5-4. 城のお風呂と乙女心
花の香りが充満した広いバスルームで、リアナはようやくひと息ついた。
大理石造りの浴槽は信じられないほど広く、壁の
夜に入浴するなんていう贅沢は、生まれて初めてだった。どこかの侍女に余分な仕事を増やしたのではと気になったが、聞いてみると城内にある浴室すべてに温泉がひいてあるという。リアナは知らなかったが、温泉というのは、生きている山の炎で温められて自然と吹きだす湯のことだそうだ。かすかに刺激臭がするし、なんだかぬるぬるするが、自分の手でお湯を沸かさずに風呂に入れるなら、それくらい喜んで我慢できそうだと思った。
(いつまで
熱い湯に肩まで身を沈めると、旅に出てからの疲れが全部流れだしていくような気がする。気持ちよさのあまり、ため息を漏らした。
薄暗いのと、薄い雲のようにあちこちから立ちのぼる湯気のせいで、近く以外はよくわからない。が、どうやら入浴しているのは自分だけらしい。
「石鹸を取って」背後から、弾むような明るい声がした。自分に向けられているわけではなく、侍女同士がしゃべっているのだ。
「ちがうちがう、そのラベンダー色の石鹸は、かかとを洗う用のやつよ。……ミヤミ、あなた、殿下の髪を蛇女みたいにごわごわにする気? 髪を洗う石鹸は、そっちの黒いやつ」
「なんで、こんなにたくさん石鹸の種類があるの……ぜんぜん覚えられない」
「ほら、はやくよこしなさいよ」
どうやら、侍女のうち一人はまだまだ不慣れらしい。
自分でやる、というわけにもいかないんだろうな、とリアナはあきらめて彼女らに主導権をわたした。自分はここでは、次の王位を持つ貴族として扱われている。結局のところ王になるのはデイミオンのほうなのだが……どうせ短い滞在になるのだし、多少はお姫さまのような気分を味わっても許されるだろう。
それで、全身を洗われるあいだ、ぼんやりと別のことを考えていた。
(そりゃあ、結婚してないっていうのは、嘘じゃなかったけど)
思い出すのは、ついさっき顔を合わせたデイミオンの、よそよそしい態度だった。
気を張っていたためにその場では気づかなかったが、今になってふつふつと怒りがわいてくる。
(婚約者がいるなら、結婚してるも同然じゃないの)
それなのに、いくら窮地を切り抜けるためとはいえ、婚約者以外の女性と結婚しているように偽るなんて、不当なふるまいじゃないだろうか。
ちゃぽん、と遠くで湯の落ちる音がする。湯をすくって顔をぬぐう。
(デイミオンは、ああいう人なのよ。声は大きいし偉そうだし、わたしの話はちっとも聞いてくれなかったし。任務のためなら平気で嘘だってつくし。フィルとは違うわ)
そう思って、湯のなかに目を落とす。本当にそうだろうか? フィルのことだって、デイミオンと同じくらいにしか知らないのだ。
『城内で信じていいのは、デイミオンとハダルクだけだ……覚えておいて』
フィルだって、そう言ったのだった。そこにフィル自身のことも含めても、信じていいのは三人だけ、ということになる。それは、本当なのだろうか?
――でも、何度も命を助けてくれた。
デーグルモールの襲撃のなか、鬼神のような彼の戦いぶりのおかげで危機を脱したことを思いだす。飛竜の乗り方を教えてくれたことも。
それに、デイミオンだって……横柄だったり融通の利かないところもあるけれど、誘拐されたときには自分の身を
もちろん、自分が王位継承者であるから、なのではあるが……。
そう、『王』だ。王位継承をどうやって断るか、それも考えなくては。おそらくはデイミオンが段取りをつけているだろうが、いったいどんな手続きがあるのだろう? 里のことやイニを探してくれる約束は、ちゃんと守ってもらえるのだろうか?
「髪といっしょに、地肌のマッサージもいたしますね」侍女が言った。「わたしのマッサージ、評判いいんですよ。城内ではグウィナ様や、アーシャ様のところにも呼ばれていったりするんです」
「そうなの」
どちらの名前も、ついさきほど王の間で聞いたばかりだ。
いいことを聞いた、と思った。自分より身分が低い相手には、特にリラックスしているときには、口がゆるむ人間が多いものだとイニが言っていた。探りを入れてみよう。
「どんな人なの? グウィナ卿とアーシャ姫は?」
「そうですねえ、グウィナ様はお優しい方ですよ。使用人につらく当たったりもなさらないし」
「五公のなかで……女性は彼女だけよね? 若いのかな? 落ちついてみえたけど」竜族の年齢は外見からは測りづらい。それで、リアナは聞いてみた。
「うーん」侍女にはぴんとこなかったらしい。「こういうのはミヤミのほうが詳しいです。わかる? ミヤミ?」
リアナの足を洗っていた黒髪の侍女がうなずいた。「グウィナ卿はトレバリカ=エシカ家のご当主で、西部の大領主です。お年は先代のクローナン陛下と同年代ですから……」
「立派なお年ってわけね」
ミヤミが控えめにうなずく。「それから、デイミオン卿とフィルバート卿にとっては叔母上に当たります」
「そうなの?」それは初耳。
そういえば、あの二人、兄弟なのだった。いったいどんな血の不思議によって、あれほどかけ離れた兄弟が出来上がったのか、興味がある。
「はい。お二方のお母さま、つまり、エリサ陛下の先代の竜王であられたレヘリーン陛下ですが、トレバリカのご出身です。グウィナ様は同母の妹君にあたられます」
「うーん」リアナはうなった。空中に指で家系図を描いてみるが、一度聞いただけではよくわからない。
「クローナン王の前がエリサ王、その前がレヘリーン王なのね。で、グウィナ卿がその妹で、デイミオンとフィルの叔母……」
「なんだかこんがらがっちゃいますね。竜族は、王家がありませんから……」
「本当ね」リアナは、湯の中にためいきをつく。あとで、紙にでも書いて覚えるしかないだろう。
「ミヤミは領主家のことに詳しいのね。助かるけど。どうしてなの?」
ミヤミはリアナの足の爪を整えながら、淡々と説明した。
「トレバリカ家では典礼官見習いをしていました。シカン家でも事務見習いを。生まれは東部領ですが、孤児です」
「それは……」リアナは口ごもった。名家での職務経験、といえば聞こえはいいが、スパイと疑われてもおかしくないのでは?
「まあいいわ……アーシャ姫は?」
「あまり悪口を言うのははばかられますけど、最悪のわがまま姫ですよ」ルーイは誰はばかることなく言った。正直なところに好感が持てる。
「青竜のライダーの家系で、大貴族のお姫さまなうえに、このあいだまで〈御座所〉の大神官だったんです。それで、『巫女姫』なんて呼ばれて下にも置かない扱いをされてるものだから、やりたい放題。侍女なんて口をきく家具くらいにしか思ってないんじゃないかしら。それも、許可を与えたときにだけ口を開く家具」
「ふーむ」
評判はあまりよくないらしい。彼女も貴族だから、デイミオンとの間にはなんらかの政治的利益があって婚約しているのだろう。『五公十家の貴族たちのなかには、王太子などという権力を持たせたくない政敵が山ほどいる』と彼は言っていた。彼女はデイミオンの味方ということだろうか? あるいは、ただ単に性格が悪いもの同士で、あの姫君と気が合うのかもしれないけれど。
入浴を済ませると、侍女たちはふわふわした部屋着を持ってきたが、リアナはそれを断って昼用の服にしてもらった。血のめぐりがよくなって身体はすっきりとほぐれたが、頭のなかはすでに忙しく動きはじめている。
『考えが行きづまったら湯船に
それが真実であることを、リアナは実感していた。
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