#2

 たくさんの人間がこちらを見ている。

 彼らは皆一様に黒い衣服を身に纏い、沈痛な面持ちで、中には涙ぐみながら、規則正しく並べられた椅子に腰を下ろしていた。男女比は若干、女性の方が多いらしい。年齢層も二十代辺りが割合を占めていた。

 人の群れは空白の縦線が中心を通るようにして左右に分かれている。ふと、モーゼの奇跡という言葉が頭に浮かぶ。

 一つ気になるのは左側の一番手前の横列だけ、座っている人数が少ないことだ。若い男性、小さな女の子、黒いベールで顔の見えないトーク帽の女性と来て、そこからは中央の境目まで空席が続いている。残りの座席はほぼ埋まっているだけに、そこだけ奇妙に目立つ。

 そんなところに視線が行っていたからか、この空間の他の重要な視覚情報を見落としていたことに遅まきながら気づく。

 一つは壁に掛けられた黒と白の鯨幕。視界の端まで黒い人影が並んでいるように見えていたが、よく見れば中途から無機質な縦縞が垂れているだけだった。

 もう一つは袈裟を着て経文を唱えている僧侶。一番近い位置にいたのにその存在を今更知ったのは、視界外下方に鎮座していたからだった。灯台下暗し。

 これだけ情報が集まれば、ここで何が行われているかは明白である。では次は、誰の、ということになるが……。

 否、本当は全て分かっている。全て分かっていた。

 約束も交友も置いてきた。後悔が募れど、未練がましくあがくことももうできない。ここに自分はもういない。

 前列の少女と目が合う。一番の心残りだが、もはや健常で居てくれることを祈るしかない。

 ああ、さようなら。愛しき――。


 次に立夢が目を覚ますと、そこは夜闇に包まれた屋外だった。

 先ほどまでは馴染みのある学校の景色が眼前に広がっていたのに、今度は見覚えの無い街の中に一人で立ち尽くしている。

(確か、ついさっきまで誘とか言う子と話してて……あれ、その後に何かなかったっけ?)

 ここに至るまでの記憶があやふやで混乱する立夢。

(……駄目だ、思い出せない。この歳でこんなに物忘れが酷いだなんて、かなりショックなんだけど)

 傍からすると状況の割りに呑気な思考をしているように思えるが、これでも本人は至って真剣だ。

 とにもかくにも、思い出せないならばまずは情報を集めようと、立夢は周辺を歩き回り始める。

 並んでいる建物は民家が大半のようだ。しかし、区画によっては生花店や食料品店などの店舗を見かけることもあった。もうかなり遅い時間なのか、どこも店仕舞いし、明かりの点いている家もほとんど無かったが。

 何か住所が分かるものは無いかと案内板や標識を探す立夢。だがそれらしきものは見つけたものの、肝心の地名の箇所だけがコンピュータの文字化けのようになっていて読むことができない。物が駄目ならと人も探してみるが、こちらもなかなか上手くいかず。夜分に申し訳ないなと思いつつ民家のインターフォンを押してみても、物音ひとつない。

 現在地が分かるような情報を得られないまま、立夢は途方に暮れながら何度目かの丁字路を曲がる。様々な経験をしてきてそこそこ根気強くなった自覚はあったのだが、暗闇に一人きりというのが地味に応えているのか、心細くて足取りが重い。

「こういうとき、おじさんがいたらなぁ……」

 最近、何かと頼りにしている猿渡の姿を思い浮かべる立夢。こういう不可思議な現象に巻き込まれたとき、傍らにいてくれるととても心強い人物だ。勿論、立夢の従僕ではないので、そんな都合良く近くにいたりしないのは頭の中で理解している。それでも孤独から来る不安のせいで、ついついそれらしき人影がないか視線を彷徨わせてしまう。

「ん? あれってもしかして……」

 しかしその行動が幸いして、偶然にも自販機の光に照らされる人物の姿を遠目に発見することができた。やっとのことで人を見つけられた立夢は駆け足でその人物の元へ向かう。

「あの!」

 立夢が声をかけると、自販機の排出口から飲み物を取り出していたその人物はそれに気づいて顔をそちらに向ける。輪郭がはっきり見えるほどに近づくと、その容姿は二十代くらいの女性のように立夢の目には映った。

「すみません、ちょっといいですかっ?」

 女性の目の前まで辿り着いて立夢は再度、声をかける。が、少し息が上がって、すぐには次の言葉が出ない。

 息を整えている立夢を目の前の女性は不思議そうに見ていたが。

「……ん? 待った、お前どこかで――」

 女性はそう言うと立夢の顔を覗き込み。

「――ああ、そうだ! お前、あの時の!」

 何か合点がいったような声を上げる。

「なんだよ久しぶりだな! あの時は急にいなくなりやがって!」

 どうやら女性は立夢のことを知っているらしい。しかし、立夢はその女性を見ても会った記憶が浮かんでこない。

(でもこの蓮っ葉な喋り方、誰かに似ているような……?)

 聞き覚えのある口調が立夢の頭に人物像を結ぼうとするが、その前に女性の口から記憶にある名前が飛び出す。

「アタシのこと覚えてないか? 誘だよ、綿霧誘。高校で会っただろ?」

「あ!」

 その名前を聞いて、ようやく立夢の脳内で口調と前に会った時の誘の顔が一致する。

「え、でもさっき会ったときより随分と成長して……」

「さっき? 何言ってんだ、アタシとお前が会ったのはもう四年近く前の話だろ」

「四年?」

 誘の言葉に立夢は戸惑う。立夢の感覚では学校で誘に出会ってからまだ半日と経っていない。だが今の誘の身体つきは、確かに数年の時間が経過していなければ現実的にありえない変わりようではあった。

 さらに、誘の口からまたもや耳を疑うような言葉が立夢に投げかけられる。

「けどよお、ホント驚いたぜ。アタシはてっきり、お前はとっくに成仏してるもんだと思ってたよ」

「成仏って……わたしはまだこの通りピンピンしてるんだけど」

「あら、気づいてなかったのか。お前の今の状態、俗に言う幽霊ってやつだぞ」

「そんな馬鹿な。だって誘さんはわたしとこうやって見て話して……」

「そりゃアタシはそういう体質だからな。じゃあ聞くが、ここ最近でアタシ以外から反応が返ってきたことがあるか?」

 誘の質問に答えるため、立夢は順に記憶を遡ってみる。と言っても、誘の他に声をかけた人間がまずいなかった。インターフォンの反応がなかったのは時間帯の問題という可能性もあるだろう。質問の意図からは外れていると見て、これは保留。

(……あ、でも学校で教室から出てきた女の子、わたしとすれ違ったときに全然こっちを見てなかったな……ぶつかりはしなかったけど、わたしを避けていった感じでもなかったし)

 ただそれに関しても、考えすぎと言えなくもない。結局のところ、誘の質問に明確な返答ができる根拠はなかった。

「んー……ま、信じる信じないはお前の勝手だけどよ。でも四年経っても見た目が変わってないってことは、老化する肉体の束縛から抜け出てる状態と言って間違いないだろうな。お前が不老不死でもない限りは」

「だけどわたし死んだ覚えなんてないよ」

「記憶なんて曖昧なものだからなー。前にも話したと思うが、強い衝撃を受けると前後の記憶が抜け落ちることはままあるらしい。自分が生きてると信じるのは良いけど、どうにもならんこともあるからな」

 誘の冷淡とも受け取れる宣告に暗澹たる気持ちになる立夢。その様子に罪悪感を感じたのか、誘はバツが悪そうに自身の頭を掻く。

「……あー、ここまで言っといてなんだけど、死んでない可能性もなくはない。霊体時の見た目はそのときの肉体の年齢とズレてる場合もあるから、単に幽体離脱中の見た目がその姿で固定されてるのかもしれないし、仮に四年間霊体のままだったとしても、肉体の方は病院とかで生命維持されてることも考えられる。あくまで希望的観測にはなるけどな」

 可能性は低いと口にはしつつも元気付かせるために希望を模索してくれる誘から、立夢は面倒見の良さを垣間見る。親身になってくれる人間が近くにいると思うだけで、立夢の暗い気持ちが少し軽くなった。

「こうやって会ったのも何かの縁ってことでなんとかしてやりたいトコなんだけど、あいにく今は先約があってな」

「そういえば誘さんはこんな夜更けにここで何を?」

 気分転換に話を変えようと、気になっていたことを誘に尋ねる立夢。

「待ち合わせだよ、仕事の相棒とな。これからこの辺りに住んでる仕事の依頼人のトコへ行くんだ。元々は相棒と一緒にここへ来る予定だったんだけど、相棒の方の都合で現地で合流することになってさ。待ち合わせの時間よりちょっと早めに着いたからブラブラして時間潰してた。けど、こうしてお前と会うんだったらもっと準備しとくんだったなぁ」

 と、ここで誘はふと何かを思い出したような表情を浮かべる。

「なあ、改めて聞くんだけど、お前の名前って何て言うんだっけ?」

「立夢だよ。有楽島立夢」

「有楽島……ね。お前、もしかして兄弟とかいる?」

「ううん、うちは一人っ子だけど。どうして?」

「ん。いや、いないならいいんだ。アタシの思い過ごしだ」

「ふーん。じゃあ誘さんのところは?」

「アタシか? アタシんトコは下に妹と弟が一人ずつ。どっちもアタシと違って真面目なお利口さんだよ。そういやしばらく会ってないけどどうしてっかなぁ」

「家族と離れて暮らしてるの?」

「離れてっつーか、アタシ、実家から勘当されてんだよね。家業のやり方に反発して家を飛び出したらそのまま絶縁状叩きつけられてさ。自力でやってくだけの力はあったし後悔はしてない、と言いたいトコだけど、妹たちにいろいろ押し付けちまったのは申し訳なかったな……」

「大変な経験してるんだね……」

「ああ……でも、おかげで面白いやつに出会ったり得難い経験もすることができた。あの家に篭ってたら絶対できなかったようなことがな。こうやってお前と話してるのも、アタシは値千金の体験だと思ってるんだぜ。ま、生きるか死ぬかの状況のお前にとっちゃ、迷惑な話かもしれないけどな」

「あはは。でもわたしも、誘さんに会えたのは良かったと思ってるよ。話してて楽しいし」

「さっきまでどんよりしてたくせによく言うぜ……と、どうやら相棒が着いたようだ」

 誘は取り出した携帯電話を確認すると、立夢に顔を向け直す。

「どうせなら一緒に来るか? 仕事の終わった後ならお前のその状態を何とかしてみるけど」

「あー、ありがたいけど、今回は無理かな……」

 立夢がそう答えたのは、学校のときのようにまたもや意識が希薄になり始めていたからだった。

「そうか……叶うなら、そのまま元の身体に戻ってほしいな」

「そうだね。まあ、もし駄目でもそのときはなんとかして誘さんに会いに行くよ」

「ああ、どんと来い」

 約束と笑顔を交わすと、立夢の視界は瞬く間にぼやけていった。最後に、誘が恐らく相棒と呼んでいた人物と並んだ姿が網膜に残っていたが、あれは――。

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