第一章
一章 第1話 部長
五月二日、木曜日。ここはS県S市、
「これは……部長?」
学校用で分けられたアドレス帳には『部長』の文字と、見慣れたアルファベットと数字の羅列。
内容を確認するべく件名に視線を送ると、そこには味も素っ気もなく、一の名字が載っているのみ。何やら嫌な予感がしてボタンをタップして中身を開く。
『お腹すいた。なんか買ってきて』
これだけである。一は思わず舌打ちしそうになった。いくら先輩といえど、部長といえど、毎度毎度こんな風に人をパシリのように扱って、少しは省みるという事がないのだろうか。せめてまだ頼みようというか、書きようがあるだろうに。
『もうちょっと脳を使って下さいよ。なんかって何ですか』
机の上を片付けながらも仕方なく返信用の文面を打ち、椅子から立ち上がりながらメールを送り返すと、さして間を置かずReが返される。
『じゅーs』
もはや変換すら億劫なのかと、呆れ果ててため息が出た。とはいえこれ以上食い下がっても時間の無駄だし、機嫌を損ねられでもしたら今後の活動に支障が出かねない。
部長の好みは甘いもの全般である。甘そうなものならどれでもいいだろうし、ささやかな抵抗として、あの人のために自分の頭のキャパシティを使いたくないというのもある。
鞄を手に教室を出て行き交う生徒達の間を縫い、本館校舎一階廊下を突き進み、昇降口の隣に併設されている学食へ向かった。
ジュースと野菜サンドを手に入れ、校庭が見渡せる渡り廊下を抜けて部室棟へ向かう。
部室棟には演劇部、美術部といった文化系の部室がひとそろい、一階から二階まで並んでいた。昼休みである事もありまばらに人の姿はあるものの、一はまっすぐ一階突き当たりの部屋まで進んでいく。
その部室の上についているネームプレートには、『
およそ文化部らしからぬというか、これだけでは何を目的とし、どういった活動をしているのか一見して読み取れる者はいないだろう。一だって、無関係であったら面食らうに違いない。
「……ん?」
と、今までにない事態に出くわした。一と部長以外近寄る者すらいないはずの余暇部の前に、長い髪の女子生徒がうろうろしていたのである。
背中まで伸びた赤銅色のロングヘアは先端がややくせっ毛になって、少しつり目がちな少女だ。紺のブレザーの肩にある学年章の色からして一と同じ一年のようだが、別に余暇部所属の部員ではない。もっと言えば、文化部の部員にも見た顔ではない。
「……何してるんだろ」
女生徒は気持ち猫背であたりを窺うようにしつつ、こそこそと首を伸ばして余暇部の中を覗こうとしているかのようだった。
けれども余暇部の窓は灰色のカーテンが閉め切られ、覗こうとしてできるものではない。本人もそれが分かっているのか表情はこわばり、一歩ドアに近づいてはまた引いての繰り返しである。はっきり言って挙動不審だった。
「あの……うちの部の前で何を」
ただでさえ色々といっぱいいっぱいである余暇部に、これ以上面倒事を持ち込まれては困る。そう直感した一は思い切って声をかけた。
「え……ひぇ、えっ、あっ……!」
ところがである。そう声をかけるや否やびくり、と髪が飛び上がる勢いで驚きをかました女子生徒が目を見開いて一を見て、あわあわと口をぱくつかせると。
「あ、あの、いえその……な、なんでもありません!」
「あ、ちょっと……!」
唐突にこちらへ向き直り、顔を伏せるようにしながら一の脇を抜けるようにして廊下を走っていってしまう。さっきまでのおどおどとした態度からは意外なほど足が速く、赤い髪をなびかせる細い背はあっという間に玄関口の向こうへ消えてしまった。
「な……なんなんだよ」
取り残されたように一は立ち尽くす。ひゅー、と静寂の中に冷ややかな風が吹き抜けていくようだった。一体全体あいつは何者なのだ。あるいは、知り合いの部室に行こうとして間違えたとか、そういう事情なのか。
まあとにかく、と気を取り直した一はドアへ振り向き、引き開ける。
余暇部の部室は実に散らかっていた。部長の気質を表したような散らかり方である。そこかしこの床に落ちている菓子袋、プリント、ティッシュ、漫画。こまめに掃除しているのに、ちょっと目を離すとこういった物に侵食されてしまうのである。
部室の中心にはでんとちゃぶ台が置かれ、壁には時計がかかりカレンダーが貼られ、その下には三つの本棚。三段になった中身はほとんどが漫画や雑誌のたぐい、たまにボードゲームとかレトロな携帯ゲーム機が押し込まれている。隣には液晶テレビと、絡んだケーブルがつながりっ放しの埃かぶった最新ゲーム機が一台。
部室奥の反対側のスペースには仕切りがされ、壁際へ押し込むようにして机と椅子とディスプレイPC、そして電気スタンドと印刷機が配置。このあたりのスペースは主に一が使うので、他と比べてどうにか清潔は保たれている。
そうして、ちゃぶ台の隣に設置された薄緑のソファに悠々と寝そべっているのが、我らの部長である。
三年生で、クラスはD組。就職や大学への受験など大わらわな時期であるにも関わらず、この人は毎日、昼休みや放課後はここで無為に時間を浪費しているのだ。
「部長、ジュース買って来ましたよ」
そう言ってちゃぶ台に部長の分の野菜サンド、缶ジュースを置くと大儀そうに身を起こしてくる。半ば頭にかぶせるようにしていた新聞紙を腕で払いのけ、大あくびをしながら上体をこっちへ振り向けた。
「よーし。ご苦労」
そう言って笑みを浮かべる、二つ年上の女子生徒。
目元や口元といった一つ一つのパーツが細やかに整い、控えめにも端正と言ってよい顔立ちなのだが、ストレートロングの黒い髪は埃やらゴミまみれな上にぼさぼさで、服はよれた緑のジャージと野暮ったいことこの上ない。
体型はスレンダーというか痩身に近く手足はすらりとしており、身長は男子の平均である一と同じくらいだろう。
「お、林檎ジュースじゃん。ちょうどこれ欲しかったのよね」
機嫌良さそうに片指を跳ねてタブを開け、遠慮なくぐいっと飲み干す部長。別に気分に合わせて選んだとかそういうのではなく、たまたま目についたジュースを手に取っただけなのだが、それを言って水を差す事もないだろう。
こん、と音を立てて缶を置いた拍子に部長の髪が垂れ下がり、そのこめかみに近い前部分が一筋、白くなっている事が分かる。一房だけが滑らかな雪のように純白なのだが、果たして染めているのか白髪なだけなのか、なんとなく尋ねるタイミングを外していた。
その間にも部長はサンドイッチのカバーを取ってかぶりつき始めている。
「前々から言いたかったんですけど、たまには自分で昼食の支度くらいしないんですか?」
「しない。めんどくさい」
こちらを見もせず、端的かつ自分勝手極まる返答が戻ってきて嘆息した。苦言を浴びせてものらくらとかわされ、または開き直られ。この人の怠惰さはまさに処置なしという按配である。
こんな有様であるから部室は荒れるし、部員は集まらないし活動もろくにままならないときたもので、文化部の名折れもいいところだった。
(……一ヶ月前は、かっこいい人だと思ったんだけどな)
疲れた気分で一もちゃぶ台の下から座布団を出し、その上に腰掛けて鞄を膝へ置くと、さっき部長が払いのけた新聞紙がちゃぶ台に裏返しで乗っているのが目に留まった。
手を伸ばして拾い、折り目を正して広げてみるとそれは新聞部が発刊している校内新聞である事が分かる。内容は先月での出来事が簡単に纏められ、見開きには今月の校内の有名人の動向や学校行事についてなど、ゴシップ的な煽り文句と添えて事細かに記してある。
「部長、新聞なんか読むんですね。興味ないかと思ってたのに」
「さっきそこでやたら元気な新聞部の一年に押しつけられたのよ。あんまし期待してなかったけど、これが意外と面白くて」
確かに、妙に挑発的というかウィットに富んでいるというか、いかにもマスコミっぽい文章やインタビュー内容が目立つものの、中身自体は分かりやすい。部活中の部員を主として撮影された写真も多く、実際の現場に立ち会っているような錯覚さえ覚えるほどだ。
「一年って言ったら、俺と同じで今年入学して来た生徒だよな……」
新聞部一年生、
「校内だけじゃなくて、町中の出来事にも触れてあるな。ええと、見出しには……『暴走族フリーダムシュート、一昨日も爆音走行で住民達を悩ます!』か」
最近、暴走族が世津町を騒がせているらしい。この新聞で取り上げられるだけでなく、テレビのニュースや近所の主婦達の間でも噂になっているようだ。一の地区にはまだ彼らのバイクは踏み込んで来ていないものの、その行動範囲は日に日に広がっているとも。
「フリーダムシュートってのが、なんか絶妙に頭の悪いネーミングで笑えるよね」
部長が他人事のように吹き出しているが、一はとても笑う気にはなれない。
「笑い事じゃないですよ。こいつら、暴走の他にも器物損壊やら恐喝やら……迷惑行為を上げていったらきりがない。うちのクラスにも町中でたむろしてる暴走族を見かけた奴がいて、みんな怖がってます」
「ま、そのうち警察が取り締まるでしょ。やんちゃできる今が花ってね」
などと、部長は肩をすくめながら缶に残った液体を喉へ流し込む。ずっとごろごろしているくせによくもこれだけ食欲があるものである。
「ていうか、さっきそこの廊下で何してたの。誰かと話してるみたいだったけど」
「あー……実は俺もよく分からなくて。一年生の女子なんですけど、なんかこの部室を窺ってて、声かけたらすぐ逃げちゃって」
事の次第を伝えて、この女子に心当たりはないか聞いてみるが、部長も思い当たる節はないようで。
「春だからかね、変なのが増えるのはしょうがないでしょ。まあ次に見かけたらあたしが応対してあげる」
「部長が……? 応対……?」
自然と声調が疑わしくなるのも仕方ない。なにせこの人、部活をするにあたっての事務や細々した雑事は全部一に任せて、本人は何もせず遊ぶばかりなのだ。それなのにここにきて急に風向きの変わるような事を言うものだから、素直に頷くのは無理というもので。
「ちょっと、何よその顔は。せっかく仕事をする気になってるのに不満でもあるわけ」
「ありますよ。ありすぎますよ。何だったら微に入り細を穿って説明しましょうか」
返事を待たず、一は抑えつけていたものがこみ上げるままに身を乗り出し、はす向かいの部長の目を睨むようにして話し始めた。
そもそも、余暇部は正式に部として認められたわけではない。ある事情から部長が活躍――というより、暴れたおかげでお目こぼしをもらったようなものなのである。
元はといえばこの部屋は今はもう廃部となってしまった文芸部であり、部室にあるデスクトップPCや本棚がその名残といえるのだ。
とはいえ、今の部長が就任した後により過ごしやすい環境にするとかどうこうという名目で色々と片付け、もとい魔改造を施したため、かつてはあった文庫本や詩歌集、事典など文学的な書物は半ば葬り去られてしまっている。
一応、活動を申請するにあたっての余暇部の目的は学生生活における苦労、苦悩と向き合い癒すためという建前なのだが、実態はこの通り、ひたすらに部長が惰眠を貪り暴食にふける魔窟と化してしまっている。
ならばとせめて元文芸部らしく文化部、ひいては西雲高校に貢献できるような活動を行いたいのに、部員が足りないおかげで生徒会からは許可が下りず、作業のための人手も足りないという窮状。
おまけに部費はどんどん部長の菓子代に消え、いよいよ一自身の自腹を切って捻出しなければならないところにまで来ているのである。
余暇部発足からおおよそ二週間でこの惨状。ただ一人残って活動できる部員として中々強く出られないのが今はただ恨めしい。
「……とまあ、そういうわけです。いかにうちの部ががたがたなのか、分かってもらえましたかね」
「あーもう、分かった分かった。それで、曲輪は今後どうしたいわけ」
この期に及んでも反省どころか部の存続にさえ協力する姿勢を見せない部長に、ほとほと嘆かわしくなってくる。一としても今は亡き元文芸部の義理のために余暇部なんていう得体の知れない部に残ったまではいいのだが、このままでは本当に後悔してしまいそうだ。
「とにかく、マンパワー不足じゃ何をするにも中途半端。その間に部長の暴虐によって余暇部の立場は悪くなるばかりです。なので俺は部員を集める事が第一であると提案します」
「ボーギャクって……もうちょっと言葉を選べよなー、部員のくせに」
部長は不服そうに足先で一の頭を小突くが、もう構ってはいられない。事ここに及び、事態は深刻化の一途を辿っているのである。
「今までは四月の一件や顧問の持木先生、伊勢先輩の努力の甲斐あって、部長がどんなにやりたい放題しようと生徒会からは大目に見てもらってました。だけどそれも限界です。今月半ばには体育祭がありますし、その頃には人員整理や引き継ぎ業務を完了させた生徒会も本格始動するでしょう。もしも精査に本腰を入れられた結果西雲高校の部としてふさわしくないと判断されたら、部自体を廃絶する体で是正されるのも時間の問題です」
その審判の時が訪れるまでにせめて人員だけでもそろえたいのだ。現状、余暇部に所属しているのは部長、一、幽霊部員の二名のみ。原則最低人数である五名には一人足りない。であればその一人――いや、念を入れて二人は欲しい、というのが一の希望だった。
そうまで言われてさすがに危機感を覚えたのか、部長も居住まいを正すように背筋をのばした。とはいえ裸足のままあぐらをかいてはいるが。
「体裁だけでも整えれば、おいそれと生徒会も強引な手には出られないと思いますし……他にも差し迫った課題は山積みですけど、それはこれから解決していけばいいんです。けれども、ここで上の人達に睨まれたら、今度こそ本当に粛清されちゃいますよ」
「えーと……ひょっとしてほんとに、洒落にならん感じ?」
「まあ、ぼちぼちやばいです」
「でもなー……人集めるって言ってもあたし人見知りだからなー。それに部がなくなっても、ほとぼりが冷めた頃にまた新しく立て直せばいいし? せっかくこれだけ住みよいところにしたのが取られるのは癪だけどさ」
などと、いまだうにゃうにゃごねる部長に、一は頭を抱えたくなった。これだけ危機意識を煽ってもこののんきぶり。なまけものにつける薬はないというのか。
「……あ! いい事思いついた」
すると、いきなりぽんと手のひらを拳で打った部長がにやりとして一を見下ろす。なぜかじわりとした汗が出た。こういう時思いつきで行動する部長は、ろくな顛末に至った試しがないのだ。
「それじゃ曲輪さあ、良さそうな候補を連れてきてよ。あたしが面接して、部に入れるかどうか決めるから」
「……部長が? 面接を?」
「そうそう。この余暇部に合う人材かとか、変な奴じゃないかとか、あたしがこの目で見極める。それなら二人くらい簡単に揃うでしょ。うんうん、悪くないね、この案」
……いや。それが部長としての普通の仕事なんですが。一はツッコもうとして、やめた。大いなる虚脱感に襲われたのと、せっかくやる気になっている部長の出鼻をくじく事もないとの思いがよぎったのである。
「……でも部長は探してくれないんですか? 俺一人じゃどう考えても効率悪いし、時間かかりますよ?」
「あたしはこの部室を出ない。まだまだぐうたらして――じゃなくて、部長として余暇部を守らなきゃいけない責務があるし」
「いや、でも」
「やれ。部長命令」
「……はい」
半目になり声音を低くした部長に睨み据えられて、渋々頷くしかなかった。以前の経緯も関わっているのだが、どうにもこの人には頭が上がらない。こんなんだから舐められてこき使われるんだろうな、と一は部室を出た。
実情をある程度把握してくれたまではいいが、相変わらず部長は横暴である。
言いたい事は山ほどあるものの、話を通して指針が決まっただけでも前進とポジティブに見るほかない。
まだ昼休みが終わるまでには時間がある。それまでに、できるだけ勧誘に精を出した方がいいだろう。
「……けど、あんな部長でこんな部で。入ってくれる物好きなんて、いるのかな……」
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