第13話 祈願山

 舗装されていない土の上を、一歩一歩踏みしめる。緩やかな勾配になった道を進みながら、一は膝から下に着々と乳酸が溜まっていくのを感じていた。

 あたりは薄暗く、茂みや木々が生い茂って独特の湿り気と匂いを発している。

 風の音も木の葉に遮られてかすれ、どことなく不気味な雰囲気だ。草陰や木陰、そしてはるか先からは虫の鳴き声や獣のようなうなり声が聞こえてくる気がする。

「曲輪さん、何か見つけたっすか?」

 あまりに一が左右へ視線を走らせているせいか、多少斜め前を進む明莉が肩越しに目線を寄越して来た。一はごまかすように手を振って。

「いや……暗いから良く目を凝らさないと分からないなって」

「そうっすねぇ……さっきまではもっと明るかったんすけど」

 何もこの明度の低さはよく生長した木が空を覆い隠しているからだけではない。この祈願山の入り口に到達したあたりで急激に雲がかかって太陽が隠れ、今しも降り出しそうな曇天へと様相を変えていたのである。空気も冷え込み、ぶるりと鳥肌が立ちそうになり。

「あ……降ってきた」

 本当に水滴が垂れ落ちてくる。指先や首筋に冷たいものが降りかかり、しとしとと地面がまだらな黒へと染まっていく。それほどの勢いはない小降りだが、身体が濡れるのは避けられないだろう。一度家に戻って鞄を置いて来て良かった、と一は思う。

「うーん……降り出しちゃいましたっすね。天気予報だと雨になるのは深夜のはずなのに」

「こういう時だけあてにならないんだよな。……どうする、引き返すか?」

 明莉は手で顎を支えるように触れて、思案する素振りを見せる。

「……いえ、もう少し探索しましょう。せっかくここまで来たんすから」

「そうだな……夜までにはまだ余裕あるし」

 祈願山へ入ったのは午後四時頃。そこから二時間だけ探検して、残り二時間で帰る予定になっている。つまり午後八時には町へ帰り着いていないといけないのだが、この調子で雨に降られると、より足を急がせた方がいいのかも知れない。

「今回は偵察みたいなもんすよ、これで駄目ならまた明日に来ればいいんすから!」

 確かに明日は日曜で休みだ。日を改めるならもってこいである。今日にこだわる必要性も薄いので、さほど気負う事もないだろう。そう思って一は、自分で自覚しているよりも明莉との調査に一抹の楽しみを見いだしている事に気がついた。

 とはいえ、違和感もある。さっきから一達が辿っている道筋。祈願山は前提として人の出入りがないはずなのだが、このあたりはごく平らに整備され、ちらほら雑草や小石が邪魔なものの急勾配の獣道や道なき道というわけでもない。

 やろうと思えば車でも通れそうな道幅なのだ。これらは何を意味しているのか。

 雨天決行という悪条件ではあるが、できるだけヒントを得たい――そんな気持ちで前進し続けるものの、ほどなくして一達は見通しの甘さを思い知る事になった。

 どしゃぶり。まさにそんな表現が的確になる雨の勢いが山を打ち付けるようになったのは、それから数分後の事である。瞬く間に足下はぬかるみ、視界は悪化。水を充分に吸い込んだシャツは鉛のように重く、一達はやむなく手近の大木の陰へ逃げ込む他なかった。

 雨宿りと呼ぶにはいささか頼りなさすぎる枝葉の下、そこまで全力ダッシュをかけた一と明莉はようよう息を整え、揃って灰色の空を苦い顔で見上げる。

「これはひどい本降りっすねぇ……メモ帳どころかもう身体中芯までびしょびしょっすよ」

「そのカメラもかなり濡れてるけど、壊れたりしないのか?」

 一が明莉の首から下がったカメラを指差すと、何やら黒いカバーのようなものの中に入っている。先端からはレンズが出ているものの、他は全体がカバーに覆われている状態だ。

「あ、はい。このようにレインカバーに収めておいたので、長時間でなければ大丈夫だと思うっす。こんな雨の日だからこそ撮れる画もあるので……にっひひ!」

「へえ……本格的だな。だからこそあんなたくさんの写真が入った記事が書けるのか……」

 と、感心している場合ではない。このままでは二人とも水浸しで、最悪風邪でも引きかねないだろう。速やかに今後の動向を決めなければならない。

「どうする、この有様じゃとても――ん?」

 その矢先だった。闇の忍び入る木立の先。その奥に、光るものが見えたのだ。錯覚かと思いまぶたの上から目を手で拭ってもう一度見つめると蛍火のような、淡い青と輝く明緑色のないまぜになった燐光がふわふわと浮いているのが視認できる。

「なんだ……あれは」

「どうかしたっすか、曲輪さん?」

「いや……あっちに何か、光ってるものが……」

 え、と明莉も隣に並んで目をすがめているようだが、すぐに首を傾げて。

「……何も見えませんね? これだけ暗い中で光があるなら、良く見えると思うんすけど」

 ……見えない? そんな馬鹿な。陽炎のように虚ろで、人魂みたいに危うげな揺れ方をしているものの、そこにあるのだ。けれどもライトのオンオフを切り替えるように明滅し、今しも消えてしまいそうにも感じる。

「でも、ほんとだって……ほら、こっちに」

 一は明莉にその存在を示すべく、木陰から進み出て光の方へと歩いて行く。間を置かずに凄まじい豪雨が頭や肩を叩きつけるが、目の前の現象に比べれば些事である。

「あ、ちょっと曲輪さん、足下に気をつけて……!」

 明梨の声が後ろへ遠ざかる。足音はあるのでついて来てくれているのだろうが、一は近づけば近づくほど、なぜか離れていくような光に気がじれて、つい大股に一歩を踏み出し。

「え……あ、うわっ!」

「曲輪さん!?」

 突如として踵が空を掻いた。何も踏み抜く事ができず前のめりに体勢が崩れ、同時に視野までもがぐるりと土くれの暗褐色一つにまみれ――顔からまともに地面へ打ち付け、受け身も取れずにごろごろと転げ落ちていく。

 坂だ。今までにない急な、それこそ崖のように切り立った坂。それだけを何とか理解しながら、身体は止まる事なく回転を続けて。

 下方にあった切り株か岩かに横腹をぶつけた衝撃で思考が吹っ飛び、意識が暗転した。



 暗かった。雨の降りしきるあの曇り空よりも、なお。あたり一面真っ黒で、真っ暗。

 それもそのはず、ここには天井がある。ごつごつとして分厚く重く、厳つい岩石。

 それだけではない。周囲からは木立が消え失せ、足下にも土はない。代わりにあるのは――岩。尖って、固くて、冷たい岩の塊。岩に覆われ、儚い薄明かりのみが照らし出す、そんな空間――洞窟に一は立っていた。

 否。立っているというより、ただ存在しているだけだ。ここには肉体がない。意識だけが風船のように揺らめいて浮遊して、視線を動かせば視界も動く、そんな感じ。

 これは、夢なのか。どうしてこんな奇怪な夢を。暗い。光源はないのか、と見れば、奥の方により輪をかけて巨大な岩の扉があった。

 扉。そう、扉だ。両側から閉じられているようなのに、その隙間からはかすかな灯火のような光が漏れている。そこに何かある。分からないけれど、何かが。

 そうして、気づいた。違う。ややもすれば最初から視界に入っていたのに、この無骨で冷酷で寒々しい光景にはあまりに似つかわしくないものだから、自然と意識から締め出していたのだろう。だけれどある程度時間が経過して、嫌でも『それ』に目が向いてしまう。

 この岩だけで構成された空洞。その中心部に、誰かが立っていた。歳の頃は一よりも一回り下だろうか。小さくて、吹けば飛ぶような細い体躯。転ぶだけで折れてしまいそうな四肢。顔はうつむき加減で、その上から長く黒い髪が表情を暗幕のように押し隠している。

 違う。黒いだけじゃない。前髪からは二筋に別れた雪色の一房が混じり、指一つ分ほどの間隔を内側に開けた髪部分も絹のように白く、そして額の上あたりには奇妙な紋様が浮き出るようにして描かれていた。

 岩のような、星のような何とも言い表しにくいその模様。少なくとも一の見て来た図形や絵の、どれとも異なっている。

 黒と白の入り交じった髪。それのみならず、衣装までもが異様だった。頭から全身に至るまで、白い布きれのようなものを着ている。服とも言えないような、本当にただの布なのだ。包帯とでも言い換えて差し支えないくらいに、身体のあちこちからは肌色が窺え、ろくな暖房効果も身を守る厚みも持っていないだろう事はもはや瞭然で。

 頭から包帯を振りかけて端だけを縛って巻き付けたような白装束には、墨か何かと思われる字がびっしりと書き込まれている。とても古い時代の字のようで、一には解読できない。けれどもなぜかその字の大群が、ひどく不吉なもののように感じられた。

 その時――少女は顔を上げた。相変わらず目元は見えないが、それが少女であると一はどうしてか確信を抱いていた。どこか――遠くて近いところで、彼女を見た覚えがあるような気がしたのである。

 直後、巨大な岩扉の隙間から、にじみ出るように黒い煙のような、あるいは霧のような物質があふれて来た。それはじわりじわりと少女の眼前までを沼のように侵食し、やがて晴れていく。

 そうしてそこに現れた物体に、一は呼吸が止まった。あれはなんだ。なんなんだ。

 少女よりも数倍はあるだろう、巌のように佇立する薄青い色合いの巨躯。鉄板のように長く太い二本の腕と、二の腕のあたりからそれぞれ巨大な目玉がぎょろついている。

 軽く動かすだけで岩を削り取る、膝から先が折れ曲がった二つの足。膨張した球体のような身体の表面はごつく、中央には弓なりに湾曲し牙の生えそろった口腔が開いている。

 化け物。化け物化け物。他に一切形容詞が思いつかない。一が状況を整理する暇もなく、その化け物は両腕に埋まった目玉で少女を見下ろし――足を引きずるようにして飛びかかって行ったのだ。

 瞬間、一は死ぬ気で目と耳を閉じようとした。だってそうだろう。次の一幕にはあの巨体にぐちゃりと押し潰される少女の潰音と、岩の間から染み出る血糊を見る羽目になるのだから。

 だから当然の対応なのに――聴覚はもちろん、視覚をシャットダウンする事すらかなわない。一は一寸後に訪れる惨劇を、息を止めて待つしかなかった。

 上空から降りかかる化け物。狙いあやまたず、そいつは少女の真上から轟音を立てて倒れかかる。舞い上がる土や砂や音が凄すぎて、少女がどうなったのか確認する術はないが、その末路は言うまでもない事だろう。

 だが次に訪れた刹那に、一は愕然とした。いる。うつぶせになった化け物の背中に当たるだろう部分。そこにいつの間にか――ワープでもしたかのように、あの少女が立ち尽くしていたのだ。身体には傷どころか汚れ一つなく、何事もない風に佇んでいる。

 化け物も遅れてその事に気づいたのだろう、すぐさま身を起こして少女を振り落とそうとしながら、両腕を振り回して叩き落とそうとする。

 いや、それは叩き落とす、などという生やさしい代物ではない。間違いなく人間ならば、かすめただけでその巨腕の赤い染みに成りはてる威力を備えているのだ。

 だというのに少女はくるりと後転しながら両腕の間をすり抜け、またしても寸時の移動、そして着地を成し遂げてのけていた。両腕が巻き起こす強風に装束が舞い上がる。

 獲物を仕留めきれず、振り返る化け物。けれども次に動いたのは、少女の側。その華奢な足が踏み出し――瞬きするような速さで、化け物の懐へと飛び込んでいる。

 腕がぶれた――ように見えた。箸よりも重いものを握った事すらなさそうなか細い手が握り込まれ、貫手を形作る。それが何の躊躇もなく、ともすれば岩よりも硬いはずであろう化け物の腹部へと打ち込まれていた。

 化け物の口から不快感を催す音波のような咆哮が発せられた。いや、それはもしかすると悲鳴だったのかも知れない。少女の手が腹部を穿つようにした瞬間化け物の体躯はずしりと後方へ下がり、くの字へ折れ曲がったのである。

 少女の『攻撃』は、それで終わらなかった。続けざまに貫手から掌底へと変じた腕が跳ね上がり、化け物の胴体をこれでもかと打ち抜く。その衝撃は肉眼で目視できる波となって化け物の身体を貫通し、透明な軌跡は闇の中へ吸い込まれていく。

 ゆうに重機ほどの質量と体重を備えているであろう化け物の巨体が浮いた。それとともに少女もまた垂直に跳躍して追いかけ、そのまま真横に半身をひねりながら水平に足を回転させ、遠心力を纏いスピードを加速させる。

 鮮やかな弧を描いた足刀が化け物の上あごあたりへと直撃し、上空から下方へと叩き落としていた。めしゃりと肉を圧壊させる音をかき鳴らして猛烈な風が吹き抜け、化け物の身体は岩石へめり込むようにクレーターを作る。

 少女は悠々と中空で宙返りし、その上へと降り立つ。が、半瞬後には両側から化け物の腕が押し潰そうと迫り――直前、少女が側方へ一本ずつ、迎撃するように腕を突き出す。 かざされた二つの小さな拳は化け物の目玉を二つとも打ち抜き、反対側の体皮もろとも爆ぜさせた。

 ずん、と両腕が地響きを立てて落下し、化け物は力尽きたように動作を止める。するとその肉体がぶれるかのように黒いノイズのようなものが取り巻いたかと思うと、出現時に目撃したあの黒い闇のような何かへと崩れていき、元のように岩扉の前へ戻って行く。

 終わったのか、と一は張り詰めていた呼吸を、もう平気だからと言い聞かせながらゆっくり吐き出していく。肉体はないのに、この間中心臓が止まっていたような感覚だった。

 少女は地面に立ち、微動だにしない。何がどういうわけで、この悪夢のような光景が発生しているのかは不明だが、ともあれ目を覆いたくなるような悲惨な結末にはならずに済んだのだ――そう安堵した心持ちをあざ笑うかのように、すでに変化は起きていた。

 岩扉の前で、いまだに黒い闇はとどまり続け――再び晴れていくと、そこにはなんと、さっきの化け物とは違う、別の異形がそびえていたのである。それも、一つではない。

 二つ、三つ――ああ、もっとだ。少女を包囲するかのように両手の指ほどの化け物が現れ、にじり寄りながら距離を詰めていくのだ。

 逃げろ、と一は叫びたかった。逃げてくれ。夢でもどうでもいい、この恐ろしい場所から、すぐにでも。

 でも、少女は居竦まなかった。表情こそは見えないものの拳を握りしめ、洞窟中に反響するような雄叫びを上げて、化け物達へと突進していく。その数秒後にふと、再生していたビデオの映像が停止するかのように見えているものが暗く不鮮明になって――。



「……曲輪さん!」

 明莉の叫び声で、一は目を覚ました。それとともに背筋へ染み入る生々しい悪寒にぶるりと身が震える。寒い。冷たい。足が重い。濡れた服が気持ち悪い。

 あらゆる不快感を手でこね回してごちゃまぜになったような感覚のおかげで逆に一気に意識が浮上し、一は身を起こした。ここはどこだ。どうなってる。振り向くと、あの馬鹿みたいに急になっている坂を横から回り込むようにして、明莉が駆け寄って来ていた。

「大丈夫ですか、曲輪さん! 怪我は……?」

「い、いや……あちこちすりむいたくらいで、大した事は」

 脊髄反射だけで返しながら、記憶が蘇ってくる。そうだ。自分は落ちたのだ、道の上から。あの光を追いかけて。それで――気絶していた? どれくらい。

 明莉がすぐに駆けつけてくるところを見るに多分、ほんの十数秒くらいだろう。それであの奇妙な夢を見ていたのか。こうして頭がしっかりした今でも、まぶたの裏に浮かぶほど鮮明に覚えている。暗く、広いのに閉塞感のある空洞。白装束の少女。現れた化け物。

「夢……なんだよな」

 呟きに答えは返って来ない。自分でもよく分からなかった。意識だけが飛んでいたみたいで、なのにいやに現実感が残っている。風とか音とか、――血の臭いとか。

「曲輪さん、どうしたっすか、やっぱりどこか怪我を……」

 一を心配するように、明莉が声を掛けて来る。頭痛とともに吐き気がこみ上げそうになりつつも軽く手を振って問題ないと伝え、それから光のあった方向へ視線を投げて。

 ――見つけた。ほとんど直感的に、一はそれが地獄穴であると悟った。

 地面から盛り上がった洞窟のような岩山。目前にあるのはあの夢でも見かけたのと同じような、巨大な岩戸。それはわずかな間隙のみを残して閉ざされ、近づく者に物言わぬ圧迫感を与えており、事実一は息を呑んだまま動く事ができなくなっていた。

「これ……岩でできた扉、みたいに見えるっすね。重そうで、開きそうにないっすけど」

 立ちすくむ一とは別に、明莉は物怖じもせずにその正面へ立ち、ぺたぺたと岩の表面を撫でたり押したりしている。試しに開かないか力を込めるも、手応えはなさそうで。

「……駄目っす。それに隙間の向こう、ただの土みたいで……見間違えかなんかっすね」

「ただの……土?」

「はい。これも扉みたいな形の岩っすよ。……うーん、これかなと思ったんすけども」

 腕組みをする明莉をよそに、一は岩山から目が離せなかった。勘、というか、もっと自分の深いところが言っているのだ。これだと。お前が探しているものは、これなのだと。

「いや……そんなはずは。だって……だからどうだっていうんだ?」

 これが地獄穴だとして、それがどうした。一の理性的な部分が冷ややかに告げる。どうしてそこまで衝撃を受けている。落ち着け。雰囲気に呑まれているだけだ――。

「どうしましょう曲輪さん、一応写真を撮影して――」

 岩山に背を向けて明莉がそう言いかけた刹那だった。一達の頭上で、巨大な影が舞い上がったのは。

「……っ?」

 二人して目線を上空へ突き上げる。何かいる。そこにいる。一達を見ている。

 人のような形をしていた。手があり足がある。背中からは羽根らしき黒いものが伸びていてそれをはためかせ、岩山か勢いよく飛び立つように、一達の頭上を通過して。

「――に、逃げろ! なんか――なんか、やばい!」

 本能からの叱咤を受けた一は我に返り、呆然としている明莉の手を取って走り出した。自分でもありえないくらいの速度で坂を回って道まで駆け上がり、そこからはもう脇目もふらずに疾走する。

「……あっ!」

 かなりの距離を駆けたあたりでだしぬけに明莉の手が離れ、とっさに滑るように足を止めると、後方で明莉がたたらを踏みながらぬかるみに倒れ込んでいるところだった。

「櫓、しっかりしろ!」

「だ、大丈夫っす……!」

 ただちに駆け戻って明莉を助け起こし、そのまま再び脱兎の如く疾駆。実際に経過した時間は微々たるものながら、一達は徒歩だった時にあるまじき短時間で祈願山の出入り口付近まで駆け戻っていたのだった。

「ま、待って下さい!」

 と、明莉がまたも足を止める。何事かと一も振り返ると、明莉は眼鏡越しにも分かる狼狽した様子で周囲を見回していた。

「どうした、櫓……?」

「な、ないんです……! カメラ、私のカメラが……っ」

 カメラって、と一は言いかけ、思い返す。

 さっき明莉が転倒した時。慌てていたせいで記憶が怪しいが、あのあたりから明莉の首には、あのカメラはかけられていなかったのではないか。

「落とした、のか……?」

「ど、どうしましょう、多分さっきの時です! どこかにきっと……!」

「けど、今はそれどころじゃない! 急いで逃げないと……」

「でも、でもっ! あのカメラがないと、私、私はっ……」

 明莉の動揺ぶりは尋常のものではなかった。半ば恐慌と言っていい。放っておけば今すぐにでも引き返してしまいそうな様相に、一は肩で息をしながらどうすべきか素早く判断を頭の中で纏め、とりあえず先の道へ促した。

「……今戻るのは危険だ。とにかく、山を下りて町まで出よう。後の事はそれから考える」

「は……はい……」

 明らかに消沈した風に明莉が頷き、二人は残りの道中を駆け抜けた。草むらを踏み越えるともう住宅地のコンクリートの上で、それでようやく助かったのだと実感が湧いてくる。

「あいつは……いないな。近くには見えない。……振り切ったか?」

 そもそも追いかけられていたのかと疑問が生じるものの、疲れ切った足は安心したかのように力を抜いてしまう。二人してよろよろと光を放つ街灯の下まで向かい、揃って塀にもたれかかり尻餅をついて座り込んだ。道路に溜まった水溜まりが跳ねる。

 雨脚が激しいのには変わらないが、いつしか空は夜のそれへ装いを変え、暗闇が一帯を覆い、祈願山は黒い塊のようにしか見えない。

 少しずつ呼吸の落ち着いて来た一は、やっと隣の明莉を気にする余裕ができた。

「助かった……な」

「はい……」

「あれは……本当にいたんだな。化け物の、犯人……」

「……はい」

 明莉はついに沈黙した。その場で膝を抱え、うなだれてしまう。眼鏡の側方からわずかに覗く双眸は、弱々しく細められていた。

「櫓……やっぱりカメラが気になるのか? まあ、気持ちは分かるが……」

「あの一眼レフは……兄からの最後のプレゼントなんです」

 ぽつり、と雨の中に消え入ってしまいそうな呟きに、一は瞠目した。

「なんだって……? 最後……?」

「これで好きなものを撮れ、って、誕生日にくれて……いつもは強がってばかりなのに、その日は珍しく優しかったから、私も素直に受け取れて……すごく嬉しかったんです」

「そう……か」

「毎日色んなものを撮って、画像を兄に送って感想をもらうのが日課で……気がついたら相棒みたいになってて。でも私の技術じゃまだまだ未熟だから、そのうち絶対使いこなしてみせる、って心に誓ってて……」

 明莉は濡れた眼鏡を拭うようにしたが、目元は腕で隠して一には見せなかった。

「なあ……最後の、って、まさか……」

「……なんて、落ち込むのはここまでっす! 確かに大切なものっすけど、壊したとか盗まれたとか、永遠の別れってわけでもないですし……まだ祈願山にあるのは間違いないんで、そのうち回収に行くっすよ!」

 わざとらしく明るい声を上げて、明莉がバネ仕掛けのように立ち上がる。口元にはいつもの明朗闊達とした笑みが浮かび、一へ向けられていた。

「櫓……」

「曲輪さんもそんな顔しないで! ちょっと愚痴ってみたかっただけっす、お気になさらず! ――さーて、もういい時間……って七時半じゃないっすか! うわー……ぎりぎりっしたねぇ」

「そうだな……」

「私はこれから、こっそり学校に忍び込んで記事の編集とかしちゃうっすね。撮影した画像はまだカメラの中なんで、先にテキストだけ完成させる事になるっすけど」

 そうか、と一も頷いて立ち上がる。どこかで車がカーブしていく音が聞こえた。

「じゃあ、また来週だな。風邪引くなよ」

「曲輪さんこそ身体を冷やさないようお気をつけて! それではっ!」

 ぴっ、と敬礼するように斜めに手を上げて、ぱたぱたと明莉が駆け去っていく。

「……」

 一はその後ろ姿が角の向こうに消えるまで見送ってから、無言で振り返った。

 夜闇の帳に覆われた祈願山は冥府の底から湧き出でたように闇が沈殿し、今しも口を開けて魑魅魍魎を吐き出しそうで。

 握ったスマホのライトが小刻みに震える。部長はどうしてか電話に出ない。しかし。

 ――最初の一歩を踏み出すには、我ながら相当の蛮勇が必要だった。

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