第3話

少女は途方にくれていた。

握っているのは小さなキャラメルの箱。

それでもその中身は決して甘い甘いキャラメルではない。


「どうしよう…」

時は夕方。

少女と同年代の子供たちは、それぞれ家路につく頃だ。

町はそろそろ夕ごはんのおいしそうな匂いに包まれていく。

そんな中、為す術もなくうなだれる少女は、捨てられた子犬のような哀愁を漂わせていた。


しかし、少女のそのせつなげな姿が目に触れることはない。

なぜならもう、公園には誰一人として残っている者がいなかったからだ。


キャラメルの箱を握る手に力が入る。

人のいない公園は心もとなく、徐々に傾く日差しに焦りが生じる。

それでも、衝動的に飛び出してきた手前、そのまますごすごと家に帰る選択も、少女にはできないでいた。


なにも持たずに来た自分がうらめしい。

ただ逃げたくて、とっさにこの箱だけを握って走ってきた。

走る毎に箱の中身はカラカラ揺れる。

それを感じるたびに、少女はその体にもて余すほどの母性を持って「守りたい」と思ったのだ。


しかしそれはただの衝動で。

計画性もなくただ走ってくるという行為は、過ぎ行く時の早さに決して抗えない。

思ったよりも日没は早く、うら寂しい人気のない公園で、少女はひたすら立ち尽くすのだった。

こんなことで何が守りたい、だ。

自嘲気味にそう思いながら、少女はただ立ち尽くしていた。


いよいよ足下の影すら周囲の闇に同化してしまうほどになったころ。

うなだれる少女の肩をそっとやさしく叩く手が。


「何してるの?」


一人たたずむ少女を不審に思うでもなく過剰にいたわるでもない、ただ単に不思議だから問いかける、というようなトーンでその声は少女の耳許に降ってきた。


落ち着いた、ほんの少しハスキーがかった声。

女性というには若く、少女というには大人びているその声の主を確かめるべく、少女は思いきって振り返った。


「…あの、ちょっと…」

後ろにたっていたのは、取り立てて特徴のない、ごく普通の若い女性だった。

黒っぽいTシャツに、足首までのジーパン。

履き古したような白いスニーカー。

長めの髪は飾り気のないバレッタでまとめられている。

声ほどには、何の特徴もない女が、これまたとらえどころのない表情で少女を見ていた。


「ちょっと困ってて…」

今の自分の状態をどのように説明するべきなのか、考えあぐねて言葉がうまく出て来ない。

しかしその女は、決して少女に言葉を急かすようなことはしない。


女がふと少女の目から視線をそらし、手の箱を見つめる。

「その箱?」

ふいに核心をついてくる女に、少女は内心驚いた。


「…はい。実は…」

ついに全てを正直に話そうと思った少女の言葉を遮るように、女は箱を持っていない方の手を掴んだ。

「ついてきて」


女はぐんぐん公園の奥へと進んでいく

知らない人に着いていってはいけない、そんな大して珍しくもない言葉が頭をよぎる。

自分の今の状況は、確かに知らない女に手を引かれ、より暗い場所へと連れて行かれようとしている。

正直、危険きわまりない行為だと自分でも思う。

それでも少女は、繋がれた手のぬくもりに賭けることにしたのだ。


それに、女はこの箱に何かを感じたようだった。

何を感じたのか、どうして自分を引っ張っているのか。

その真相を、どうしても知りたい、と少女は思ってしまったのだ。


奥へ奥へ。女は進む。

少女も何も言わずに着いていく。

やがて暗くて狭い、誰もいないような公園の一番端の方へ辿り着いた。


あまりにも暗くて何も見えないけれど、なぜかそこには湿ったような新しいような土の匂いが立ち込めていた。

「ここは…?」

思わず声に出してしまう。

「お墓だよ」

女は何事もなかったような平坦なトーンで答えた。

「その箱、埋めたいんでしょ?」


突然核心を付かれ少女は驚いた。

ずっと握りしめてきたキャラメルの箱。

その中には、死んだ金魚がティッシュにくるまれ入っていたのだ。

「なんで分かったの?」

「だって…」

暗闇の中、女がほほえんだような気がした。

「命の匂いがしたから」

そういうと、女はしゃがんで、どこからか取り出したライターで火を点けた。

「見て」

火の中でぼんやり映し出されたその光景に、少女は息を飲んだ。


真新しい湿った土のあちこちに、木の枝やアイスの棒などが無数に突き刺さっている。

それは、あたかも墓標のようだった。


「ここはね、行き場のないモノたちのお墓なの」

女は、歌うように語り始める。

「車にはねられ道の隅で死んでいた犬、誰に看取られるでもなく一人死ぬために来た猫。飼っていたのに、死んだとたんにゴミ扱いされたハムスター、子供たちにいじめられ命を落としたかたつむり」


たくさんの墓標は、たくさんの命の証。

それでも、死んだ途端に損なわれる生きていた事実を、女は丁寧に拾い集めていた。

「その子も、埋めてあげたらいいよ」

淡々と女が紡ぐ。

少女は、すべてを見透かしたような女の言葉に、救われる思いがした。


昨日まで、家族だって言ってたのになんで?

死んだ途端、ゴミ箱に捨てようとするのはなんで?

あげくの果てに、トイレでもいいか、なんて言ったのはなんで?


それが、大好きな父や母、姉の口から飛び出した言葉だとは、少女はにわかには信じられなかった。

でも、目の前にあるそれが事実で。

どうしても信じたくなくて、近くにあったキャラメルの空き箱に金魚の死体をいれて、走って逃げてきたのだ。


「珍しいことじゃないよ」

感情の見えない声で女は言う。

「体なんてそんなものだから。使い捨て、なんだよ」

「そんな…」

「私は、それで構わない。体なんて、命の入れ物でしかない」

始めて女は、少女の方へ振り返った。

「でも、頑張ってきた入れ物は、大切に埋めてあげたいから」

女は少女に手を差し出した。


促されるままに、少女は箱を女へと差し出す。

女は、優しい手つきで箱を受けとると、足下の土を丁寧に掘り返し、箱をそっとその中へ入れた。

「今までお疲れさま」

労うような調子でそんなことを言う。

女の口調に始めて感情がこもった気がして、少女はなんとなく、ここまで走ってきた自分を誉めたいような気分になったのだ。


ここにまた、一つの小さな墓標が加わった。

どこからか取り出してきたアイスの棒を土に差し、これまたどこからか取り出してきた小さなろうそくを立て、女はそこに火を点けた。

「これで、寂しくないね」

その言葉は、誰に向けての言葉だったのだろう。


気がつけば、少女は公園に程近い明るい大通りに出ていた。ここからなら、家のあるマンションまで一直線だ。


先程までの静かな、暗い公園での出来事は、夢だったんじゃないか、と少女は思う。

それでも、少女の手にはキャラメルの箱と引き替えに握られた一つのビー玉がある。

「命のかわりね」

そう言ってビー玉を握らせた女は、淡くほほえんでいた。


今日のことが夢でも現実でも、と少女は思う。

あの金魚が温かな場所で眠りにつけたのなら、それでいい。


家への道を歩き出した少女の頭の中には、墓を掘りながら女が歌っていた、賛美歌のようなメロディがずっと流れて続けていた。

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