#4
それから数分もしないうちに、誘は立夢の視界に戻ってきた。黒い女性の姿はない。
立夢の元に戻ってくると、誘は乱暴にベンチに座る。その顔には不機嫌さと何かが入り混じっていた。
「……なんて言われたの?」
気まずい空気にしばらく静寂を保っていた立夢だったが、言葉がないのもつらくなってきたので意を決して誘に用件の内容を尋ねる。
「……りっちゃんが死ぬって言われた。数分の内に」
「は?」
突拍子のない言葉に立夢は思わずポカンとしてしまう。しかし誘の様子からするとどうやら冗談の類いではなさそうだった。
「アレはクソ真面目な奴だからな。少なくとも情報を偽って伝えてくることはまずない。それが輪をかけてタチが悪いところでもあるけどな」
「そんな……じゃああの子は……」
「いいや、アタシは諦めないぜ? てかそんなこと言われて、はいそうですかって引き下がれるワケねーだろ」
誘は拳を作り、もう片方の手のひらに殴りつける。パシン、と力強く肌と肌がぶつかる音が響いた。
「親ってのは体張って子どもを守るモンだ。あいにくアタシの親は守ってくれたことなんざないが、だからこそりっちゃんには同じ思いをさせたくない。アタシみたいにグレてほしくねーからな」
そう言うと誘は立ち上がり、遊具で遊んでいたりっちゃんを呼び寄せる。
「どうするの?」
「とりあえずりっちゃんを連れて公園から出る。遊具での死亡事故は割と聞くから今すごく嫌な予感がするし、人が多いのも注意を絞れないから離れたい。あ、お前は近くにいてもいいぞ。直接的に何かできるわけじゃないからな」
誘が軽い冗談を口にしたのが、よほど自分が心配そうな顔をしていたからだということに立夢は勘付く。それでもやはり、こんな状況では不安を拭い去ることができない。
「そんな不安そうな顔するなって。生きてるんなら明るくいこーぜ?」
「それって……」
どこかで聞いた言葉だ、と立夢は思った。
「ん? ……ああ、今のはアタシの信条ってヤツだ。ほら、お前も知っての通りアタシって霊感体質だろ? これは血筋によるもので、それを活かして除霊とかを生業にしてたのがうちの家系だ。ま、拝金主義的なやり口が気に入らなくて家出、気分としては独立したんだけど」
それは置いといて、と誘は話を信条についてに戻す。
「そういう仕事上、死んだ人間に沢山会ってきた。良い奴にも悪い奴にもな。けど、そいつらに話を聞くと善悪関係なくほとんどの奴が同じようなことを言うんだよ。何だと思う?」
誘からの問いかけを聞いて、立夢の頭には以前倉崎に取り憑いていた人物のことが思い浮かんだ。
「……忘れられたくない?」
「おっ、正解。霊体化して境遇が近くなったから気持ちが分かるのかね?」
誘は話している間に戻ってきたりっちゃんの頭を撫でると、そのまま手を繋いで公園の入り口に向かって歩き出す。立夢もその後に付いて行く。
「霊体になるとそれまで親しかった間柄の相手にも気づいてもらえなくなるからな。それが自分のことを忘れられたみたいでとても堪えるらしい。忘却は言っちまえば、無意識に行われる存在の否定だ。そりゃ誰だって自分を否定されたら良い気分はしないよな。ちょっと種類は違うが、アタシも近しい人間に否定された経験があるから少しは分かるんだよ。だから、せめてアタシはそいつらのことをずっと覚えていようと決めてる」
それでだ、と誘は続ける。
「どうせ覚えているなら明るい記憶の方が、覚えられてる側も嬉しいと思うんだよ。そして、記憶っていうのは似たような出来事に紐づけされて思い出されることが多いモンだろ? だからアタシは出会った奴らとの明るい記憶を忘れないために、明るく前向きに生きてくことにしてんだ。ああ、勿論記憶する相手は命を終えた奴だけじゃなくて生きてる奴もだから、そこは勘違いするなよ?」
「分かってるよ」
誘がそういう区別をしないというのも、これまでの人となりを見てきた立夢には察しがついていた。
「でも凄いな、誘さんは。そんなにたくさんの人のことを考えられるなんて。わたしはそこまでキャパ多くないから、そんなに大勢のことを考えるのはちょっと無理かな」
「そうか? でもまあ、人間誰しも両手で抱えられる量には限りがあるしな。無理せずやれる範囲でやっときゃいいさ」
誘の信条の話が一段落着くとタイミング良く、三人は公園の外に出る。
「しかしなんだ、柄にもないことをつい長々と話しちまったな。まるで――」
まるで、とまで言いかけて口を噤む誘。その先の言葉を言い淀んでいるようだった。
誘が何を言おうとしたのか、立夢は予想する。そして、いくつか浮かんだ言葉の中になぜか確信のあるものがあった。
まるで今際の際の言葉のような――。
頭の中でその言葉を反芻したと同時に、立夢の体に悪寒が走る。直感が悲鳴のような警鐘を鳴らしている。
違う。悲鳴は別のところから聞こえていた。すぐ近くだ。
「あぶない!」
誘がそう叫んでいた。それを理解したときには、立夢はりっちゃんと共に誘に突き飛ばされていた。
その直後、三人の居た場所を自動車が猛スピードで通り過ぎる。
ゴシャアッ、という衝突音と金属がひしゃげる音が混ざった音が響いた。
道路に倒れた立夢は急いで身を起こす。眼前には車が公園の周囲に植えられていた樹木に突き刺さっている光景が広がっていた。車の前半分は大きく歪み、樹木の幹には強大な力が加わったことでひび割れが入っている。
誘はその光景の中で、車と樹木に腹部を挟まれていた。
より適切な表現をするならば、誘の腹部は二つの物体に板挟みにされて潰れていた。赤黒く柔らかいものが隙間から零れ落ちている。立夢の鼻は鉄さびのような臭いを感じ取った。
立夢の頭の中で、何かが急速に組み上がっていく。待ち望んでいて、完成を拒みたい何か。
「おい……」
自身の心音が嫌に大きく響いていた立夢の耳に弱々しい声が届く。咄嗟に声がした方へ視線を向けると、誘が血反吐を吐きながら顔だけをこちらに動かしていた。
「いざな……さん……」
「二人、とも……無事か……?」
立夢は横で座り込んでいたりっちゃんを見る。りっちゃんはあまりにも凄惨な状況に理解が追いついていないのか、泣き叫ぶこともなく呆然と目の前の光景を眺めていた。幸いにも、怪我は手の擦り傷だけしか見当たらない。
「わたしは大丈夫です……りっちゃんも……」
「そうか……へへ、見たか……お前らの予測、外してやったぜ……」
誘は笑みを浮かべるが、直後に咳込み、一際大きな血の塊を吐き出した。
「誘さん……!」
「ちっ、時間がねぇ……りっちゃん、おいで……」
母親に呼ばれて、りっちゃんはふらふらと誘のそばに近寄る。
「良い子だ……」
誘はそう言うと、残る力を振り絞って動かした片手をりっちゃんの頭に置き、何かを呟く。途中、咳込みつつも誘が言葉を紡ぎ終えると、りっちゃんはその場にゆっくりと崩れ落ちた。立夢が近寄って様子を確認すると、りっちゃんは小さく寝息を立てて眠っているのだと分かった。
「りっちゃんの、アタシとこの事故に関する記憶を封じた……たぶん上手くいったはずだ……事故とアタシの死を受け止められる時が来るまで……思い出すことはないだろう……」
娘を見て優しげに笑う誘。立夢はその表情に母親の慈愛と、離別の悲しみを見た。
「りっちゃんには明るく生きてほしいからな……記憶の齟齬を減らすためとは言え、アタシのことも忘れちまうのはまさしく断腸の思いだが……それもしばしの辛抱だ……」
誘は視線をりっちゃんから立夢の方へと移す。
「なあ立夢……最期に問題だ……」
「問題って、こんなときに何を……」
「まあ聞けって……アタシは、お前の体がちゃんと戻ることも……りっちゃんを絶対助けられることも……記憶封じが上手くいくことも……全部確証があったんだよ……なぜか分かるか……?」
「そんなの分かるわけ――」
「分かるさ……だってお前は、ここにいる」
ここにいる。立夢がここにいることで分かること。
(確証……明確な証拠……確実にその結果に帰結するもの……結果?)
そのとき、立夢の脳内に一つの推測が浮かぶ。
「ああ……ああああ……!」
そうなのか。そういうことなのか。
誘が確証を持っていたのは、結果をすでに見ていたから。
すでに、立夢という結果を見ていたから。
「どうやら分かったみたいだな……それなりに聡いようで安心したよ……」
誘は再び持ち上げた片手を、目の前で大粒の涙をぼろぼろ止め処なくこぼす立夢の頬に添える。
「大きくなったな……りっちゃん……」
潤んだ視界が徐々に輝きで包まれていき、世界が淡く薄れていく中で、立夢はあらん限りの大声で目の前の相手を呼んだ。
「おかあさんっっ!!」
立夢は絶叫とともに跳ね起きた。誰かを掴もうと伸ばされた腕は、空中で目的を果たせぬまま彷徨う。
荒く息をつき、しばし呆然とする立夢。頭の中が強い衝撃を受けたかのように揺れている。その揺れが治まっていくにつれて、ゆっくりと状況が飲み込めるようになった。
今、立夢は自分の部屋のベッドの上に居る。昨日の夜、このベッドで眠り、そして朝になった現在、ここで目を覚ました。
長い夢を見ていたのだと、立夢は思った。世界に干渉できない幽霊になって、大事な人と会う夢。楽しくもあり、哀しくもあった夢。
しかしそれは、ただの夢ではなかった。封じられた記憶を受け止めるための夢。空虚を埋める、真実を知る夢。母を思い出す夢。
立夢は自分の部屋を見渡す。趣味で集めたぬいぐるみがそこら中に鎮座している部屋。このぬいぐるみの収集癖も、小さい頃に母が買い与えてくれたぬいぐるみがそもそもの発端だった。きっかけになったその最初のぬいぐるみも、部屋の中で大事に飾られている。今の今までそのことを忘れていたが、母との関わりがずっと自分を構成するものの中にあり続けたのだと知ると、立夢は胸が詰まる思いだった。
「大丈夫かい、りっちゃん? 何か大きな音がしたけど――」
部屋の扉がノックされ、立夢の父が入ってくる。立夢の部屋から聞こえた音が気になって様子を見に来たらしい。
部屋に入るなり、立夢の父はぎょっとした表情を見せる。
「ど、どうしたの、りっちゃん!? 怖い夢でも見たのかい!?」
娘を見ておろおろと慌てだす父。そこで立夢はようやく自分が、顎から滴り落ちるほどに涙を流していることに気づく。
「ううん、違う……思い出したの、おかあさんのこと……」
涙を手で拭いながら答える立夢。しかし母のことを口に出すと、より一層流れ落ちる涙の量が増す。
止まらない涙に立夢が戸惑っていると、立夢の父は近寄ってその体を優しく抱きしめる。
「良かった……誘さん――お母さんのこと、思い出してくれて……」
抱きしめられた立夢は、耳元で父が声を震わせながらそう言葉を発したのを聞いた。その瞬間、涙を抑えようとしていた最後の堰が決壊する。
立夢は声を上げて泣いた。赤ん坊のように、恥も外聞もなく泣いた。
自分がたくさんの愛を受けていることを知って、ただただ泣いた。
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