第94話 二人の十魔子

 十魔子が分身の十魔子の髪を引いて健作から引き離し、自分の前に立たせる。


「え? え? 十魔子さんが二人?」


 困惑している健作を他所に、十魔子が分身の十魔子を睨みつけている。


「言うことも聞かないで勝手なことして、あんた、どういうつもり!?」


 十魔子が叱りつけるが、分身はどこを吹く風で、健作にウィンクして微笑みかける。


「!」


 健作がドキッとして頬を赤らめる。


「ちょっと、今は私が話してるでしょ!」


 十魔子が怒鳴る。


 しかし、分身は無視して健作に手を振る。


「あ、あはは……」


 健作は困惑しつつ手を振り返した。


「あー、もう!」


 激昂した十魔子は、分身の胸に指を刺す。


 すると、分身の形が崩れ出した。


「……」


 分身は十魔子の顔を見たが何も言わず、呆れたように肩を竦めて絵の具に戻った。


 十魔子足元に絵の具の水たまりができた。


 ここにきて、ようやく健作にも合点がいった。


「そっか、分身を作ったんだね、秋山さんみたいに。凄いなぁ十魔子さんは」


 賞賛を口にしながら、健作は十魔子のそばまで駆け寄る。


「……」


 十魔子が無言で健作に向かって手を差し出した。


「え、なに?」


「瓶、持ってるでしょ? 出して」


「え、あ、はい」


 健作は、何かの役に立つかもと、100円ショップで思いつく限りの品を買ってウエストポーチに入れてある。その中には大丈夫さまざまなサイズの瓶もある。


 その内の、手のひらに収まる程度の瓶を取り出して十魔子の手に乗せる。


 受け取った十魔子は、蓋を開け、瓶の口を絵の具の水たまりに向ける。


 すると、絵の具が浮き上がり、絵の具をぶち撒ける映像を巻き戻したかのように、ひとりでに瓶の中へ収まっていく。


「おぉ、すげえ!」


 健作が簡単な声を上げるのを無視して、十魔子は絵の具が一滴残らず瓶に入ったのを確認すると、蓋を閉める。閉め過ぎるほど閉める。


 限界まで蓋を回して、なお十魔子は力を入れ続ける。


 ピシッ


 瓶にヒビが入る。


「と、十魔子さん。それ安物だから無理しない方が……」


 その時、十魔子がバッと振り向いた。


 顔を真っ赤に染め、口をへの字に結び、責め立てるような目で健作を睨みつける。


「あ、あの……」


「あんな女にデレデレして……」


「え? だ、だって、十魔子さんだったし……」


「女の子だったら誰でもいいんでしょ!」


「えぇ!」


「ふんっ!」


 そうして不貞腐れるように踵を返してキャンバスへ向かい、そのまま出て行ってしまった。


「ち、違う! 違うんだぁぁぁぁ!」


 健作がその場に突っ伏して慟哭する。


 それがきっかけになったわけではないが、異界全体が揺れ始めた。崩壊の兆しである。


 ここは絵の中に作られた異界。即ち人工的な異界である。


 そのような異界は総じて脆く、維持管理する者がいなくなれば容易く崩壊し、消滅する。


 ここの場合、維持管理をしていた者はリヴァイアサンと秋山冬美であった。


 この2人がいなくなれば、消滅は必然である。


 さて、消滅する異界の中にいる者はどうなるか?


 健作のように物理的な肉体を持つ者は、多くの場合、身体は出入り口から外へ放り出される。だが、魂が崩壊に巻き込まれて消滅するか、今回のように絵の中の異界の場合は、その絵が描かれていた媒体に封じ込められてしまう例も報告されている。


 なので、出来るだけ速く脱出するのが良い。


 健作もそそくさとキャンバスに向かい、片足を突っ込んだ瞬間、ふとリヴァイアサンの遺体とも言える黒い染みを見た。


「……」


 それは哀れみだろうか? 言いようのない感情が胸に去来する。


 聖書にも登場する大悪魔が、アロハのチャラ男に化け、海を渡り、日本の高校生に敗れ、誰にも顧みられないまま消滅していく。


 それを思うと殺し合いをした相手ながら、同情を禁じ得ない。


「なにやってんの。はやく出なさい!」


 突如、十魔子の手がキャンバスから伸びてきて健作の胸ぐらを掴み、一気に引き寄せる。

「うわっ!」

 その直後、崩壊が始まった。

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