6-8. ひとつの籠、ふたつの卵

 永遠かと思うほど長く感じられた時間ののち、青年が「……間違いなく、〈くろがねの妖精王〉の玉璽ぎょくじしてある」と言うのが聞こえた。「十年前に結んだ相互不可侵条約の確認と、新王への忠誠を誓う文言だ」

 リアナははじかれたように顔をあげた。まさか。そんな。


「では、五公による採択を行いましょう」

 タイミングを逃さず、エサルが言う。「ケイエへの派兵を認める場合は、挙手を」


 提案したエサルが、まっさきに手を挙げた。

 メドロートは手を挙げなかった。

 グウィナはかなり悩んだ様子だったが、やはり挙手を見送った。

 エンガスとデイミオンはちらりと視線を交わして悩んだ様子を見せたものの――ともに挙手をした。


 リアナは諸侯に聞こえないように、小さく息をついた。

「決まりね」

 握りこんだ手が、まだ震えていた。


  ♢♦♢


 立ちあがったエサルに続いて、リアナもケイエに行くと宣言した。ケイエの領主であるエサルはもちろん、里の出身であり、王太子である彼女が軍を率いることは、決しておかしなことではない。


 五公会は、そのまま派兵の打ち合わせに入っている。竜騎手たちがせわしげに行きかう。朝の光が、弱々しいながらも少しずつ〈王の間〉を暖めはじめていた。

(準備をしなくちゃ)


 里を襲撃され、なにがなんだかわからないうちに旅立ったようなものだった。その出発地点ケイエに、もう一度戻ろうとしている。もはや家族も、愛する人々もほとんど残っていない故郷へ。まだ失っていないはずの子どもたちを救うために。


(怖い)


 あの日から毎晩見る悪夢は、どんなに禍々まがまがしくても、しょせんは夢だ。

 けれどケイエに戻れば、今度は本物の悪夢を、今度こそ自分の目で、すべて目にするのかもしれない。


 子どもたちを救えないかもしれない。


 誰も救えないかもしれない。


 そして、五公にも、デイミオンやフィルにも呆れられ、失望されて、たった一人でどこにも行く場所がなくなってしまうかもしれない。

(ここに残れば――ケイエのことを全部エサルに任せれば――それか、デイミオンやフィルに頼めば)

 そんなことまで考えてしまい、台風のあとの川面かわものように、思考が千々に乱れてしまう。


 そんな彼女を、引きとめる声があった。

「行ってはなんね」

「――メドロート公」

「おめは次の〈種守たねもり〉だ。竜の血脈さ守るものだ。ここにおれ。あとのこどはみな、ほかのもんに任せで」


 大叔父だという男の声は厳しいながらも慈愛に満ちている。その声の言う通りにしたいという欲求はとても強かった。


 ――でも、わたしに保護者はいない。


 イニも、ウルカも、メナも、わたしの前から消えてしまった。そして襲撃のあの日、あの地獄の光景のなかで、わたしは成人おとなになったのだ。


「いいえ」

 リアナは首だけ振りかえった。


「わたしは王になるものです。自分の民を守るわ」


 ♢♦♢


 午後には人選を終え、リアナはハダルクやほかの竜騎手、フィルの選んだ私兵たちと城の前庭に集まっていた。前の日から降りだした雪が積もりはじめ、塔や屋根を白く飾っている。旅装をととのえたリアナは竜舎に向かった。さくさくと雪を踏みしめる感触にも、気を取られる余裕はない。旅装といっても、里から着てきた服の上にフード付きのマントを羽織っただけの軽装だ。ピーウィは喉を鳴らし、静かに出立を待っていた。


 竜舎の奥では、ハダルクが部下たちに指示を出している。

 軍靴の堅い音がして、振り返った。デイミオンだった。旅装ではなく、普段通りのルクヴァ姿だが、分厚いマントを手にかけている。


「さっきは……親書のこと、ありがとう」

 リアナは迷いながら声をかけた。


 青い目が、彼女を見下ろしてきた。

「国境の危機を持ちだされてはな。国難を前にいがみ合うほど、愚かではないつもりだ」

 呆れているのか、諦めているのか。デイミオンの表情は読み取りづらい。


 けれど、デイミオンは〈ばい〉で彼女の計画をすべて知ったうえで、一世一代の芝居に乗ってくれたのだった。

 ――

 なんの法的拘束力も持たない、単なる挨拶状を前に、あたかもそれがより重要な書類であるかのように読み上げたのだ。


 彼が口にしてくれた嘘のセリフを前にリアナがどれほど安堵あんどしたか……それは、言葉では言い尽くせないほどだった。


「芝居を打つのにあんなにおびえるくらいなら、最初から俺に言っておけ。……こういう状況なら、助けてやらんでもないから」

「じゃあ、一時休戦?」

「ああ」

 デイミオンはほのかに笑うと、一歩彼女に近づき、首の後ろに手をやってフードをかぶせた。

「……雪になるぞ」

 リアナはさらに彼に近づき、すっかり馴染なじみになった顔に手をのばした。広く秀でた額、男性らしい太い眉、貴族的な鼻筋、固く引き結ばれた唇。

 

 そして、命令する。「デイ、あなたはここに残って」


「何を言っている」デイミオンは眉をひそめた。

「おまえのように未熟な竜騎手ライダーひとりと領兵とで、デーグルモールが待ちかまえている場所へやるとでも?」

「王権を持つ者がふたり、戦争になるかもしれないような危険な場所には行けないよ。……『ひとつの籠に卵を入れるな』でしょ?」


「馬鹿を言え」

 デイミオンの声に怒りが混じった。「われわれの国の子どもたちがさらわれ、敵の武器にさせられそうになっているんだぞ!? 竜騎手の長である私が行くのは当然だ」

「あなたが行けば、それこそ戦争になりかねない。エサル公やメドロート公も一緒に行くのよ。そこに、音に聞こえた黒竜大公が、竜騎手たちを引き連れて国境に来たら……」

「だから、おまえを危険な地にやって、ここでのうのうと待てと? それが俺にとってどれほどの侮辱か、わかって言っているのか?」

 デイミオンの顔が怒りにゆがむ。はじめて会ったころは、この顔が震えあがるほど怖かった。


(でも今は、違うかな)

 彼が何に怒るのか、何を大切にしているのかわかった今なら、もうそれほど怖くない。怒りはたぶん、愛と不安の裏返しなのだ。大切にしている人々を、自分が守れないかもしれないという。


 そんな彼が、野心家で声が大きくて皮肉ばかり言う男が、王国も民も政敵の少女でさえ等しく自分の力で守ろうとするその傲慢ごうまんさが、どうしようもなく好きだと思った。


「わたしが王になるとしたら、それは、あの子どもたちを助けるためなの。城であなたの帰りを待つためじゃないわ」


 デイミオンはため息をついて、手を伸ばしてきた。

 頬に、熱く大きな手が触れる。

 デイミオンが内心で葛藤しているのが伝わってきた。行かせたくないという思いと、それが最善だという判断とのあいだで。


 リアナが理解していることのすべてを、彼がわかってくれている。〈呼ばい〉がそういうものだとは、思っていなかった。こんなふうに安心するものだなんて。デイミオンを間近に見ているうちに、なぜか涙がにじんできた。あの竜車の襲撃のときのように、彼の言葉がリアナを安心させてくれるからなのか。それとも。


(デイミオンだけが、わたしの力を信じてくれたから)

 お互いに王になることを望み、対立することもあるけれど、それでもリアナに〈ばい〉を教え、白竜の力が使えるようにしてくれたのだ。彼女がまだ何者でもないときから。


「ハダルクの指示に従うんだぞ。交渉はいいが、戦闘にはかかわるな。おまえはまったくの素人だし、黒竜のライダーじゃないんだからな」

「うん」

「俺も近くの町で待機しておくから、危ないときは、すぐ〈呼ばい〉を使うんだぞ」

「うん」

 リアナはうなずいて、顔をあげた。

「信じてくれる? わたしならできるって。里を守れなかったけど、ケイエはまだ間に合うって」

 その顔を、デイミオンの両手が包んだ。

「行ってこい。……おまえを信じている」


 顔に落ちてくる雪がけるほどに、その手は熱く感じられた。

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