第5節

第5節 ①

 走る。走る。ひたすらに。

 保護したクラスメイトから聞き出した場所へ、全速力で向かう。


 自分の身体は混じりけのない変異血種ミュータントだけれど、今はまだ人間の範疇でしか動けない。せいぜい十代半ばの人間が全力で短距離走を走っている速度で、長距離走の距離を走り続けることぐらいしか出来ない。

 近道になりそうな場所をいくつも通り抜けて、パルクールと呼ばれる移動方法を無意識に何度も行いつつ、沙月は目的の場所へと辿り着いた。


「……ひどい」


 ツン、と鼻につく鉄がサビたような匂い。

 警戒を怠らず、沙月は嗅覚と触覚を頼りに、血の匂いがキツくなってくる場所へと向かう。

 そして――それを、見つけた。


「ッ……!」


 信じたくは、なかった。

 だけど、覚悟はしていた。


 もしかしたら、こうなることはわかっていた。

 運が良ければ、彼女は生きていただろうと。

 運が悪ければ、彼女は死んでいるだろうと。


 だから――運命というものが最低最悪に意地が悪かったら、


「…‥穂村さん」


 彼女が――穂村結花ほむらゆかが、変異血種ミュータントになってしまっているだろうということも、覚悟していた。


「神倉さん……どうして」


「それは……こっちの台詞だよ」


 薬物投与によって突然変異を起こし、変異血種ミュータントとなるとき――多くの場合、その身体は急激な変化に耐えられず元の形を保てなくなる。

 茶髪のクラスメイトが話していたバケモノというのは、そうなってしまった人のことを言っていたのだろう。


 事実、散らばった人間の死体たちの中に一人だけ、その身体が人間だったとは形容しがたいモノの死体が混じっていた。

 だが結花の身体は、そのような変化は起こしていない。見るからに、人間だった。


 ――ただ一部分を除いて。


「あーあ。神倉さんにだけは見られたく、なかったなあ……」


 そう言って結花は、異様に長く伸びた右腕をぶらりと宙に回す。


「アハハ……。でも、神倉さんは、すごいね。全然驚かないし、こんな風になった私を怖がらないんだ」


 右腕だけが異形化した少女は、自嘲的な笑い顔を浮かべる。結花は自分が笑っていることに気づくと、自分の左手を頬に当てた。頬に付着していた血が、べちゃりと手に張り付く。


 ……運が良かったのか。それとも悪かったのか。


 変異血種ミュータント化の薬物を、通常ならすぐに異形化するほどに投与しても、稀にソレと適合して異形化しない個体がいる。

 結花は、今回使われた薬物と適合を起こしてしまった個体だったのだろう。

 注射を直接打った右腕(特に肘から先の部分)は異形化したが、身体の他の部分は異形化を起こしていない。


 だが、異形化を起こしていないからと言って、その身体が変異血種ミュータントになっていないとは言えない。

 変異血種ミュータントに分類されるほどの突然変異を起こしてしまった時点で、それはもう変異血種ミュータントなのだ。


 つまり、穂村結花は――もはや人間とは言い難い。


「穂村さん……聞いて」


 だが、まだ希望はあった。


「……まだ、わたしと話が出来るぐらいには自我が残ってるよね? だったら、まだ大丈夫。まだ、あなたは――人間のままでいられる」


 そう。沙月の言っている通り、変異血種ミュータントになったばかりなら、まだ人間に戻れる可能性はある。

 ……その場合、異形化してしまった彼女の右腕は、二度と使い物にならないかもしれないが。


 それでも、このまま薬物との適合を完了し、変異血種ミュータントになってしまうよりはマシだった。


「だからね、穂村さ――」


「アハ……」


 沙月は必死に、結花を落ち着かせようと試みる。

 だが、鮮血に染まった少女は笑う。


「アハハハハハハハハハ!」


 結花の笑い顔は、沙月が学校でいつも見ていた笑顔とは微塵も似ていなかった。


 それもそうだろう。彼女自身、自分がこんな顔で笑えるなんて、こんな笑い声を出せるなんて知らなかったのだから。

 一度も他人に見せたことがない表情。これが穂村結花という人間の本性なのだと言わんばかりに、あらゆるものから解放されたような笑顔。


「アハハハ! おかしい、おかしいよ神倉さん! だって私、全然平気だよ? むしろすっごく――すっごーく清々しい気分! こんな気持ち、生まれて始めてだもん! ……だからね、神倉さん。お願いだから、わたしのことは、放っておいてくれないかな? このまま、帰ってくれないかな?」


 少女は笑う。


 笑って、笑って、笑って、笑って、笑って。


 沙月を、拒絶する。


 だが、沙月は、


「……ッ! 帰れるわけない! 放っておけるわけない!」


 必死に叫ぶ。結花を説得するために。

 薬物投与による変異血種ミュータント化の進行は、本人の精神力もその速度に影響する。通常なら突然変異をし始めた身体を制御できるほどの精神力を持つ人間など、ほとんどいない。だが適合率が高いが故に変異の進行が遅い場合、そのまま変異血種ミュータントとなり飲み込まれてしまうか、はたまた逆にその変異を自らのものとして飲み込むかは本人の精神力次第だ。だから沙月は、結花を落ち着かせ正気を保つように呼びかける。


 だが。


「ねぇ、本当にお願い。このままだと、私――」


 それは、結花にとっては逆効果だった。

 少女の発する声から一瞬、笑い声が消え去る。



「――神倉さんを、殺してしちゃいそうだから」

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