二章 第5話 新寺香苗

「……予想通り」

 翌日。一は見事に筋肉痛となっていた。夕べは散々歩かされたのだから当然の帰結だろう。反対に呼子は体調も万全といった風に元気に登校して来ており、昼休みに至る今まで昨日の事件が尾を引いている様子はない。

「一よ、大丈夫か? 何やら動きがぎこちないぞ」

「ただの筋肉痛だよ。足がしんどいけど、我慢できる」

 椅子からかがんで腿やふくらはぎを指でつまみ、マッサージする。痛みが速効で引くわけでなくただ意識を逸らすだけの気休めに過ぎないが、やらないよりはましだ。

「佐倉こそ喘息は平気か? 昨日はかなり辛そうだったけど」

「一晩休んだから問題ないのだ。あの時は吸入器を家に忘れてたから、迂闊だったのだ」

 ならいいが。と、呼子が教科書を鞄にしまいこみ、こちらへ横目を送ってくる。

「今日は部活はどうするのだ?」

「ああ……どうするかな。基本的に放課後は一応部室に顔を出すんだけど、昼休みは部長から呼び出しや用事がない限り、行ってもいいし行かなくてもいい……でも、入部届も出したんだし部長に挨拶と、余暇部の説明とかした方がいいかな」

「なら行くのだ。今日は甘いものの持ち合わせはないが」

「別に毎回部長に餌付けする必要はないからな……」

 話は決まり、余暇部へ向かう事になった。支度をして席を立つと、教室の前で数人のクラスメイトの話し声が聞こえてくる。

「なあ、聞いたか? 例のほら、暴走族がなくなったって話」

「フリーダムなんとかってやつか? 不良同士の抗争とかで、何かあったのかよ」

「それが、昨日倉庫街のあたりで大乱闘があったらしくてさ。信じられない話だが、たった一人に族が全滅させられたとかなんとか」

 なんだよそりゃ、と笑い話のように交わされているものの、一はあっけにとられるような心持ちだった。まだ尾ひれの付いた噂のような段階だが、部長が不良達を相手に大暴れした事が広まっている。それも昨日の今日で。一体どうして。

「なあ、佐倉……朝とかに、昨日の出来事を誰かに話したりしたか?」

「してないのだ。寝落ちしてしまったのがばれるのは恥ずかしいぞ」

 そういう事ではないが、もちろん一も誰にも話していない。部長だって武勇伝として嬉々として広めて回るような性格では、多分ないはず。

「安原か……? いや、あいつら不良だって、こんな不名誉な話を自発的に吹聴するとは思えない」

 何が起きているのか見当もつかず立ち尽くすようにしていると、廊下の方で聞き慣れた声が響いて来た。

「勘弁してってもっちー! これは違うんだってー!」

「いいから止まれー! あれほど喧嘩沙汰は起こすなと言ってただろうが!」

 振り返ると、ちょうど教室の前を生徒の間を縫うようにして部長が駆けていた。その後ろからは一人の若い男性教諭、持木が血相を変えて追いかけている。

「今日という今日は許さんぞ、いちいち釈明させられる俺の身にもなれぇ!」

「ごめんって! でもあたしは悪くないー!」

 大騒ぎしながら廊下の向こうへ消えていく二人。部長も部長だが、平気で廊下を走る教師とは。早くもため息をつきそうになる。

「ん……? あの子」

 と、もう一人見覚えのある人物が通りかかった。赤銅色の長い髪、くっきりとした気の強そうな目鼻立ち。そうだ、昨日部室の前にいたあの女子生徒。

「部長達の方を見ているのか……? 何してるんだろう」

 彼女はじっと声の遠ざかる廊下側を見つめているようだが、その時ふとこちらへ視線が流れた。一瞬目線が噛み合うと、慌てたように目を伏せて小走りに去っていってしまう。

「一、準備できたのだ……ぼけっとしてどうしたのだ?」

 呼子が背後から声をかけてきて、我に返る。

「別に……それより俺達も行こう。あの分だと部長が部室に来る確率は低そうだけど」

 その場合はメールで呼び出せばいい。部長なら適当にまいてやってくるはずである。そういうわけで、一達は部室棟目指して廊下へ出た。

 外の様子が見渡せる、棟をつなぐ渡り廊下まで差し掛かると、こちらへ歩いて来る持木と行き会った。虫の居所が悪そうに顔をしかめており、乱れた髪を手で直している。

「持木先生、さっき部長を追いかけてましたよね。でもその様子だと……」

「ああ。外側に出たと思ったら壁を駆け上がって部室棟の屋上まで逃げられた。おおかた俺の怒りが収まるまでやり過ごすつもりだろうが、今度は見逃さんぞ、あの問題児め」

 持木は部長のいる三年D組の担任で、余暇部の顧問もしてくれている。

 二十代後半の贅肉がないスマートな長身で、短く切り揃えた前髪にカールするような軽いウェーブがかかっているのが特徴だ。今はご機嫌斜めではあるが誰に対しても分け隔てなく接するため、生徒からの人気も高い。

「持木先生も大変ですね、よりによって部長の担任になっちゃうなんて」

「今年は厄年だな……まあ、やるからには全力投球だ。あいつが卒業するまでにいっぱしの真人間にしてやるとも。それよりお前達、余暇部に行くのか?」

 はい、と一は頷き、隣にいる新入部員の紹介もする。

「こいつは新しく余暇部に入ってくれるクラスメイトです」

「佐倉呼子です。よろしくー、なのだ」

「おう、よろしく。――しかしまさか、そのうち自然消滅すると思っていた余暇部に、新入部員が来てくれるとはな……」

「ははは……俺もぶっちゃけ驚いてます」

 力ない笑いが漏れる。何せ部長があれなので、何かと相談に乗ってくれていた持木ともども今の今までほとんど希望を失っていたのだ。一年は長いとはいえ、何があるか分からないものである。

「っとそういえば先生、どうして部長がまたぞろ騒ぎを起こしたって知ってるんですか?」

「なんだ、まだ見てないのか? 朝から校内のそこら中に新聞が貼ってあるだろう、そこに暴走族との一件がびっしりと書いてあったんだよ」

 新聞って、と一があたりを見回すと、棟の入り口の白く磨かれた壁に、まさにその校内新聞が貼り付けられてあった。ちらりと一読するだけでも内容が昨日とは様変わりしているのが分かる。

「なんだこれ……『号外! 巷を恐怖に陥れていた暴走族、一夜にして壊滅! 下手人は西雲高校の女傑にして余暇部の部長!』だって……?」

 一面大見出しにそんな煽り文句と、詳細な現場の状況などが記されていた。何枚もの写真で倉庫内のあちこちが撮影され、その多くが死屍累々と倒れた不良達を映している。

「呼子も気づかなかったのだ。こんなのが学校中にあるなら、そりゃみんなに知れ渡ってしまうのだ」

「記者の名前は……櫓明莉。前のと同じ一年か……何者なんだ?」

 なあ、と持木が苦虫を噛んだような面持ちで頭を掻く。

「俺が言うのも何だが、今余暇部は厳しい立場だ。正直いつ消されてもおかしくない。あいつはあいつで以前と変わらないスタンスでいるんだろうが、これ以上は俺も庇いきれん。ブレーキをかけられるのはお前だけだ、曲輪」

「そうですね……せっかく部員が増えて光明も見えて来ましたし、やるだけやってみます。でも」

 一は一寸沈黙し、神妙な目を持木へ向けた。

「部長は別に、むやみにこれだけの事をしでかしたわけじゃないんです。俺達部員を守るためでした。それだけは、先生も分かってくれると嬉しいです」

「……おう。俺もあいつがそこらにいる腕っ節だけ強いチンピラとは違うってのは理解してる。ま、次に捕まえたらみっちり説教だけどな」

 にかっ、と歯を見せて茶目っけのある笑みを浮かべた持木は、軽く手を振って歩き去っていった。呼子がその背中を見つめる。

「頼りになりそうな先生なのだ。あの人が顧問なら安心なのだ」

「ああ。俺も困った時は、あの人をあてにしてる」

 とにもかくにも、部長が部室棟へ逃げ込んだというなら部室にいる可能性は高い。二人は建物内へ入り、最奥の余暇部部室のドアを開けた。

「うーす」

 やはりいた。あれだけ逃げ回っていたのが嘘のようにソファへうつぶせに寝そべり、漫画を読みながら声だけを寄越してくる。一はちゃぶ台の下から座布団を取りだして敷き、そこに呼子を座らせ、自分は向かいの位置へ腰掛ける。

「部長。佐倉を連れて来ました」

「おっ、ヨビー来た?」

「は?」

 部長のセリフがつむじ風の如く言語野をすり抜け、一は何秒かフリーズした。

「……部長、ヨビーってなんですか」

「その子の事。つーかあだ名。呼子って呼びにくいじゃん」

 漫画を閉じてこちらへ向き直った部長が、ぬけぬけとそんな事をのたまう。いやいや、だからといってヨビーはないだろう。そんな、外国の犬種みたいに数秒程度で思いつきそうだけど実際には安直すぎて使わないような呼び名を、こうもあっさり。

「というわけであんたは今日からヨビー! よろしくね」

「いや、待って下さいよ。いくらなんでも佐倉があんまりですよそれ、なあ……?」

 と、一緒に部長へ反撃するべく呼子に支援を求めると。

「気に入ったのだ。いいセンスなのだ」

 がくっ、とその場でくずおれそうになる。こいつもこいつで、ただ者ではないのだった。

「……俺は普通に佐倉って呼ぶからな。ヨビーなんて間違っても使わないからな」

「よいぞ。呼子の呼び方は一つに縛られないのが日本語の妙なのだ」

 もう何も言えない。その間にも呼子と部長はアドレスを交換している。呼子はともかく部長のアドレス帳には確実に、『ヨビー』の名で登録されているに違いない。暗号か。

「それで、余暇部とは具体的に何をするところなのだ」

「えっとね、あたしのためにお菓子を買って来たり、遊んだり、寝たり、まあ暇つぶしみたいな……」

「違いますよ部長。たった今口にしたそのどれもを何一つ佐倉にはさせませんからね。――一応、目標としては文芸部の後継で、自分の特技や趣味を活かした作品を投稿したり発表したり、他の文化部の手伝いで広告とか作ったり……創作したものを見せ合って批評とかもするかな。する事がないなら勉強しててもいいし。基本的に緩い感じだから、今すぐこれをやれってのはない。部長みたいに遊びほうけるわけでないならかなり自由だよ」

 ほうほう、と呼子は真剣な様子で耳を傾けている。といってもこれらの文言は前部長である伊勢の受け売りだったりするので、一は少し懐かしい気持ちを覚えた。

「創作というと、呼子は俳句とか詩が得意なのだ。川柳も好きなのだ。短歌でもいいのか?」

「どれもオーケーだ。部員の人数が揃ったら町内で開催されてるコンテストに出るのもいいかもな。実力が認められれば知名度も高まるし、入部希望者も増えるだろうし……」

「そういう事ならお任せなのだ。一の説明は分かりやすいのだ。呼子もはりきって余暇部を盛り立てようぞ」

「おー頑張れ頑張れあひゃひひひひ」

 部長はといえばとうに興味をなくしているらしく、話半分に聞きながら再び漫画に目を落として馬鹿笑いしている。一回本気で部室から締め出してやりたい。

「部長」

 静かに立ち上がった一は、やおら部長の手から漫画を取り上げてちゃぶ台に置いた。

「あっ、何すんの!」

「気づいてますか? 部長と暴走族が一戦交えた事について、みんなが噂してる事」

「なんかやけに視線を集めてたしもっちーにも追いかけられたし、変だなーとは思ってたわよ」

「そんな他人事で……」

 頭を抱えそうになるが、一はこらえた。

「どうやら新聞部の一年生にすっぱ抜かれたみたいです。昨日、どこかで見られてたんですよ。それでこの騒ぎです……学校の公式掲示板サイトも祭り状態ですよ」

「そんなのいつもの事でしょ。あたしは気にしてないし」

「部長は気にしなくても、この部を守ろうとしてる色々な人の立場が辛くなるんですよ」

 ただでさえ暴力が絡む一件である、問答無用で停学及び退学といった処罰を受けないのが不思議なくらいだ。

 新聞には暴走族のリーダーである安原の名が載っていないため、西雲高に直接関わりがなく必要以上に波及しそうにないのが不幸中の幸いといったところだが。

 その時、いきなり部室のドアが開かれ、一人の男子生徒が顔を見せる。自然と三人の視線が集中し、特に一は驚いて中腰になった。

「お、お前っ……安原か?」

 髪型はリーゼントでなく普通に下ろし、金属アクセサリーも外して学ランをきちんと着用しているため一瞬分からなかったが、その鋭く憮然とした顔立ちはまぎれもない安原当の本人に相違なかった。ふうん、と鼻を鳴らした部長がソファの上で足を組む。

「急にどったの。お礼参りか何か?」

 いや、と安原は目線をうつむけたまま許可も出してないのに部室に入って来て、部長を正面から見据えた。

「……この間は済まなかった。とんでもねえ醜態を見せた上に、その二人を危険な目に遭わせた」

「それで?」

「許してくれとは言えねぇ。だがもう二度とあんたらには――いや、カタギの奴には迷惑をかけねぇ。チームのヘッドとして約束する。悪かった」

 腰を九十度まで折り、深々と頭を下げる。一は呆然とその姿を見つめていた。

 これはいわゆる、謝罪というやつなのだろうか。カタギとか怪しいワードは気に掛かったものの、とにかく安原は心を入れ替えたと反省しているようである。

「ていうか、よく普通に登校して来られたな……あんだけ部長にやられたのに」

「タフなのだけが取り柄だからな。仲間を差し置いて、俺だけが横になってるわけにはいかねぇだろ」

 よく見れば、安原の頬や首のあたりには絆創膏やガーゼが貼られている。学ランの下も包帯が巻かれているのかも知れない。そんな状態でけじめをつけようとたった一人で余暇部にやって来たのだというなら、なるほど真実改心したのかも知れない。

 さて、その言い分を黙って聞いていた部長はというと。

「戦り合った時も思ったけど、ガッツあるじゃない。恥を忍んで筋を通すやり方、あたしは嫌いじゃないよ」

「呼子も別に気にしてないのだ。謝られたらなおさら許すのだ。母にはそう教わったぞ」

「佐倉は心が広すぎるだろ……下手したら病院に行ってたってのに」

 一は肩をすくめて、かねてから疑問に思っていた事柄を尋ねる。

「なあ。どうしてまた暴走族なんかやってたんだ? 話を聞く限り、お前の空手部は順調だったんだろ? それも、文化部とのごたごたが起きる前からさ……なのにどうして」

「情けねぇ話だが……俺の父親は元空手家だったんだ。それでガキの頃から、俺にも空手を覚えさせて……それが気にくわなかった。よくあるだろ、プレッシャーとか、自由がないとか。その鬱積を晴らすために、去年にチームを結成して、好き放題に暴れてた」

「つまり親への隠れた反抗ってやつ? ありきたりだけど、根の深い話ね」

「空手部主将って立場も重くて、責任から逃れたかった。昼間は空手部で真面目にやって、夜は思うままに走り回る。そんな頭のおかしくなるような生活が続いてたが、やっぱり一方では親父にも認められたかったんだ」

「そうか……だから文芸部を一掃して空手部を拡大して、期待に応えようとした、とか?」

 安原は首肯した。そこへふらりと現れた部長に絶好のチャンスを完膚無きまでに潰されたため逆恨みし、心理的に追い詰められていた事もあって夜の仲間――暴走族を巻き込んでまで一線を越えてしまったのだろう。

「前までの俺はどうかしてた。普通なら学校の、しかも俺個人の問題にチームを利用するような真似は絶対しなかったってのに、喧嘩にも負けて、空手部もぼろぼろになって、後は復讐する事しか頭になかった。一連の凶行は全部……俺のせいだ」

「――そうね。それは確かにあんたが悪いわ」

 ためらいもなく言った部長に、さすがに一は言い過ぎだと視線を送るも黙殺される。

「でも、もう暴走行為に逃げるのはやめたんでしょ? 今日ここに来たのは、昨日までの自分と決別し、嫌な現実に立ち向かうため。月並みな言い方だけど、決意表明みたいなもんかしら」

「ああ……親父にも俺のやった事を話す。それで殴られようが勘当されようが、構いはしねぇ。ヤケになったんじゃなくて、こんなやり方でしか俺は前に進めないからな」

「不器用な奴」

 口ぶりとは別に、部長の表情には微笑が浮かんでいた。なんとなく空気が緩み、一も張り詰めさせていた息をふっと吐き出す。

「じゃあ、空手部は一応続けるのか? そっちにもお前の仲間はいるんだろ?」

「みんなが許してくれるなら、そうするさ。ここまで来てあいつらから目を逸らすような事はしねぇ」

「南先輩にも謝っておけよ。あの人ずっと心配してたんだからな」

「ああ……あいつにも悪い事した。――あそこで頭を冷やせてれば、もう少し早く目が覚めてたのかもな」

 とはいえ、今のところ暴走族と安原が学校側に関連づけられて認識されてはいない。

 このまま黙っていれば、少なくとも再処分のような事にはならないはずだ。……校内新聞という不安分子は残っているが。

「学校にまで白状はしなくていいからな? 俺達も気にしてないし、おあいこって事で」

「そう言ってくれるのは嬉しいぜ。自分で蒔いた種だが、今になって震えて来てるからな」

 と、そこで安原はもう一度部長へ向き直り――なんと突如土下座をしたのだ。

「――俺はあんたのおかげでやり直せる! それと、あんたのその強さに惚れたんだ!」

「え、ほ、惚れ……?」

 目をぱちくりさせ、これまた珍しくうろたえたように腰を浮かせる部長に、安原は頭を床にこすりつけるようにして続けた。

「これからはあんたの舎弟としてやり直したい! だから姐さんと呼ばせてくれっ!」

「なっ、だっ――どぉわれが姐さんだコラァ!」

 怒髪天を衝いた部長がソファをぶっ叩いて立ち上がるも、安原は平身低頭のままだ。

「何かあったら遠慮なく言ってくれ、あんたの命令ならなんでも聞く! 俺は……俺はもっと強くでかい男になりたいんだ!」

「勝手になっとけやボケェェェッ!」

 怒り狂った部長に安原は部室から廊下まで蹴り出された。しかしさすがのメンタル、すぐにプレイバック。

「そうだ、その蹴りだ! 俺はこの足に惚れたんだ!」

「うるせええええマジで蹴り殺すぞ腐れリーゼント!」

「ぶぶぶ部長、落ち着いて下さい! それともうリーゼントじゃないですからっ」

 部長に組み付き、羽交い締めにしてなんとか抑え込む。てんわわんやの末にどうにか室内は落ち着き、目を三角にしたまま息を荒げてソファに座り直す部長と、鼻血を出しながらも満足げな安原がちゃぶ台を挟んであぐらをかいていた。

「安原も頼むから、これ以上部長を刺激しないでくれ……部室が壊れる」

「あ? ――つーかてめぇ、さっきからなれなれしいんだよ。俺が認めたのは姐さんだけだ、てめぇなんぞに呼び捨てにされる筋合いはないんだが、ああ?」

 メンチをきられた……なぜだ。まだヘッドの癖が抜けてないんじゃないのか。

「そうだ一よ、安原にも入部してもらうのはどうだ? もう一人部員が欲しかったのだろう?」

 それまでいやに静かだと思ったら、我関せずと漫画を読んでいた呼子が言った。ここの奴らはどいつも自由すぎる。

「安原は空手部だから無理だろ……掛け持ちって手もあるけど、主将はさすがにな」

「おう。しばらくは俺も空手部に集中したい……鈍った心も体も鍛え直して、部員の面倒も見ないといけねぇからな」

 だそうである。残念だが――いやそうでもないが、安原は保留といったところか。

「じゃあ、今後の方針としてはこれまで通り、学校を回って部員集めって事で……ん?」

 不意に視界の隅で赤いものが横切った気がして、一は廊下側を振り返った。窓の向こうから何か視線を感じる。じっとりとしたねばっこい感触の。

「部長……外に誰かいませんか?」

「いるね。隠れてこっちを窺ってる奴が」

「気がついてたんならなんで放置してるんですか」

「いや、隠れ方があんまりお粗末なもんだから、どう出るのか楽しみで」

「もしかして何度か見かけた一年の女子生徒かも。どうしようかな、俺が出てもまた逃げられるかも」

「だったらあたしが行くよ。さくっと捕まえてきてあげる」

 言うが早いか部長がすっくと腰を上げ、つかつかとドアへ向かい開ける。それら動作があまりに突然だったからか廊下側でひゃっと声が上がり、窓辺を素早く誰かが駆け出していこうとする。

「はーい確保ー。からの一名様ご案内~」

 ただし追っ手もまた常人にあらず。わざわざその何者かの頭上を飛び越えるようにして部長が行く手をふさぎ、肩を抱くように捕まえる。

「あ、あの、あのっ……」

「待ちたまえかわいこちゃん。遠慮しないで遊んでいきなよ」

 へへへ、と邪悪な笑い声を上げながら部長が戻って来る。側にはびくびくとした表情で、あの赤い髪の女子生徒がついて来ていた。その顔を見て呼子が声を上げる。

「おお、あれは教室で一と熱く見つめ合っていた……!」

「見つめ合ってないから! というか佐倉、お前見てたのかよっ」

「あーちょっとうるさいよ部員ども。ヨビー、悪いけど席空けて」

「姐さん、俺はどこに座れば」

「姐さん言うな。どっかそのへんで立ってろ」

 呼子が横にずれ、部長が安原の背中を蹴ってどかし、一人分のスペースを作る。座布団へ震えながら座り込んだ女子生徒は、凝り固まったように一達を見回していた。

「それで誰あんた。名前は? なんで部室覗いてたの」

「部長、そんな矢継ぎ早の質問じゃ萎縮されるだけですよ。……えーと」

 ごほん、と一が咳払いして、なるべく柔らかい声調で問いかける。

「何度か顔を合わせたよな。俺は曲輪一。こっちは佐倉呼子、そのソファのは部長。そっちの壁際に立ってる元ヤンキーは……まあ気にしなくていい」

「は、はあ……」

「とりあえず、名前を教えてくれないか? 俺や佐倉と同じ一年だけど、別クラスだろ?」

 そう聞かれた女子生徒は赤い顔でちゃぶ台に視線を落とし……いくらか大儀そうに深呼吸を重ねると、観念したように目を上げる――が、こっちに視線は合わせていない。

「わ、私は……新寺香苗にいでらかなえ といいます。一年……C組です。あの……よろしくお願いします」

「うむ。よろしくなのだ」

 呼子がフレンドリーに挨拶すると、新寺と名乗った女子生徒は気持ち楽になったように息を吐き出している。が、ぴんと背筋を張り緊張はまだほぐれていないようだ。勝ち気そうな顔つきと違い、元来気弱な性質なのだろうか。

「さっそく本題を問いただすようでなんだけど、うちの部に何か用事でも?」

「はい……あの……。……あの……」

 新寺は弱々しく頷きながら、しばしの間ぎゅっと目をつむって顔を下に傾け――それから勢い込むように部長へ言った。

「……わ、私を助けてくれませんか……っ? お願いします!」

「……は?」

「え?」

「おおう?」

 部長を筆頭に一、呼子達まで目を白黒させたり点にさせたり、想定外といえば想定外に過ぎる用件を呑み込むのに数秒かかる。一としては他の部からなにがしかの苦情とか要望とか、そのあたりを読んでいただけに返答もまた素っ気のないものとなった。

「え……なにそれ」

「あ、あの……うう……」

 新寺は脳天や耳から湯気が立つくらいに顔を真っ赤にし、また下を向いてしまう。

「いや……シンプルでいいお願いじゃん。けどあたしとか別に、慈善事業やってるわけじゃないし」

「私利私欲にまみれてますよね、部長は」

「やかましい。悠々自適と言え。……まあそういうわけで、人助けとか言われても困るっていうか」

 新寺は応じず、しおれたように肩を落としている。一はちらっと部長を見やり。

「あの……そう頭ごなしに邪険にする事ないんじゃないですか。この人、多分何回も部室の前に来てて、その度に勇気を振り絞ってたんだと思います。だったらとりあえず、事情を聞くくらいは」

「呼子も同意なのだ。同級生の女子として、悩んでる姿は放っておけないのだ」

 確かに突拍子もないセリフに度肝は抜かれたが、それだって大きな決断の末に出た言葉のはず。一と呼子の部員二人の説得に、部長は口をへの字に曲げて。

「なんかあたしが悪者っぽい空気作るのやめてよ。……それなら、話くらいは聞いてあげるわよ」

「だそうだ、新寺。どうして俺達の助けが必要なのか、話してくれないか」

 はい、と新寺はか細い声音で呟き、恐る恐る顔を上げた。

「……私の父は、不動産会社を経営していて、でも、数年前に母を病気で失った事で、仕事もうまくいかなくなって。……それで、借金もすごくて、毎日お酒浸りで……」

「お、おいおい、急に重い話になって来てるけど」

 部長がおっかなびっくり漏らすが、一は口を挟まないよう目線で指示する。

「それで、その借金を借りてるところが、怖い人達の事務所で……半年くらい前から、家にまで取り立てに押しかけて来て、もうずっと怖くて……。だ、だから部長さんなら、なんとかしてくれるんじゃないか、って」

「いやいや、話が飛びすぎでしょ。なんであたしならヤクザと渡り合えるとか発想が飛躍してるの!?」

 部長ではないが、一もおおむね同意見である。もしも本当に新寺親子を脅迫しているのがその筋の連中だとして、それと部長がどんな線でつながるのか、これが分からない。

「わ、私……部長さんの話は学校中に知れ渡ってるのを聞いたんです。週一で不良のたまり場を潰してるとか、月一には強盗グループを簀巻きにして警察署に投げ込んでるとか、そういうの。……きょ、今日だって暴走族を壊滅させたって言うから……」

「うわあ……部長」

「部長なのだ……」

「ちょっと、やめてよ。なによその白い目は。そりゃあたしだって多少は軽率に動く性格なのは認めるけど、あくまで降りかかる火の粉を払ってるだけだって」

「部長の場合はその振り払う動作だけで火の根本まで破壊してますからね。自分の悪名がこれだけ広まってるって事、もうちょっと自覚して下さい」

 ぴしゃりと苦言を浴びせ、一は新寺へ向き直る。

「まず勘違いしないで欲しいんだけど、そういうのは部長のライフワークみたいなもので、仕事としてやってるわけじゃない。当然報酬も受け取ってないし、治安組織に雇われてもいない」

「は、はい……」

「で、こんな風に悪党退治を依頼されるケースは今回が初なんだ。事情は分かったけど、二つ返事でこっちも了承するのは無理だ。そこは了解して欲しい」

 はい、とこわばった顔で頷く新寺に一は息をついて、部長達と視線を見交わせる。

「それでどうします、部長」

「どうって、あたしはやりたくない。そんな一銭にもならない頼み事なんて」

「あ、あの、お金が必要なら、できるだけ用意しますから! 今は工面できませんけど、どれだけかかってもきっと、言われた分だけそろえますから……っ」

 その一生懸命な態度に、一は何か方法がないかと思考を巡らせていた。部室を訪ねる事も、部長にこうして会う事だって、彼女にとっては藁をも掴むような行為なのだろう。

 ここにせっかく救いの手があるのに、見捨てられるわけにはいかないと、こうしてなりふり構わず頭を下げ続けている。

「いや、お金の問題じゃないっていうか。……あのさ、新寺だっけ?」

「は、はい……」

「――あんた、そうやってぺこぺこ頭を下げて人にものを頼む以外に、お父さんに対して何か助けになるような事、してるの?」

 不意に鋭く詰問した部長に、新寺は虚を突かれたように瞠目する。

「わ、私は……だって」

「今、本当に助けて欲しいのはあんたじゃなくて、そのお父さんじゃないの? こうしてる間も汗水流して働いて、必死にお金を返そうとして。なのにあんたはここで何してるわけ。立ち向かうべき相手は他にいるんじゃないの?」

「それは……」

 新寺はみるみる表情を崩し、ぐっと唇を噛むようにしてうなだれてしまう。一の位置的に、新寺が両手でスカートの裾を皺になるまで握りしめているのが見えた。

「部長……もうそれくらいにするのだ」

「……そうね。ちょっと言い過ぎた。何の関係もない相手に説教するのってすごい疲れる」

 ついに、新寺がぐすりと鼻をすすり上げた。重苦しい雰囲気が室内に満ちていき、時計の針の音だけが静かに流れている。

 新寺の気持ちも、部長の気持ちも理解できる。どっちも間違っていない。新寺は自分に力がない事を誰よりも分かっているから、他人に助けを求めるしかなかった。それだって十分な勇気といえる。部長のように力任せに解決するだけが、物事ではないのだ。

「……あー。あれよ、あれ」

 ややあって頭がもっと冷えたのか、部長はばつの悪そうに前髪の白い一房をいじり。

「何かの縁だし。手伝ってやってもいい。悪徳金融業者をとっちめりゃいいんでしょ?」

「ほ……本当ですかっ?」

「うん。お金も別にいらない。ただし、こっちからも条件がある」

 歯を見せていたずらっぽい笑みを作った部長はソファから半身を倒し、生唾を飲む新寺を見つめた。

「――無事に事が済んだら、うちの部に入って。それが条件」

「そ、それって……余暇部の部員になるって事ですか?」

「それそれ。うん、我ながらいい考えよね。ヨビーの他にこれでもう一人。ぴったしノルマ達成じゃん、ねえ曲輪?」

「そ、そうですね……けど、いいのか新寺? 余暇部に入るって事はつまり、下手にお金をそろえるよりしんどいかもしれないぞ」

 新寺は迷う事なく、こくこくと首肯を返して来る。

「構いません。私にできる事があるなら……この身だって捧げます」

「いや、そんな生贄になるような言い方……」

「よっし契約成立っと! それじゃあ何から取りかかろうか? えーと曲輪に任せる」

「また丸投げですかっ?」

「だって調査とかだるいし。そういうのは曲輪の役目。新寺とかヨビーとか、後そこで突っ立ってるヤスとかと協力して敵の正体を暴いて。そんであたしを呼んで。華麗に出て行ってやっつけてやるから」

 そういう流れになるのか……。つまり一達が調査し、荒事になれば部長を呼ぶ。なるほど、部長がひたすら楽をするという点に目をつむれば、ごく合理的な作戦ではある。

「部長命令なら従いますけどね。新寺もそれでいいか? 色々話を聞く事になるけど」

「はい。私に分かる事ならできるだけお話します」

 ふむ。ならばとりあえず、この場で可能な限り情報収集に努めるべきだろう。一はまず、事の成り行きを黙って窺っていた安原へ視線を送った。

「聞いての通りだ。この件にはヤクザが関係しているらしい。暴走族とか不良チームは、裏でそういう手合いと取引する事もあるだろ? 良かったらそのあたり内情を聞かせて欲しい」

「カタギに話すのは抵抗があるが、姐さんの頼みとあらば仕方ねぇ。……確かに上納金と引き替えにバックについてもらう事はある。今、旧市街の方で縄張りを急成長させているチームが一つあるんだが、その連中は恐らくケツ持ちだ。だがフリーダムシュートは結成して日が浅い上、勢力を伸ばす方針でもない。交渉どころかコンタクトも取った事はねぇ」

「そうか……安原を通して接触できるかと思ったが、そううまくはいかないか」

 次に一は新寺へと話を振った。

「それじゃ、借金の取り立てに来てるっていう奴の事を教えてくれ。名前とか住所とか」

「は、はい。名前は桶浜刀蔵おけはまとうぞう 、と言ってました。電話番号とか書いてある名刺ももらいましたけど……」

「見せて」

 新寺が鞄から取り出した名刺をしげしげ眺めると、そこには人相の悪い三十代くらいの男の写真があった。名前に電話番号、メールアドレス、住所などが記載されているが、十中八九ダミーだろう。そう簡単に足がつくとは一も思っていない。

「桶浜刀蔵、ってのも偽名だろうな。この名刺だけでこいつのアジトを突き止めるのは現実的じゃない」

「ならどうするのだ?」

 呼子の質問に、新寺へ名刺を返しながら一は簡潔に答えた。

「新寺のお父さんに話を聞きたい。その人ならもっと、桶浜刀蔵について詳しいはず」

「ま、そのヤクザといっとう顔を合わせるのは被害者本人だろうしね。いい線じゃない?」

 部長からお褒めの言葉をいただいた。まったく嬉しくない。

「というわけで新寺。お父さんと会いたいんだけど、予定つくかな?」

「はい……早ければ今日中でも大丈夫だと思います。最近は仕事にも行かずに、ずっと部屋に籠もってるので……」

「それなら放課後かな。行くのは俺と新寺と……佐倉はどうする?」

「呼子もついていくのだ。何か力になれる事を探す努力はやめないのだ」

 そんな卑屈にならなくても。一は生暖かい視線を部長へ飛ばす。

「念のため確認ですけど。部長は来ないんですよね」

「行かなーい。つまんなそう」

 かく言う部長はソファへ寝転び、漫画を開き始めている。仮について来られても話がこじれそうだし、待機してもらっていた方が好都合かも知れない。一は無理矢理納得した。

「悪いが俺も今日は手伝えそうにねぇ。迷惑かけちまったところも回らないといかんし、チームにも解散を伝える仕事が残ってる」

 安原が後頭部を掻く。万一に備えてそれなりに戦力になりそうな安原が来ないのは不安だが、元々部員でもないのだしやむを得まい。

「俺と新寺、佐倉は放課後、校門の前で集合。新寺に家まで案内してもらって、お父さんと話す。こんなところでいいな?」

 メンバーの頷きを見て、一は一旦ミーティングを解散する事にした。

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