第14話 真実を映すレンズ

 新聞部の部室は当然ながら明莉以外誰も部員はおらず、こっそり鍵を失敬して開いて電気をつけても、取り立てて出迎える声もパソコンのキーを叩く音も響く事はなかった。

 明莉はカーテンで仕切られた仮眠用のスペースにあるタンスからタオルとジャージを取りだし、身体を念入りに拭いてから着替えた。

 それからいつも作業を行うノートパソコンの前のパイプ椅子へ座る。

 机の上には主に最新の新聞を切り抜いたスクラップブックや雑多に積まれた雑誌、メモ帳、漫画、カメラについての専門書などが埃とともに積み重ねられ、有り体に言って不潔だった。

 壁にも校内で撮影した風景画、人物画が内容順序を問わずぺたぺた貼り付けられ、どこを見ても明莉の活動した何らかの記録が目に入るような有様である。他の部員から片付けるよう何度言われても手をつける気になれず、今の今まで先延ばしにして来た惨状だった。

 他の部員のデスクはもっと綺麗だったりするのだが、明莉はこの状態が気に入っている。

 自分が手の空く暇もない記者みたいに思えて、気分が乗るのだ。その気分はことのほか大事で、テンションが上下している度合いによって記事の完成度が決まると言ってよい。

「さーてと。記事書かなきゃ……色々あったし」

 今日は本当に大変だった。というより昨日からもう最後に寝たのがいつなのか分からないくらいで、それほどに自分がこの事件に熱中しているのだと充足感もあったのだが、そろそろ脳がきしみを上げてやばい。気を抜くと倒れそうだ。

 でも、その前にやるべき事をやろう。パソコンを立ち上げ、フォルダから記事作成用のソフトをいくつも起動する。わずか十数秒であら不思議、明莉専用の仕事用画面ができあがりだ。さあ、何から取りかかろう。どれでもいい。明莉に苦手な分野はない。

 なのに。……なのに。

「……手が動かないや」

 明莉の腕はいつまで経ってもデスクの上まで持ち上がらず、ぼんやりと瞳は画面に注がれたまま。埃がうっすら付着しているのが目に留まり、そういえばまた掃除しとかなきゃな、と思って。

「……カメラ」

 呟いた瞬間、ぽたりと水滴が膝の上に落ちた。見下ろすと、またぽたり。明莉の目尻からこぼれたしょっぱい水が、眼鏡に跡をつけて伝っていく。

「あれ……私。私……」

 座り込んだまま、何もできない。気力が湧いて来ない。静かな部室にただ一人、明莉はいつまでも残っていて。

 ――その静寂が破られたのは、前触れもなく部室のドアががらっと開かれた時だ。

「え……あ、あれ……っ? 曲輪、さん……?」

 ドアに寄りかかるようにしてそこに立っていたのは、頭から先までずぶ濡れの一だった。

 ぜえぜえと息を吐きながら、明莉が唖然としている間に足を突き出すように前へ出て。

「……これ」

「え……? ――あ……ああ……!」

 おもむろに手から突き出されたそれを認め、明莉は凍り付いた。黒いカバー。その中に包まれた筐体。覗いているレンズ。紛れもない。それは。

「私の……カメラ……?」

「取ってきた。大変だった」

 端的に苦労話をする一から、明莉はカメラを受け取る。手は震えていて取り落としそうだったけれど、その固く冷たい、だけれども確かな感触をしっかりと胸に抱きしめる。

「ああ……良かった……! 戻って来てくれた……!」

「で、壊れてないかな? 俺そういうのよく分からなくて」

 そう言われ、落ち着きを取り戻して来た明莉はわたわたとカメラの具合を確かめる。

「レンズは割れてないし……シャッターも切れるみたいっす、大丈夫っす!」

「そっか……良かった。だけど念のためにカメラ屋で見てもらった方がいいと思うぞ」

「そうっすね……って曲輪さん!?」

 ばたりと倒れ込んだ一に明莉が駆け寄ると、ぐったりと床の上に伸び、寝息を立てているようだった。眠っている、というより気を失った、という表現が正しいだろうか。

「こんなになってまで、私なんかのためにカメラを……曲輪さん」

 しゃがみ込んだ明莉がそっと一の濡れた前髪をかき上げると、心なしか安心したような寝顔が、視界へと飛び込んで来たのだった。



 大雨の降りしきる断続的な音が、一の意識を呼び覚ます呼び水となった。うっすら開いた眼球を焼くかのように白い電気が突き刺さり、多少のうざったさを感じながら思考らしい思考が浮かび上がってくる。

 はて、いつの間に眠ってしまったのか。最後の記憶はどうも曖昧で、ちゃんとベッドに入って休んだ気がしない。

 むしろ、と一は寝具と一体化したかのように鈍重な身体に戦慄し、何事かとバネ仕掛けのように身体を起こした。

「ひゃっ!」

 と、横合いの耳元で驚いたような声が上がり、つられて胃のあたりがでんぐり返った一も身構えるように振り返る。

「もー……いきなりすぎっすよ曲輪さん。もうちょっと余韻みたいなのに浸ってからでも」

「……はあ?」

 ぽけっとした反応が出るくらいには、その女子生徒に心当たりがなかった。短い髪が上や左右に跳ねた、ジャージ姿の少女である。ベッド脇にあるパイプ椅子に腰掛け、何やら親近感をたたえた目つきで一を見つめているのだが。

「……誰……?」

「え、えぇっ!? いくらなんでもそのリアクションはないっすよぉ、曲輪さーん! 私です、私っ! あなたの相棒、鷹の目を持つジャーナリストと評判の櫓明莉っすよっ!」

「誰が相棒だ……」

 この騒がしさと芝居がかった言い回しにはなるほど、げんなりするような既視感がある。しかし、鷹の目と聞いて違和感が明確な形を取った。今の明莉は、以前と違う点がある。

「眼鏡……かけてないよな?」

「ていうか遅っ! その反応も遅すぎっす! あんなに大きなぐるぐる眼鏡を外してるんですから、普通まずそこにツッコんで下さいっす! まさか本当に忘れられちゃったか曲輪さんが記憶喪失にでもなっちゃったのかと微妙に一瞬血の気が引いたんすからっ」

 明莉のたわ言はともかく、言われてまじまじと観察してしまう。

 顔の半分を隠していたと言っていい眼鏡の外れた明莉の目鼻立ちは見違えるほどに整っており、二重まぶたと大きめの瞳には邪気のない愛くるしさも感じられる。それこそ口を閉ざしていれば美少女でも通じる容貌であろう。

「へえ……全然印象が違うな。今でもまだぴんと来ないぞ」

「そ、そうっすかね……そう言われると自信なくしちゃうかな」

「いや、悪い意味じゃなくて、眼鏡ない方がまあ、見た目が良くなるって事で」

 そう言うと明莉はさっきの勢いをみるみるなくし、あははとごまかすように笑いながら若干横を向いてしまう。その頬はさっきよりも赤くなっていた。

「あ、あんまり眼鏡とか外さないんで、そんな風に褒められると困っちゃいますね」

「それよりここって新聞部の部室だっけ? 俺の服……あっちの籠の上にあるな。つまり」

 そこで一は自分もジャージに着替えている事に気がついた。恐らくこの部室で眠ってしまったのだろうが、自分の手で服を着替えた覚えはない。

「恐縮っすけど、私がお着替えをさせていただいたっす。私のせいで風邪とか引かれちゃうなんて記者失格ですし。……パンツだけはその……にひひっ」

「……お心配りどうも」

 言われてみれば、股間のあたりが冷たいというかぬくい。とはいえ、全身びしょ濡れであるよりはこれくらい許容範囲内である。一は鷹揚に受け入れた。

 そこでお互いに押し黙り、壁にかかった時計の音だけがかち、かち、と時を刻み続けている。見れば、もう午後十時前だった。

「……あの。ありがとうございます、カメラを拾って来てくれて」

 おずおずと、明莉が手元でカバーを外した一眼レフを弄びながら言った。それは照れを含んだ精一杯の礼だったらしく、さらに頬が朱に染まっているのが窺える。

「――け、けどっすよっ。曲輪さん無茶ですよ……一人で祈願山に舞い戻るなんて」

「自分でも無謀だと我に返ったよ……山道の端っこでカメラを見つけた直後に」

「でも……掛け値無しに無事で良かったっす。曲輪さん実は、結構熱血だったりしますか」

「そんな自覚はないけどな……」

 肩をすくめ、一はベッドの縁へ腰かける体勢になり、明莉を見た。

「あのさ、櫓。聞くのも憚られるんだけどそのカメラ……お兄さんの形見とか?」

「あー……違うっすよ? 別に兄も、生きてますし……だけど」

 明莉は無理に笑おうとして糸の切れたように一瞬無表情になると、カメラへ目を落とす。

「……家庭の事情で私と、年の離れた兄は別々に暮らしていました。物心ついた時に会えた記憶は一回だけです」

「あ……っと、櫓、話したくないなら俺は……」

「いいんすよ、隠すような事でもないですし。……それから十年くらいして、やっと自由に会えるようになって……ちょくちょく顔を合わせて遊んだり、仕事の話を聞いたりしました。このカメラをもらったのもその時です」

 遠い昔を思い起こすように、明莉は優しげな眼差しでカメラのレンズを覗き込んでいる。

「兄は海外の環境保護団体に協力して、環境を守るためにそれは素晴らしい風景画を撮影して広告を作ったり――ある時は戦場に何ヶ月も身を潜めて、人物画を写して戦争の悲惨さを知らせる仕事をしたり、あちこちフリーに渡り歩きながらも平和のために働いていました。兄の活躍はニュースやネットにも知られていて、誇らしい気持ちでいっぱいだったんです。私も兄のようになりたいって憧れていました」

 でも、と明莉はうつむき、額から目元にかけて暗い陰影が縁取られる。

「兄は日本に帰って来ました。ある大物政治家の汚職の証拠を掴んで、その罪を日の当たる場所で裁いてもらおうとしたんです。重要な手がかりを握る兄と政治家の間では何度も取引や交渉があったのでしょう。けれどその政治家は償うために改心するでも、罪悪感から身を引くでもなく――逆に兄を陰謀にかけて、ありもしない罪を着せて牢獄に送り込んだんです」

「マジかよ……」

 ドラマか映画のような展開に実感が湧かず、けれども眉根の寄せられた双眸やきつく引き締められた唇から、明莉の苦渋を感じ取った一はろくな相づちを打てずにいた。

「私も含めて、多くの人が兄の潔白を訴えたけれど――それよりももっと多くの人間が何も知らないくせに兄を罪人扱いして、何一つ調べもしないでその政治家の味方をしました」

 明莉はカメラの上で指を組み、その関節部が白くなる。

「私は何日も何ヶ月も、何年も戦ったけれど……兄は日に日に衰弱して、今は病室で面会謝絶の状態なんです。私は知りました。真実には良い真実も、悪い真実もあるって。良い真実を消し去ってしまおうと悪い真実は隠れて……手ぐすね引いて待っているんです」

 だから、と明莉は何かの強迫観念に圧されるように、強い口調を舌に乗せる。

「その悪い真実を打ち砕くためには、何者にも邪魔できない最強の真実をぶつけるしかないんです……! ――そのためならあらゆる虚飾を使う事を辞しません。真実に向かう意志は、何よりも強い事を証明するんです……兄の名誉と誇りのために」

「櫓はその……お兄さんの信念を継いで、濡れ衣と無念を晴らす気でいるんだな」

 はい、と明莉が頷き、そこで会話は途切れて息苦しい沈黙が落ちた。空気は重く、お互いの息づかいだけが無為に繰り返されて。

「……それはそれとして、お前やっぱり眼鏡外した方がいいよ」

「え――えぇっ?」

 急激な話題転換についていけないのか、明莉はあたふたと背筋を伸ばし、赤面した。

「ああいや、せっかくカメラを使うんなら、その眼鏡は外した方がいいかなと」

「あ、あ、そういう事っすか! ええと、大丈夫っす! この眼鏡、度は入ってないんで」

 それでも撮影時には邪魔だろうに、なぜ平時からかけているのか疑問に思う。

「あの……なんか変な事話しちゃいましたっすね。身の上話なんかしてすみません」

「いや……そういう夢を持つのはいいと思う」

「夢っていうより――願い、っすかね。あの祈願山で願えば、かなったのかな」

「分からない。けど何かに願うなんてあやふやなやり方よりも、その目で見極めた真実で立ち向かった方がらしいと思うし、お兄さんも喜ぶと思うんだよな」

「……そうっすね。ありがとうございます」

 思い詰めていた風だった明莉はそこでやっと息を吐き出し、にこっと笑みを作る。

「あのー……曲輪さんがいいと言うなら、これからは二人っきりの時とかに私、眼鏡外しちゃうっす」

「え、まあ好きにしたらいいと思うけど」

「好きにするっす! ちょっとしたイメージチェンジみたいなものなんでお気になさらず」

 なぜ二人の時限定なのかは不明だが、うっすらと予想はつく。

 明莉の眼鏡は、自分の真実を他者に悟られないための仮面なのだ。仮面をつけ、その目の奥で真贋を見分する。それがこれまでの明莉の、世界に対するスタンスだったのだろう。

 でも、一にはその仮面を外すと言っている。これはきっと、相応の真実を共有するに値する相手に認められたから――ではないのか。

 だったら光栄だと、明莉の笑顔を見ながら一は思った。

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