第6話 新寺勇

 放課後を待ち、呼子を伴って校門まで歩いていくと、すでに新寺の姿があった。門の手前で落ち着かずにあちこち視線をさまよわせ、一達と目が合うと飼い主を見つけた子犬のように駆け寄って来る。

「悪いな、待たせたか?」

「ううん、私も今来たところですから……」

「まるでデートみたいなやりとりなのだ。つまり三角関係なのだ」

「佐倉は何を言ってるんだよ……」

 呼子の挙げるシチュエーション通りなら、これからその恋人の家へ行くわけだが、あいにくとこの集まりはそんな甘やかな目的ではない。まあ、呼子のとんちんかんな冗談のおかげで一時間くらい前から感じていた胃を締めるような緊張が抜けてはくれたが。

「それじゃ、さっそく行こうか。新寺、このまま徒歩でいいのか?」

「あ、はい。商店街の近くなので歩きで三十分くらいかかります。バスを使えばもっと早いですけど……」

「一はもっと歩いて運動するべきなのだ。筋肉痛対策にもよいのだ」

「はいはい……歩きますよ」

 そういうわけで、迫る夕闇を背に通学路を歩き始めた。新寺が先頭、その少し後ろに一、呼子と続くのだが、妙に前の新寺がそわそわしている。

 ちらちらと一の方を見て、視線がぶつかるとすぐに顔を背けてしまう。そんな事が数回あり、一は思い切って話しかけた。

「新寺」

「あ、は、はいっ……?」

「それ、その言い方。敬語でなくていいだろ。同級生なんだし、ため口でいいよ」

「は、はい……」

「全然聞いてないのだ。心ここにあらずんばなのだ」

「そ、そんな事ないです、よ……? ただその、私……」

 新寺がまたも一を一瞥する。若干いらっとするが、どうやらこの態度の理由はこっちから察しなければいけないようだ。そして、一は一つの解に行き当たっていた。

「あのさ、部室でもずっと気に掛かってたんだけど……新寺ってもしかして、男苦手とか」

「ぅえっ!? え……ああ……!」

 特大のクリーンヒットを食らったかのように、新寺が足を止めて振り返る。図星らしい。

「やっぱりな。俺が話しかけるとやたら萎縮するし、話しかけるのも部長や佐倉ばかり。部室前にいた時は俺が近づいたから逃げた。本当なら朝の時も部長に声をかけたかったんだろうけど、持木先生が近くにいたから断念した。そんなところだろ?」

「うう……あの、ごめんなさい……」

「なんで謝る? 別に悪い事じゃないだろ、俺も気にしてないし。ただそういう弱点があるなら、刀蔵に反抗するのも骨が折れるな。ただでさえ相手はヤクザだってのに」

「そうじゃなくて……私も元々は男の人は平気だったんだけど、その人が現れてから、急に怖くなっちゃって……」

 なるほど。新寺の男性恐怖症っぽい原因はまさに刀蔵にあるわけだ。放置しておけば、これはますます悪化するばかりだろう。

「むー。その刀蔵とやらは許せないのだ。身体中のあらゆる場所をぺんぺんしてやりたいぞ」

 呼子も両手を握ってご立腹である。どのみち刀蔵と対決するに当たって、新寺がハンデを背負っている事自体は早めに把握できておいて良かったと思うべきだろう。

「ごめんなさい……こんな事になって」

「だから謝るなって。お互い納得ずくの取引だろ」

「でも、さっきの部長さんが言ってた事は本当だから……。私にだってもっと他にできる事はあったはずなのに……どうしても怖くて……怖くて」

 再び歩き出した新寺の歩幅は狭く、自らの身体を抱くように両腕を回している。その肩が小さく震えているのを見て、一はなるべく早期の解決を胸に決意した。


 収まりかけていた筋肉痛が再発しかける頃になりようやく、新寺宅が見えて来た。閑静な住宅地にある二階建て。周りをブロック塀で囲み、右手には車を停めるガレージがあり、左手には芝生の庭。

 そこにはいくつかの花壇が並んでいるものの、手入れが滞り気味なのか花には元気がなさそうだ。家を包む空気もなんとなくどんよりしている風に感じる。

 父親が不動産会社を経営しているだけあり、中流家庭でも中々裕福そうだと一は思ったが、開かれた引き戸の奥からは男性のものと思われる話し声が聞こえて来た。

「……それじゃあね、勇さん。あんたの言う通り、次に来るのは二週間後って事で」

「ああ……その頃には余裕もできているだろう。金も問題なく渡せるはずだ。ただ……」

「分かってますって。お嬢ちゃん――香苗ちゃんだっけ? には手出しはしませんし、二度と姿も見せませんから。約束します」

 様子を窺っていると、玄関口から男が顔をにやつかせて出て来た。白のスーツに身を包んでいるが髪はスキンヘッドに近い刈り上げで目つきは悪く、不穏な気配を感じる。

 そしてその人相は、部室で新寺から見せてもらった名刺の写真と一致していた。ではこいつが、桶浜刀蔵。

「その封筒、くれぐれもなくさないで下さいよ。また書類を調達するのが難しいってのもありますが、何より俺とあんたの信頼関係の証って意味合いもありますからね」

 分かっている、と言いながらもう一人、中年の男性が現れる。猫背気味の刀蔵と違い姿勢は良く身なりも整い、やつれたように頬はこけているものの、柔和な印象を受ける。

 その手には刀蔵から受け取ったと思われる封筒があり、大事そうに脇に抱えていた。

「お父さん……ずっと出てこなかったのに、あの人と何の話を……」

「え? ――って事はあの人が、新寺のお父さん?」

 うん、と新寺は頷く。新寺勇にいでらいさむ 。それが父親の名前だそうだ。勇の見送りを受けて刀蔵は住宅地を北の方へと歩いて行く。その背中が小さくなるのを待って、勇がきびすを返そうとする瞬間に、新寺が踏み出していた。

「お……お父さん」

「っ……、香苗か? 一体どうし……いや、そうか、もう下校時だったな」

 新寺に声をかけられた瞬間、いやに仰天した様子なのが気に掛かったが、勇はすぐに落ち着きを取り戻して向き合う。続いて一と呼子も、新寺の後について出て行った。

「君達は……?」

「えーと、新寺の友達で、曲輪一といいます」

「同じく、佐倉呼子なのだ。呼子ちゃんともヨビーとも好きに呼ぶのだ」

「そうか……香苗に友達が。……良かったな、香苗」

 うん、と少し嬉しそうに頷く新寺。ニュアンス的に恐らく、今まで新寺には友人らしい友人がいなかったのかもしれない。それは弱気な気質ゆえか刀蔵の脅威があったからか、余計に誰にも打ち明けられず抑圧されていたと見るべきだろう。

「あの……さっき、桶浜さんが来てたよね。何を話していたの……?」

「いや……大した事じゃない。お前には関係ない」

 勇の目が左右に泳ぎ、半歩後ずさる。親子だからか妙にその仕草が新寺と似通っていた。

「嘘。絶対何か、大事な事話してたよね。どうして隠すの? 私が信用できないから……?」

「それは違う。お前の事は誰より大切に思ってる――当たり前だろう。だからもう、とにかく家に入りなさい」

 でも、と新寺は食い下がるように声を張った。

「昨日まで、電話にも出なかったのに急にどうしちゃったの? お金の事とか、あてがついたの? 私、私なら大丈夫だから――教えて欲しいよ。お父さん、何をするつもりなの?」

「いいから家に入っていなさい。お前は何も心配しなくていい。全部私に任せておけ……」

 言葉は通じているのに会話が成立していない。一はそのように感じた。

 両者とも、疲労や焦燥からか相手の事がろくに見えていないように思える。こんなざまでは、まともに聞き取り調査などできるわけもなく。

「あ、あの……とりあえず新寺、ちょっと落ち着いて――」

「お父さん……! 嘘つかないでよ、いつもいつもはぐらかして……! 私、すごく心配してるんだよ? 怖いんだよ? いつあの人達が押し込んでくるか、毎日ベッドにうずくまって過ごして……! そんな目に遭うくらいなら、隠さずに教えてよ! そっちの方がずっとましだよ、もう……っ」

「何もないと言っているだろう! なぜ分からないんだ、この馬鹿者! 私はいつだって第一にお前を守ろうとしている、その私を信用できないだと? ……わがままを言うのも大概にしろ!」

 ばん、と勇が玄関口の引き戸を叩き、響き渡る物音に新寺が息を呑んで立ちすくむ。その表情を見て目尻を険しく吊り上げていた勇も、はっと我に返ったように。

「……済まない。だが、信じてくれ。明日にはもう何も怖い事はなくなる。私がなんとかするから、もう少しだけ時間をくれ。……頼む」

 どこか影の差した双眸でそれだけ言って、ふらふらと玄関へ入っていってしまう。かといってそのまま上がるわけでもなく、靴を履き替えもせずに座り込んでいるようだ。

「……か、香苗よ。大丈夫なのか?」

 面食らっていた一よりも先に、呼子がおそるおそるといった調子で新寺へ呼び掛けた。

「……お父さんのあんな顔、初めて見た。それに、あんな風に怒鳴られたのも……物に当たり散らしたのも」

 短く、しゃくり上げるようにしながら顔を伏せてしまう。一と呼子は顔を見合わせ、どう励まそうか思案しようとした矢先、新寺はだしぬけに早足で歩き出した。

「お、おい、新寺、どこに……っ?」

「あの人に聞いてくる。お父さんと何を話したのか……遠くには行ってないはずだから」

 悄然と垂れた赤い髪から表情は読み取れず、気が急くように前のめりで突き進む。止める間もなく、一達も後を追うしかなかった。

 新寺の言う通り、さほど経たずして刀蔵に追いついた。腕を曲げて両手をポケットに突っ込み、肩を揺らして歩いている。新寺はためらいなくその背中へ固い声をかけていた。

「……ありゃあ? 香苗ちゃんじゃねぇの。おじさんに何か用かな?」

 振り向いた刀蔵はにこやかなスマイルで応対している。さっき遠目に見た性根の悪そうな表情と比べれば、それが営業用であるのは火を見るよりも明らかだ。人を食ったような猫なで声なのも少しかんに障る。

「お父さんと何を話していたんですか……? 教えて下さい」

「何ってそらァ、大人の話だよん。香苗ちゃんにはまだ早いんじゃないかな、うん」

「ごまかさないで下さい! け、警察を呼びますよ……?」

 精一杯の脅しを含んだ新寺の発言にも、刀蔵は愉快そうに哄笑するのみだ。

「警察って、威勢はいいけど、本当にいいの? お金を借りてるくせして、呼ばれて困るのはそっちなんじゃないかなぁ?」

「そんなの、あなたに言われたくないです。後ろ暗い身分の人のくせに……っ」

「まぁ否定はしないけど。呼びたければ呼べば? その場合お父さんにこっぴどく怒られちゃうかもしれないけどねー」

「どうして、怒られるって分かるんですか……? お父さんと何か約束をしたんですか? お金の事で……!」

「ありゃ、失言」

 刀蔵はわざとらしく無精髭の生えた顎を撫でて、にんまりと目線だけで新寺を見据える。

「……本当は内緒にしてくれって言われてるんだけど、香苗ちゃん可愛いからヒントをあげちゃおう。――その通り、お金の話でやっと進展したんだよ。ここまでこぎ着けるのに時間がかかったのなんの」

 言いながら、刀蔵は懐から一枚の書類を取り出し、見せびらかすように突き出す。

「何これ……誓約書……?」

「そ。まぁサインはまだなんだけどね。ぼちぼち、ここに記入してもらう予定。その段取りがねぇ、ようやくついたのよ。これでやっと俺もノルマを果たせそうだ」

「あ、あなたの都合なんて聞いてないです……! 一体何の話をしたのか、そこを教えて下さい!」

「やーだよ。こればっかりはちょっとねぇ。君に何かできるとは思わないけど、ここまで来て変な火遊びはしたくないわけ。……まぁ」

 そこで刀蔵は身体を折り、息のかかりそうな至近距離から新寺の目を覗き込む。

「……明日になれば全部分かるよ。だから家にお帰り、香苗ちゃん。さもないと、そろそろおじさん怒っちゃうよ?」

 新寺は全身を硬直させていたが、それでも引かずに睨み返している。膝がわなわなと震え、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

「――あの……そのへんにして下さいよ」

 一は刀蔵の腕を押しのけるようにして割り込み、代わりに正面へ立った。背後で新寺が息を吐く気配と同時に刀蔵がやや驚いたように、身を引いてうさんくさそうに眼を細める。

「だぁーれよ、おたく。いきなり体当たりとか、暴力的だねえ」

「体当たりなんてしてないです。俺はこいつ……新寺の友達です」

 すると刀蔵が片眉を上げて、品定めするように一を睨め回して来た。

「……あれまー! 香苗ちゃんに友達とか、びっくりだわ。それで、ピンチに駆けつけて来たっての? へえぇ、かっこいいねぇ」

「……マジで警察呼びますよ? おっさんが女子高生さらおうとしてたって」

「友達の君が何言っても色眼鏡でしか見られないと思うけどね」

「俺は通りかかりの第三者を装いますから。誤報で怒られても別にいいです。あんたが新寺から離れるならなんだって」

「曲輪くん……」

 小さく新寺の声が聞こえたが、今は目の前の刀蔵から意識を逸らしたくない。こいつは爬虫類のように狡猾な相手だ。隙をさらせば一も火傷では済まないだろう。

「あははは、ますますいいねぇ、青いねぇ。うん、気に入った。いいよ、ここは俺の負け。もうちょっと香苗ちゃんと遊びたかったけど、大人しく引き下がる事にするよ」

 にぃ、と刀蔵は金歯の混じったいやらしい笑顔を残し、くるりと反転、鼻歌を歌いながら路地の一つへと入っていった。その足音が聞こえなくなるまで一は睨み続け――がくっと座り込む。

「……あああやばい。ヤクザとガンのつけ合いとか。お腹痛い吐きそう気持ち悪い汗やばい。もうほんとやめて」

「曲輪くん、大丈夫……っ?」

「一よ、超かっこ良かったのだ! この呼子が救援に駆けつけるまでよくぞ持ちこたえたのだ!」

「お前は何もしてないだろ……」

 力なくツッコみ、一は側で心配そうに見守る新寺の方へ首を傾けた。

「新寺こそ平気か? 顔が土気色だぞ」

「今の曲輪くんほどひどくないよ……そっちこそ真っ青だよ」

 それもそうか、と一が笑うと、つられるように新寺もあるかなきかの微笑を浮かべる。

「でも……ありがとね、曲輪くん。助けてくれて」

「何のこれしき……と言いたいけど、自分でも浅はかだった感が」

「そんな事はないぞ。あそこは誰でも香苗を助けようとするのだ。一が出なければ呼子が奴を薙ぎ倒していたぞ」

「ほんとかー……?」

 疑わしそうに返しつつ、一は腰を入れて立ち上がった。手で軽く汚れを落としつつ。

「けど、少しは情報が入ったな――手段の安全性はともかく。これからどうする?」

「あの……私、お父さんの様子を見に行きたい。きっとあの後、すごく落ち込んでると思うから」

「そっか。じゃあ先に行っててくれよ。後で追いつく」

 うん、と新寺は素直に頷き身を翻す。走っていく姿を横目に、一はスマホを取り出した。

「どうするのだ? ヤクザとガンの飛ばし合いをしてみたで投稿するのか?」

「そんなわけないだろ……部長に一応、事の経過を報告しとくんだよ」

 メールでもいいが、自分の思考を整理するためにも直接電話するべきだろう。


『もしもし部長? まだ部室にいますか?』

『いるけど……なに?』

 何やらくっちゃくっちゃと音がする。菓子パンか何かでも頬張っているのだろう。

『調査の方ですけど、思った以上に色々あって……聞いてくれますか?』

『ずずー……手短にね……ごくっごくっ』

 なんだこいつ。人がこんな頑張ってる時に飲み食いか。我慢して報告した。

『……そんなわけで、善後策を話し合うために一度新寺の家に上がる事になりそうです』

『そっかー……ふああ。まああんまり遅くならずに、程よいとこで切り上げなさいよ』

 生徒の規範としての忠告を受けているのに釈然としない。通話が途切れた。ストレスが増した。


「部長は何してたのだ?」

「さあな。それを考える思考のリソースが無駄すぎる」

「一がご機嫌斜めなのだ」

 来た道を辿っていると、少し先に見える新寺宅から、新寺が血の気の引いた顔で駆け戻って来た。その様子から変事が起きたのは確かなようで、一は悪い予感を覚える。

「ど、どうした、新で――」

「お父さんが……お父さんがいないの!」

 掴みかかるように飛び込んで来た新寺は、今にも泣き出しそうなまでに動揺しているようだ。それが伝染したように一も浮き足立ちそうになるが、呼子が隣から進み出て。

「一難去ってまた一難なのか? 香苗よ」

「う、うんっ……私どうしたらっ……!」

「パニックになってもいい事はないのだ。座禅を組み、落ち着いて深呼吸するのだ。そして何か綺麗な景色を思い浮かべるのだ。するとほうら、自然と美しい詩が思いつくのだ」

「それはお前だけだろ……」

 一がツッコんでいる内に、呼子のペースに巻き込まれたようで新寺も多少は平静さを取り戻し、しかも真面目に深呼吸していた。ともかく、今のうちに状況を聞こう。

「私、さっき家に戻ったんだけど……どこにもお父さんがいなくて。仕方なく外に出たら、ガレージが開いてて、車が出ているのが分かって……」

「買い物とかじゃないのか?」

「ううん、最近は買い物も夕飯の支度も私がやってて、断りもなくお父さんがそういう事するのはおかしいし……仕事も、夜には出ないはずなの。携帯だってつながらない……」

 それは妙だ。まるで夜逃げでもするように姿を消した新寺の父親。どうにもその行動は、あの刀蔵との話し合いと無関係には思えない。このまま待っていて何事もなく帰宅する可能性に賭けるのは、あまりにも楽観的に過ぎるような気が、一にはした。

「でも、車なんだろ? 後を追うにしても、手がかりもなく探すってのは」

「……ひょっとしたら、あそこかも知れない」

 手を合わせるようにして口元を覆っていた新寺が、何かひらめいたように漏らす。

「心当たりでもあるのか、香苗よ?」

「旧市街に、ある建設途中のビルがあって……お父さんは以前から、よくそこに通っているの。私にも内緒で、誰にも告げずに」

「どういう事だ? そのビルは何で……何の目的で?」

「分かんない。あそこで何をしてるのか、前にこっそり尾行してみたんだけど、途中で見つかって怒られちゃって……でも、行くところがあるとしたらあそこしかないの! お父さん、ひどくショックを受けた時とか落ち込んだ時とか、決まってそこに行くから」

 何もないはずのビルに通うという、娘にさえ隠していた新寺勇の謎の行動。では、今回もそうだというのだろうか。確定するには根拠が足りない。だが事ここに至って、悠長に議論を重ねている場合でもないのかも知れなかった。

「そこしか思い当たらないってなら、行ってみるしかないか……」

「お父さんの事を一番分かっているのは香苗なのだ。自分を信じるのだ」

「うん……二人とも、ついてきてくれる……?」

 不安そうに顔色を窺ってくる新寺に、一と呼子は同時に頷いて応じた。

 旧市街というのは、世津町でも都市開発が遅れ、あちこちに工事途中の建物が残ったままの、うち捨てられたような地区の事である。

 寂れたシャッター街、無計画に空けられた下水工事の穴、中途半端に昭和の名残が残った町並みと、都市計画に関わる様々な人間の思惑が入り乱れ、そして何一つ達成できず見捨てられた吹きだまりのような区画。

 ここ数十年を経てまともな住人は新しく開かれた市街地へ移動してしまい、こんなところに用があるのは通りかかる町人相手にぼろい商売で儲けたい脛に傷持つ売人崩れや、二重の意味で日の当たらない場所に居を構えたい裏社会に身を置く者など、工業地帯が多い事もあいまりどこか廃墟めいた暮らしの上に、必然的に互いが互いを監視するようなすえた空気が漂っている。

 無論、学生が好きこのんで足を向けたい場所でもない。友人と遊んだりショッピングしたりは、もっと安全で快適な場所がいくらでもある。内実としても、旧市街近辺では警官が巡回しており、近づく者を補導したり追い払ったり、検問のような役割を果たしていた。ちなみに昨日部長と暴走族がやり合った倉庫街も旧市街のすぐ側にある。

 一達は入り組んだ路地裏を曲がってそうした目から逃れつつ奥へ踏み入り、新寺勇のいると思われる目標のビルへと近づいていった。


 夕陽は低く垂れ込め、日が落ちるまでもういくばくもなく、最後の灯火のようにオレンジの明かりが差す下に、その廃ビルはあった。

 建設途中というか計画自体凍結したかのようにカバーで保護されてもいず、一部は壁がなく内部が野ざらしにされていた。ただそれ以外は他の建物と同様、特に秘密があるようにも見えない。

「ここに本当に……人がいるのか?」

「――あ、あのバン! お父さんの車だ……!」

 新寺が焦ったように叫びながら指差すと、ビルの横手、ちょうど物陰になったあたりに白いバンが止められていた。

「確かなのか? という事は……」

「いざ突入なのだ!」

 うまく言葉にはできないが一刻の猶予もないのだという危機感を抱き、一達がまっすぐ入り口へ駆け寄ると、立ち入り禁止のテープが破られてドアが開かれている。

「不法侵入……とか、気にしてる場合じゃないな」

 内部へ踏み込むと、埃臭く冷えた空気と、ゴミや資材が乱雑に堆積する荒廃した光景が出迎える。外が夕暮れのためか中は薄暗く、かき分けて進むのも一苦労だ。

「お父さん、どこにいるの! ねえ、いるんでしょ!」

 新寺がスカートが汚れるのも構わず先陣を切って歩き、声を張るものの返事はない。

 この階にはいないかも知れないと二階へ上がるが、そこも部屋が荒れているだけで人は影も形もない。

 この分では何階にいるのか見当もつかないが、しらみ潰しにするしか――と思った途端、一の脳裏で直感が電光のように貫いた。

 勇と刀蔵の会話――あの封筒。――黙っていなくなる。そして誓約書。……まさか。

「……なあ。屋上って……開いてるのか?」

 自分でも声が震えていた。最悪の事態に思い至り、確認するように尋ねると、ぴたりと新寺も硬直してから、小さく首を動かした。

「……このビルは五階まであって、階段で屋上に出られるけど……どうして」

「と、とにかくそこまで上がるぞ! 急げ!」

 今度は二人を置いてきぼりにしかねない勢いで一は階段を駆け上がる。各階層には目もくれずひたすら段差を飛ばして上がり、屋上へ続くと思われる錆ついたドアを蹴り開けた。

 窮屈で閉塞感のあった屋内から風のなびく外へ出た事で気持ち呼吸が楽になるが、十メートルは先にある屋上の端の段差に、一人の男性が佇んでいるのを認めて心臓が止まりそうになる。あの背丈と服装。一度しか会っていないが、見間違えるはずがない。

「お……お父さんっ!」

 追いついた新寺が目を見開き、引きつった悲鳴を上げた。勇が立っている位置から先には足場がない。工事途中で放置されているため柵どころかフェンスすらない。つまり、あの場から一歩でも足を踏み出せば、それだけで虚空へと進めてしまうのだ。

「ば、馬鹿な真似はやめるのだ!」

 衝撃のあまりに立ちすくむ二人を顧みる余裕はなく、一はなりふり構わず猛突進をかけた。頭の中は真っ白で、まず落ち着くよう説得の言葉をかけるとか、気づかれないよう接近するとか、そういう機転は一つも思いつかず。

 何かに背を突き動かされるようにして勇の元まで駆け抜け、後ろからその腕を引いて自分ごと後方へ引きずり倒した。

 抵抗らしい抵抗はなく、横ざまに地面へ叩きつけられる一の目の前に、勇もうめき声を上げて倒れ込んでいた。身を起こす気力もないらしく、呆けたように手を突いて下を向いている。数拍置いて、新寺と呼子が駆けつけて来た。

「お父さん、一体何を……! まさか……!」

「香苗、か……。そうか、私は……死にきれなかったんだな」

 独り言のようなセリフを聞いて、新寺の両目から涙があふれた。膝を折ってうずくまりながら勇の肩を掴み、揺さぶるようにして言葉を投げかける。

「どうして! どうしてこんな事するの!? こんな事したって、何もならないでしょ!」

 いや、と呟いたのは勇ではなく、一だった。

「……多分だけど、勇さんは自分が死ぬ事で、その保険金とかで借金を支払おうとしていたんじゃないかな」

「――え……!?」

「刀蔵から封筒を受け取ってただろ。あれは遺書と、規定の分の金が口座に入るよう、あいつらと調整したもので……半分くらいは違法なもののはずだ。だけど、もうそれに頼るしか、方法は残されていなかった……」

「本当……なの?」

 両手を下げた新寺が尋ねると、勇はかすかに頷いた。ぽつぽつと、小声で話し始める。

「約束、したんだ。私の命と引き替えに、借金の完済と、その後のフォローを香苗に行ってくれる、と。私が何かあった時のために親戚や友人とも相談を詰めておいたし、もう実行に移さない理由は何もなかった……」

「そ……んな。私は……私は何も知らなかったのに。いつの間に、そんな事……」

「だが、結果は……私は自分の命を賭す覚悟もない臆病者だった。許してくれ、香苗。こんな無様な父親を……」

「やめてよ!」

 新寺は叫び、真正面から勇を見据える。視線はまるで生気のない父親の目を逃がさないとでもいうように、強く激しい。

「もういいよ、お父さんが頑張ってたのはよく分かったよ……! でも、一人で死ぬなんて駄目だよ、絶対……! 借金が返せるから何? 誰かが私の面倒を見るから何? そんなので私が喜ぶとか、幸せになるなんて間違っても思わないでよ!」 

「香苗……」

「私は……私はどれだけ無様でも、それでもお父さんと一緒に乗り越えていきたいんだよ。それだけなのに、どうして分かってくれないの……? 馬鹿だよ、お父さんは、馬鹿!」

 途中でこみ上げるもののあまりに涙声になり、勇の肩を弱々しく叩いてから、顔を覆って嗚咽をこぼす。

「……このビルはな。もう二十数年くらい前になるか。私と理江子がお金を出し合って、店を出そうと思っていたんだ」

「お母さんが……?」

 泣きじゃくる新寺の頭を撫でながら、勇は遠くを見るようにして語る。

「小物を作るのが好きだった理江子は、テナントにアクセサリーショップを出したいと聞かなくてな。ただ私もその頃は若かったから、何も妻にまで頼らずとも、一人で家を守っていけると思い込んでいた。仕事もうまくいっていたから、結局理江子の計画は立ち消えになってしまったんだ」

 立地もいいし、眺めもいいから、と。貧しいながらもささやかな幸せを望んだ妻の意見を押し切る形で、勇は開発の進んで交通の便も良いニュータウンにマイホームを構えた。

「だが、あの時理江子の考えを汲んでいたら……と思う事が、よくあるんだ。今よりも暮らしは厳しかったかも知れないが、理江子は死なずに済んだかも知れない。あるいは別の未来があったかも知れない。そんな風に、思いをはせる事が多くなって……このビルに通い続けていた」

 実際このあたりは今は治安が悪いから、このビルでなくとも良かっただろうが、と勇は自嘲気味に笑って。

「ただ、やはりそれらは私の現実逃避だったのだろうな。知らぬ間に香苗にまで心を閉ざして、そのあり得たはずの未来さえ、全て奪ってしまうところだった。……私は、間違っていたんだな。今、それがよく分かったよ。……済まない、香苗……理江子」

 最後の方は聞き取れないほどにか細く、目元からははらはらと涙がこぼれている。一と呼子は二人の親子が泣き止むまで、夕陽の沈んでいく空の下、ずっと立ち尽くしていた。

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