7-5. 失望と、デイミオンの抱擁
暗い、どこかの
「私と一緒に行くかい?」
聞こえてくるのは、養い親の声だった。年を取ってすこししわがれて、深みのある声だ。
自分は、どこにいるのだろう?
「老いも病も、苦しみもない、とこしえの春の国だよ。おまえにふさわしい王国だ」
いつの会話なのか、リアナは思い出せない。
それで、首をかしげたまま聞いた。
「そんなにいいところなら、おばさんやアミも一緒に行くよね? セイン……は、行きたがるかわからないけど。ロッタとハニの子どもたちも行く? でも、里の人が減ると、
「いいや、リアナ、行くのはおまえだけだ。選ばれたのはおまえひとりなんだ。この里に来た、最初から」
イニはやさしく首を振った。
「メナおばさんやアミは行かないの?」
そう尋ねると、秋に
「おばさんたちと一緒にいたいかい?」
その言葉に、リアナは眉をひそめる。
「いつまでもずっと一緒にはいないわ。あたりまえでしょ?」
今はおなじ場所で暮らしているが、ライダーになるために、いずれ王都に出ることだって考えているのだ。だからイニの質問は的はずれだと思った。
「でも、自分だけ素敵な場所に行って、家族は置いてけぼりっていうのは、それとは全然ちがうよ。でしょ?」
その言葉を聞いたイニの顔が、まるで湖に映ったかりそめの姿のようにぶれはじめ――しだいに見えなくなった。
「おまえは、やはりエリサとは違う」声だけが、遠ざかりながらもまだ聞こえていた。
「イニ!」
「それでも、いずれ彼らと一緒に行くことを選ぶのだろうね。私ではなく。私のもとにおまえを連れてきた、あの青年と……」
「イニ、待って!」
そこで、目が覚めた。
♢♦♢
風向きが変わりつつあった。西に向かって吹いていたのが、かなり南寄りになっている。リアナはハダルクになかば抱きかかえられるようにして、門塔のうえから煙を確認した。水の中に長時間いたあとのように、立っているのがやっとなほど体力を失っていた。ひどく頭が痛む。今夜はもう、飛竜には乗れそうになかった。
「このままでは外壁が燃え落ちてしまうわ」
割れるように痛む眉間をおさえる。「古竜とライダーは何をしているの? あれだけの数がいて?」
「今回はスピード重視で編成したので、こちらの黒竜はパワー不足なようです。門壁周辺の消火はアーダル
「どうにかならないの? メドロート公は……」
「山方面に広がった火は、閣下とシーリアの力で消せたのだと思いますが……門壁には警備や見張りの兵が多くいますから。
……空気を
これもなのか。めまいを抑えて毒づく。
ハダルクは腕のなかの王太子を抱えなおした。リアナはもはや立っているのも難しくなりつつある。彼女の意識を保つために、説明しつづけた。「――竜の力は、ヒトを害することには使えない。竜術の大原則です。例外は――」
一瞬、言葉が途切れる。竜騎手が目の上に
「例外は、黒竜の力――デイミオン
(そんなはずがないわ)
薄れかけている意識のなかで、リアナは思った。(アーダルは大きすぎる。こんなに早く、ここに到着するはずがない)
「リアナ様! デイミオン卿です!」
ハダルクの声に歓喜がにじんだ。「なんという
わき上がる歓声が遠く聞こえる。なんとか身体を起こして、消火の具合を確認したいが、それもできない。ハダルクの腕のなかで息を整えながら、彼が嬉しそうに報告してくれるのを聴きながら、夜明けはまだなのか、それとも死にかけていて目の前が暗いのだろうかと考えていた。
――イニは、自分を置いていったのだ。あの秋の朝。
いまになって、そんなことを思い出した自分は間抜けだわ、と思った。「とこしえの春の国」などとおとぎ話めいたことを言っていたから、冗談だと思ったのかもしれない。あるいは、養い親に捨てられたことを思いだしたくなかったのか。
――ずっと待ってたのに。
――いつか、帰ってきてくれると思ってたのに。
すこしの間、ほんとうに意識を失っていたらしい。
どれくらいか経って、レーデルルの鳴き声でリアナは目を覚ました。仔竜は、主人の肩からぴょんと跳びおり、ハダルクの腕を中継地点にしてから、地面へと降りたった。
「ルル」
仔竜の動きにつられるようにして立ち、目をあげると、デイミオンがそこにいた。
こんなにも早くケイエに着いていること。アーダルがいないこと。
それなのに、火が消えていること。
その理由がわかりそうな気がするのに、疲れきった頭ではもうなにも考えつかなかった。
(……この速さ、たぶん、飛竜を駆ってきた……アーダルはいない……もしかして、ライダーとして、数頭の黒竜の力をまとめるような力がある? ……まさかね)
(そんなのは怪物じみているわよ、デイミオン)
ルルが喜んで彼の足元にまとわりつこうとするが、男はそれを気にもとめずに近づいてくる。
「待っていてと言ったのに」リアナはかすれ声でささやいた。「ほんとうにせっかちね」
彼を安心させたかったが、うまく笑えたのかどうかわからなかった。
デイミオンは笑っていなかった。
長い脚で大股に近づき、黙ってリアナを抱きしめた。あまりに背が高く、あまりにきつく抱きしめるので、彼女の足は地面からほとんど浮いていた。頭のてっぺんに彼の息を感じ、同時に、彼の心音を感じた。同じひとつの心臓であるかのように打っている、彼の鼓動が。
「リアナ」低く、熱っぽい声がそう呼んだ。「おまえの声がずっと聞こえていた」
「いまは呼んでいないわ」リアナは涙声で答えた。
「ずっと呼んでない。あなたは、タマリスにいないといけなかったのに」
「来ずにはいられなかった。……もう耐えられないと、おまえが叫んでいたから」
こんなときに、いつもの皮肉な調子じゃないのはずるい。
「わたしが……」
リアナは言いかけて、首を振った。そんなことは言っていない、と言いたかった。ただ、子どもたちが連れ去られたのも、兵士がデーグルモールに変容させられようとして死んだのも、ケイエが燃え落ちかけたのも、全部自分のせいだと言いたかった。
自分がライダーとして未熟で、指揮官として無能で、とうてい王にはなりえないただの田舎の小娘だからだと言いたかった。
「ううぅ……」
でも、なにも言葉にならなかった。
そしてはじめて、デイミオンの言葉が本当だとわかった。
もう耐えられない。
子どもたちを助けるはずだったのに。
里は間に合わなかったけれど、ケイエは救えるはずだったのに。
そう信じて、彼が送りだしてくれたのに――
その考えはいまになって、
鼻の奥がツンとして、気づいたら涙が止まらなくなっていた。目が溶けてしまいそうなほど
(わたしが行くなんて言わなければよかった)
(デイにすべて任せておけばよかった)
(王都になんて行かなければ)
(里から出ずに、あのとき、みんなといっしょに――)
「おまえを引き裂く、痛みと後悔の念が聞こえる」
デイミオンは言った。「なぜ助けを呼ばなかった? おまえが苦しんでいるときにそばに行くこともできないなら、〈血の
あの、竜車襲撃の夜と同じだった。彼が自分のために怒っているのが、どうしてかひどく嬉しい。リアナは何も言わずに目を閉じて、しびれるような甘い痛みを味わった。それに続いて、もうどうしようもないくらいの
「おまえのそばから、もう離れない」
耳にじかにそそがれた声は、燃えるように熱い決意だった。湯を注がれたように心地よく、傷口をあらうブランデーのようにひりひりと染み入ってくる。
また、ひとつの
それでもいい、と涙の海のなかでリアナは思った。もう離れない。
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