エルフのブレト
イリシアという世界がある。そこは剣と魔法の世界、そしてどこにあるかはわからない。遠い宇宙の彼方にある惑星なのかもしれない、別の次元にあるのかもしれない。もしかすると誰かの心の中あるいは夢の中にあるのかもしれない。
誰もがどこにあるのかは知らない、けれども確かにあるそのイリシアの世界の中心には<混迷の都>と呼ばれるパンネイル=フスなる都がある。さらにその都を北に北にと行くと、クレアイリスと呼ばれる森があった。
青々とした樹木が茂る深い深い森には睡蓮の咲く澄んだ湖があり、森の中には多くの動物だけでなくエルフと呼ばれる種族が住んでいた。
森の民として知られるエルフ達は、せいぜい六〇年程度で天寿を全うしてしまう短命の人間からすれば恐ろしく遥かに長い寿命を持つ種族であり、尖った耳が特徴的で男女ともに見目麗しいことで世界に知られていた。
彼らは森の民と呼ばれるだけあり、森を愛し、森と共に暮らしている。エルフの男達は肉を得るために動物を狩っても、決して多くを狩ろうとはしない。エルフの女達は木の実や野草を摘むが、決して多くを摘もうとはしない。
エルフのために森の動物たちが飢えぬ様に、森の恵みが枯れ果てぬように、彼らは慎ましく森と共に暮らすことを良しとしていた。
しかし短命の人間達に変わり者がいるように、<クレアイリスの森>に住むエルフにも変わり者がいた。名前をブレトという。彼は既に二〇〇の年月を生きていたが、まだ若い青年である。短命の人間の一〇倍あるいはそれ以上も長い時を生きるエルフではあるが、その分だけ少年期や青年期も長いのであった。
このブレトもエルフの一員なだけあって、森を愛してはいるのだが同じエルフの仲間からは酷く疎まれていた。エルフの男達は皆狩人であり、ブレトもまた狩人で弓を使う。森の恵みによって生きるエルフは弓の材質に拘りがあった。
必ず木だけで弓を作ること。明文化されたわけでも、長老がそう触れ回っているわけでもない。エルフ達が森と共に生きていく中で自然と形成され、熟成された暗黙の了解であると同時に不文律である。
ブレトはそれを守らなかった。彼の弓は木も使っているが、動物の腱や金属も使用した複合弓であった。もちろんブレトがそんな弓を作ったのにはちゃんとした理由がある。
威力を高めるためであった。どうしてその必要があったのかと言えば、肉にする動物達を必要以上に苦しませないためなのである。木だけで作った弓はどうしても威力が小さいのだ、大きくすればその問題は解消できたのだが、大型の弓は深い森で使うには適さないのだった。
そこでブレトはたまに森へと訪れる人間の商人から知識を得て、複合弓を作ったのだがクレアイリス森のエルフ達はそんなブレトを理解できずに非難したのだ。もちろんブレトには動物を一撃で仕留め、苦しませないようにするためであり、ブレトは仲間たちに語った。
けれどもクレアイリスのエルフ達はブレトの考えを理解できず、また理解しようともしなかった。彼らにとってブレトは長い間守られてきた秩序を破った無法者でしかなかった。
こうしてブレトは集落の裁判に掛けられることとなった。誰もブレトを擁護しなかった。ただ一人、ブレトの幼馴染の女性フレスノだけは哀れみの目で彼を見たが、彼女も声を上げることはない。
誰かが里を追放するべきだと声を上げた。別の誰かは森に謝るため生贄にすべきだと声を上げた。ブレトは彼らが声を上げるのを、ただ黙って聴いていた。理由があるとはいえ禁忌を犯した自覚はあったので、処罰されてもしかたないと諦めていた。
ただ罰を与えられるのは仕方のないことではあるけれども、幼馴染のフレスノですらその理由を解してくれないのがブレトにとって納得のいかないことであった。
裁判が終わった。
幸いにして里を追い出されることは無かったが、住処は集落の外れのボロ屋に決められた。そして狩りに出ることを禁じられ、代わりに与えられたのは泉の番人だった。その任を課せられた時、表情にこそ出しはしなかったがブレトは驚くしかなかった。
彼が番をすることになった泉は集落から徒歩で三〇分ほど行ったところにあり、集落のエルフだけでなく森の動物たちも喉を潤すために使っているものである。過去どれだけ遡ろうとも、泉の番人などという役割はなかった。
大事な泉ではあるが、例えそこが枯れようと汚れようとそれは森の意思である。ブレトも含めてエルフ達はそう考えているからこそ番人を置く必要などなかったのだ。
なのにどうしてブレトを番人にするのか。問うても長老は答えてくれなかった。追放や生贄にするほどの罪ではなくとも、ブレトが取り返しのつかないことをしたがために出た策である。狩猟というエルフ男性の誇りを剥奪するためだった。
長老は教えてくれなかったが、ブレトはその意思に気づいていた。ただブレトは禁忌を犯しはしたものの、生来は真面目な青年である。今まで必要が無いから誰もしなかった守人なのだが、その任を課されたのだから実直にこなそうと決意し、集落の皆に謝罪と感謝を述べた。
そんなブレトを皆は瞳に怒りを覗かせ見ていたが、フレスノだけは哀れみの視線を向けていた。
こうしてブレトは泉の番人となった。朝日が昇るころ泉に向かい、畔の椅子に腰掛けて日が暮れるまで眺めているだけの日が続いた。エルフの女達は水を汲みに来てもブレトに声を掛けることはなかった、そこにいない者として扱っていた。
ブレトはそんな風に扱われても彼女たちに笑いかけ、声をかけ続けた。返事が来ないことは分かっていたが、それも務めなのだと思えば腐ることはない。集落の女も動物たちもいない時に彼は木の精霊、風の精霊、土の精霊、水の精霊、様々な色に煌く彼らとの対話を楽しんだ。
気まぐれな精霊たちがいない時はナイフと木片を使って彫刻を楽しんだ。
万が一のために弓と矢を携えることを許されてはいたが、狩りを許されないのは寂しいことだった。けれども泉の番をする日々は穏やかで、これはこれで良いとブレトは思うのだった。
晴れと雨が繰り返され、森の香りが一段と濃くなった頃に幼馴染のフレスノが一人で水を汲みにやってきた。集落の女達は一人で水汲みに来ることはない。不思議に思いながらもブレトはいつもそうするように、彼女に声をかけた。
返事が来るわけはないので、声をかけた後はすぐ泉の水面へと目を戻す。そこでは青い光を纏った水の精霊がダンスをしている。精霊の踊りを眺めながらも、ブレトは視界の中に水を汲むフレスノの姿を入れるようにしていた。
フレスノは瓶一杯に水を汲んでも離れようとはしなかった。屈み込んだまま、水面に写る自身の姿を眺めているようであった。
「あなたはそのままでいいの?」
ブレトは返事をしなかった。フレスノはブレトを見ていなかったし、水の精霊が踊っていたこともあって話しかけられているとすぐには思わなかったのだ。
「ねぇブレト。私はあなたに聞いているの、どうして泉の番人を続けているの? 男としての尊厳は無いのかしら?」
「みんなが私にそうするように言いましたからね、集落の一員として与えられた責務を果たしているだけですよ。狩りに行けないのは寂しいことですけれども、私たちの喉を潤す泉を守るというのは大事な仕事ではないでしょうか」
「けど泉なんて何百年もの間誰も番なんてしてなかったわ。あなたはエルフの誇りを奪われただけなのよ、どうしてそんなに落ち着いて座っていられるの?」
「そうかもしれませんね。でもフレスノ、理由は何であれ私が禁忌を犯したのは事実ですから仕方のないことなのですよ」
「弓を持って獲物を仕留めるのが男の誇りよ、それを奪われたのにのうのうとしていられるのがわからないわ。あなたにだって二本の足があるの、誇りを奪われたのならそれを取り戻すために動いてもいいんじゃないかしら」
フレスノの声は怒気を孕んでいた。それに当てられてしまったのか、踊っていた精霊はぴたりと動きを止めて泉の中へと姿を消してしまう。彼らのダンスを楽しんでいたブレトはつい溜息を吐いて、非難めいた視線をフレスノへと送った。
彼女はいつの間にか立ち上がっていて、顔を赤くしていた。ブレトは小首を傾げてしまう。
「フレスノは動けば良いと言ってますけど、具体的にどうすれば誇りを取り戻せるというのです? 私が狩りをすればまた秩序を破ることになりますよ。もし取り戻せるとしたらですね、いつになるかはわかりませんけれど愚直にこの番人を続けることだけでしょう」
「そうかもしれないけれど、それなら森を出たって良いんじゃないの。<混迷の都>に行って、名声を高めて戻ってくれば良いじゃないの。ブレトは集落に来る人間の商人とよく話すでしょう、彼らと一緒に出て行ったら良いじゃないの」
「なるほど……その考えは無かったですね。けどやりません、パンネイル=フスに興味がないと言えば嘘になります。ですけれど私はエルフです、森から離れたくはないのです」
フレスノから泉へと視線を戻して精霊の姿を探した。また戻ってきてくれて踊りを見せてはくれないだろうかと期待していたが、奥底深くに隠れてしまったらしい。精霊が水面に出てくる気配はなかった。
「あなたほんっと馬鹿ね! 何食わぬ顔で金属なんて触れるんだからもっと根性が据わってると思ってたわ! とんだ期待外れよ!」
フレスノとは二〇〇年近い付き合いがあったが、今までで聞いたことが無い声量だった。あの線の細い体躯のどこからそんな声が出せるのだろうというのだろう。彼女の声の大きさに驚いた木の精霊が枝から落ちて、ブレトの頭で跳ねた。
ブレトだけでなく、木の精霊も驚いている間にフレスノは瓶から水を零しながら行ってしまった。
次の日もフレスノはやってきたが、一人ではなかった。他の女たちがそうであるように、彼女はブレトに声をかけることはなく姿を見ようともしなかった。ブレトはそんな彼女にもいつもと変わらず声をかけたが、何ら反応も返ってくることはない。
変わることなく石の上に座り、湧き出る泉を見つめ、精霊達と語り合う日々が続いていく。けれども何の変化も無かったわけではなかった。
傍目には決して分かることはないが、ブレトの中に<混迷の都>への興味が湧き上がっていたのである。パンネイル=フスに行ったことは一度もないが、年に何度か訪れる商人から話を聞いて知識は持っていた。
そこには世界に住まうあらゆる種族が共に暮らし、世界が生み出し人が作り出す全てがそこに集うという。今まで<混迷の都>は遥か遠い存在でどれだけ生きようと行く機会など無いだろうと思っていた。しかしフレスノに言われてからというもの、それがあり得る話ではないかと考えるようになっていたのである。
ただ自発的に赴くことはないだろう。ブレトには泉の番人という仕事がある、必要のない役割であることを承知していても与えられた任を放り出すようなことは出来なかった。
せめてパンネイル=フスがどんなところなのか、より多くの知識が欲しかった。あらゆる種族が住まうというが、自分たちのようなエルフはいるのだろうか。狩りは出来るのだろうか。人の多い都だろうから出来ないかもしれない、その場合はどうやって食い扶持を稼ぐのだろうか。
都について知りたいことが後から後から溢れ出していた。それらを得るためには商人が来るのを待たねばならないのだが、彼らはいつやってくるから定かではない。
早く来ないだろうか、その日を心待ちにしつつも表には出さずにブレトは泉の畔に座り続けた。
晴れと雨、昼と夜が繰り返される。森の匂いが落ち着いて、木は実を付け始め、色づく葉も出だした頃のことだった。
一頭の猪が水を飲むためにやって来た。この泉はエルフだけのものではない、森の動物たちのものでもある。普段ならブレトはこっそりと姿を消して森の動物が渇きを癒すのを待つのだが、この時はそうしなかった。
やってきた猪は巨大で二本の角は太く逞しい、長い年月を生きてきたことは明らかだった。しかしそんな猪だが毛並みはひどく悪く、目にはヤニが溜まり黄色い鼻水を垂らしている。腹部には誰にやられたものかはわからぬが、酷い怪我をしており一部が真っ赤に染まっていた。
今は泉の番人をしていても、ブレトとて元々はエルフの狩人である。一目見ただけでその猪は生を終えようとしているのを看破した。
葛藤があった。この猪は泉に口を付けた途端に倒れてしまうだろう。そうなれば巨体から溢れるものにより泉の水は汚れてしまう。
今までならばそれも母なる森の意思としていたのだが、今はブレトが泉を守っていた。もちろん泉を守るといっても名ばかりなのは理解している。集落のエルフ達はこの猪に対し何もしないことを望むのだろう。
しかしブレトはそうは思わなかった。番人としての責務を果たさなければならぬとも同時に考えている。
答えは出しあぐねている間にも猪は体を揺らめかせながら歩みを進めていた。
そうしてブレトは覚悟を決め、護身用に持っている弓に矢を番え狙いを定める。老猪に穏やかなる眠りと黄泉への健やかな旅路を歩めるよう、母なる森と死に祈りを捧げた。
猪の眉間に深々と矢は刺さった。白濁した瞳に僅か残っていた光も消えうせ、巨体は倒れこむ。ブレトはその亡骸に近づき、眉間に刺さった矢を抜いてやると再び祈りを捧げた。
ブレトは永久に眠る猪の体を傷つけぬように縄を巻き、背に担ぎ集落へと歩いた。眠る猪の体は重い、一人で担いでいると文字通りに骨が折れそうで何でもないいつもの道を歩くだけで汗が吹き出た。
そうして帰ったブレトを労う者は誰一人としていなかった。最初に猪を担ぐブレトの姿を見たものは衣を引き裂くかのような悲鳴を上げ、そこからはあっという間だった。ブレトは捕らえられ、弓矢とナイフを奪われただけでなく手に枷をかけられる。
二度目の裁判が始まった。
ブレトは必死になって自身が正しいことを語るのだが、それを聞くものはいなかった。顔を赤くし、声を荒げても変わることはないどころか彼らの印象を悪くするだけに終わってしまった。
長老は明くる日にブレトを母なる森への生贄にすることを決め、枷を外し屋外の檻の中へと放り込む。抵抗はしなかったが、ブレトはその間も正当性を訴え続けた。だが誰も聞いてはくれなかった、既にブレトはクレアイリスのエルフとして扱ってもらえなくなっていた。
悲しさと空しさに口を噤んだブレトは檻の中に一人座って、空を見上げ続けた。日が傾いて空が赤く染まる、紺色へと変わり、星のきらめきが檻の中にも届いてきた。
食事はおろか水すら与えられることはない。ブレトはエルフであると認められなくなった。この檻の中にいるのはエルフの姿をした別物であるらしい。
涙を流す気も起きず、眠る気も起きなかった。集落の全ての者が寝静まった頃になっても、ブレトは夜空を見上げ続けていた。その目に映っているのは煌く星ではない、まだ見ぬパンネイル=フスの明かりであった。
せめて商人から都の話だけでも聞いておきたかった。フレスノに言われた時、飛び出してしまえば良かったと悔恨してはみても今更どうにもならない。
だがそんなブレトに救いの手が差し伸べられた。幼馴染のフレスノが檻の扉を開けたのだ。それだけではない、彼女は以前にブレトが作った動物の腱と金属を使った複合弓と矢が一杯に入った矢筒も持ってきていた。
驚きに目を見張りながらもブレトは差し出されたそれらを受け取り、ただ呆然と弓を眺める。
「用意はしてあげた、後はあなた次第。生贄になるの? それとも二本の足で歩いてみる?」
「こんなことをしてどうするのです? 皆に知られてしまえばあなたもタダじゃ済まないですよ。追放どころか私みたいに生贄にされてしまいます」
言いながらもブレトは矢筒を背負い、弓に弦を張りつつ顔を南の方角へと向けていた。
「生贄になる気なんてこれっぽっちもないくせに、よくそんなことが言えたものね」
「私はエルフですけどもうクレアイリスのエルフではないですからね。そんなものを捧げられた所で母なる森は喜ばないでしょう」
音もなくブレトは檻から飛び出した。その目はフレスノを見ようとすらしていなかった、ずっと南ばかりを向いている。
「そう、ただ少しだけ待ちなさい。あなたにお詫びの品があるの、この鉄臭い弓をあなたが作ったとき私は何も言えなかった。それが申し訳なくて、だからこれを持って行って」
手渡されたのはトネリコの木で作った腕輪である。表面には旅の無事を祈願する文様と、小さく彼女の名前が刻まれていた。ブレトは何もいわずに受け取った腕輪を嵌める。
「それではお元気で。あなた方に母なる森の大いなる恵みがあらんことを」
ブレトはそれだけ言って後ろ髪を引かれることなく南へと向け、森の闇へと消えた。フレスノは彼が闇に包まれた後も、ただじっと胸の前で手を組みながら見ているのであった。
こうしてブレトは<混迷の都>を目指した。そこで偉大な男を目指すカブリ、妖艶なるニグラと出会い数々の冒険で脅威と怪異に立ち向かうことになるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます