第二話 言葉を失った


 全ての用が済んでトイレのドアを閉めたその時、ガクリと膝から崩れ落ちた。


 おい、私の足、どうした。


 呼びかけても応答をしてくれない自分の足。

 どうやらかなりお酒が回っているらしく、一歩も動く事が出来なくなってしまった。

 非常にマズい。

 これ体に異常きたしてるんじゃない?

 もしかしなくとも、水飲んだ方が良かった?

 洗面台に手をかけて、なんとか壁に身を任せながらでも動けないかと手を伸ばすが、手も言う事を聞いてはくれない。

 あ、これだめなやつなんじゃないか。脳がそう言ってる気がする。

 丁度店内から見えない位置に設計されているこのトイレ。すぐに人なんかくる訳がない。助けを呼ぼうにも、他のお客さんが来たのか大きな騒ぎ声が聞こえてくる。今声を出した所で、きっと私の声なんかかき消されてしまうのがオチだ。


 結論は「誰かが来てくれるまで、待つ」しかないようだ。


 でも、この洗面台の前で座り込んでいるという状況。こんな姿を人に晒すのは、尋常ではなく恥ずかしい。ましてや小池さんや大将に見られたら、もうこの居酒屋に来られなくなる。

 何やってるんだろう私。

 ふと、脳裏に浮かんだのは、仲が良かった先輩方の顔に、厳しかった上司の顔、可愛い後輩。

 次々と思い出される会社での辛かった日々や、楽しかった日々。

 これじゃあまるで走馬灯みたいじゃないか。

 なんか、疲れた。全てに疲れたよ。私は顔を俯けてゆっくりと目をとじた。

 さっきまで聞こえていたお客さんの声が、消えた。

 お店の中にいるのに、なんだか寒い。

 どこからか聞こえてくる、流れ行く水の音。

 大将、洗い物でもしているのかな。

 まるで世界に私一人だけがいるようだ。

 これって本当に危ない状況じゃないか、という考えは今捨てよう。


「あの、大丈夫ですか?」


 そのとき、トイレから一向に出てこない人がいる事を不審に思ったのか、誰かが声をかけてきた。

 気付かない間に、ドアを開けられていたみたいだ。

 低めの声なので、男性だと判断が出来る。なかなかの美声ですね、お兄さん。


「大変申し訳ありませんが、お水を一杯頂けませんか?」


 この状況がとても恥ずかしいので、顔を上げずに見知らぬ男性へとお水を頼む事にした。

 男性は「わかりました」と一言いうと、すぐさまお水を持って来てくれた。なんて早い対応だ。

 これで相手がイケメンとかだったら、私本当にたえられないよ。

 お兄さんにお礼を言いつつ、なんとか動く様になった手でお水を受け取ると、流し込む様に私はグラスから水を飲んだ。

 いつもの数倍お水が美味しく感じる気がする。大将、お水替えたのかな?

 お水を飲んだおかげか、随分楽になった。

 やっぱやけ酒なんてやめておけば良かった。


「あの、とてもお聞きにくいのですが、どうしてこんなに飲まれて?」

「ははは、実はやけ酒でして」


 お酒を飲んだ経緯を簡単に話すと、お兄さんは「お疲れさまです」といってくれた。

 お兄さん、あんたいい人……!


「まぁそんな訳で明日から暇人なんですよ、どうしよう。とりあえず旅行でもするかな」


 実は一人旅というものに、昔から憧れだけは持っていた。でも社会人はタイミングがそうそうある訳じゃないし、有給をいっぺんに取るのは流石に気が引けたし。これって俗にいう言う傷心旅行というやつかな、ハハハ。

 今思うと使っておけばよかった。絶対たっぷり残ってたよ私の有給。だってほぼ休まずに仕事してたもん。

 そういえば「お前は根が真面目だから損をするね」って、何度も友達に言われてたな。見事に損をしたわ。


「では、タイミングが良くて助かりました」


 どこか苦笑いにも聞こえるその声を聞いて、私はやっと顔を上げる。

 艶がある栗色の、外に跳ねた柔らかそうな短めの髪。垂れ目がちな目に、エメラルドのキレイな瞳と長い睫毛。全体的に整った、どちらかと言えば可愛い系に属するであろう顔。女性も驚きの色白の肌。

 今までの私の人生の中では初です、こんなにキレイなお兄さんと出会うのは!

 男の人だが、美しいという表現が一番に似合う!

 芸能人でも見た事ないですよ! ここまでキレイなお兄さん!

 声には出さないが、テンションが最高潮に上がっているのがわかる。

 ……だが同時に心の中で思った。お兄さんから見た私の印象は絶対に最悪だと。

 洗面台の前で座り込んでいる女性ですよ?

 やけ酒の後に、そうなった女性ですよ? そんな女性見たらどう思いますか?

 私の兄なら確実にこう言うでしょう。

「女としてそれどうよ?」と。

 てなわけで、今私の顔は赤くなったり青くなったりを繰り返している。

 キレイなお兄さんとの出会いが出来て心底嬉しい、嬉しいけどこのタイミングじゃなくてもよかったんじゃないかな神様!

 そういえばお兄さん、タイミングがなんとかっていってたな。なんのタイミングの話だろう。


 聞こうと口を開いたときに、私はやっと気付いた。


 お店の中なのに、冷たい風が頬に触れている事に。

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