第7話 桶浜刀蔵 上

「もう大丈夫か?」

 うん、と頷いた新寺は目を充血させて泣きはらしていたが声音は力強く、今までにない気迫のようなものに満ちていた。勇から少し離れ、一と呼子へ決意表明のように口を開く。

「私……桶浜刀蔵と話をつける」

「話って……借金の事か?」

「それもだけど、全部。もう二度と私達に関わらないで、って、言ってやるつもり。まだうまく考えはまとまらないけど、でも、お父さんは私が守る」

 すでに決心はついているらしく、生半な言葉では収まりそうにない。一は呼子と目を見交わして、肩をすくめた。

「……分かったよ、別に止めない。その代わり、俺も同行する」

「曲輪くんが……? でも、危ないよ」

「一人であいつのところに行くよりはマシだろ。新寺に何かあっちゃ、それこそお父さんのほうにも顔向けできないからな。……お父さんには言わなくていいのか?」

「うん。言ったら絶対止められるから」

「じゃあ、佐倉。勇さんの方を任せる。もう思いあまった事はしないと思うけど、念のためにな」

「任されたのだ。お父さんの面倒はこの呼子が見届けるのだ」

 いや、カウンセリングとはいかないまでもちゃんとケアしてやってくれよと一はツッコみそうになったが、そのへんの裁量は呼子に一任した方がいいと考え直す。少なくとも彼女独自の脱力パワーがあれば、悲観はしても自殺衝動の再発は起こらないだろうし。

(後は刀蔵をどうにかするしかない……この親子には時間がない)

 新寺はいまだ座り込む勇の後ろ姿をじっと見つめてから、きびすを返す。その後について階段を下りながら、一はどう立ち回るべきか算段をつけていた。

「……あ、桶浜さんですか? はい、その……お話がありまして、お時間いいでしょうか?」

 はい、はい、と名刺の電話番号を頼りに電話をかけた新寺が、一階まで降りたあたりで通話を切る。一度足を止めて振り返った。

「……私の家の前で待ち合わせする事に決まったよ。そこから車で、話し合いの場所に移動するみたい」

「話し合いの場所……って、どこだ?」

「分かんない……聞いてない。多分、お父さんといつも内緒の話をしてた所だと思うけど」

 さっそく刀蔵にペースを握られ、その術中に陥りかけているようで二の足を踏みそうだ。 

 ――とはいえ、こっちにも部長という切り札がある。いざとなれば……とは思うものの、一にはまだ踏ん切りが付かなかった。

 何せ部長を呼ぶという事はそれこそ大砲でもぶち込むようなものなのである。そのため武力衝突は可能な限り避けたい。うまく折衝した上で、話し合いで解決できるならそれが一番だが、数十分前少し話しただけでも刀蔵がずるがしこい人物なのは察せれる。

 長い事新寺親子が苦しめられているだけあって、交渉は難航しそうだ。


 新寺宅の前まで戻って来ると、玄関の近くにエンジンがかかったままの軽トラックが停めてあった。その運転席から刀蔵が顔を出し、くいくいと乗車するようジェスチャーで伝えてくる。

 すでにあたりは真っ暗で、トラックのライトと街灯の光だけが視界の頼りだ。一は一応、トラックのナンバーを頭に入れておいたものの、これもどこからかレンタルしたものだろうし、いざという時の手札にするには弱いだろう。

「やあ、香苗ちゃん。さっきぶりだねえ、急に電話してきてどうしたの?」

 助手席に乗り込み両手を膝の上でそろえる新寺の、露骨に警戒した表情に取り立てて反応するでもなく、刀蔵は座席を倒して身体を伸ばし、ハンドルの上に両足をかけている。

「……詳しい話は後でします。早く車を出して下さいよ」

 後ろの席に乗った一が言うと、刀蔵がぐるりと頭だけを巡らせて。

「ていうか君、何? まだ何か用があんの」

「新寺の付き添いみたいなもんです。もう暗いですし、何かあると嫌じゃないですか」

「へーえ。ナイトだねえ。まあいいけど」

 つまらなそうに鼻を鳴らした刀蔵がアクセルを踏む。トラックはゆっくりと動きだし、やがて市街地を抜けてカーブしながら上昇するバイパス道路へと入り込む。町をぐるりと迂回しつつ、左手の車窓からは旧市街の工場群と煙が見えて来た。

「この道……国道に合流するバイパスだけど、確か工事中の道路ですよね」

「よく知ってるじゃん。だからさー、このへんには人も来ないんだよね。秘密の会談をするにはうってつけの穴場ってわけ」

 一は緊張が酸味となって喉元を駆け上がっていくのをこらえた。声を上げれば誰かが顔を出す住宅地と違い、このあたりには本当に何もない。通行人どころか乗用車も走行せず、町の中にいながら石造りの迷路にでも迷い込んだような錯覚を覚えた。

「さ、ここらでいいでしょ。一旦停めるよ」

 刀蔵がトラックを道路の端につけ、ブレーキをかける。

 一は左右を見回したが、ここはもう街灯すらない宵闇に包まれ、さっきまで見えていた旧市街の町並みも騒音対策に作られた高い塀によって視界を遮られている。なるほどここなら、誰からも見られないし声も聞かれないだろう。

「――で? 話って」

 急激に声調を低くした刀蔵に、彫像のように前を見据えていた新寺の肩が跳ねる。いよいよだ、と一も気を引き締めた。

「あの……単刀直入に言いますけど。あなたからの借金は、もう……払いませんから」

「え? いやいやいや、意味分からないんだけど」

「言葉通りです。どんなに脅しすかしたって、私もお父さんも屈しませんから。それだけを言いに来ました」

 沈黙が降りた。刀蔵の喘鳴めいた息づかいがトラック内に反響し、放たれる濁った目線が新寺から何かを見透かそうとでもいうかのように注がれている。

「……その様子だと、ふーん。どうやら勇さん、心変わりしちゃったみたいだねぇ」

「お父さんは、自分が間違ってたって言ってくれました。だから私も、目を背け続けるのはやめにしたんです。部屋でびくびくしてないで、あなたをきっぱり拒絶するために」

 口ぶりは勇敢だが、やはり男性への苦手意識が働いているのか、新寺から刀蔵を見る事はない。だから刀蔵がにまりとした笑みを浮かべているのに気づけたのは、一だけだった。

「うん、言い分はよく分かった。――まあ、そりゃやだよね。お父さんの命でできたお金で自分だけ気楽に過ごすってのはさ。て事はあれだ、香苗ちゃんもやっと、お父さんの重荷を背負っていく覚悟を固めたわけ?」

「……何が言いたいんですか」

「あのね、約束ってのはね、そう簡単に破れないから約束なの。たとえお父さんがあの封筒を焼き捨てたとしてもね、こっちにこれがある限り、君らが逃げるなんてのは無理なんだよなぁ」

 とっさに振り向いた新寺の目の前で、刀蔵が懐から一枚の書類を取り出す。それは夕方頃にも見せられた、あの誓約書。

「そ、そんなの、お父さんはもうサインしたりしません。あなたと取引なんか二度としませんから」

「何か勘違いしてるようだけどね。この誓約書に名前を書くのは勇さんじゃなくて……」

 刀蔵の笑みが深く、よりいやらしくなり、双眸が蛇のように細まった。

「――君なんだよ、香苗ちゃん」

「え……?」

「ちょっと待て、どういう事ですかそれ」

 さすがに黙って聞いていられず一が横やりを入れるが、刀蔵は無視し続ける。

「もちろん後見人がついて、君自身の責任能力がつくまで待ってからだけどね。それも本来は、お父さんが亡くなった後に持ちかけるはずだった。でもこういう時に備えて、俺はこの誓約書を用意してたんだよ」

「何……言ってるんですか。私がそんなの、サインするわけ」

「いやあ、勇さんも馬鹿だよねー。自分がいなくなっても親戚やら、親類やらを信用して。その程度で安心した気になってる。……連帯保証人って知ってる? 借金を払えなくなった時に、保証としてその分を肩代わりする人の事だけど」

 すう、と耳で聞こえるほどに新寺の顔色から血の気が失せた。

「嘘……だって、お父さんは一言もそんな事」

「知らないんだよ、もちろん。だって俺が勝手に進めてた商談だもん。父親も馬鹿なら、その親戚もみんな馬鹿だよね。ちょっとうまい話をちらつかせれば、裏も考えずにあっさり乗ってくる。……まあこれは保険として、俺も仕事仲間にかなり無理を言ったからね。でも、おかげで分かってくれたかな? もうこれは君個人の問題じゃないの。あと三人、いや四人くらいだったかな。君が引き取られるはずのところにも、俺の手は回ってるわけ」

 はったりだ。そう言い返したかったが、自信満々の刀蔵の表情から真意を読み取れるほど、人生経験が豊富なわけではない。仮にこいつの言葉が全部真実だったとして、ならばここで刀蔵を拒否しようにも、もはや解決する話ではないのではないか。

「香苗ちゃんの言う通り、俺はもう姿を現さないよ。ただこの誓約書は置いていくからね。サインする気になったら、いつでも呼んでよ。待ってるからさ」

 新寺は何も答えられなかった。事の重大さにかたかたと震え、息一つ整えられないでいる。

 一は拳を握りしめ、刀蔵を睨み付けた。

「なんだよ、それ……! ――勇さんだけじゃなく、新寺も、その周りの人達まで全員、食い物にしようってのか!」

「ああそうだよ、その通り!」

 半身を回して振り返り、刀蔵がこちらを向く。その強欲にぎらついた眼差しが射すくめるように一へ突き刺さって身動きを止めると、改めて新寺を見やり。

「分かるかい香苗ちゃん。君達家族はもう誰も逃げられない。全員片足をこっち側の世界に突っ込んでんだからね。一蓮托生って事。だから仲良くしようや……!」

 あひゃひゃ、ひゃひゃひゃひゃと肩を揺らして笑う刀蔵。一は視野が赤く染まっていくのを感じ取りながらも、なんとか新寺を正気づかせようと、呼び掛けを試みる。

「新寺、しっかりしろ……! 全部鵜呑みにする事はない、そう何もかもこいつの思惑通りに運ぶわけないんだ!」

 新寺はぐっと歯を噛み締めるようにうなだれていたが、ほどなくして力なく刀蔵の手から誓約書を受け取ろうとする。

「新寺、よせ! 諦めちゃ駄目だ!」

 一の叫びもむなしく、新寺は両手で捧げ持つように誓約書を手にして――突然助手席のドアを開けて、外へと飛び出した。

「え、お、おい」

 目を丸くして困惑する刀蔵とあっけにとられる一の見守る前で新寺は荒く息をつき、血走った目つきで顔の前へ誓約書を持ち上げたかと思うと。

「……こんなもの!」

 なんと手に力を込めて、その紙をぐしゃぐしゃに引きちぎったのだ。歯ぎしりしながら細かい破片まで念入りに散らし、夜気へと溶かすようにばらまいてしまう。

「あ――て、てめっ、何しやがる!」

 さすがに色めき立った刀蔵が追いかけて出て行くのを目にし、一も慌てて外へまろび出る。目前では呆然とした風の新寺へ刀蔵が今しも掴みかかろうとしていて。

「や、やめろ……っ!」

 一は肩からタックルするように突っ込み、逆に刀蔵をトラック側へ押し戻した。強く背中を打ち付けた刀蔵はぎろりと一達を睨み付け、歯をむき出して立ち上がる。

「こんのクソガキャァ……あんまり大人を舐めてんじゃねぇぞ。今さらガキの駄々が通用する段階じゃねえんだよ!」

「うるさい! 私は絶対、あんたなんかの言う事を聞くもんか! 出てってよ、私の視界から! 二度と現れないで!」

 恐れとしがらみの象徴となるはずだった誓約書を自らの手で破る事により、自暴自棄に近いながらも困難に立ち向かう決意が宿ったのか、新寺もまた一歩も退く気を見せない。

 すると刀蔵はうなるようにしながらトラックの運転席へ戻り、荒々しくエンジンをかけた。

「な、なんだ、諦めたのか……?」

 息を詰めて様子を窺う一の前で、トラックは少しバックしたかと思うと――そのまま一達へ向けて、前進し始めたのである。

「お、おい、嘘だろ……!? あいつまさか、俺達を……!」

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