第15話 分霊人 三葉健作

「三葉君、三葉君!」


 黒い森の中で十魔子は健作の肩を掴んで揺する。蛇からは十分に離れたと思うが、油断はできない。メフィストの目もあるだろう。


「うあぁぁぁぁぁ、うあぁぁぁぁぁぁ!」


 健作はパニックに陥り、わけもわからず叫び続けている。こうして抑えておかないとどこかへ走って行ってしまいそうだ。


「三葉君、落ち着いて、大丈夫だから!」


「うあぁぁぁぁぁぁ!」


 何とかなだめようとするも効果はない。


「あー、もう!」


 十魔子は思いっきり健作の頬を張った。


「!?」


 そうして、健作はようやく叫ぶのをやめた。しかし、目の焦点は定まらず、体の震えも止まっていない。無理もない。普通に生きていれば一生に一度、その終わりに体験するだけで済む死の恐怖を、短期間に三回も味わったのだから。このような状態になったとしても恥ではない。


「三葉君、私がわかる?」


 十魔子が優しく問う。健作は呆けたようにぎこちなく何度も頷いた。


「よく聞いて、私はこれから、斎藤君を、あなたの友達の救出を試みます。あなたはなんとかここから脱出して―」


 十魔子は紙とペンを取り出して、そこに電話番号を書き、健作に渡す。


「この番号に連絡して、この状況を伝えて。そうすれば向こうがうまくやってくれるから」


 健作は渡された紙と十魔子を交互に見て、何かを言いたげに口を動かす。


「いい? この異界は霊気で構成されていて、その素となる霊気は外の世界から入ってきてるの。だから、どこかに霊気が入ってくる場所があるはず。霊気の流れを辿ってそこを探して。今のあなたならできるはずだから」


 十魔子は決意のこもって目で言ってから、立ち上がった。


 その手を健作が掴んだ。


「あ……あ……」


 健作は必死に首を振って口を動かす。


「だめ……行かないで……一緒にいて……」


 蚊の羽音のような、か細い声でそう言った。母親から離れたがらない幼稚園児のようだった。


 十魔子はその場にしゃがみ、健作と目を合わせて優しく諭す。


「三葉君、巻き込んでしまって本当にごめんなさい。明日になれば……今まで通りとはいかないけど、普通の生活に戻れるわ。だから、今は、やるべきことをやって」


 そして、微かにだが優しく、哀しそうに微笑むと、健作の手をほどいて立ち上がり、振り向かずに駆けて行った。


「あ……」


 健作は追いかけようと立ち上がる。しかし、何かに足を掴まれてその場に倒れる。顔を後ろに向けると、いつの間にか蟇蛙が足元にいて、健作の右足に舌を巻きつけている。


「は、離せよ!」


 健作は蹴り飛ばそうと左足を振り上げる。しかし、振り下ろすことができない。健作の中で何かが拒んでいるのだ。


「……くそぅ!」


 健作は力なく左足を放り出し、そのまま大の字に寝転がる。


 やがて、蟇蛙は健作を引きずって後退を始めた。十魔子の言う霊気の流れを感じ取って出口に向かっているのかもしれない。


 分霊獣は生存本能が形になったものだと十魔子は言った。ならば、こうして好きな女の子も友人も見捨てて自分だけ助かろうとするのも、まぎれもなく健作自身の本能なのだ。それを思うと、健作は情けなくて涙が出てきた。


 確かに、これが最良の方法なのかもしれない。今の自分は足手まといにしかならない。助けを呼びに行くのも大切な役目だ。だが、本当にそれでいいのだろうか?


 涙を拭う手の中に、十魔子が握らせたメモがある。走り書きだが、読みやすいきれいな文字だ。彼女はどんな気持ちでこれを書いたのだろう? 恐怖はあったのだろうか? いや、あるに決まっている。しかし、彼女は立ち向かい、自分は文字通り本能に引きずられて逃げ出している。蟇蛙が一歩後退するごとに、自分の中で何かが失われていく気がする。それは、時に命より優先される、生存本能とは真逆のなにか。理性、誇り、愛、人間を人間たらしめている全てのもの。このまま蟇蛙に引きずられて異界を脱出すれば、それらを永遠に失ってしまう。そんな気がした。そうなったら、自分は十魔子の言う半人半獣の怪物になるのだろうか? よしんば、そうならなくても、ただ生きてるだけの人間になるだろう。そうなれば獣と同じだ。家族を愛し、友情を築き、十魔子を想っていたあの頃の自分には戻れない。それは三葉健作という”人間”の死に他ならない。


 もう、死ぬのはごめんだ。


「うあぁぁぁぁぁぁ!」


 健作は恐怖を押しのけるように雄たけびを上げ、手足を踏ん張る。だが、蟇蛙の力は弱まらず、むしろ、さらに強まったように感じる。

 ふと、右手に固いものが触れた。漬物石のような大きな石だった。健作は反射的にそれを掴み、大きく振りかぶって蟇蛙に叩きつけた。


 グシャっと嫌な感触がして、足に巻き付いていた舌が緩んだ。


「はぁ……はぁ……」


 立ち上がり、後ずさる健作。石をどけてその下を見ようとは思わない。


「あ……」


 今になって、分霊獣は魂が変化したものだということを思い出した。つぶしても良いものだったのか。健作は自分の体を確認するが、特に変化はない。あるとすれば心の内だ。恐怖が消えたわけではない。心臓や胃袋が凍えているような感覚はまだある。しかし、体は動く。


 健作は大きく息を吸い込んで、自らの分身に背を向ける。


「わるい、正しいのはお前だ。でも、俺は行くよ」


 自分の分身に詫びるというのも変な話だが、とにかく健作は分霊獣に詫びを言い、振り向かずに走り出した。

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