。
「ここは……」
ひるむように足が止まる。
見上げた坂道の先には、小さな石造りの祠があった。今なお原則として入山禁止となっている離れ森の、町との境界を示す印だ。
そして。
(やっぱり、あの夢と同じなんだな)
視界に現れたのは、先ほどうたた寝で見た夢とそっくり同じ景色だった。何度も繰り返し夢に見るせいで、ふだんはあまり近づかないようにしていたのだが――。
(そうだ、さっきの蝶はどこに行ったんだ?)
祠の手前には、離れ森の木々を囲むように細い舗装路がのびている。
北へ向かえば暁乃介の生家である影繪神社。南へ向かえば隣町に続く迂回路だ。山越えの道がないことからも、影繪町の住人たちのこの森に対する信仰の深さがうかがえる。
昔は、ここら一帯があの世とこの世の境目と考えられていたのだ。里で死んだ村人たちは、黄泉路であるこの坂道を上って離れ森へと入っていく。彼岸に通じる門の役割を果たすという離れ森は、同時に人ならざる者たちに守られた神域でもあるのだ。
この祠より先は、妖怪や鬼の領域だ。
と。
「あ」
ふと紅い蝶が祠の後ろをよぎるのが見えた。慌てて裏手を覗きこんだ漱也は、途端、驚きに目を瞬いた。
「あれ?」
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