2-2. 謎の剣士
革ひもが結ばれるしゅっ、という音と、ずさっという鈍い音がしたのは、ほとんど同時だった。大きな音ではない。聞きなれない音でもない。そう、獣を仕留めたあと、刃を入れたときのような低く柔らかい音だ。
手首の締めつけがゆるみ、リアナは弾かれたようにぱっと前に出た。枯れ井戸の底から急に水が湧いたような、ごぽっという大きな音が、なぜか背後の男から聞こえた。ふりむいた瞬間、リアナは息をのむ。大柄な男の喉もとから、鮮血が噴き出していた。
ぱたたっ、とその血が顔にこぼれ落ちてくる。
「きゃっ……」
悲鳴が形を取るよりも早く、怒鳴り声がした。「ヨール!? この野郎!!」
(何が起こったの!?)
解放されるよりも、なお悪いことが起こっている――一瞬だけ、そう思った。
結局は、自分と同じくらい、男にも何が起こっていたのか飲み込めてはいなかったのだろう。
抜身の剣を下げてざくざくと近づいてきたが、はたりと足を止めた。
「……ひっ」
リアナを羽交い絞めにしていた男が、目の前で血を吹き出しながらずるりと倒れた。一気に倒れなかったのは、それを支えていたものがいたからだ。男が倒れたために、その背後にいるもう一人の男が姿を現した。
二人とは違う、白いシャツと革のジャーキン(丈の長いベスト風の衣装)、草色のズボンと革のブーツという格好だった。鎧も兜もない軽装なので、兵士かどうかは判別できない。抜き身の剣を持つ手はどろりと血で汚れていたが、顔は平静そのものだ。整った顔立ちは竜族とも人間とも判別しづらい。砂色の髪は人間風に短く刈ってあったが、フロンテラの竜族の間ではめずらしい髪型でもない。敵なのか、味方なのか。
年頃は二人の男より若く、まだ青年といってよさそうだ。リアナのほうを見ると、安心させるようにうなずいて見せた。「大丈夫。助けます」
手短に言うと、わけが分からないでいるリアナを横目に剣を構えた。
「……怖いだろうけど、静かに待っていて」
どこか養い親、イニを思わせる甘く低い声が耳に残った。
「里の男かっ!?……」こちらも剣を構えた男が、緊迫した声で問うた。「クソッ、ヨールのやつ、やっぱり男が残ってたじゃねえか……!」
体格は五分と五分に見えた。上段に構えた男が「ぅらあァっ」と獣じみた掛け声とともに切りこんでくる。刃が空を切り、青年の左袖を裂いたように見えたが、それだけだった。続けざまに打ち下ろしてきた剣も難なくかわす。男が一歩後退して体重を後ろ足にかけた瞬間、青年はその足をすくってよろめかせる。不意打ちをくらった男が体勢を立てなおすよりも早く、青年は剣を振り下ろした。鋭い刃は敵の頭から肩を大きく切り裂き、その身体は力なく倒れこんだ。
あっけないほど短い間のことだった。時間にしてみれば、ほんの四、五回の呼吸ほどだろう。青年は刀をおさめて呆然としているリアナのほうに足を向けたが、ふと気がついたように腰回りから布を取りだして血まみれの右手を拭った。
助けてくれたんだ、それは理解できるが、頭の方は現実に追いつかない。青年に前に立たれて、びくりと体が震えた。
逃げた方がいい、そう思うのに、猟師ににらまれた兎のように固まってしまった。
「しーっ、静かに」なだめるような声が言う。「何もしないから、急に動かないで。……大丈夫ですか?」
深呼吸を一度、二度。「あ、ありがとう、ございます」かろうじてそう声を絞りだした。
「助けてくれて……」
地面に倒れた男と、広がる血を見ないように目をそらす。
「あ、あなたは? それに、この人たち……」
「俺の名前はフィルバート、スターバウ家のフィルバートです」
その名前に、リアナは思わずまばたきをする。家名を聞いても平民のリアナには分からないが、竜族の名前に思えたからだ。
青年はわずかに口端をゆがめ、
「こんなことなら、気軽に単騎で来たりするんじゃなかった。竜の〈隠れ里〉に、人探しに来たんですが……」と言った。
「竜の隠れ里なら……」
案内を申し出ようとして、リアナははっと押し黙った。殺された男たちは「殲滅」という言葉を口にしていた。命の恩人とはいえ、部外者を不用意に連れて行くのは危険に違いない。もとより、里人以外を立ち入らせないための〈隠れ里〉だったのだ。ほかの街や村と交流ができた現在でも、軽々しくよそ者を連れていくわけにはいかない。
「いえ、それはもういいんです。探し人は見つかりました」
安全を確認するかのように周囲をうかがいながら、青年は落ち着いた声音で言う。「〈隠れ里〉のイニ。彼の養い子というのは、あなたでしょう?」
「え……」リアナはぽかんとして、一瞬、出自を偽ることも忘れた。「あ、はい」
「イニがなにか……?」
思わず答えてしまったのには、養い親の名前が出たせいもある。満開の花の季節にふらりと出ていって戻らないイニを、リアナは今も待ち続けているからだ。今日この日、娘の〈成人の儀〉のために帰ってくるかもしれない老人を。
なぜ、この男が知っているのだろう?
「すみませんが、もう一つ」質問に答えず、青年は問いを重ねた。「タマリスにおられる王と、感覚がつながっているでしょう? 引っ張られるような感じで、それとわかる」
そして、紐を引くようなしぐさをした。それは奇妙なことに、リアナ自身がいつもたとえに使うしぐさだった。
「引っ張られる感じ……は、あります」面食らったまま、素直に答えた。「方角は、確かにタマリスだけど、王様だとはわかりません。会ったこともないし……」
「王です」青年は短く言いきった。「〈継承者〉を感知できるのは王だけですから。その感覚は、今も?」
リアナは首を振った。「昨日の朝に、一度すごく強くなって……でも、夜から感じないの」
青年は、今まで息を詰めていたかのように、ほーっと大きく吐いた。「間違いない」
「……?」
「デイミオンが来れば完全だけど、これだけでもほぼ確実だ」
「あの、いったい何が……?」
自分が切り捨てた男を無情な顔つきで見下ろし、青年は「話は後にしましょう」と言った。
「安全なところで、ゆっくり説明します。このあたりにはそいつらの仲間がまだ残っているかもしれない」
そう聞くと恐ろしくて、リアナは勢いよくうなずいた。
「あ、それと」青年ははじめて笑顔を見せた。「そこに小さな姫君がのびてるけど、あなたの竜ですか?」
「ルル!」
どうやら気絶していたらしい幼竜に、リアナは慌てて駆け寄った。
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