第96話 部室にて……

「暑い!」


 健作は、本日何度目になるかわからない叫びを上げた。


 夏が近づくにつれ、日増しに上がる気温により、ただでさえ密閉されているオカルト研究部の部室はうだるような暑さであった。


 健作は団扇を力の限りあおぎつつ、たらふく買い込んだ冷たい麦茶を飲みながら、また暑いと叫んだ。


「そう何度も暑い暑いって言わないでよ。余計に暑くなるじゃない」


 そう言いながら、十魔子も団扇を片手に麦茶を飲む。


「本当にここを部室にするつもりなんですか?」


 聞いてくる夏樹も、団扇と麦茶を手にしている。


 唯一、肉体を持たない花子だけは平気な顔をしている。


「ちょっと、この暑さは計算外だった。費用は俺たちが出すからクーラーつけてくれないものかなぁ?」


「ダメよ。もともと倉庫なのを無理言って使わせてもらってるんでしょ?」


「じゃああれだ。扇風機をつけよう。冷たい風が出るやつ。それならいいでしょ?」


「まぁ、それくらいならね」


「決まりだ。帰り際に買ってこよう」


 健作は強く頷き、


「そういうわけで秋山さん。明日にしませんか?」


 一人で黙々とキャンバスに筆を走らせている冬美に声を投げた。


 入院中、冬美と夏樹は霊障被害者の会の講習を受け、霊的な存在が実在すると知り、また、それらに立ち向かう人々の存在を、加えて、健作と十魔子の活動も教えられた。


 退院後、即ち今日の朝早く、夏樹と共にオカルト研究部にやってきて、あの時使っていた絵の具とキャンバスで絵を描きたいと言い出したのだ。


 健作は何が何やらわからなかったが、意外な事に十魔子はこれを許可した。もちろん自分らの監視のもとでという条件である。


 そして、朝も昼休みも、ここで絵を描き、放課後の今も、描き続けている。


「……」


 健作の呼びかけに何の反応も見せず、冬美は一心不乱に筆を走らせている。


 かつて、冬美の分身を形作っていたドリアン=グレイの絵の具は、瓶の中に入って傍に置かれている。


 冬美が筆を絵具につけると、ある時は赤、ある時は青といった具合に、彼女が望む色に変わって筆に付けられる。


 これは、異界物質である絵の具の性質もあるが、それを使いこなす冬美自身の霊的素養によるところが大きい。


 短期間とはいえ悪魔と共に異界で過ごした事で、魂が適応した結果である。


 同じような事が夏樹にも起きていて、あの日のように重力を操るなどという事はできないが、花子や、健作の頭の上のヒキガエルをその目で見る事ができている。


 夏樹が、麦茶のペットボトルを片手にそっと立ち上がって、冬美のそばに立つ。


「ほら、冬美ちゃん。水分水分」


「ん、ありがと」


 冬美が一旦筆を置いて、ペットボトルを受け取る。


「三葉君が明日にしないか? だって。涼しい方がいいんじゃない?」


 夏樹にも言われて、冬美が健作を見る。


「すみません。あと少しで終わりますから」


 そう言って麦茶を飲み干すと、再び筆を取って作業に戻った。


「ダメですね。こうなると梃子でも動きませんよ。以前は口も聞かなかったんですから」


 そう言いながら夏樹が椅子に戻って麦茶を一口。


「それにしても、よくわからないんだが、キャンバスが魂魄結晶になって、それに絵を描いて……どうなるの?」


 健作が疑問を口にする。


「つまり、絵の中でリヴァイアサンを倒したでしょ? その後で絵の中の異界が消滅した。その事でリヴァイアサンの霊子構造。人間で言う遺伝子ともDNAとも言えるものがキャンバスに染み込んだの。それで、キャンバスが魂魄結晶と似た性質を持ったわけ。ここまではいい?」


「う、うん……」


 健作は戸惑いつつ頷いた。夏樹と花子も同様に頷く。


「ただ、リヴァイアサンは倒された後、異界の消滅にも巻き込まれた。それで奴の霊子構造はかなり不安定というか、希薄な状態になっているのよね。リヴァイアサンとしての性質が薄まっていると言うか……」


「あれか? 自分の名前も思い出せない痴呆老人みたいな感じ?」


「嫌な例え方するわね。まぁ、本来は魂魄結晶も残さずに消えてなくなるはずだけど、キャンバスという現実の物体に宿っているから、辛うじて留まっている状態なのよね。で、その上に絵を描く事で、絵の方が持つ性質を宿らせる事ができるってわけ」


「はやい話が人格の書き換えか……。そう言うと、なんだか酷いことをしてるような気になるな」


「もうあのリヴァイアサンは死んだんだから人格もへったくれもないでしょ。それに、妖怪の性質が変わるのは珍しいことじゃない。昔は、別の文化圏に入れば同じ妖怪でも名前や性質が変わったし、神が悪魔になって、悪魔が神となる事も珍しくなかったんだから」


 十魔子が言うように、かつては国境、文化、言葉、価値観の違いがある種のフィルターとなって、妖怪の侵入を制限していた。妖怪達は国を渡る際に、その土地の文化や価値観に沿った名前や性質を持たざるを得なかったのである。


 しかし、今はグローバル化の時代。妖怪達は名前や性質を変える事なく国境を越える。そうなると、そこに天敵はいなくなる。欧州の悪魔にお経を唱えても効果はないのである。


「あれか? 田舎の純朴な女の子が都会の絵の具に染まってガングロギャルになるみたいな?」


「う〜ん。まぁ、そんなものね」


「いや、今時ガングロなんていませんよ」


 夏樹が口を挟む。


「え?」


「そうなの?」


 健作と十魔子が二人して目を丸くした。


「私も見た事ないですね」


 冬美も絵を描きながら言った。


「え? じゃあ今は顔を何色に染めてるんです?」


 十魔子が質問する。


「そんな事しませんて。ちょっと偏見入ってませんか?」


「うぐっ!」


「妖怪退治もいいですけど、もっと流行に触れていかないと。竜見さん、いい素材を持ってると思うんですよねー」


 夏樹が指でカメラを作って十魔子を覗き込む。


「そ、そんなこと……」


「いや、俺もそう思うよ。十魔子さん」


 健作も指カメラで十魔子を覗く。


「ちょっと、やめてよ」


「三葉君、ちゃんと竜見さんを外に連れ出してます?」


「え? い、いや、俺も修行とかで忙しくて」


 このところ、健作の休日は師匠の千秋典泰との修行に費やされている。ついこの間まで武術経験のない素人だった健作を、急ピッチでものにするためにはこれでも足りないくらいであり、健作もそれを実感している。この修行のおかげでリヴァイアサンとも対抗できたのだから。


「ダメですよー。インドア派の女の子は無理矢理連れ出すくらいが丁度いいんですから」


「される方は結構ウザいけどね」


 冬美が聞こえるようにぼやいた。


「うっ……!」


「でも、ウザいと思うのと同時に、ありがたいとも思ってたよ」


「そ、そう?」


 夏樹は少し安心したようにため息をついた。


「そ、そうだわ! 今度の休みにみんなでショッピングに行きません? 少し電車に乗って行った所に、いい感じの店があるんですよ」


「い、いや。私に遊んでる暇は……」


 十魔子が渋ると、健作がおもむろに手を挙げた。


「俺はいいと思う」


「健作君!?」


「いい機会だから言うけど、十魔子さんは気を張りすぎ。少しは遊んだ方がいい」


「ちょっと待ってよ。そういう気の緩みが悪魔につけ込まれて……」


「それ逆じゃないかな? 今までのパターンだと、むしろ気を張ってる方がつけ込まれてる気がするんだよね。博之もそうだし、秋山さんもそうじゃない?」


「あー、あるかもしれませんね」


 冬美が手を止めずに答える。


「た、確かにそんなパターンもあるかもしれないけど……」


「それにさ、メフィストの野郎がスマホを介して秋山さんに取り憑いたって話だったじゃん? これって、つまり悪魔が時代に合わせて進化してるって事じゃない?」


「う、うん、それは、まあ……」


 今回、メフィストは夏樹のスマホを通して立体映像のように現れた。戦いの後、回収したスマホは凄まじい熱を持ち、部品によっては溶けているものもあった。


 有名なメリーさんの電話をはじめ、電話に関する怪談はよくある。つまり、霊気を電波に乗せて送信する事は可能なのだ。


 今までの電話は声だけを送るものであったので、怪異も声だけのものだった。


 しかし、現代の電話であるスマホは声はおろか、画像も映像も送れるほど進化している。この延長として、立体映像として自分自身を送り込み、標的に直接干渉できるほどに、悪魔側は進化を遂げていると言える。


 ただし、媒介となるスマホには凄まじい負荷が強いられる。送信側のスマホにも同程度の負荷がかけられたと推測されるし、受信側のスマホはそのまま弱点ともなる。博之の放った銃弾1発で、干渉が止んだのがその証拠だ。


 このダメージは、メフィストにも幾分かはフィードバックされているはずだし、ともすればそのまま死んだ可能性もある。


 だとしても、悪魔側が現代社会の最新機器を使って人に害をなしている事に変わりはない。


「時代の先端を行く奴らに対抗するには、こっちもそうしなきゃ。手っ取り早いのが街に出て遊ぶ事だと、俺は思うな」


「街に出て遊ぶ事が、どうして悪魔に対抗することになるのよ?」


「だって、街にはその時に流行してる何かが溢れてるじゃない? 流行ってのはつまり、今みんなが欲しがってるものって事だ。それって、悪魔がすごい利用しそうじゃない? 敵の欲するものを知るのが戦いの基本だって、師匠が言ってた」


「うーん、千秋さんが言ってたのなら、まぁ、一理ある……かな? じゃあ、行ってみますか?」


「決まりですね!」


 夏樹がパンと手を叩いた。


「いいのかなぁ……?」


「いいんだって!」


 なおも悩む十魔子に健作は断じるように言った。


 健作はかねてより十魔子の交友関係のなさに懸念を抱いていた。


 毎日毎日、授業が終われば目立たぬように校内を歩き回って妖怪が入り込んでいないかをチェックし、それ以外は勉強か修行をしている。


 無論、友達はおろか、自分と花子以外の誰かと学校で話している姿を健作は見た事がない。側から見ても寂しいものがある。


 確かに、十魔子の抱えている事情は、他の高校生とは違う。だからこそ、その事情を弁えてくれている友人は貴重だ。


 一度、霊障に遭った彼女らは、これからの異界造りに際して情報源となってくれるかも知れないし、そうでなくても、そのような友人はいてくれるだけで良い。それだけで充分に救われているのだ。


 健作は心の中で夏樹に手を合わせる。彼女の持つある種の強引さが、十魔子や冬美の様な閉じ籠りがちな人間にとって疎ましくもあり、また、必要なものでもあるのだろう。


「もしかしたらナンパとかされちゃうかもしれませんねー」


 冬美が筆を走らせつつ軽口を叩く。


 それを聞いた健作の顔が凍りつく。


「え? いるの? ナンパ?」


「す、少しだけですよ。仮に言い寄ってきたとしても、無視すればいいだけですから」


 夏樹が言うと、健作の顔がほぐれた。


「そ、そうか、そうだよね。ハハハ……」


 と、朗らかに笑いながら、ウエストポーチを開き、拳銃を取り出す。


 そして、弾倉に5発を結晶弾が装填されている事を確認する。


「よし」


「よしじゃないわよ!」


 十魔子が叫んだ。

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