四章 第15話 星の伝説
週明け。月曜日の登校日、その昼休み。
余暇部部室のドアを開けた一は、さっそくうんざりする心境に陥った。
穏やかな昼下がりの陽気。ぽかぽかと温かく、風は柔らかく心地良い、春の季節である。そしてその恩恵に心より与ろうとでもいうように、部員達は揃って眠り込んでいた。
「うららかなー……うららかならば……うららかで……呼子心の俳句なのだー……」
ちゃぶ台に突っ伏し、スライムみたいにとろけてしまっているのは呼子である。その隣では縫い物をしていたのか、針と緑の糸を手に、新寺がこっくりと船をこいでいる。
「ぐむむーっ! ……ぐむー……むむっ……ふ」
ソファでは死んだように背もたれへ垂れ下がって居眠り中の部長。こちらに向いた線の細い背中がうなるようないびきとともに上下する。女を捨てていた。
「なんだこれは……」
堕落している。怠惰を満喫している。ベルフェゴールもびっくりな光景に一は絶句し、ややあって我に返り足音も荒く、部長の側まで歩いて行って。
「部長、起きて下さい。招集かけたくせに寝てるってどういう事ですか」
背中を揺すれば、寝言のようなうろんな声を発したかと思うと長い黒髪が持ち上がる。その呼び掛けをきっかけに、他二人の部員も目を覚まして来たようだ。
「ううん……寝ちゃってたみたい……あんまり日差しが心地良かったから」
「だらだらー……だるだるー……だるめしあんー……」
「みんな起きろ。ほら、校内新聞持って来たぞ」
ちゃぶ台の前へ戻り新聞紙を広げると、途端に覚醒したのか餌を池に投げ込まれた鯉の如く身を乗り出す呼子と新寺。
「おおう、こうして新聞を確認するのはもう日課なのだ」
「だねー……あ、明日には体育祭があるみたいだよ」
体育祭、と聞いて部長も目元をこすりながら起きようとするも、力尽き仰向けになった。
「体育祭ってあれでしょ? 全学年で紅白に分かれて運動競技で得点取るやつ」
「そうですね。生徒の体力テストも兼ねた学校行事みたいです」
一も適当な位置に座る。体育祭では全ての組が半々に分けられて優勝を競う。午前の部から午後の部までたっぷり使い、優秀な成績を収めれば学校側からの評価も良くなり受験や進学で優遇されるという側面もあるのだ。
その年で行う競技は毎回違うものの、個人競技からチーム全体の競技まで種類は幅広く、これといった対策は存在しない。せいぜい後半でスタミナ切れしないよう基礎体力を高めておくのが最後まで戦い抜く秘訣といえるだろう。
(だからといって全員が全員興味あるわけじゃないし、真面目に参加する必要もないけど)
ちなみに一はまったくその気がない。自分のチームが勝とうと負けようとちりとも関心はないし、よく言って体育の授業の延長のようなものと捉えている。同様に、運動部のように日頃の練習の成果を試すよりもただ騒ぎたい生徒が多数なのは間違いないだろう。
「あー……体育祭とかだるー……さぼりたい」
うちの部長以下だらけきった余暇部はすでにしてこのざまである。すると呼子が。
「ところで一や部長はどっちの組なのだ? 呼子は白なのだ」
「ああうん……俺も白」
「わ、私は赤みたいだけど……部長さんは?」
三者の視線が注がれると、部長は頭をソファの後ろへ反らし、肩だけすくめて、赤、と。
「そ、そうなんだ……じゃあ、私達の組が有利かな」
「というか、ほとんど白組に勝ち目はないのだ。部長が敵なのは絶望的なのだぞ」
一見呼子の言う通りに思えるが、果たしてそれはどうかと一は思索する。
言わずもがな、部長の身体能力は驚異的だ。およそこの学校、いや町のどこを見てもかなう人間は存在するまい。
では部長のついた組に優勝が確約されるのかというと、一概にも言い切れないのだ。
なぜならば部長の授業態度は基本的に非常に不真面目であり、成績はもちろん教師陣の受けも悪い――準備段階から忙しい学校行事ならばなにをかいわんやである。
このへんの傾向は明莉から情報を横流ししてもらったのだが、結論としてかなりの気分屋である部長をその気にさせるのは至難。翻ってその難題さえクリアしてしまえば相手チームなどまず恐るるに足らなくなるというところだ。
「部長、呼子達に協力するのだ。白組へ寝返るのだ」
「ええっ、佐倉ちゃん!?」
かと思った矢先に呼子が堂々と部長に裏切り工作を仕掛けていた。抜け目のない事に、鞄からは初日にもプレゼントしたキャンディ袋を差し出している。
「んー……気持ちは嬉しいんだけど、残念ながら量が足りないわね」
部長がソファの脇へ腕を伸ばしてまさぐり、下から抱えられるくらいのダンボール箱を持ち上げて膝の上へ置く。その中身を見た一達は目が点になった。
部長がごそごそと箱からつまみ上げたのは、ひとつかみほどの駄菓子類である。箱の中にはぎっしりとお菓子が詰め込まれており、軽く揺するだけでがさがさと音を立てていた。
「こんな感じで、赤組からは買収されないよういっぱいお菓子もらっちゃったんだよね」
「なんという事なのだ……山吹色のお菓子が不足していたのだ」
「誤解されるような言い方はやめろ」
「一応料金分は働くつもりだから。心変わりは期待しないでよ」
これならば部長のやる気も悪くなさそうだし、本格的に白の勝利はなさそうだと諦めた。今からこれ以上のお菓子を用意するにも時間が足りない。
「ま、それはそれとして……今週の土曜日には薬見川河川敷で花火大会が開かれるみたいだな。夕方頃には横丁から土手まで屋台も並ぶらしいぞ」
校外で起きるイベントの見出しを示す。校内での余暇部の今後についても掲載されてないわけではないが、そこは一が重点的に明莉の記事をチェックしたので、心配はない。
「花火大会かぁ……いいなあ、私も浴衣着て行こうかな」
「呼子も行くのだ。美味しい食べ物がいっぱいあるのは楽しみだぞ」
「けど、あの河川敷って例の事件があったところでしょ? なのに開いちゃうわけ?」
「一応、花火そのものはその河川敷で打ち上げるみたいですけど、屋台が出店するところは例年と違って逆側の通りにするみたいです」
へえ、と部長も少しは関心が持てたのか、腕組みをして天井を見上げる。
「どうしよっかな、せっかくだしあたしも行こうかな……でも一人なのはなぁ」
「香苗は呼子とペアで回ろうぞ。一も一緒に来るか?」
「えっ、私が佐倉ちゃんと行くのもう確定してるの……!?」
「俺も迷うな……別に花火とかどうでもいいし」
「部屋でネットしながらごろごろするのは不健全なのだ。返事は後でもよいぞ」
呼子の誘いに乗るのもそれはそれでありかも知れない。新寺もいて三人ならば退屈する事はないだろうし、と部長を見やれば、どうもまだ悩んでいるらしい。
「えっと部長、話は変わりますけどこの河川敷の事件について、進展がありました」
「あ、そういえば先週そんな事言ってたっけ。どうだったの?」
三人の注目が集まり、一は先週土曜日での冒険について要点を纏めつつ話した。
「……そんなわけで犯人の正体までは突き止められませんでしたが、あの祈願山が何らかのファクターになっているのは確かみたいです。さすがにこれ以上はやばい気がしたので、当面は調査を保留にしてますけど」
一だけならまだしも、明莉まで巻き込んでしまうわけにはいかなかった。二人で協議した結果、ここから進むなら部長の助勢が不可欠という帰結に至ったのである。
「祈願山にそんな秘密があったとは驚きなのだ……一は命拾いしたのだ」
「ほんとだよ、こうして聞いてるだけでも身体が冷たくなってくるし」
「悪いな、なんか心配させて」
一も後になって自省したものだ。部長なしで危険な犯人のいるかも知れない場所に舞い戻るなど、自殺行為もいいところ。
でも、あの時に見た影は恐怖心による鳥か何かの見間違いかも知れなかったし、明莉がカメラを落としたのは下山間近な道である。暗かろうと多少余裕はあったのである。
夢の事は明かしていない。地獄穴らしき岩山の存在も。あの二つはそもそも信憑性が薄く、確たる根拠もなしにはみんなを混乱させるだけだと思ったのだ。それに一の中の理性は、あれらは関係ないと執拗なまでに訴えてくる。勘よりもそちらの声に従いたかった。
「でも、世津町はそのへん、すごくおどろおどろしい怪談があるよね」
新寺の呟きに、怪談、と一は首を傾げる。
「うん。昔々、まだ世津町って名前じゃない、村が複数に分かれて集落として暮らしていた時代……どこからともなくたくさんの恐ろしい妖怪変化が、人々を襲っていたんだって」
「呼子も聞いた事があるのだ。昔話というより、伝承みたいな感じなのだ」
言われてみれば、一が小さい頃に聞いたのは祈願山うんぬんのおとぎ話と、それに絡めて語られる魑魅魍魎達の存在である。
地獄穴から妖怪が来る、人を食らいにやってくる……細かな点は忘れているものの、きかん坊を露骨に怖がらせようとするかのような文節だけは覚えていた。
「だけど、そんな連中がいるなら村なんてひとたまりもなかったんじゃないか?」
「お父さんから聞かされたんだけど……『星の伝説』っていうのがあって」
星の伝説。初めて聞く単語に一は思わず食い入るように新寺を見つめた。
「えっとね……いよいよ人々が追い詰められて、誰でもいいから助けてって救済を願った時……本当に救い主は来たんだって。――空から」
「空……?」
うん、と新寺は懸命に思い起こすように顎へ指先を当てている。
「空から大きな岩が落ちて来て……それが地獄穴へ降り注いで、妖怪達は全滅。人々は救われて、ちゃんと繁栄できるようになった……だったような」
「おいおい……とんでもなくストロングな伝説だな。願ったら岩が落ちたって……」
「偶然にも運良く隕石が落ちて来て衝突したとは、嘘のような奇跡のような話なのだ」
それで良く村まで消滅しなかったものだ。あの祈願山の地獄穴だけをピンポイントで狙い、妖怪を消滅させてのけたなんて、できすぎにもほどがある。それこそ神話のようだ。
「なんというか……星にまつわる伝承というから、もっと神秘的なロマンチックさがあるかと思いきや……童話めいた突拍子のなさと投げっぱなしのゴリ押しダイナミック感が」
「わ、私も記憶が曖昧だから細部は違うと思うけど、でも確かにそんな風だよね」
願いは願いでも敵を滅ぼす願いがかなうとは穏やかではない。三人であれやこれや感想を語っていると、今までずっと黙り込んでいた部長が箱を置いて、すくっと立ち上がった。
「……ごめん、あたしはちょっと用事ができたから」
「え、部長、どっか行くんですか?」
「うん。今日はもう解散していいから。――それと、絶対祈願山には行かないように」
それだけ告げた部長はドアへと向かう。その表情が少し硬くなっていたように見えたが、あまりの突然な行動に一はあっけにとられ、立ち去るのを見送っているしかなかった。
「ぶ、部長さんいきなり、どうしちゃったんだろう?」
「……俺、ちょっと様子見て来る」
一は迷ったあげく、腰を上げる。あの部長の態度はただごとではない気がした。まだあんなにダンボールのお菓子も残っている上に、こんな形で途中退室した事なんてこれまでにない。いつもは一番最後までいて、一も遅くまで付き合わされているものなのに。
二人に断ってから部室を出て、別館から出る。部長の姿を探すものの周囲にはなく、仕方なく教室へ戻るしかなかった。隣席の呼子にも見失った事を話しておく。
次に部長を見かけたのは放課後も遅い時間。結局部室に戻って来なかったので他の二人にもそのまま解散を通達し、校門を出てしばらく歩いた時の事だ。
路地裏の影に紛れるようにして、見知ったジャージ姿の部長がいた。こちらに背を向け、誰かと言葉を交わしている。一の場所からは距離があり、下手に気配や物音を立てなければ恐らく見つからないだろう。
「あれは……誰だ?」
部長と対峙するように立っているのは、二十代くらいの白衣の女性だった。スレンダーな体つきで黒い髪は量が多く、天然なのかパーマがかかりふんわりした雲のようである。
倦厭するような物憂げな雰囲気を身に纏うものの、今はわずかに柳眉を吊り上げ、切れ長の双眸から放たれる鋭い視線を突き刺していた。
二人の会話は聞こえないが、どうも安穏とした世間話には思えない。妙に緊張した空気が漂い、もっぱら部長の方が食ってかかるようにして言葉をぶつけているようである。女性の方はそれをいなす感じで応対しているものの、これまたおよそ友好的には見えない。
「……とにかく! これ以上干渉するのはやめてよね。迷惑だからさ」
声量が高くなったおかげか、とりあえずそれだけ部長の言葉が聞き取れ、そのまま女性の横をすり抜けるようにして路地の奥へと消えていく。追いかけようと思ったが、一は続く女性の動きに射すくめられたように凍り付いてしまった。
やにわに一瞥するように、一の方を見たのである。それもごく瞬刻の事ですぐにきびすを返し路地を折れていくが、去り際の視線は刺すように鋭利で、まるで警告するかのようだった。
同じ威圧を含んだ部長や不良のものとはまったく異質な闇のような色に、一は呼気が止まったように動けない。
気づかれていた。少なくともあの女性には。息を潜め、身を乗り出す事もしなかったのに。一体何者なんだ。部長との関係は。親しい友人や姉のようにも見えない。
結局帰路につけたのはそれから数分経ってからで、その間も一の脳裏には疑問が渦巻き、けれども部長に面と向かって問いただすような真似はできないでいた。
見てはいけないプライベートを覗いてしまったような、そんな罪悪感があったから。
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