傘さし狸と迎え人 ――蛙――2


 正午過ぎ。


 午前中のみの特別授業が終わりに近づいた頃、うっかりうたた寝してしまった漱也は、ほんの数分にも満たないその間に、幼い頃の夢を見た。


 紅い紅い夕暮れだ。


 離れ森の麓に位置する小さな祠。その前にしゃがみこんだ漱也は、抱えた膝に顔をうずめて誰かの迎えを待っていた。


 怖い、嫌だ、帰りたい。けれど、泣いて叫んだところで、それを聞いてくれる人はもう側にいないのだ。


 ――いい子で待っててね。きっと誰かが迎えに来てくれるから。


 そう言い残して立ち去った背中は、一体誰だったのだろう。


 一人きりで祠の前にうずくまってすでに数時間が経っていた。もしかすると、このまま夜になって、離れ森のお化けに食べられてしまうのかもしれない。


 怖い、嫌だ、帰りたい――淋しい。


 そして。


 ――迎えに来たよ。


 あれは、あの声は、本当に〈  〉だったのだろうか?


 ………。


 ……。


「そーうやっ!」


「うわっ!」


 背後から肩をつかまれて突然現実に引き戻された漱也は、思わず椅子ごと引っくり返りそうになってしまった。


 頭上のスピーカーからは、授業終了を告げるチャイムの音が聞こえる。


 振り向くと、ニッと口角を上げた柴犬似の笑顔があった。三縞侘美だ。


 未だ小学生にも見える童顔は、中学校の入学式で知り合って以来、まるで変化がない。しかし高校から始めたサッカー部では、小回りを活かした俊敏なフットワークで次期エースと注目されているらしい。すべて自称なのが難点ではあるが。


「お、珍しい、寝てた?」


「ああ、今起きた。それより何か用か?」


「あ、そだそだ。この前の話ってもう決まった? ほら、お祖父さんに反対されたけど、こっそり土日にバイトしたいってやつ」


「いや、まだ。けど、この後コンビニで面接してもらえることになって」


 だからこそ今朝は、源之助に勘づかれずに家を出る必要があったのだ。


七転八倒のバイト探しの末、ようやくもたらされた吉報に「おおー、やったじゃーん」と侘美から歓声が上がる。


「あ、じゃあ、あの話、漱也はパスかー」


「うん? どの話だって?」


 ジャジャジャーン、と効果音つきでスマホを突きつけられた。


「ウチの叔父さんが伊豆でペンション兼海の家やってんだけどさー、夏休みに短期バイト募集してんだよね。三泊四日の泊まりこみ。最終日には海の幸のバーベキューつきで、なんと日給一万円!」


 画面には、浅黒く日焼けした上腕二頭筋の見事なマッチョが、白い歯を光らせながらイカ焼きにかぶりついている写真があった。他にチョイスすべき一枚はなかったのか。


「うーん、よさそうだけど、泊まりこみだとちょっと難しいかもな」


「え、なんで? 漱也んちって厳しい方だっけ?」


 そう首を傾げる侘美に、漱也は気まずく顎をかくと、


「この前、じいさんが入院したろ」


「あー、そうそう、夏風邪こじらせたんだっけ。え、もしかしてまだ具合悪いの?」


「いや、じいさん自身は元気なんだ。ただ、もう年だって考えるとな」


「まー、確かに今、家をあけるのが不安だって気持ちもわかるけどさー」


 肺炎で源之助が入院したのが、つい先月だ。幸いすぐ退院できたものの、これまで頑健さが自慢だっただけに、控えめに言って頭を殴られたようなショックを受けた。以来、いらぬ世話と悪態をつかれつつも、ついつい不安が首をもたげてしまう。


「もしかしてさー、漱也がいきなりバイト探し始めたのって、お祖父さんのこと関係あったりする?」


「まあ、無理させてる自覚はあるからな。学費も払ってもらってるし」


「かーっ! 真面目すぎでしょ? バイトの動機なんて〈遊ぶ金欲しさ〉でいいじゃん! 高校生らしく!」


「……犯罪者じゃないか? それだと」


 板金工である源之助は、ほとんど毎日が外仕事だ。夏はかんかん照りの直射日光、冬は北風の吹きさらし。体力的にきつい仕事なのは想像にかたくない。せめて毎月の小遣いぐらい自分で稼ぎたいと思うのは、至極自然ではないだろうか。


 肝心の源之助に反対されているというのっぴきならない事情はあるけれど。


「あれ、そういや漱也って小学生の頃からお母さんお父さんと別々に暮らしてて、お祖父さんと二人暮らしなんだよね? なんで別居してんだっけ? 仕事?」


「いや、それは……」


 答えようとして、喉の奥で言葉が詰まった。

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