『折紙堂来客帖 折り紙の思ひ出、紐解きます。』

傘さし狸と迎え人 ――蛙――1


 初めに冬が終わった。


 沈丁花と水仙の香りで始まった春が過ぎ、立夏に咲いた卯の花がやがて粉雪の降るように散り終えると、町中に薄ら雨の匂いが立ちこめる。


ふと気づいた頃には、田んぼの稲が曇天の下で青さを増して、そこかしこの生垣から紫陽花の青紫色が覗くようになっていた。


 六月。雨の季節だ。


 影繪町、というのがこの町の名だった。


 東京都近県に位置する田舎町で、ローカル線の終点――住民は〈新駅〉と呼んでいる――が延長されて以来、都心への通勤圏としてベッドタウンの一つに数えられている。


 北西には標高六百メートルほどの小高い山があって〈離れ森〉の名で親しまれていた。夕暮れ時には、西日の逆光を浴びた山が麓からのばした影で町を覆う。外界から切り離されたかのように集落すべてが薄闇に沈んで、まるで切り抜きの影絵にも見えた。その様が町名の由来となったそうだ。


 その町外れと言っていい場所に、早冬漱也の家はあった。


 鬱蒼と雑木の茂った山を背に、なだらかに続く傾斜地の一角。石垣を積んだ土台の上に建った、典型的な田の字型住宅だ。


 その茶の間、地方紙の朝刊を広げた祖父の源之助が、ぱちんぱちんと爪を切っている。鼻歌と呼ぶにはデカすぎる声でがなっているのは、北島三郎の〈与作〉だ。源之助の十八番で、町内会の慰安旅行では毎年欠かさず熱唱しているらしい。


 短く刈りこんだごましお頭に、日焼けして引き締まった短躯。とても還暦を迎えた老人のものとは思えない体つきは、肉づきが薄くて長身の漱也とは、あまり似たところが見つからない。


 二人きりで暮らす、祖父と孫ではあったけれど。


「なあ、じいさん」


 縁側の掃き出し窓を背にして、そう漱也は声をかけた。


「おう、どうした」


 振り向いた背中は、土曜日にもかかわらず作業着姿だった。


(またか)


 思わず漱也は顔をしかめる。


 齢六十二歳になる源之助は、山麓に工場をかまえた工務店で、板金職人として働いている。悪天候の日は休みになるので、思うように作業のはかどらないこの時期は、日曜日すら返上になりがちだ。とは言え、これまでは休日に作業着姿を目にしても、頼もしさを覚えこそすれ、不安を感じることなどなかったのだが――。


「なんでえ、変な顔してよ」


「いや、先週も出勤だったなって思って」


「けっ、こんな湿気った日に畳の上でごろごろしてたんじゃあ、そのうち尻にカビが生えらあ。勝手に年寄り扱いしてんじゃねえぞ」


 いや年寄りだろ、というツッコミをすんでにのみこむ。

以前よりもその背中が小さく見えるのは、漱也の中で心配の種がめきめき育っているせいだろう。肝心の源之助には、ありがた迷惑とばっさり切り捨てられてばかりだが。


「そっちこそ、なんで休みの日に制服着てんだ?」


 ぎろ、とにらまれた漱也は、白シャツにショルダーバッグの通学スタイルだ。


「ああ、いつもの特別授業。七月の期末テストまで、今日で二週間を切ったらしいから」


「なんだ、もうそんな時期か。次から次へと容赦ねえなあ、進学校ってのは」


「まあ、ふだん呑気にしてる分もあるし」


 漱也の通っている先は、ここから自転車で三十分の距離にある県立影繪高校だ。いちおう進学校に分類されるが、定期テスト前に土曜日限定の補習授業が行われるものの、都内の進学校に比べれば、比較するのも申し訳ないほどの長閑さだった。


「ごめん。今日、ちょっと帰りが遅くなるかもしれないんだけど」


 言いながら、消し忘れていたテレビの電源を切った。


「おー、そうか。そんなら晩飯も外ですませてこい。俺は久しぶりに清川庵で蕎麦でも食ってくらあ。ハンバーガーでもピザでも、たまには高校生らしく長っ尻して駄弁ってこい。青春しろ青春しろ」


 期待どおりの返事に、そっと安堵の息を吐く。しかし、そそくさと背中を向けて立ち去ろうとしたところで、


「なあ、漱也」


 不意に呼び止められてどきりとした。


「まさかお前、この前のバイトの件、まだなんか企んでやしねえだろうな?」


「いってきます!」


 肩越しににらまれるが早いか、漱也は脱兎のごとく玄関に走った。


 木枠のガラス戸を引くと、空には黒ずんだ雨雲が広がっている。


 同時に、竹垣からこぼれ落ちるように咲いた紫陽花が目を引いた。目に沁みるほど濃く色づいた花々からは、どこか青い水の匂いがする。

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