脱出

 男は何かに気を取られ、後ろを振り返ると、短い叫び声をあげた。

「そんな馬鹿な。うわ、こっちに来るな」

 包丁を何も無い空間に振り回す。そして、悲鳴を上げながら、俺の方に向かって走ってくる。目の焦点は合わず、顔は歪んでいる。包丁は辛うじてかわすことができたが、何かに足を取られて、後ろ向きに倒れてしまった。倒れた拍子に低い台の角に背中から激突し、ガシャンという音がした。痛みにあえぐ。男は部屋の入口にぶつかると包丁を落としたことにも気づかず、何か訳の分からない叫び声を上げながら、外へと走り出していく。


 気づくと、部屋の隅の方からチロチロと火が出ていた。何かに引火し、ボウっと大きく燃え上がる。

「彼女を早く。包丁を使え。荷物も忘れるな」

 ”ヨッシー”さんの声に我に返り、藤川の手足の縛めを切断する。抱え上げるようにして立たせ、猿ぐつわを外し叫ぶ。

「ぼーっとしてるな。逃げるぞ。荷物は持ってないのか」

「バッグ……」

「それなら、外の車だ。来い」

 藤川の手を掴み、引きずるようにして、外に向かう。ガラス戸は1枚がレールから外れて倒れ、ガラスが粉々になっていた。男が襲ってくるかもしれないと身構えるが人の気配はない。


 車に駆け寄ると、幸いなことにドアにロックはかかっていなかった。助手席のドアを開け、スマートフォンとバッグを引っ掴む。

「他に持ち物はないな?」

 藤川に突き付けるとゆっくりと頷く。スマートフォンをバッグに入れて押し付けるように渡し、警戒しながら、道を戻る。いつの間にか月明かりが出ており、何とか林の中の道が見えた。急げ、急げという”ヨッシー”さんの声がかすかになっていく。背中のリュックの中から、チャリチャリという嫌な音がする。中を確認したいが、今はまだダメだ。ボンという音がして振り返ると家から火の手が上がっていた。何かに引火したらしい。

 早くしないと消防が来てしまうかもしれない。呆然としている藤川を急かし、駆け足で進む。


「ちぇ、何が鉄壁だよ。簡単に壊れちまって。結構高かったのにな」

 かすかな”ヨッシー”さんの声がする。

「まあ、最期にこんな冒険ができて楽しかったよ。こんなにドキドキしたのは久しぶりだ。まるで生きているときみたいだった」

「ヨッシーさん。すぐ家に戻るから。それまで」

 急に叫んだ俺に藤川がギョッとする。

「残念だけど、もう電圧が足りねえ。なあ、妹とカノ……」

 もう、声が聞こえなくなる。道路が見えた。最後の道のりを走り、自転車に飛びつく。レンチを前かごに放り込むと錠を外し、またがる。

「早く乗れ」

 藤川に荷台を指さす。


「ケーサツ」

 やっと頭が働くようになったのか、そう言いながら、バッグを探そうとする藤川に飛びつく。

「何すんのよ。警察に電話しようとしてるんでしょ」

「それを止めようとしてんだよ。電話なんかしてみろ。今までの努力が無駄じゃねーか」

「何言ってんのよ。訳わかんないこと言わないでよ」

「そっちこそ、話を聞けっ」

 時間がないという苛立ちから大声を出してしまう。その剣幕に驚いた藤川が口をつぐむ。


「いいか、良く聞け。警察に電話して保護されてみろ。お前があの変態野郎に誘拐されていたってことがバレるんだぞ。マスコミに追い回されて、2人きりの間に何があったのか興味本位でどのように報道されるか考えろ。そうなったら最後、事実なんてどうでもいいんだ。お前が何と否定しようが世間はそうは見ないぞ。それでもいいのか。あいつがいつ戻ってくるのかも分からないんだ。それでもここで警察を待つっていうなら好きにすりゃいい。俺は家に帰る」

 一気に話し、先ほど藤川を制止したときに倒れた自転車を引き起こす。サドルにまたがると、藤川は大人しく後ろの荷台に座った。


 ふらつきながらもなんとか自転車は走り出す。来るときに無理をして漕いだため太ももが悲鳴を上げている。しばらくすると下り坂になった。漕ぐのをやめ、惰性で坂道を下るのに任せる。

 来た時に見たビルの手前で自転車を止める。

「ここからは交通量があるし、2人乗りを見とがめられると面倒だ。悪いがこの先は一人で帰ってくれ。このまままっすぐ行って左に曲がると駅があるはずだ。なるべく俯いて監視カメラに映らないようした方がいい。じゃあな」

「ちょっと待ちなさいよ。こんなところでおっぽり出されても帰れないわよ」

 財布から千円札を取り出し、藤川の手に押し付けながら言う。


「これだけあれば家まで帰れるだろ。泣き言いってないで帰れ。2人でいるところを見られるとまずいんだ。さっきの話もう忘れたのかよ。じゃあな」

 自転車に乗りスピードを上げる。ちらと振り返ると林の中に赤いものが見える。藤川も諦めたのか歩き出した。俺は顔を前に戻し、一心不乱にペダルを漕ぐ。

「ヨッシーさん?」

 呼びかけるが返答はない。道路の段差で自転車が跳ねるたびに、背中のリュックの中でジャリジャリというような音がする。足がきついが必死に自転車を漕いで自宅に戻る。


 どこに行っていたのか、との母親の問いかけを無視して、自室に入る。机の上にリュックをそっと降ろし、ファスナーをゆっくりと開ける。中に入っていたPCは液晶が割れて粉々になっていた。あの時、俺とテーブルに挟まれるようにして角が液晶画面に直撃したのだろう。液晶を保護する蓋を兼ねるキーボードは全く役に立っていなかった。破壊の跡は蓋を突き破り、液晶画面を破壊して、中の基盤にまで到達していた。電源ボタンを押しても反応がない。


 落ち着け、バッテリーが壊れただけかもしれないんだ。ACコードを接続して給電する。恐る恐る電源ボタンを押してみる。しかし、無情にも反応しない。くそ。何とかしたいが素人ではこれ以上どうしようもない。この時間じゃ、電器屋やメーカーのサポートセンターも営業終了しているだろう。仕方がない。明日の朝一番で出かけよう。そのためにも母親を怒らせない方がいい。


 リビングに行き、適当に話を合わせ、夕食を食べる。とても喉を通る状態ではなかったが、無理やりに押し込み水で流し込む。テレビでニュースをやっていたが、ローカルニュースになり、山林火災の情報が流れる。意外と近くじゃない、という母親の声に相槌を打ちながら食事を終える。


 風呂に入ってみるとあちこちが痛んだ。気づかなかったが手の指を何カ所かすりむいており、背中にも傷がついていた。痛かったがあの家の汚れを落とすために頭のてっぺんからつま先まで丁寧に洗った。太ももからふくらはぎもマッサージしておく。明日筋肉痛になるのは避けられないにしても軽くしておきたい。風呂から出て、募る不安を抑えて、ベッドに入る。とりあえず明日だ。今日は寝よう。

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