#3
椅子に座り、あたたかな陽光をその身に受ける。心地良さからウトウト、ふと眺めた窓の外では小鳥がじゃれ合っていた。
穏やかな時間が流れる。学生時代とはほぼ正反対な日常になってしまったけれど、この平和なひとときも悪くない。
まったりとそんなことを考えていると、背後で物音がする。音のした方向に目を配ると、彼が食器洗いを終えて部屋に入ってくるところだった。
自分のお腹にもう一つの命を授かったことが分かってから、彼は家事のほとんどを進んでやってくれている。元々、家事仕事は彼の方が得意で、分担する量もぎりぎり均衡を保っていたという具合だった。そういうこともあって、普段から家にいる自分が家事の大部分を任せてしまっていることが少し申し訳ない。それでも彼は「妊婦さんに無理はさせられないから」と笑って、率先して動くことを止めはしないだろうが。
彼は家事が一通り終わったことを報告し、こちらの体調を尋ねる。その優しい気遣いに感謝しつつ、自分に問題はないことを告げた。何度も交わしたやりとりだが、彼はこちらの答えを聞くたびに安堵した表情を浮かべる。それが自分にはどこかくすぐったい。
それから話はこれから産まれてくるお腹の子の話になった。その中でも中心になったのは、どんな名前を付けてあげようかということだった。確かに、時期的に見てもそろそろ考えておくべきことだろう。
とは言っても、実はこれについては自分の中で半分決まっている。もし産まれてくる子が女の子なら、この名前にしようと考えていた。願いと予感の双方が合わさった名前。
名前の案を聞いて、彼は良い名前だと賛同してくれた。少し不安になって、妄信的に肯定していないかと念押しして確認すると、彼は「君らしい愛が伝わってくる、とても素敵な名前だと思うよ」なんて宣う。本心で思っていると分かっているので、ある意味では性質が悪い、しかし、自信を持たせてくれる答えだった。
そっと自分のお腹を撫でる。
願わくば、この子に幸多からんことを。
瞼を開けた途端に広がる光に、思わず目を細める立夢。光に目が慣れてくると、自分が見慣れた公園の中に立っていることを知る。
休日なのだろうか、普段よりも遊び回っている子どもが多い。近所にこんなに子どもがいたんだな、と立夢は若干驚く。
(いや、そもそもこれはわたしの知っている公園なのだろうか? わたしの身体は元に戻ったのか?)
これまでと比べると、視界に入る人の数は圧倒的に増えてはいる。その点でははっきりと差異を感じられるが、まず時間帯そのものが人の多そうな日中なので戻ったかどうかの判断には使いづらい。
と、ここで立夢は誘に言われたことを思い出し、ある案を考えつく。
(幽体だと周りから反応されない……つまり、幽体でなければ他の人から反応が返ってくるはず)
立夢は辺りを見回し、ベンチに座っている女性に目を付けて声をかけに行く。
「あの、すみません」
声をかけた途端に、立夢の心臓が不規則なリズムを奏で出す。どう転がるか分からないことが不安で怖い。
立夢の声に女性は――。
「はい?」
――振り向いた。
良い反応を得られたことで立夢は思わず笑みをこぼす。仮説が正しければ、これで立夢の身体は実体を伴っていることになる。
「どうかしました?」
安堵していた立夢は目の前の女性が不思議そうな表情でこちらを見つめていることに気づく。
(しまった、反応があったときにどう切り返すか考えてなかった……!)
自身の状態のことで頭がいっぱいだった立夢がここからどうしようかとしどろもどろしていると、目の前の女性がくすくすと笑う。
「何年経っても色んな意味で変わらねえな、お前は」
女性の纏っていたおしとやかな雰囲気が途端に勝気なものに変わる。あれやこれやと考えていた立夢は一瞬戸惑うが、その口調と爛々と輝く双眸には覚えがあった。
「もしかして誘さんですか?」
「当たり。流石に顔を会わすのも三度目ともなれば気づくのが早いな」
「一目見て、とまでは行かなかったですけどね」
声をかけた相手が見知った人物だったことで人心地つく立夢。しかしそれも束の間、すぐに落胆する。
「どうした? アタシじゃ何か不満だったか?」
「いえ、不満ではないんですけど、こういう展開に覚えがあるなぁと思って。それが今はあまり望んでないことと言いますか……ちなみに聞きますけど、わたしって今どんな状態ですか?」
「あー、なるほど。うん、前と変わらず」
「やっぱり……」
予想が的中して立夢はがっくりと肩を落とす。だが、誘はそれを見ても明るい表情を崩さない。
「そう心配しなくても大丈夫だ。お前のその状態の原因は分かったし、焦らなくてもそう遠くないうちに解決する。身体の方も問題ないはずだ」
「本当に? 原因って何ですか?」
「それも追々理解できるさ。というかだな。さっきから気になってたんだけど、なんでちょっと他人行儀な喋り方になってんの? 前会った時はもっと砕けてただろ」
「あー、それは何と言いますか……目上への礼儀?」
「突然だな」
誘は困り顔で苦笑する。そういう大人びた雰囲気が外見と相まって年齢差を感じる要因になっているのだろうと、誘のその様子を見た立夢は自己分析した。
そうこうしていると、立夢は不意に誘以外の視線を感じる。視線の元を探すと、遊具の集まっている方向にいた小さな女の子と目が合った。
女の子はそのまま立夢たちの座っているベンチの方まで小走りでやってきて、立夢と誘の間にちょこんと座った。そして、誘の顔をじっと見上げる。
「ん、どうしたりっちゃん?」
誘は知り合いなのか、特に困惑することもなく女の子に話しかける。りっちゃんと呼ばれた女の子は一度、立夢の方を見てから、再び誘に向き直って口を開いた。
「またゆうれいさんとおはなししてたの?」
「そうだよ。アタシが若いころからの友達なんだ」
「……まだおはなしする?」
「そうだなー、まだかかるかなー。だからもうちょっと遊んでてくれる?」
「うん、わかった」
りっちゃんは大きく頷くとベンチから勢いよく跳ね降りて、遊具のある方向に駆け出していった。
「誘さん、今の子ってもしかして……」
立夢はブランコで遊ぶりっちゃんを目で追いかけながら、思ったことを言葉の端に匂わせつつ尋ねる。誘も立夢が言わんとしていることをすぐに理解し、首を縦に振った。
「ああ、アタシの娘だ。来年には小学生になる。アタシがこんなだから幽霊とかがいるってのはそれとなく感づいたみたいだが、知覚はしてないらしい。まあ、見えない方が面倒が少なくて良いけどな」
「それは暗にわたしが面倒だとおっしゃっておられるのか」
「んー、宗教の勧誘程度には?」
「うわぁ酷い」
「冗談だよ、八割くらいは」
「二割本気はむしろ生々しくてもっと酷い」
益体の無い会話を交わして二人は笑い合う。
「……正直、アタシみたいなやつが結婚して子供もできるとは夢にも思わなかったよ。人生で一番縁遠いものだと考えてたくらいだ」
誘は自身の手に視線を落とす。その左手の薬指ではプラチナリングがまばゆく煌めいていた。
「お前と最後に会ったのはアタシがまだ大学生の頃だったな。あの時は確か、当時アタシが内々でやってた仕事の直前だったと思うんだが、実はその時の依頼人が今の旦那なんだよ。ちなみに同じ大学の同じゼミ生な」
「マジで? 即日交際?」
「流石にそこまで展開早くねーよ。まあ、付き合うきっかけになったのはその時のことなんだけどな」
「ほー。プロポーズはどっちから?」
「向こうから。あまりにも真剣な顔で告ってくるから思わずオーケーしちまったよ」
「と言いつつ、内心めちゃくちゃ嬉しかったんでしょ。旦那さんのこと話してる間、ずっと顔がにやけてますぜ」
「うっせ」
顔をほんのり赤くして悪態をつく誘。何の変哲もない歳相応の話題で会話する二人の間には和気藹々とした空気が流れていた。立夢は、誘と話すのはこれでまだ三回目のはずなのに、まるで以前から知り合いだったような気さえしてきている。
しかし、そんな和やかな雰囲気も長くは続かない。
先ほどまで流暢に話していた誘が急に黙り込む。にわかに訪れた奇妙な静寂に疑問を感じて立夢が誘の方へ視線を移すと、誘の瞳はある一点を警戒するように見つめていた。立夢も釣られてその視線の先を見る。
女性が一人、立っていた。髪の毛を後ろで纏め、黒い着物姿でこちらを見ている。微動だにしないその姿はまるでマネキンのようで、周りの景色から異様なまでに浮いていた。
だが立夢がそれより不可解に思ったのは、そんな浮いている彼女を気に留めている人間が立夢と誘以外に誰もいないということだった。
「あの人、知り合い?」
立夢が尋ねると、誘は黒い女性から目を逸らさずに首を捻る。
「うーん……まあ知ってるっちゃ知ってる相手だが。人、ではないな」
「それは幽霊って意味で?」
「いいや。生きた人間では、とかそういうんじゃない。正直、詳しくは知らない方が身のためだがとりあえず説明するなら、どんな人間でも人生で一度は顔を会わすやつってとこか」
誘はそう説明すると、よっこらせ、と気乗りしないような様子で立ち上がる。
「どうやらアタシに用があるみたいだから、ちっと行ってくるわ。どうせロクでもない話なんだろーが」
「うん……気をつけてね」
「おう」
歩き出した誘の背中を立夢は見送る。僅かに胸騒ぎがしつつも。
真っ直ぐ黒い女性のところまで近づいた誘。そこで少し言葉を交わしたようだったがすぐに、今度は二人揃って公衆トイレのある建物の裏手へ消えていった。先程までの場所では目立つからだろうと立夢は予想する。恐らく、傍目には誘が独り言を言っているようにしか見えないだろうから。
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