6-3. 俺に主君を裏切らせるなんて、ひどいひとだ


 階下の音楽とざわめきが、暗い部屋にも忍びこんでいる。アーシャは自分に与えられている部屋に、フィルをともなって戻った。大戦の英雄は、周囲にそれと気取らせることもなく、かいがいしくアーシャの世話を焼いてくれる。ケープと扇子を片づけ、身体を締めつけるコルセットのひもを緩め、足元から固いヒール靴を抜くのを、アーシャは当然のように眺めていた。


 フィルは侍女から彼女の身の回りの品を受け取ると、それらをあるべき位置に置いていく。ドレスガウン、香水、入浴時の石鹸や香油、彼女の好む砂糖菓子や甘いワイン。


 趣味の悪い、狭い部屋だこと、と、アーシャは形の良い鼻をしかめた。

 御座所にしつらえてあった彼女の部屋は、こんなものではなかった。真珠とサンゴで飾られた椅子に、アエディクラ産の絹がふんだんにあしらわれたクッション、ソファ、象嵌ぞうがんされた磁器の壺……懐かしく思いだす。


「あの学者先生を見た? フィル」立ち動くフィルの背中に、アーシャは語りかけた。

「あなたの顔を見たときの彼ったら……」

 冷笑とは思えない、鈴のような笑い声だ。 

「ええ、じつに見ものでしたね」

「あの『黄金のマリウス』がエリサ王へのクーデターを企ててから、およそ二十年……黄竜のライダーたちは冷遇されている。餌を与えれば、絶対に食いついてくると思っていた」

 その読みは当たっていた。

 フィルはゆったりと部屋を渡ってくると、彼女にゴブレットを手渡した。

「ワインはいかがですか? あなたのために、アーマ産の翠蜜すいみつワインを手に入れたんですが」


 アーシャは泰然たいぜんとうなずき、白ワインを杯に受けた。菓子のように甘い匂いが立ちのぼる。彼女の好みどおり、よく冷やしてあった。

「あなたも飲むといいわ、フィル」

「――飲ませていただけませんか?」

「それはなあに? わたくしに要求なの?」

「おねだりというやつですよ、わが姫」

 巫女姫みこひめは考えるように片眉を上げたが、結局、男の手を傾けて自分のゴブレットにワインを注ぐと、それを口もとに持っていった。唇をしめらすように飲ませる。


「そういうことじゃないんだけどな」

「わたくしは自分を安売りしないのよ、〈竜殺しスレイヤー〉」

 そっけなく言い、満足げに喉を鳴らした。黄金色をしたアーマのワインは、苦味もなくさらりと喉を通っていく。還俗げんぞくしてはじめて酒を口にしたアーシャにも、抵抗なく飲める数少ない酒のひとつだ。


 たとえ、生まれたときから神殿に暮らし、ものごころついた頃には巫女姫として神のように崇められていても、それは初潮を迎えるまでのこと。大神官でさえ彼女の権威の前にひざまずいたのに、いまでは神殿を追い出され、馴染まぬ貴族暮らしをいられている。


(でも、わたくしは過ぎたことをくよくよ思い悩むような女ではない)

 自分はもう巫女姫ではないと告げられたとき、アーシャは自分の運命の進む道を決めたのだ。斎姫ではなく、王妃として生きるという道を。

 そして、ひそかに賛同者を増やしていった。


 伯父のエンガスは彼女を養女にして、国内の有力者たちに引き合わせてくれた。婚姻こんいんの相手も勧められたが、アーシャは求婚者たちの誰にも興味を持たなかった。生涯清らかな体であれと求められたのに、今になって子を作れなどと言われても、嫌悪感が増すだけだ。だが、デイミオン・エクハリトスだけは別だった。恵まれた体躯たいくにすぐれた美貌、最強の黒竜をしたがえ、竜族の王にふさわしいすべてを兼ね備えた最高の男――これこそ、彼女にふさわしい男と言えるだろう。


 そして今、彼女のそばには大戦の英雄、〈竜殺しスレイヤー〉フィルバート・スターバウがついている。

 半生はんせいを神殿で過ごしてきた彼女には、戦時中の武勲ぶくん話などほとんど耳に入らないし、興味もなかった。ただ、この男一人で竜騎手団すべてに匹敵するといわれるほどの、神がかりめいた剣技を信頼しているだけだ。


 ソファの背に白い腕をのせて、アーシャはリラックスした姿をみせる。蠟燭の灯りを映して、まっすぐにおろした髪が銀そのもののように輝いた。

「わたくしの家には、医術を司る青の〈乗り手ライダー〉の長しか知らない秘術がある。それはクローナン王からお義父とうさまのもとへ、そしてわたくしのもとへ……」

 呟くと、ことり、と小さな音がした。ゴブレットを置いて、フィルバートがこちらに近づいたのだ。

「それだ」

 その目が急に剣呑けんのんな光を帯びるのを、アーシャは興味ぶかく見まもった。無害な羊のように薄笑いを浮かべている彼よりも、ずっといい。真剣な顔も、興奮にかすれた声も。青年につられるように、アーシャも立ちあがった。


「どんなに戦績せんせきを立てても、〈ハートレス〉と呼ばれ、さげすまれる……体内にたったひとつの臓器がない、ただそれだけで」

 白く細い指が胸をたどり、鎖骨をたどった。アーシャは顔をあげ、フィルの薄茶色の瞳を見上げて悲しげに微笑んだ。

「かわいそうなフィル。あなたの気持ちがわかるのはわたくしだけよ」

 そっと身体をすり寄せると、強い力で抱きしめられて、ため息をつく。なんてたくましく、頼もしい腕なのだろう。アーシャは男性を知らないが、こうして暖かい身体に自分を預けるのは心地よかった。

「俺に主君しゅくんを裏切らせるなんて、ひどいひとだ」

 フィルの甘く柔らかい声には、男の色気がにじんでいる。

「わたくしに協力なさい。わたくしはあなたを竜族の真の男にしてあげられる。〈竜の心臓〉を与え、あなたを竜騎手ライダーにしてあげる」

 腕のなかから手を出すと、器用にその手を取られ、服従と忠誠を誓う口づけがおくられた。


「……おおせのとおりに、俺の夕星ゆうづつ、希望の星」




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