第61話 大木

 前世がヒキガエルだったからか、健作は昔から泳ぎが得意だった。


 なので、黒い腕に海へ引きずり込まれたとき、とにかく泳いで海面に向かおうとした。


 しかし、海面に近づくにつれ螺旋状の海流に巻き込まれ、水底へ押し戻されてしまう。


 息が苦しくなったとき、ふと師の言葉が浮かんだ。


『いいか健作よ、戦は水物だ。優勢と劣勢はたやすく入れ替わる。もしもお前が劣勢に陥ったのなら、焦って攻め返してはならぬ。耐えて機を伺え。むやみに動かず、損耗を押さえるのだ。しかし、敵から目を反らしてはならん。いつか攻め手に綻びが生まれる。時にははかりごとを用いて機を生み出すのもいいだろう。その時、敵は無防備だ。一気に食らいつけ』


 修行でボコられて気絶している時に言われたので記憶にはないが、きっと脳内には届いたのだろう。


 健作は教えに従ってピタッと動くのをやめ、銃をポーチに仕舞って流れに身を任せた。


 どす黒い海の中を行ったり来たりして、流れるプールみたいで息苦しいがなかなか楽しい。そんな中でも、ベルフェゴールの位置だけはしっかりと把握し続けていた。


 そのうち、水底まで届くほどの衝撃が伝わり、徐々に海流が弱くなっていく。


(十魔子さんか!?)


 疑問に思う間もなく、海流がピタリと止んだ。


(今だ!)


 健作は木刀をポーチから取り出し、わずかに残った酸素を燃焼させてベルフェゴールまで全力で泳ぐ。


 水の中で速度はどんどん加速していき、最終的に弾丸のような勢いで水面から飛び出し、木刀を仮設トイレに突き立てた。


 勢いあまって仮設トイレは倒れた。


 健作は横倒しになったトイレの上で、突き刺さった木刀をさらに押しこむ。 


『ぐああああ!』


 悪魔が悲痛な叫びをあげる。哀れに思う気持ちを、健作は振り払う。この気持ちに従って先ほど痛い目を見たばかりだ。


 その時、ベルフェゴールの細長く青白い腕が仮設トイレのドアをぶち破って飛び出してきた。


「!?」


 ベルフェゴールの腕は健作の首を掴んでそのまま持ち上げる。


「このぉ、往生際が悪いんだよ!」


 健作は苦悶の表情を浮かべながら木刀の柄を踏みつけてさらに押しこめる。


『ぐぅぅぅ』


 ベルフェゴールが唸る。理性を感じられない野獣のような唸り声だ。


『と、十魔子ちゃん……』


 十魔子の心の中で狼狽した花子の声がする。


 それが切欠なのかはわからないが、十魔子は足になけなしの力を入れて立ち上がる。


 同時に髪色が水色に変わる。


『十魔子ちゃん、いけない、これ以上は―』


 心中の花子の警告を無視し、十魔子は駆け出した。


 黒い海面をまるで地面の様に走り、仮設トイレに突き刺さっている木刀に飛びつく。


「十魔子さん!?」


 健作の声も耳に入らない様子で十魔子は目を閉じる。


「大事なのはできると信じる事……」


 そう呟くと、十魔子の身体から水色の光があふれだした。


「大……霊……波ぁ!」


 そして、木刀へ光を一気に流し込む。


 木刀から根が生えてきて仮設トイレを貫き、黒い海にまで根を下ろす。


 黒い海の水かさが減ってきた。根に吸収されているのだ。


 続いて枝が生えてきて、瞬く間に成長していく。


「わ、わ、わ!」


 枝はお互いに絡みあい健作を巻き込んで大きな幹を形成する。 

 そうしてどんどん成長し、天にまで届くほど高くなる。


 幹が昇りきると、そこから枝が広がっていき、青々とした葉をつけていく。


 だが、そこで終わりだった。


 葉は枯れ、枝はしぼんでいき、幹は朽ち果てていく。


 天まで届く大木は瞬く間に塵となって消えた。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 健作が落ちてきて、仮設トイレの上に着地する。


「なんだ今のすっごいの。十魔子さんがやったの!?」


 健作は感動と驚愕が入り混じった顔で今まで大木が伸びていた空を見上げた。


 返事はなかった。


「十魔子さん?」


 健作が振り向くと、そこには木刀を掴んだまま微動だにしない十魔子がいた。


 彼女の髪は真っ白に染まっていた。

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