5-10.試される王
「どういうことだ!?」
疑いもせずに足を踏み入れたテヌーが慌てて足をあげ、背後の神官に怒鳴りつけた。「早く、この水をなんとかしろ! モップでもなんでも持ってこい!」
「雨漏りかしら?」リアナがのんびりと言った。田舎育ちなので、地面が水浸しになるくらいで驚いたりはしないのだ。「大理石って、きれいだけど、水はけが悪いのね」
「そんなはずはありません」副神官長がうなった。
「〈儀式の間〉は、今朝も確認したはずだぞ! そのときはこんな水は……」
「どこか別の部屋でやったら?」
「いえ……継承の儀は神聖な儀式ですから……すぐに準備をいたしますので。殿下と竜騎手の方々は、奥の間でお待ちください。いま、案内を」
まあ、この状態じゃ、儀式どころじゃないわね。
「殿下、あちらで待たせてもらいましょう。身体を冷やしてもいけませんし」と、ハダルクが彼女の背をそっと押した。
どうせ待たされるなら、書庫を見せてほしい。
リアナは案内役の神官にそう頼んだ。ヤズディンから、御座所には建国からの歴史書がたくさん保管してあると聞いたからだ。あまりいい顔はされなかったが、不手際の負い目もあるのだろう、案内してくれることになった。
♢♦♢
「なんだか、御座所もばたついてるみたいね」
さっきの説明からして、副神官長もまた今の地位に就いて短いのではないか、とリアナは想像していた。フィルも同じ意見だ。
「あなたの即位にあわせて大神官も代替わりするそうですから、派閥も混乱しているのかもしれませんね」
リアナとフィルは、儀式の間を一時離れて、二人で書庫に向かっているところ。
なぜ竜騎手たちがいないのかと言えば、水浸しの床を乾かすために貸してくれ、と神殿側から頼まれたからだ。神官たちの多くは、青と黄のライダーもしくはコーラーで、それぞれ医術や占星術などに優れるが、黒竜のような炎を操る竜術は使えないということらしい。
案内の説明によれば、建物は大きな円形となっていて、中心部に祭儀場、外周部に宝物や史料を保管しているということだった。そのなかの西の一角に向かってリアナは歩いていく。明り取りの窓から中心部に向かって光が差し込み、祭壇のあたりは昼の明るさだが、カーブ上に配置された書架のあたりは薄暗かった。
「あっ……」
リアナが声をあげるより早く、仔竜が肩からぴょんと跳び下りて廊下を駆けていく。
「だめよ、ルル……迷っちゃうんだから」
リアナは小走りで追いかけた。見失うほど小さいわけではないが、こんないたずら仔竜を貴重な書庫で野放しにするわけにはいかない。
「待ちなさい!」
小さな背を急いで追う。尻尾を左右に揺らしてバランスを取りながら、ちょろちょろとすばしこく動くので油断ならない。「ルル!」
「やあ、珍しいお客さんが」
薄闇の書架から声がした。リアナは人影に近寄っていく。書架用の
「ごめんなさい、その仔竜、ちょっと捕まえてもらえますか」
すると、「よいしょ」とのんびりした声とともに、人影が立ちあがってレーデルルの腹を持ち上げた。
「元気な白竜だ。……きみの?」
窓のほうに数歩、踏み出したので、昼の光が落ちて人影の顔が見えた。年齢も背丈もリアナと同じくらい。柔らかそうな栗色の髪をした、聡明な顔つきの少年だった。仔竜は捕まったせいか、走り回って満足したのか、おとなしくリアナの腕に戻った。
「本を汚すまえでよかった、ありがとう」
「仔竜と護衛つきとは、どこのお姫さまが来たのかな」
少年が面白そうに問うた。リアナはちらりとフィルを見た。四角四面なデイミオンあたりなら無礼を
「えーと」
いまだに慣れない立場を口にすべきか迷ったが、やめておく。この少年の話を聞きたいという気持ちのほうが先に立った。なるべくなら、嘘にならない範囲で……。
「わたしはリアナ、この竜はレーデルルって言うの。この人は護衛というか……友達というか……」
「友達なんてひどいな、ちょっと傷つきますよ」フィルがおかしな冷やかしをした。
「そう。僕はファニーと呼ばれてる。どうぞよろしく」二人は握手をした。
「ファニー? 変わった名前ね。……ここで働いているの?」
少年の簡素な服は、下働きといっても通りそうなものだった。フード付きの白い長衣に、黒いレギンス、やわらかそうな革のブーツ。
「うん」少年はにっこりした。「そんなところ。……きみは?」
「えっと、わたしは、最近来たばっかりなの」
「後ろの彼は違うみたいだけどね」ファニーはやんわりと言った。
「まあ僕も、同じような感じ」
「ここの史料って、どんなものがあるの? 昔のこととかわかる? 戦時中のこととか」
「戦争って、先のイティージエン戦役のこと?」
リアナがうなずくと、ファニーは「そうだね……」と、ぐるりと首をまわして書架を眺めた。
「ここに収めてあるのは、建国初期からの王国記。航海記録や地図、五公十家の家系図に、大陸の他の国についての伝聞記録もあるかな。王城からの問い合わせがあったらすぐ貸し出せるように、こうして整理してある。……でも、戦時中の史料なら、まだ製本されていないものも多くて、また別の場所になるよ」
よどみなく言う少年に、リアナは感心した。「詳しいんだ?」
「まあね」ファニーは肩をすくめた。「僕はここの本の管理を任されている……ようなものだから」
彼の言葉にも、当たり障りないように濁した部分が少しばかりあるようだ。
ともかく、それはありがたい、とリアナは思った。いい時にいい人物に出会ったわけだ。
「あのね、わたし調べたいことがあって。もしよかったら、手伝ってくれない?」
「もちろんだよ。喜んで」
少年は意味ありげな間をおいた。「でも、たぶん君の用事が無事、終わってからがいいんじゃないかな?」
♢♦♢
同時刻、
「メドロート公」
戴冠式に向けた打ち合わせ。その会が閉じ、部屋を出ようとしていた広い背中を、デイミオンは呼びとめた。
「あれ……いや、殿下の竜術の教育は、どこまで進んでおられる?」
デイミオンをも見下ろすほどの巨体は立ち止まって顔を向けたが、「必要ない」と言って踵を返した。
「私には報告の必要がないと?」と、デイミオン。「彼女になにかあった場合、次に王になるのは、王太子である私なのだが」
北の領主は長い間黙っていたが、口のなかに
「……そっだら、ことでねぐ」
否定したもののすぐには続けず、眉間のしわを指で延ばしている。もともと、寡黙すぎるほど寡黙な男なのだ。公的な場で領主らしくふるまうのは苦手なのかもしれない。
「にしもライダーなら、わかっぺや。ライダーが竜の力を使うのに、訓練だば必要ね。必要なのは、使い方を知るごどだけだ」
それを聞いたデイミオンは考えるそぶりをした。言葉足らずではあるが、言いたいことは分かる。あの廃城にとらわれているあいだ、リアナに教えたことの基本と同じだ。
「それはそうだが、ほかにも教えておくことはいろいろあるでしょう? 白竜の力は独特だ。使い方にはご注意いただかないと、こちらも困る」
「ん」メドロートはうなずく。「そこは、おれがしっかり教えておくでな。案ずるでね」
「頼みます」
ならいいが。
デイミオンは用件を終えて立ち去ろうとしたが、立場上メドロートのほうが目上なので、いちおう彼の退室を待った。しかし、公はぐずぐずと、なかなか退室しないでいる。
なにか言いたいことでもあるのかと、忙しい青年は目でうながした。
かなり長い間があった。
「……あの
メドロート公は呟いて、髭に覆われた顔をぺろりと撫でた。「……もごさいなぃ」
「えっ」柄にもなく間抜けな声が出てしまった、デイミオンである。
「だすけ……だすけな、黒竜の若君よ。あの
(ええーっ)
白竜公の目の端にきらりと慈愛の涙が光るのを見て、デイミオンの心は、棒でつつかれたサワガニのごとく跳びすさった。
まさかこのヒグマの頭のなかには、手に手を取って王国を導く清く美しいカップルの図でも浮かんでいるのだろうか。現実のリアナとデイミオンの間に存在するのは、政治的対立関係だけなのだが。
彼の心境としては、
――なにがなんだか、わからない。
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