1. 春

 風が頬を柔らかくなでた。ぼんやりと目を開ける。心が浮かび上がってくるのを静かに待つ。眺めているのがいつもと同じ天井と分かって、私は飛び起きた。

 夢?

 竹やぶの暗がりも踏み分ける笹の乾いた音も、風も桜もお日様の光も、はっきりと覚えているのに。やっと扉が開いたと思ったのに。

 空気が抜けたように、もうまっすぐ座ることさえもできない。膝に額をくっつける。涙も出てこない。

 明日学校に隕石が落ちてくることを祈りながら、世界が滅亡することを願いながら、私は今夜また眠るのだろうか。そのままつまらない大人になっていくのだろうか。

 扉は開かない。私はつまらない大人にしかなれない。

 朝起きて、毎日毎日、同じところから一歩も進んでいない気がするのはなぜなんだろう。いつになったらこの焦りは消えるのだろう。そもそも消えるときは来るのだろうか。心臓が止まる瞬間までこのままなのかもしれない。

 私だけ。

 私だけずっとずっと。

 ひとり。


 学校へ向かう坂はありきたりな桜並木で薄ピンクに霞んでいる。

 4月の始業式だけは午後から。午前は入学式があって、入ったばかりの新入生との対面式がそれに続く。三年生はどちらにも出ないから、この時間歩いているのは同級生ばかりだ。

 携帯を開く。

 茜からのまだ返信はない。

 クラス発表を一緒に見る約束をしていたのだ。一人で見るのは憂鬱だがもう着いているかもしれない。前には二年で同じクラスだった二人組が歩いている。最も華やかなグループに属す二人は長い茶髪に薄い化粧に短いスカート。苦手だった子達だ。例えば下品だとか可愛くないだとか足が太いだとかすればいいのに。もしくは性格が地味だとか人見知りするだとか意地悪だとか。彼女達はなんだか非の打ち所がなさすぎるのだ。違うグループの私でも、一人で歩いていたら声を掛けてくれるに違いない。それが怖い。

 女王様方の恩恵に浴するなんてごめんだ。

 殊更にゆっくりと登ることにする。

 ああ早く返信来ないかな。昇降口にもいなかったらどうしよう。

 校門から下駄箱までは桜並木が続いている。青空に映えた桜は何かが始まりそうな予感を持っている。曇りのときはあんなに病弱に見えるのに、不思議。

 前の二人は花なんて見ていない。クラスメンバーを予想して、絶え間ないおしゃべりに夢中なようだ。

 本当はそれがセイシュンってやつじゃないのかな。花がきれいとか空が青いとか、ああなんだか楽しそうにしゃべってるなとか、そんなのは本当はもっと年をとっておばあちゃんになった頃に感じることなんじゃないかな。私はなにか、とんでもない間違えや時間の浪費をしているんじゃないかな。

 下駄箱に入るガラスの扉の上に、巻物を広げたような紙が貼ってあるのが遠目に見えた。日が反射して眩しい。眩しくて見えない、あの子達の未来みたい。私のはそうではないな。

 メールが来ていた。

「ごめん~ 他の子と会って先教室行っちゃった!あたしたちまた同じクラスだよ♪」

 ため息をつくしかなかった。茜はこういうところがある。私には理解できない。

 クラス替え後の過酷なグループ形成期を乗りきる仲間がいるのは心強いが、こんなことはずっとあるのだろう。茜は友達が多い。彼女といれば長期的には安全だが、こんなことはしょっちゅうだ。一人取り残される気持ちはわからないのだろう。

 でもどうにもできないのだ。誰といても高い壁があって、その中にいても不自由はしないし傷つくことも少ないけれど、徹底的に一人なのだ。部屋で一人でいるときよりもずっとずっと。

 早く世界が滅亡しないかな。今この瞬間に巨大隕石が降ってきますように。

 みんながグループになってわいわいと見ているなか、仕方なく近づいてさっと目を通す。

 肩を叩かれた。振り返る。

 ギョッとしたような顔があって、驚いた。

 人違い。

 相手は曖昧な笑みを浮かべて去っていく。

 ああこんなとき自分がほんとに嫌になる。本当は求めている、誰かが話しかけてくれることを。なのに自分からは言えない。掛けてほしいということもあからさまにできない。こんな自分、ほんとうにもう。

 肩を叩かれる。

 振り返る。

 おどろいた、今度は本当に私。

「おはよ」

 視線を上げた。私の頭の少し上に、人懐こい笑顔があった。

「えっと……去年隣のクラスだった……」

 彼は頷いて、

「今年は同じクラスだ。よろしく」

 歯を見せて笑った。

 お日様のように眩しくてくらくらする。なんだか倒れそう。貧血かな。ああ私はどうしたんだろう。

 桜色の風が吹く。春が始まる。

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