2 運命の朝
2-1. 襲撃
〈成人の儀〉の朝は、
リアナはまだ暗いうちから起きだして、綿の浴布と新しい下着を用意して出かけた。宣誓のことや、つながりの切れた「糸」のことなどを考えてあまり寝つけなかったので、あくびをかみ殺しながら歩く。目的地は、森のなかにある東の滝つぼだ。夏は子どもたちの遊び場になる、岩棚の多い小さな滝と渓流で、リアナの足で四半刻も歩けば着く。
ざあざあと岩を打つ滝は、大人が四、五人手をつないだほどの幅で、高さも同じくらい。竜たちが好んで遊ぶ瀑布と比べると小ぢんまりしている。岩棚の一つに荷物を置いて、寒さに震えながら身体を清めた。
「こ、黒竜のライダーなら……炎であっためられるのかな……」
「わ、わたしはライダー、わたしはライダー、『さざ波なき
寒さをこらえ、清めに集中するためにぶつぶつと呟く。後半のセリフはウルカの真似だ。がたがたと歯を鳴らしながらも清めを終えて、晴れの服を身につけると、里への道を戻りはじめた。秋の落ち葉が乾いた音を立て、しだの柔らかい葉を足もとに感じる。先を行く幼竜が、低い茂みに鼻先を突っ込んだまま、興味深そうに尻尾をひらめかせている。
「レーデルル、あなたお姫さまなんだから、もっとおしとやかにしないとダメよ」
見た目はまだ羽えりまきのついたトカゲだが、ルルは由緒正しい古竜の血統だ。本来なら、貴族でなければ到底手に入れることのできない希少な生き物だが、〈
「そうなるといいな……あれ、こっちだっけ」
ひとりごとを言いながら進む。複雑な道ではないのだが、これまで「糸」の力に頼りきりだったのだろう。それがなくなってしまうと、いまひとつ方角に自信がない。
(つい昨日まで、当たり前にあったのに……)
いや、考えてみれば、ここのところずっと「引っぱられる感じ」が薄かったような気もする。里から出ることなどないし、普段からこの能力を使うのは森に入るときくらいのものだから、気にならなかったのだ。
「そういえば、昨日の朝、セインに会ったとき……」
その「糸」はいつもよりもずっと近くに感じた。嵐の中、よくしなる柳が、たわめられた後一気に引き戻されるような強い力だった。あまりにも都に近づいていて、里とは違うその冷たい朝の空気も、周囲に物が少ないせいでよく響く声さえ、聞こえそうなくらいだった。
が……考えてみれば、それ以来、あの「感じ」がない。
なんなのだろう……
なければ死ぬというような能力ではないが、考えだすと不思議でたまらない。
(あの「糸」、ライダーになるのに役に立つと思ってたのに)
それと、もうひとつ気がかりなことがあった。
昨晩、部屋を出る前に盗み聞きした、里長と役人の会話のことだ。
♢♦♢
「〈
盗み聞きなんてするつもりはなかった、とは言いわけできない。だが、閉めた扉のすぐ向こうから聞こえた言葉は、聞きながすことはできなかった。
「貴殿になら、わかるのではないかね?」
カイレニの声は、高くてよく聞こえるのだが、ウルカの低く静かな声はほとんど聞こえなかった。だから、会話は一方的なものだ。
「……この里には、〈
(――二人!?)
一瞬、耳をうたがった。
「いいや」
さらに、カイレニの声が続く。
「〈成人の儀〉には出席しない。朝一番にここを発つ」
ウルカが何ごとかを尋ねている。「……報告? そのようなものではない。安心なされよ」
――そこまで聞いて、逃げるように館を出てきたのだった。
♢♦♢
〈隠れ里〉にいる〈
(だけど、もう一人、〈
自分が三人目かもしれないという喜びよりも、ふたり目が誰なのか、ということのほうが気になってしまう。息子のセインだろうか? でも、だとしたら、なぜ隠しているのだろう? セインはいつも、自分は父親のような〈
それとも、別の――里長とは違う家の人なんだろうか? 竜族の子なら、だれだってライダーの可能性はあるのだから……
足を進めるのも忘れてしばらく考えこんでいたが、思いなおしてまた歩き出した、そのときだった。
がさ、と草をわけるような音がしたので、一瞬、兎だろうかと思ったが――
突然、なにかに捕まれたかと思うと、嫌なにおいのする生暖かいそのなにかに口をふさがれた。手だ、そう気づいて悲鳴を上げようとしたが、声も出せない。もがきながら鼻で息をし、ばたばたと暴れてブーツのかかとで見えない足を何度も蹴った。背後から誰かに羽交い絞めにされていたのだと、気づくのに時間がかかった。
気づいたときには、恐ろしさで血の気が引いていた。
すぐ目の前にある木陰から、別の男の声が聞こえた。「おい、遊んでる暇はないんだぞ、ヨール」
「里の女か」じろじろとぶしつけに見てくる。簡易な鎧兜をつけているが、外界にうといリアナには兵士ということしかわからない。腰に剣を下げている。
「そうらしい」背後の声。
「じゃあ早いとこやってしまえ、女、子どもまで一人残らず
男の言葉にはやや奇妙な
――殲滅? わたし、殺されるの!?
身体は氷のように冷たいのに、心臓はどくんどくんとうるさいほど鐘を打った。
――それとも、里が……
「そりゃ分かってるさ、だがこっちはもう二週間もお預けなんだぜ、ちょっとくらいいいだろ」
身体を固くして震える娘は、もはや抵抗しないと思われているのだろう。羽交い絞めのまま、口もとの手だけをはずされ、背後の男がのぞきこんできた。見たこともない、おそろしい男の顔が笑いを浮かべていた。
「見ろよこの娘、こりゃきわめつけの上玉だぜ」
助けて、と言おうと思ったが、言葉にならない。パニックにおちいった自分の口から悲鳴が漏れた。自分の声と思われないほど大きな声が。
その直後、別の手が伸びてきて横面を叩かれた。痛みよりも驚きが先に来たが、すぐにガンガンと頭に響きはじめる。
「声を出すと、もっと痛い目に遭うだけだぞ」彼女を殴った男が満足げに続ける。
「なあ、この森の中だ、ちょっとさぼったくらい、分かりゃしねえよ」
「仕方ねえな……」
背後の男をいさめて解放してくれないかとリアナが期待していたもう一人の男は、ため息まじりにそう呟いて近づいてきた。背後の男同様に背が高く、がっしりしていて、顔つきも同じくらい醜かった。
「ふん……竜族ってのはおかしなもんだな。男も女も気味悪いくらい綺麗な顔をしてやがる」顔を持ちあげられ、しげしげと眺めまわされた。
それで、リアナにもわかった。この男たちは人間なのだ。
里に暮らす人間たちは、見た目も中身も、ほとんど竜族と違わないように見える。それでも、ヒトと違う時間の流れに生きる竜族たちは、かつての人間の侵略戦争を昨日のことのように覚えている。たとえそれが二十年も前で、ほとんどの人間にとって過去のことであったとしても。
そしてリアナは、竜族の娘だった。人間たちの蛮行は、養父から語り聞かされてきたのだ。
恐怖に震えて、歯がかちかちと鳴った。犯されてから殺されるのか、その逆か。平和な里に育った娘には想像もつかないようなむごたらしい行いが、自分の身に起きようとしている。前方の男は二人から離れ、周囲を確認しているそぶりだ。背後の男に手首を縛られようとしている間、リアナはもはや悲鳴も上げられずに震えつづけていた。
「お願い……」何に向かってかはわからないが、あえぐような声でそう呟く。「たすけて」
手首が強く
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