最後の望み
翌朝は早起きするつもりだったが、気付くともう13時を回っていた。昨夜の出来事は肉体的にも精神的にも想像以上にダメージが大きかったようだ。特に腿の筋肉はベッドから降りるだけで抗議の声を上げる。痛てえ。家には誰もいない。母親のメモがリビングのテーブルに残っていた。声をかけても起きなかったので、志穂と出かけるとある。朝食の残りも置いてあった。急いでかきこむ。
駅までの道のりを歩くのにいつも倍の時間がかかる。今日も夏空が広がっている。遠くに湧きあがる入道雲、つんざくように鳴く蝉しぐれ。本来なら浮き立つはずの天気なのに心は重い。駅のホームに上がり電車に乗る。保証書に書いてあるPCメーカーのサービス拠点までは電車で1時間程度かかりそうだ。何度か乗り換えて駅を出る。日差しを避けるためか歩道に人通りはほとんどない。足を引きずるようにして歩き、サービス拠点に着いた。
自動ドアが開き、空調の効いた涼しい風に包まれる。ありがたい。店内にはこの暑さだというのにかなりの客がいる。カウンターにある発券機で番号札を取り、呼び出されるのを待つ。ソファに座り無為に待つ時間がもどかしい。やっと自分の番号が呼ばれカウンターに向かう。
「ご用件は何でしょうか?」
「これ修理できますか」
そう言って、リュックを降ろし中身を見せる。対応してくれた店員さんが驚いたような顔をする。
「これは派手にぶつけましたね。何かの角にモニターを強打しました?保証書はございますか?」
保証書を手渡すと紙面を確認する。
「フルメンテナンス契約をされていますので、修理が無理な場合は新しい部品と交換ができますのでご安心ください。ただ、一度工場でお預かりになりますがよろしいですか?」
「えっと、データの復元はしてもらえるんでしょうか?とても大切なデータが入っていて、それがないと困るんです」
「サービスマンに確認して参りますね。お座りになってお待ちください」
そう言って、PCを持ってカウンターの裏に消えていく。俺の応対をしてくれていた人は戻ってくるが、呼び出されない。1分が1時間にも感じられる。気づくと爪を噛んでいた。数分待ってやっと呼ばれる。
「大変申し訳ないのですが、ディスクに物理的な損傷が発生しておりまして、データのサルベージはできませんでした」
涼しいはずなのに額に汗がにじみ出る。
「どうしようもないんですか。お金がかかっても構わないんです。お願いします」
「お客様、お気持ちは分かるのですが、この状態ではデータ復旧は不可能です。申し訳ありませんが、ご了承ください」
「なんとかお願いします」
そうすがる俺を困った顔で見る。無理なものは無理、無茶言わないでください。言葉には出さないものの表情がそう語っていた。
「それでは、一度工場にお預かりさせていただきますので、こちらをご記入ください」
差し出された紙に書かれた無意味な文字列。頭の中が真っ白になりながら、住所・氏名・電話番号をのろのろと書く。こちらが控えです、といって渡される紙を機械的に受け取る。ご利用ありがとうございました、の声に送られて店を出た。
心の中にぽっかりと穴が空いた気分だった。もしかしたらという願いもむなしく拒絶されてしまった。いや、本当は分かっていたのだ。昨日の夜、激しく損傷したPCを見たときに、これは無理だと。その現実が受け入れがたく、ここまで来たもののやっぱりダメだった。打ちのめされ、途方に暮れる。だいぶ日が傾いた街をトボトボと歩く。ふわふわとして現実感がない。そして、気が付いたときには片倉さんの家の門の前に立っていた。どうやって、ここまでたどり着いたのか全く記憶がない。
表札の横のインターフォンを押すと、すぐに返事があって、門は空いてるから入ってと言われた。言われるままにくぐり戸を開け中に入る。正面の建物の玄関扉が引き開けられ、片倉さんが顔を出した。
「榊原くん……その顔どうしたの?具合悪い?」
そう言って、そばに駆け寄ってきた片倉さんが俺の顔をのぞきこむ。そして、俺の手を引いて、玄関の中に招き入れ、上がり框に座らせる。
「熱中症?お水持って来ようか。ねえ、大丈夫?」
グラスに氷水を入れて戻ってきた片倉さんが、俺の横に座って、グラスを俺の唇に押し当てる。冷たい水の感触が、今まで夢の中にいたような俺の感覚を覚醒させた。
「片倉さん……俺どうして……」
「大丈夫。どうしちゃったの?」
不安と気遣いの交じった片倉さんの表情が、俺に現実を思い出させる。”ヨッシー”さんはもういないんだ。急に悲しみが俺を襲い、涙があふれ、ほおをつーっと伝い落ちる。こうなるともう感情を押し止めることができなくなり、涙が止まらなくなった。片倉さんは、声を出さずにいきなり泣きだす俺を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに俺の頭に手を回してかき抱いた。
どのくらい、こうしていたのだろう。激情のうねりが収まり、ようやく涙が止まる。生まれて初めて人前で、しかも自分が好きな相手の目の前で辺りをはばからず泣いてしまった恥ずかしさがどっとこみ上げてくる。同時に、ぬくもりと柔らかな感触と甘い香りが俺の五感に働きかけを開始する。顔に血流が集中して熱くなるのを感じながら、俺は頭を上げる。視線を向けると片倉さんに柔らかく微笑んだ。胸元のシャツには俺の涙の跡がついている。
「もう落ち着いた?」
「うん。それよりゴメン。シャツ濡らしちゃって」
慌ててハンカチを出して渡す。片倉さんは少しだけシャツに当ててから、
「これぐらい大丈夫。それよりもこんなところで話すのも変だから上がって」
その言葉を合図とするかのように、すっと奥から人影が現れる。
「お嬢様、お庭の
「そうね。じゃ、そちらに何か飲み物をお願い」
エプロンを付けた人のよさそうな中年の女性は、はい、ただいま、と言って奥へ消える。
「うちのお手伝いの吉田さん。家の中の方が涼しくていいけど、うちの両親がいるから、こっちの方がいいかも。来て」
片倉さんは、玄関を出て左に曲がり、鯉の泳ぐ池の先にある四阿に案内した。四阿ははテーブルと椅子が二脚あり、そのうちの一つを俺に勧め、もう一方に片倉さんが座る。そのとたん、何か大きな塊が片倉さんに飛びついた。
「もう、フェイ。驚かせないで」
ゴールデンレトリーバーが尻尾を振り振り、片倉さんにまとわりつく。頭を抱えるようにして首筋をなでてやると満足したのか、今度は俺の方に寄ってくる。俺のにおいを嗅いで納得したのか、また片倉さんの側に戻って寝そべった。
そこへ足音が近づき、先ほどの女性がいくつかのものを運んでくる。ポット・グラス・蚊遣り・おしぼりと皿を手早くセットする。グラス2つにポットからアイスコーヒーを注ぐと一礼して母屋に戻っていった。
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