エピローグ

エピローグ

「――って言う『プロローグ』を書いてみたんだけどぉ~」

「……は?」


 俺の鼓膜に意味不明な言葉が流れ込んでくる。

 俺は視線を目の前の原稿用紙から正面の妹へと移すと、何とも言えない表情で聞き返していた。

 すると。


「だぁかぁらぁ……新しい小説のぉ~、プロローグを書いてみたんだよぉ~? ……どうだった?」

「……は?」


 満面の笑みを浮かべる妹が、更なる意味不明さを上乗せして、当然のように俺へと感想を求めてくる。

 だから再び何とも言えない表情で聞き返す俺。うむ、大事なことなので二回聞いてみた訳だ。だって、まったく理解できないのですからね……。

 俺の疑問の表情を眺めていた妹は、呆れたような表情を浮かべて言葉を繋ぐのだった。


「お兄ちゃんが新しい小説を読みたいって言っていたんでしょ~?」

「まぁ、確かに言ったが……」

「だから『頑張るぞい!』で書いたんだよぉ~」

「いや、『ぼんぼり』すぎだろうがっ!」


 確かに俺が「小豆の新作を読みたい」とは言ったさ? 退学届ではない小説をな! 

 ……まぁ、読んでみたところ小説だと思ったから、そこは認めよう。そして、俺の為に頑張ってくれるのは非常に嬉しいところではある。

 駄菓子菓子!

 ……頑張るにも限度と言うものがあることを覚えてくれたまえ。どうして、この子は俺がからむと常識が欠如けつじょするのかねぇ。と言うよりも、読む側のことも少しは考えてほしいものだ。

 なお、「頑張るぞい!」も「ぼんぼる」も、両方「頑張る」って意味である。


「……」

「ねぇ~、どうだったぁ~」


 俺は視線を妹から――自室の床に並べられた原稿用紙へと移す。

 うーん、いつの間に俺の部屋の床って白く塗り替えたんだろう? それとも、壁でも塗り替えるつもりで養生ようじょうとしていたのだろうか……。

 まぁ、並べたのが小豆なのは知っているし、その様子を俺も見ていたんだけどね。

 そんな現実逃避をしたくなるほどに、現在俺の部屋の床一面。それも何十枚単位で重なった厚めの状態で並べられている原稿用紙のカーペット。実際に何枚あるんだ、これ?

 数えていないから具体的には知らないのだが。いや、途中で数える気力すら失ったんですけど。

 確実に退学届で書かれた『百枚』の数十倍はあると思う。事実、全部を読み終えるのに一週間ぐらいついやしたからさ?

 とにかく、俺が絡んで常識を欠如した妹の『理由なき挑戦』――うん、ひらたく言えば『無駄な頑張り』を読み終えた直後。

 心地よい疲労感をむさぼりたかった俺に向かって、得意げに言い放った妹の一言に呆然とした表情を浮かべる俺なのであった。

 

「いや、まぁ、うん……面白かったぞ?」

「そう? えへへ~♪ ……すぅ~、ふぁ~♪」

「……それでなんだけどな?」

「……えへへへへ~♪ ……なぁ~にぃ~?」


 確かに色々と言及したい部分があるのだが、とりあえず素直な感想を妹へと伝える俺。いや、例え『無駄な頑張り』だったとしても、わざわざ俺の為に書いてくれたんだから感想を伝える義務はあると思う。

 とは言え、ボキャブラリーが少ないんで「面白い」くらいしか言えないんだけどね。

 そんな俺の感想に満足そうに微笑む妹。そして当然のように俺の右腕に絡まり通常営業を開始するのであった。

 実際に面白かったし、こんなぼんコメントでも喜んでもらえて俺も満足だ。

 ……さてと、感想を伝えたのだから言及しても大丈夫だよね? ちゃんと義務は果たしたんだから。

 俺はいまだに満面の笑みを浮かべる妹へと、気になることをたずねるのであった。


「俺の聞き違いだと思うんだが……お前、プロローグって言わなかったか?」

「言ったよぉ~」


 どうやら聞き違いではないらしい。

 

「……すまん。俺には、『どの部分がプロローグ』だったのかを理解できていないんだけどさ? お前の言うプロローグって、どこまでなんだ?」

「……何言っているの?」


 だから俺は妹へ謝罪をしてから、妹の言いたかった部分を訊ねることにした。

 そう、俺は全部を読んだ感想として「面白かった」と伝えたのだが、正直プロローグの部分を理解していたのではない。

 と言うよりも、プロローグと本編が区切られていた記憶がないんだけどな? 普通に本編だと思って読んでいた訳だし。

 つまり、妹の聞きたい部分を正確に把握はあくしないで答えていたってことになる。

 もちろん全部を読んだ上で「面白かった」のだからプロローグも含まれているとは思うのだが、俺の為に頑張って書いてくれた作品を、俺が曖昧あいまいに答えるのは失礼だと思うのだ。

 だから妹の聞きたい部分を聞き、もう一度読み返して真摯しんしに感想を伝えようとしていた俺。

 ところが、そんな俺の問いかけに怪訝けげんそうな表情で言葉を返す。

 そして――


「全部がプロローグに決まっているでしょ~?」

「……はい? ……えっと、最初の一枚全部?」

「だから、全部は全部だよぉ~」

「……いや、だから――」


 当然だと言わんばかりに全部だと言い張る妹。

 だから俺は『冒頭一枚目の全部』なのかと聞き返す。

 それなのに妹は全部の一点張り……いや、だから、その全部の範囲を聞いているんだけどな? 違うなら何枚分なのかを教えろよ?

 そんな困惑を含んだ表情で言葉を繋ごうとしていた俺の言葉を遮り――


「だぁかぁらぁ……『これ』全部だって言っているでしょ~?」

「……は? ……これ、ぜん、ぶ?」

「そうだよぉ~」


 呆れた表情で紡がれた妹の言葉。と言うよりも、床に向けて大きく両手を広げて前かがみになった妹の……押し売りされたスイカに見惚れて。……事実だけど、そこではない。

 正確には、広げられた両手に指し示された原稿用紙を呆然と眺めていた俺。

 我に返った俺は疑問の声を発すると視線を妹へと戻し、右手の人差し指で床を指し示す。

 そして、その指を左から右へと部屋全体に行き渡るよう、なぎ払うようにワイパーしながら「これ全部なのか?」と問い質す。

 そんな俺の問いに「だから最初から言っているじゃん?」なんて言いたそうな表情で、頬をふくらませて肯定する妹。

 そう、妹は、この膨大ぼうだいな量の原稿用紙――『理由なき挑戦』そのものがプロローグだと言い張っているのだ。

 一瞬理解が追いつかなかった俺だったのだが。


「――って、何『絹ハサ』リスペクトしているんだー!」


 次の瞬間、妹の意図に気づいて大声で叫んでしまっていた。

 ――と、思わず叫んでしまっていたのだが。

 正直、リスペクトどころの問題ではなかった。あきらかに、妹の作品がリスペクトの範疇はんちゅう逸脱いつだつしていることを理解している俺なのであった。


 確かに絹ハサには――

 エピローグの最後に「こんな『あらすじ』を書いてみたんだけど?」と言うシーンが……かなりの頻度ひんどで存在する。ある意味、お約束と言っても過言ではないだろう。

 とは言え。

 絹ハサはラノベ一冊分の『あらすじ』と言うネタに過ぎない。そう、あくまでも『あらすじ』なのだ。

 あらすじゆえに、一冊分の話自体は完結しているのだと思われる。

 ところが、だ――


「どこの世界にラノベ『約七冊分』に渡るプロローグのある作品があるって言うんだー!」

「あるじゃん、ここに……」


 あるんだって? それなら仕方ないか……。

 俺の叫びに「だから、そうだって言っているでしょ?」なんて言いたそうな表情で床を指差して答える妹。

 まぁ、正確な枚数を把握していないから違うのかも知れないのだが。

 腰をえて読んだ場合、俺は一日で一冊はラノベが読めるからさ。内容の理解度は無視しておいて。

 だから、一週間かかったから単純に七冊分だと判断した訳だ。

 でも、お前……プロローグで七冊分とか、本編をどれだけ書くつもりなんだよ。


「なるほど、それもそうだな……っと、それよりもだな?」

「……うん?」

  

 とは言うものの、そこは言うほど問題ではない。読むのは大変だけど苦痛だとは感じていないのだし、面白い作品ならば、むしろ俺の方から切望するくらいだ。

 事実、小豆の作品は面白い。ずっと読めるのならば嬉しい限りだと思う。

 そう、一読者としては、これ以上の幸福はないのだろう。まぁ、単純に作者の苦労は気になるところだけどな。


 俺は素直に納得すると『本当の問題』を提示しようと言葉を紡いでいた。

 あっさりと納得されたことに驚いたのか、妹はジッと俺を見つめていたのだが気を取り直して相槌を打っていた。

 だから――


「いや、これ……なんで『俺』で書かれているんだよ?」

「えぇ~? いいじゃん……」


 困惑の表情を浮かべて、俺は本当の問題点を言及する為に妹へと訊ねるのであった。


 うん、正直に言って膨大な量も、これがプロローグなのも、したる問題ではない。

 と言うより、こんな重大な問題があるから問題にならないとも言えなくもないのだが……。

 そう、妹の書いた作品は俺が主人公として話を進めている。つまり、俺視点で描かれている作品なのである。


 そんな俺の言葉に口をとがらせて反論する妹。いや、いいんだよ? 俺で書くこと自体は。

 まぁ、百歩譲って俺が主人公なのは認めよう。アニオタな妹ですし、読者が俺だからね。ある意味自然の摂理なのかも知れないさ。

 だから別に「何、勝手に俺で書いているんだよ?」なんてことは思わないし、自分が主人公の方が楽しめるから気にしない。

 でもさ?


「いや、そもそも……これ、完全に実話じゃねぇかよ?」

「そうだけどぉ~? ……」

「なんで、お前が完璧に書けているんだよ……って、何をしているんだ?」

 

 完全に実は私は……もとい、完全に実話。そう、妹の書いた作品は俺視点の実話なのである。

 もちろん、俺と妹が一緒にいたシーンなら書けるだろう。自分だって知っているんだからさ。

 だけど、妹のいなかったシーン――いや、もっと言ってしまえば……こいつに俺の感情や思考なんて書けるはずはないんだ。

 それなのに、最近俺の周りで起きたことが克明こくめいに、更に俺の感情や思考までもが克明に描かれている。

 いくらアニオタでも、例え予想で書いたとしても、そう言うレベルの話じゃない。

 もう、まさに――

 吸血鬼の父親と人間の母親のハーフな関西弁の吸血鬼だとか。

 人間大の自分そっくりな外部ユニットに乗り込んで地球を観察している真面目すぎる宇宙人だとか。

 主人格は女性なんだけど月を見るたびに男性と女性をスイッチできる痴女な狼男だとか。

 そんなカミングアウトに匹敵ひってきするレベルなのだと思う。いや、知らない。

 

 仮に妹がストーカーだとして……俺に盗聴器とかカメラとかを仕込んでいたのなら。

 あぁ、うん。その点を強く否定できないのがに落ちないところだけどな。

 情景くらいは書けるだろうが、さすがに俺の心情までははかり知れないのだろう。

 いや、まぁ……計り知れているのなら誰もストーカーなんてしないだろうしね。知らんけど。

 とにかく、俺しか知らないはずの思考さえも書かれている妹の作品に、ただただ恐怖を覚えていた俺。


 そんな恐怖を覚えながら紡いだ言葉を受けて、普通に答えると立ち上がって背中を見せる妹。 

 視線を妹の背中へと移しながら言葉を繋いでいた俺の視界の先。何やらモゾモゾと体を動かす妹の姿が映し出されていた。

 背中越しの為に何をしているのか理解できていない俺は、妹の背中に問いかける。

 すると妹は振り返らずに――


「ん~? お兄ちゃんに『原稿料』を、ねぇ~? もらおうかなぁって……」

「は? ――ッ!」


 ごく自然に言葉を紡ぐ。原稿料って、何?

 言葉の意味が理解できずに困惑の表情を浮かべる俺の視界に。

 突然ガバッと小豆の両手が大きく広げられた姿が映し出される。両手にはパジャマの前立て――ボタンを留めている部分が握られている。……は?

 当然ながら、両腕の奥にはパジャマの前面部分が広げられている。……はい?

 信じられない光景に呆然としていた俺の目の前で、妹の前立てを握っている両腕が引き下ろされ、パジャマのえりが下がり、肌色の肩が露出する。……は、はいぃ?

 俺は起こりうる事態に備えて視線を落として床を凝視していたのだった。


「い、いやいやいや、何をしているんだっての!」

「だから、原稿料を、ねぇ~?」

「――ッ! 原稿料って、何だよ! と言うより、パジャマ落ちたから拾えって!」


 危機的状況に直面して、精一杯の抵抗で言葉を紡いでいた俺の眼前に。まったく動じずに紡がれた間の抜けた妹の言葉と。

 数秒前まで妹の上半身を包んでいたパジャマが舞い降りる。

 目の前に映し出されたパジャマに恐怖を覚えて必死に言葉を紡ぐ俺。ところが。


「原稿料は原稿料だよぉ~っと……」

「――ッ!」

「よいしょ……ん~?」


 相も変わらず間の抜けた口調で意味不明な言葉を紡ぎながら……俺の目の前に妹の下半身を包んでいたパジャマが舞い降りる。と言うより、妹が脱いでいるんだけど……なんで?

 床の上へと無造作に縮まったパジャマのズボン。妹は片足ずつ抜いて後退――つまり俺の方へと近づいた。


 ――まだだ。まだ最後の砦は守られている! 下着は水着下着は水着下着は水着……そうだ、この攻撃をしのげば活路は見い出せるんだ。ひるむな、俺……と言うより、降参するから出て行ってくださーい!


 既に視線を上へと移せない俺は、ひたすらに床を凝視して平常心を保とうと心で強く念じていた。いや、最後には懇願しちゃっていますけどね。

 一応、下着姿までなら今の俺には耐性がある。まぁ、HPは風前の灯ですが。

 以前からそうだったけど、今も変わらず妹のアピールは続いている。と言うより、更にグレードアップしているのかも?

 下着姿のまま、「どう? 新しく買ったんだけど、これ可愛いでしょ~?」とか、当たり前のように見せてくるし。

 時たま「お兄ちゃん……ホック留めてぇ~?」とか、下着姿で俺の部屋に突入して、人に背中を向けてくることもある。

 当然ながら、既に俺の存在が空気になった訳ではなく。全身茹で小豆な状態で実行してくる我が妹。

 以前の俺なら自分が恥ずかしいこともあり、「恥ずかしいんだったらやるなよ……」なんて苦言じみたことを思っていたんだろうけどさ?

 今となっては恥ずかしさは残るものの、自分の気持ちに正直に――妹の言動を快く受け入れているのだった。

 ほら、可愛い妹が俺の為に頑張っているのだから、兄としては受け止める義務がある。いやごめんそれは嘘。

 単純に嬉しいから受け止めているのである。変態お兄ちゃんですから……。


 ところが、だ!

 耐性があるとは言え、あくまでも耐性があるだけ。別に無効化しているのではない。

 そう――

 ステンレスが『びない』のではなく『錆びにくい』だけのように……ほら、脳内が的を射ない例えをするくらいに錆びて。いや、麻痺しているようだ。

 つまり、あと数分程度の耐性なのである。

 正直、「原稿料が何なのか?」なんて気になる余裕なんて存在しない。早く出て行ってほしかったのだ。

 それなのに。


「ふふふ~ん♪ ほいっと! ……にぃ~♪」

「――えんだぁあああああー!」


 鼻歌を奏でていた妹は、突然意味不明な声を発する。

 その瞬間、俺の眼前へと妹のスイカを包んでいたはずの白い布地が舞い降りる。

 そう、仮に擬音をつけるのならば「ひゅ~」と舞い降りて「すとん」と着地したのだろう。

 思わず目の前の衝撃に叫んでしまっていた俺。


 ――いやいやいや、お前のボディーをガードしている大事な布地を落としているんじゃねぇよ! 本当に何やって――えんだぁあああああ!


 って意味で絶唱していたのである。かなり無理があるのは知っているが、心が叫ばなくちゃダメなんだ! 自己防衛の為にもな。 

 だけどところがだがしかし!


「ドレス~~~♪」

「――いやぁああああああああー!」


 俺の絶唱など効果がないと言いたげに、目の前では最後の砦を本人自ら幕を降ろすが如く。

 って、俺が危険を察知して先に離して言っているのに……そっちなのかよ! 

 だったら「ほいっと」は『必要ない』じゃねぇか!

 そしてお前のソレはドレスじゃなくて布地だろうが! 

 そもそも今の状況には『必要ない』ので、そんな『アグレッシブゾーン』には突入しないでくださーい!


 そんな混乱状態の俺の目の前で、ゆっくりと妹の両方の指によって降ろされる白い布地。白旗は上げるものだろうが、降ろしてどうするっ! そして白い布地は、お前にとって必要だろうがっ!

 

「――ッ! ~~~ッ! ……」


 ――ひめゴト……だから、ほらね、もういっちょ!


 まさにトラブルメーカーをメーキャップしているような妹の行動。

 ゆっくりと布地を下げる為に、軽く足を曲げて腰を俺の方へと突きだしながら落としている妹。当然ながら白い布地は未だに下降の一途いっと辿たどっている。

 よって、本来守られているはずの本陣は……文字通り『裸』状態なのである。

 そんな妹の行動。正確には降りてきた布地に驚いて、一瞬だけ視線を上へと移してしまった俺。何が起こったのかは察しがつくだろう。 

 つまり、その、なんだ……不可抗力、なんだよ?

 そう、瞬時に理解した俺は即座に視線を床へと戻すと、瞳を固く閉じて顔の火照ほてりを冷ますように。脳内に保存されかけている画像を消去するように、視界を真っ暗にして煩悩ぼんのうを振り払おうとしていた。


「よいしょっと♪ ……」


 そんな、目下煩悩退散中な俺の鼓膜に呑気のんきな妹の声が響いてくる。

 いやいや、確かに『よいショット』だったと思うけど既に消去済みだぞ? なお、ショットと言っても打つ方ではなくて写真的な意味でのショット。当然、妹の言葉はそう言う意味ではないのだが……。

 

 妹の声に反応して、うっすらと目を開ける俺。当然ながら床を凝視しているけどな! 

 そんな、ぼやけた俺の視界の端に映る、妹のかかとを取り囲む白い布地。

 い、いやいや、あれは、ただの白い布地なだけだ。

 そう、肌色の部分を包んだ布地を見るから恥ずかしいのであって……所詮しょせん貴様なんぞ、ただの布地に過ぎん。ハンカチと大差ない代物しろものさ。白い布地だけにね。

 よって、何も恐れることなかれ! しっかりと見据えてしんぜよう。

 ……嘘です。ごめんなさい。めちゃくちゃ恥ずかしいです。 

 

「~~~ッ。――ッ!」

「むふふぅ~♪ ……」

 

 ただの布地と理解していても、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。

 俺は視線を妹の足元付近の床から、自分の足元の床へと敗走する。 

 しかし、敵は無慈悲にも敗走する俺すら許さないのか。 

 俺の視界へと踵を進軍する。まぁ、足を抜いただけなのですが。 

 そして、その場で方向転換をして俺の方へとつま先を向けた妹の足は、一歩一歩進撃するのであった。


 もう無理マジ無理さすがに無理ー!

 身の危険以上に精神の危険を察知した俺は、迫り来る恐怖に体を強ばらせていた。  

 とは言え、身の方は至福以外の何物でもないんだろうけど。服は着ていませんけどね。 

 さすがに精神的に無理だと判断していた俺。

 いや、こんな想定外な棚ぼたを冷静に対処できるはずないでしょ? 俺の耐性も活動限界です……。

 お願いですから帰ってください、なんでもしますから……我が家のアニオタな妹が!

 だけど、そんな心の中で叫んでいた俺の懇願も虚しく――


「おっ兄~ちゃ~ん♪ ……」

「――うわっ! ――ぅっぷ……●▽※■☆▲」


 俺の頭部に柔らかで暖かな圧をかけて、そのまま俺を後ろへと転がす『小豆空母の神風アタック』が炸裂する。

 そう、神風アタックの勢いが強く、俺は顔面を妹のスイカの谷間へとスッポリとキャッチされながら後ろへと寝転んでしまっていた。

 とは言え、後ろには幸運にも……ほとりちゃん達が寝転んでいた為に俺は床に頭を打ち付けることもなかったのだ。

 うむ、ほとりちゃん達の背骨が非常に気になるところではある。かなり衝撃があったはずだし。

 ところが、我が家の彼女達は人智を超えた身体能力が備わっているようで……きっと頭の下では、にっこらにっこらしていることだろう。

 ソースは普段から枕代わりに使っている俺や妹。うわー、バイオレンスな兄妹ですね。

 まぁ、彼女達は女神様なので俺達のような人間ごときのたわむれには寛容なのでしょう。そう言うことにしておいてください……。


 ひとまず後頭部については女神様の加護を受けているのだが。

 残念ながら顔面にはスイカの加護を受けている訳で。

 まぁ、加護と言うだけあって幸福を感じているので残念ではないけどさ。

 ただ、悲しきかな……この幸せは長く続かないのですよ。ぶっちゃけ、酸素が足りなくて。

 正直、かなりヤバイ状況だ。色々と。

 そんな訳で、俺は逃亡を試みようと首を小さく左右に振ってみるのだが。


「ふわぁ~、ふわぁ~♪」

「――●▽※■☆▲!」


 何が嬉しいのか、妹は変な声を発すると俺の首筋に両手を絡めて更に密着してきやがった。

 う……い、意識が……。

 視線の先の肌色が、うっすらと白くなりかけている。いや、これ本当にヤバくない?

 常日頃、親父達大人から柔道の実験台にされている俺。つまり、柔道の絞め技で落とされることは何度も経験済みなのだ。まぁ、気絶することなんだけど。

 だから気絶に対しての知識は体が覚えている。いや、覚えたくはなかったんですけどね。

 そう、「このままだと気絶する」と、自分の体が警鐘を鳴らしていたのである。

 まぁ、普段の絞め技に比べたら雲泥の差。破格の待遇かも知れないけどね。

 たぶん目が覚めたら……スイカの女神様が膝枕してくれているだろうし。いや、別に親父達も膝枕しろなんて思わないけどな。こっちから願い下げだ!

 いや、そもそも死んではいないのだし、何かの手違いによって異世界に飛ばされそうになったとしても――

 

「お兄ちゃんが転生するなら、私もするぅー」


 なんて、当然のように職場放棄して、駄々をこねながら腕に絡まり一緒に付いてきそうな駄女神様ですが。

 とは言え。

 転生の起因が『スイカによる窒息』とか……あきらかに健全な作品ではないと思うので、ご遠慮いただきたいものだな。そう言うのはプレイするのが好きなのであってプレイヤーになる気はないのである。

 ……なるほど、相当酸素が欠乏しているようだ。早急に回避しないと危険なのかも。

 ――なんてことを、鼻腔と顔面で堪能しながら断腸の思いで決意する俺なのであった。うん、落ちると言うより地獄に堕ちるべきなのかも知れない。


「ふがふがふがふが……ふが?」


 そんな感じで回避をしようと小刻みに首を振る俺なのだが。

 いや、別に「ふがふが」言っている訳ではないけどね。首を小刻みに振ることで作られる、わずかな隙間から息継ぎをしているだけなのさ。

 そんな俺の頭に乗っかる妹の暖かい手。

 頭上に感じた圧に気づき、視線だけを上へと向ける俺。


「……ふふふ♪ よちよち、いいこいいこ〜♪」 

「ふがふが……」

  

 俺の視線に気づいた妹は、満面の笑みを浮かべながら言葉を紡いで頭を撫でる。 

 俺は心の中で望みが叶った充実感を覚えながら……必死で酸素を確保するのであった。いや、本当に苦しいんですよ? ほぼ密着している訳ですし。

 あくまでも息継ぎなだけであり、別に『くんかくんか』するのが目的ではないのです。

 そんな風に自分へ言い訳をしながら小豆のスイカで熟成された酸素を堪の……い、いや、確保していた俺の鼓膜に――

  

『お兄ちゃんお兄ちゃん、起っきっき~♪ 寝ぼすけお兄ちゃん、起っきっき~♪ 早起きジュニアを見習って~、お兄ちゃんも一緒に立っち上がれ~♪ そうしたら私にタッチして~、迷わず私を召っし上がれ~♪』


 唐突に響いてくる悪魔の囁き。いや、脳内のあいつではない。まぁ、妹が囁いているのでもないのだがな。例のアラームボイスである。

 

 ――いいいいいやいやいや! 今はダメでしょ! 天ぷら油×水よりも最悪なカプじゃないですかっ? これなら気絶した方がマシ……だが、断る!


「ふがふがふがふが……」

「――きゃうん♪ ……どうちたんでちゅか~?」

「ふがぅ……」


 まさに今の俺の背中を後押しするようなスイカとアラームボイスの誘惑に――


『待たせたわね、主人公の登場よ』


 なんて、絹ハサの滝山先生ばりに颯爽さっそうと登場しようとしている……我が相棒。頼んでねぇよ! あと、お前は主人公じゃない。

 さすがに、この状況で登場されては困る。血液集中されたら貧血になるじゃん。って、どんな状況でも登場されたら困るけど。

 それ以前に、空気が足りなくなってきたかも。かなり苦しい。

 俺は決死の形相を浮かべて、二重の意味で回避しようと懸命に首を振る。精神的と物理的に、な。  

 そんな俺の摩擦に驚いた妹は、つややかに一鳴きすると。

 俺の頭を両手で挟んで自分の方へと引き寄せて、スイカの奥側へと閉じ込めようとする。そして心配そうに声をかけてきた。きっと、ぐずった赤ん坊を心配する母親の気持ちなのだろう。

 まぁ、完全な逆効果ではあるけどさ。退路を絶たれて再び意識が朦朧もうろうとなる俺なのであった。


 ――と言うより、なんでアラームが今頃鳴っているんだ? 朝、消し忘れたっけ?


 抵抗する気力が薄れて漠然と疑問が浮かんでいた俺の脳。いや、ビクともしないんだよね……俺の首。

 それこそ「どれだけの力入れているんだ!」って感じなんだけど、完全包囲されているのである。

 だから物理的に逃げられないと悟った俺は、せめて精神的だけでも逃げようと。

 まぁ、現実逃避がてら疑問を覚えていたのだけど……改めて冷静に考えると不自然なことに気づくのであった。人間諦めが肝心と言うことなのだろう。いや、知らない。 


 うん、今ってさ? 夕方なのですよ。

 ……アラーム鳴るの、おかしくない? だって、目覚ましのアラームなのだから。鳴るのは朝だと相場が決まっているのだ。いやごめんそれは嘘。

 我が家では、テッパンアニメの最終話に限り、リアタイで視聴する為、仮眠を取って深夜に起きる時にアラームをセットするからさ。

 とは言え、こんなアラームを夜中に鳴らすことはないですけどね? さすがに色々な意味で『ご近所迷惑』ですから……。

 夜は完全自動目覚ましアラームを使っているのである。いや、小豆に起こしてもらっているだけですね。お世話になっております、小豆さん。

 と、とにかく……周囲の目が気になるので朝以外には使用している覚えのないアラームボイス。当然、消し忘れが起きないように何度もチェックして解除していることを確認しているのだ。なんで今鳴るの?


「むふふぅ~♪ ……そうでちゅか、そうでちゅか~♪」

「……ふが?」


 アラームボイスに疑問を向けていた俺の鼓膜に、何かを納得したような嬉しそうな妹の声が響いてくる。どうしたの?

 妹の言葉に疑問を覚えた俺は視線だけを上に向ける。 


「それじゃあ……お兄ちゃんを召し上がろうかなぁ~♪」

「――ッ!」

「……あぁむぅ~」

「――●▽※■☆▲!」

  

 疑問に染まった俺の視線の先。

 満面の笑みを浮かべて爆弾を投下する狼さんがいるのであった。

 ――なんで、お前が自分のアラームボイスに洗脳されているんだよっ!

 と言うより、召し上がるのは自分じゃねぇか! 勝手に捏造するんじゃない!

 そもそも小豆が、ぜんざいを捕食するとか食物連鎖が崩壊するだろうが!

 ……まぁ、ぜんざいが小豆を捕食している訳でもないんだけどね。そして、お兄ちゃんも妹は召し上がりません。


 妹の一言に戦慄せんりつ旋律せんりつを奏でる俺の脳内。

 ま、まぁ、フェイクだよね? 本気で召し上がるとか……アニメやエロゲの中だけの話ですよね? 空想ですよね? 

 赤ちゃんは漫画家さんとかイラストレーターさんが生み出すものですよね?

 それを、玩具メーカーさんが具現化して何年も愛情を込めて魂が宿ったものなんですよねー?

 そんな混乱する俺の頭皮へ……現実逃避を拒むように、更なる生暖かくて柔らかい圧が加わる。


「あむあむ……」

「――●▽※■☆▲!」


 人の頭の上で絶賛もぐもぐタイムに突入している我が妹。

 ほほほ本気で召し上がろうとしているー! まぁ、別の意味でしたけども。

 いやいや、お腹壊すから……たべないでくださーい!

 しかも、何やら頭部が少し生暖かい何かによって『しっとり』と湿ってきた。と、溶けないよ? 

 確かに小豆汁では、お兄ちゃんは溶けませんけど……どうやら脳内は溶けかかっているようだ。頭上まで完全包囲されたので余計に息苦しくなってきたし、意識が……。

 何となく心の中で「控え目に言って……このまま召し上がってもらいたい人生だった!」とか結論を出しそうな雰囲気なのである。


 ――って、さすがにダメだろ! ぼんぼれ俺の自尊心!


 悲しい話かも知れないのだが……。

 小豆に乗っ取られることはなくても我が相棒に俺の精神を乗っ取られることは可能なのである。って、かなり危険な状態なので呑気に考えている場合でもないのですが。


「あむあむ♪ ――ぷはぁ……」

「――ふがぅ!」

「きゃぅん! ――むぅ~」

「うがぁ……いい加減に離れ――」


 俺は朦朧とする意識の中、最後の気力を振り絞って決死の奪還作戦を決行することにした。

 一瞬だけ、きっと息継ぎの為なのだろう、頭上の圧が消えたことを確認した俺はスイカの包囲網から逃れるよう、上半身に力を入れて後ろに仰け反る。

 しかし俺の逃亡を許すはずもなく、むくれた声色を奏でながら両手で引き戻そうとする妹。

 だけど俺だって負けられない。妹の両肩を掴んで踏ん張りながら阻止する為に声をかけようとしていたのだが。

 既にタイムリミットなのだろう、俺の目の前が真っ白い霧に覆われて――。



「ふぉー! ……ふぁふぇ?」

「すぅ~、すぅ~。……えへへへへ~♪」

「……」


 数秒程度の白い霧を抜けると――そこは肌色の世界だった。

 もう少し付け加えるならば。

 夕方特有の赤みがかった窓から差し込む光が霧に飲まれ、朝特有の眩しいほどの白い光に変わっている。

 そんな眩しい光に照らされた肌色の世界。

 だけど肌色の端に見切れる白い布地。

 数秒前には彩られていなかった白に、俺は安堵するように心の中で呟いていた。


 ――なんだ、夢、か。そうだよなぁ、ある訳ないもんな。そう、あれは夢だ夢……。


「んんんぅ~」

「……ふが?」

「あぁ~ん、むぅ~」

「――んぉ? ぉぉぉぉぉ……」

「んぐんぐ……」


 寝起きだからなのか、酸欠で脳に血が回っていないのか。

 俺は今までのことを「全部が夢」だと判断していた。

 いや、確かに今までのことは夢なのだ。俺の妄想や願望だと言っても否定はしない。と言うより、完全な願望だから否定できないのです。

 ただ、な?

 確かに今までのことは夢なのだ……九割は。

 そう、つまり残りの一割は現実なんだよねぇ。なんで忘れるかな、俺……。

 夢だなんて楽観視していた俺の頭上に、妹の生暖かくて柔らかい圧が加わる。そして頭皮が少し生暖かい何かによって『しっとり』と湿ってきたのだった。

 

 俺達兄妹が、完全に元通りな生活を取り戻してから数日後――。

 秋アニメも佳境に入り、最終話を目前に控え……そろそろ冬アニメの情報がチラホラと出てくる、そんな季節。

 俺達の生活も目を見張るほどの変化もなく……親密度のステータスだけを急成長させながら『兄妹以上恋人未満』な毎日を送っている今日この頃。

 完全装備な冬布団ではあるものの、少し肌寒く感じてしまうのだ。いや、ほとりちゃん達は心の温もり専門なので物理的には不向きなのですよ。

 そんな理由からか、ほぼ毎日のように俺の布団に暖を取るべく潜り込む我が妹。まぁ、朝起きると一緒に寝ているから夜中に潜り込んでくるんだろうけど。

 そんな妹を……ドキドキしながらも自然と受け入れ、心を暖めている俺なのであった。



 あの日――二人で帰宅して。

 まぁ、智耶も待ってくれているからって、一先ひとまず夕食を優先していた俺達。

 そんな夕食後――。

 先に智耶を風呂へと促してから、「二人に話があるんだ」と親父とお袋に告げる。

 俺の言葉に了承して、リビングのソファーへと座った親父とお袋の前に、俺と小豆は並んで座る。

 そして、俺は親父とお袋に自分の気持ちを全部打ち明けた。小豆のことだけじゃなくて香さんとあまねるのことも、な。

 俺の言葉を受けた親父とお袋は自然と受け入れていた。うん、どうやら親父達にも最初からバレバレだったようだ。

 そして、意を決して親父達へ――俺が小豆のファーストキスを奪ったことを告げる。

 更に、俺の告白と小豆の返事についても妹の口から告げられる。

 これは帰り際に二人で決めたこと。心配をかけた親父達へ全部を話そうってな。

 確かに口にするのは恥ずかしいさ。二人だけの秘密にしたいって気持ちもある。

 だけど俺達は間違ったことをしていない。恥ずかしいことをした覚えもない。自分達の正しいことをしたまでなのさ。

 だから胸を張って二人の選んだ道を伝えたのである。

 ……まぁ、単純に自分自身へのケジメでもあるけどね。


 いや、親父達が俺の気持ちを知っていたとしても……そんな状態でファーストキスを奪ったことに対してまで許容はしないと考えていたから。さすがに怒られると思っていた訳だ。

 ところが――


「そうか……よかったな、小豆? おめでとう」

「よかったわね? おめでとう……」

「ありがとう~♪ へへへ~♪」


 とだけ、小豆へ微笑みながら言葉を送っていた。そんな親父達に笑顔で答える小豆。

 三人を眺めながら、「もしかしたら……親父達は『ここまで』予想していたのかも知れない」なんて考えが脳裏をかすめたんだけど。

 それ以前に、親父もお袋も、俺達兄妹の選んで納得して出した答えを信じてくれたのだと思い直していた。

 そんな親父達へ感謝の笑みを送った俺は『別腹のケジメ』を提示する。


「それでな? 親父、お袋……俺を一発殴ってくれ!」

「は? ……おいおい、いきなり幸せボケか?」

「別に夢じゃないんだから殴る必要ないでしょ~?」


 俺の申し出に笑いながら答える二人。

 いや、夢かどうかを確認するなら小豆に頬をつねってもらえば済むでしょうが。 

 なんで、わざわざ……それも一発で失神レベルのハードパンチャーに喜んで頬を差し出すとかしなきゃならんのだ? 俺は師匠のようなドMじゃねぇ!

 ……そう、俺はな?

 可愛い子限定で、おもちゃにされたり、ののしってもらたり、つねられたり殴ってもらいたいだけの変態な……ただの声豚なのだ。

 よって、師匠の域には遠く足元にも及ばないのである。いや、到達しようとも考えちゃおらんが。

 って、俺の性癖はともかく……あれだけ苦労したのに今回の件が全部夢でたまるか!

 俺をドMに仕立て上げようとする親父達に反発して、言葉を繋げる俺なのであった。いや、仕立て上げられてはいないけどね。


「いや、現実だって知っているさ? だからケジメをだな……」

「いや、でも、お前……約束通り、小豆を無事に連れて帰ってきたじゃねぇかよ? なら、ケジメをつける必要はないだろうが?」

「そうよぉ? それにキスは二人で納得した答えなんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「そうだよぉ~♪」

「……だったら、親の出る幕なんてないじゃないの……」


 俺の「ケジメ」と言う言葉に――親父は出がけの約束を口にする。……あぁ、そんなこともあったっけ。

 そんな親父の言葉にお袋が言葉を繋げる。

 お袋の言葉を受けて、俺と小豆は肯定する。

 二人の答えに満足したように微笑むと、お袋は苦笑いを浮かべて言葉を繋いでいた。

 やっぱり俺の想像通りだってことなんだな?


「……ふっ……だからだよ?」

「どう言うことだ?」


 俺は小さく笑みを溢すと、清々しい気持ちで言葉を繋ぐ。

 そんな俺の表情に怪訝そうな表情を浮かべて聞き返す親父。

 

「俺も小豆も、自分にとって正しいことをしている……だから、この先だって自分の信じた道を進んでいくつもりだ……」

「うん♪」

「……あぁ」

「だけど、それって、さ……その……『そう言う仲』になるかも知れないってことなんだ」

「……おぅ……」

「……」


 俺は言葉を「自分の信じた道を進んでいくつもりだ」で一旦区切り、妹へ視線を移す。

 俺の視線に気づいた妹は力強く返事をする。

 二人の言葉に親父は納得するように小さく相槌を打つ。

 だから俺は本題へと進めていた。

 そう言う仲――今以上の親密度を視野に入れている俺。もちろん俺一人の願望なのかも知れないし、妹が望んでいないのなら強制するつもりはない。だけど可能性はあるってことなんだ。

 俺の言葉に表情を歪めて返事をした親父。お袋も同じような表情を浮かべている。

 やはり、心の底では許容できない話なのだろう。

 とは言え。


「もちろん可能性の話だけどさ? それに小豆が望まないのなら……その時は、まぁ、潔く諦めるつもりだけどな? そんなのは小豆の好きな俺でもないだろうし、それで受け入れられる小豆を俺は好きになったつもりもないからさ……」

「……お兄ちゃん……お父さん、お母さん、私も同じ考えだよ……」

「……」

「……」

「だけど両方が望んだ時――そうなった時に俺は躊躇ためらいたくない。変なブレーキをかけたくないんだ。隠れてコソコソとするつもりもない。俺達は俺達の望む関係を堂々と築きたいだけなんだ! だから、これは俺のケジメ……自分に恥じない選択をする為に、自分を誇れるように、決意を心に刻むように……俺をぶん殴ってくれ!」

「……なるほど、な……」


 別に俺達は間違ったことをしているとは思っていない。親父達が許容できないからと言って諦めるつもりもない。だったら最初から諦めていたんだしな。これくらいの覚悟は持ち合わせているさ。

 とは言え、互いに望んでいない、納得していないことをするつもりはないし、受け入れてもらいたいとも思わない。ただ、本物がほしいだけなんだ。

 そんな意思を示すと、隣の小豆が親父達に賛同の言葉を紡ぐ。

 二人の言葉に深く頷く親父達。

 小豆の言葉に後押しされるように、俺は親父達の頷きを見届けてから、ありのままの気持ちをぶつけるのだった。


 俺のケジメ。

 俺達は誰に対しても恥ずべきことをしていない。何かを言われるような筋合いもない。

 もちろん、親父達には祝福されたいとは思っている。心から応援してもらいたいと願っている。

 それでも、それとは反対に「許容できないかも知れない」親父達の考えだって理解しているつもりだ。

 だけど……俺も小豆も親父達の子供。親父達の背中を見続けて育ってきたんだ。


 ――自分達で考えて、自分の納得のいく正しい道を進め。


 そんな風に育てられてきた俺達。

 いくら親父達が反対しようとも、俺達は俺達の信じる道を進んでいく。そう、それだけなんだ。

 だからこそ。

 俺は自分で納得して進もうとする道に自信を持つ為。揺るがない信念を刻む為。俺の覚悟を見せる為――

 そんな……『誰だって気づきそうな初歩的な危惧きぐ』を取り除く為に。

 俺は笑顔で親父達の鉄槌を受け入れようと決意したのだった。


 俺の言葉の心意に気づいてくれたのだろうか、親父は俺を見据えていたが、腕を組んで瞳を閉じると納得する。


「だったら、私も殴ってください!」

「――って、おい、小豆……これは俺のケジメなんだから、お前は気にするなって……」


 直後、俺の隣から「私も殴って」と懇願する声が響いてくる。

 俺は慌てて視線を妹へ移し、優しくさとそうとしていた。ところが。


「なんでよっ! これは二人の問題じゃないっ! 私だって覚悟しているもんっ! それなのに、お兄ちゃんだけが殴られるのを黙って見ていられる訳ないでしょー! ぅぅぅぅぅ~」 


 突然逆ギレを起こしていた妹。まぁ、逆ギレって訳でもないんだろうけどさ。

 そして涙目になりながら頬を膨らまして威嚇いかくしてくる。


「いや、だけど――」

「ああ、わかったわかった……二人とも殴ってやるから、それで問題ないよな……」

「って、親父――ッ! ……」


 そんな妹へ困惑しながら声をかけていた俺の鼓膜に、呆れたような口調で紡がれた親父の言葉が聞こえてくる。

 いや、ちょっと待てよ? 小豆まで殴る必要はねぇだろ? 

 俺は慌てて親父へ向き直り、訂正を求めようとしていたのだが。

 俺に向かって、「大丈夫だから心配するなって……」と言いたそうに苦笑いを浮かべる親父。そして隣の、同じような表情を浮かべるお袋。そんな二人の表情に言葉を飲み込む俺なのであった。


 まぁ、杞憂きゆうなんだろうな。さすがに親父達が小豆を殴るなんて……いや、手加減はするだろう。

 妹は見かけによらず頑固だからさ。こうでも言わなければ納得しないし、殴りはしないだろうけど叩かないと納得をしてくれないはずだ。本当、この性格って誰に似たんだか……。

 俺は性格のオリジナル二名に向けて、「まぁ、フォローは任せてくれ?」と言う意味を込めた苦笑いを返す。

 いや、俺が撒いた種なんだしさ? 俺が慰めてやるしかないじゃないか。ちゃんと痛みが癒えるまで、小豆が望むのなら一晩中でも一緒にいてやるさ。

 って、元々「そう言う関係」に踏み込めるように殴ってもらおうとしていたんだけどな……。


 俺の苦笑いに頷いた親父が俺達を見据えて言葉を紡ぐ。


「だったら善哉は俺が殴って……小豆は母さんが叩くってことで大丈夫か?」

「あ、あぁ……」

「それで、お願いします……」


 親父の提案に、俺と小豆は了承した。

 そう、小豆も一緒だと……ここが折衷せっちゅう案なのだろう。

 正直親父だって、こんな理不尽なことで娘を叩きたくはないだろう。俺が親父だとしても叩きたくないしさ。どうせなら肩でも叩いてほしいところだな。

 そう言う理由で、お袋に担当してもらったのだと思う。しかも、「殴る」ではなく「叩く」ってことで。

 まぁ、俺としては二人から殴ってもらいたいのだが。

 うん、二人が俺達の親なのだし、俺には二人から殴られる義務があるのだろう。

 だけど小豆のことだ。「だったら私も!」って、絶対に言うはずなんだ。そして、絶対に譲らないのだと思う。 

 そこで俺は親父達の負担と小豆の受ける痛みを鑑みて、親父の提案に了承する。

 俺が了承しているのだから小豆だって受け入れると思っていた。同じ条件なんだからさ。


「そんな訳だ……すまないが、母さんも手伝ってくれ……」

「ふぅ。はいはい……わかったわよ……」


 俺達の言葉を受けた親父が隣のお袋へ視線を移して苦笑いで声をかける。

 お袋は軽く息を吐くと、「まったく、この子達は……」と言いたそうな渋い顔をしながら了承する。

 

「それじゃあ、二人とも目をつむって歯を食いしばれよ?」

「絶対に目を開けちゃだめよ?」

「お、おう……」

「う、うん……」


 親父は言葉を紡ぎながら指関節をポキポキと鳴らす。

 お袋は言葉を紡ぎながら手首をグルグルと回す。

 もちろん手を傷めないように準備運動をしているって言うのは理解しているのだが、その姿に少しだけ後悔していた俺。 

 横を向いていないから表情は見えないが、きっと妹も同じだと思う。俺の腕を掴んで指先にギュッと力を入れていた。

 いくら自分達が望まないからと言って、俺達が望む以上、決して中途半端なことはしない。だから相当痛いのだろう。

 人より頑丈な俺だったら耐えられるだろうけど……妹には相当ダメージが襲いかかるのだと思う。俺と違って優等生な妹は叩かれることなんて皆無だろうしさ。


「……」


 そもそも親父達は準備運動中なのだから、ドタキャンすることも可能なのかも知れない。そうすれば妹に被害は及ばない。

 日を改めて、妹のいない時にケジメをつければいいのではないか?

 そんな考えが一瞬だけ浮かんだのだが、俺は脳内で考えを否定していたのだった。


 確かに俺一人のケジメなんだから日を改めて妹のいない時に済ませれば万事解決するのかも知れない。 

 とは言え、誰でもない自分が決めたこと、選んだこと。それは妹も同じこと。

 妹が自分で決めたことに俺が何かを言える訳がないってこと。

 その証拠に。

 微かに俺の腕を小豆の掴んだ指が揺らしている。それでも、妹の瞳は逃げることなく親父達を見据えているのだから。

 そう、妹は既に覚悟を決めている。俺と一緒にケジメをつけようとしてくれている。二人で一緒に立ち向かおうとしてくれている。

 これはもう俺一人のケジメなんかじゃない。二人のケジメなんだ。二人で乗り越えるべき壁なんだ。

 だから妹の気概をあざ笑うような真似を、だますような真似を、俺は許容することができないのである。


「……」

「ぁ……ぅん……」

「ぁぁ……」 

 

 そう、俺には……震える手を優しく包んであげることしかできない。

 俺の手の感触を覚えたのだろう。小さく声を漏らすと俺の方に視線を移して、安心したような柔らかい微笑みを浮かべる妹。

 妹の笑顔に俺も安心するように笑みを返して、小さく返事をする俺。

 さっきまでの後悔が嘘のように、俺と小豆は清々しい表情で互いを見つめていた。


「よし、覚悟はいいな?」

「後悔は、ないわね?」


 俺達の表情を眺めて優しく微笑んだ親父達は、俺達に向かって最終宣告をする。

 だから俺達は――


「……あぁ、よろしく頼む……」

「……お願いします……」


 どちらからともなく手を離してから正面を見据え、親父達に懇願すると瞳を閉じるのだった。


「よし、それじゃあ……」

「そうね……」

「……」

「……」


 真っ暗になった視界。俺の鼓膜に、ソファーから立ち上がり、俺達の方へと近づいてくる二つの足音が響き、俺達の目の前で奏でるのをやめる。

 もう目の前にいる。見えないながらも気配を感じていた俺。

 だけど心の中は驚く程に静寂せいじゃくをもたらしている。それは隣の妹も同じだと思いたい。

 今は離れているけれど、手の温もりと微笑みが心の中に残っているから。心の中に互いが存在するから。

 そう――俺達には確かなきずなと言う名の愛があるって信じているからなのだろう。


「いく、ぞ?」

「――ッ! ……」

「いくわ、よ?」

「――ッ! ……」


 親父の声に更に瞳を固く閉じ歯を食いしばる俺。お袋の声に更に瞳を固く閉じ歯を食いしばる小豆。

 直後、迫り来る衝撃に備えていた俺達に降り注いだのは―― 


「……へ? ……」

「……え? ……」


 頬を襲う痛みではなく……優しく右手を掴まれ手の平を上にして開かされ。その上に乗せられた、小さな『何か』の感触。

 予想していなかった感触を覚えて疑問の声を発しながら目を開けて手の平を眺める俺達。

 すると視線の先には『指輪』が蛍光灯に照らされて輝いているのだった。


「どうだ? 俺達の一撃は効いたか?」

「どう? これ以上ないほどの衝撃だと思うのだけれど?」

「……どう言う意味だよ?」


 理解が追いつかずに呆然と手の平を眺めていた俺達に優しく語りかける親父達。

 思わず困惑の表情で聞き返す俺。一撃とか衝撃とか……俺達は何も受けていないだろうが?

 隣で聞いていたのだから小豆にだって衝撃が襲っていないことは理解している。

 まったく理解できない親父達の言葉に戸惑う俺達。

 そんな二人に親父達は言葉を繋げる。


「いや、な? 正直、お前と小豆を殴ったところで、それは何も変わらないんだ」

「なんでだよっ?」

「別に二人の覚悟を馬鹿にしている訳ではないの……それは褒められることだとは思うのよ?」

「う、うん……」


 親父の言葉に自分達の覚悟が馬鹿にされたようで、少し腹が立って声を荒らげて反論する俺。

 そんな俺の気持ちを理解してくれたのだろう、お袋がフォローを入れていた。その言葉に相槌を打つ妹。


「ただ、な? ……所詮、今お前達が殴られた痛みなんて今だけ。痛みなんざ、一瞬で消えちまうってことさ」

「……」

「心に刻む刻まないって話じゃないわよ? 実際の痛みを引きずらないって話なのよね」

「……」

「まぁ、簡単に言っちまえば……口約束か書面に残すか、って違いみたいなものなんだろうな? 別にお前達の覚悟が悪いとは言わない。だから、お前達から殴れと言われたんだ……殴ってやることを俺達は拒みはしない。だがな? 俺や母さんが殴ったところで、結局お前達の決意の対価とは言えねぇんだろうよ……」

「そうね……私達が叩いたところで、それに意味があるとは思えないの。あんた達の進もうとしている道は……そんな生半可な気持ちでいるべきことじゃないのよ? その場の口約束みたいなことで済むことじゃないの。ちゃんと形として残るようにしないと、ね?」

「……」

「……」


 親父達の言葉に言葉を失う俺達。

 確かに俺、そして小豆も……決して、あやふやな考えで殴ってほしいと言った訳ではない。きちんと前に進もうと思って懇願したことだ。ちゃんと心に刻むつもりでいることなのさ。

 だけど。

 実際に今殴られた痛みなんて瞬間的に消えるもの。明日になれば痛みだって引いているはず。

 もちろん『俺達二人』は、決意を心に刻むだろう。痛みを忘れずにいようと思うだろう。

 でも、さ?

 俺達の覚悟や決意は俺達二人だけのものじゃない。それを認めてもらう親父達への意思表示でもあるんだ。

 その場しのぎの話じゃない。これから続く二人の関係――それを認めてもらいたかったのである。

 そう、自分達だけが知っていても意味がないこと。親父達に、ずっと続く二人の関係を見守ってほしいだけなんだ……。 

 そして――


「……」

「……」


 俺は、お袋の言った「そんな生半可な気持ちでいるべきことじゃない」って言葉に表情を歪ませる。

 きっと妹も同じなのだろう。同じように表情を歪ませていた。

 そう、俺達は血が繋がらないとは言え、周囲から見れば兄妹だ。家族なんだ。

 そんな二人が恋人のような関係になる。今のところは可能性でしかないけどね。

 だけど踏み入れようとしている道は俺達が想像する以上に困難な道。冷たく険しい道なのだと言われたような気がしていたのだ。

 自分なりには覚悟を決めて立ち向かうつもりでいた。

 だけど、親父達にしてみれば『その程度』の覚悟だと思われたのだろう。その程度の覚悟では世間の冷たさには立ち向かえない――そう言われたような気がしていたのだった。


 ――やっぱり、本心では反対なのかも知れない。認めてなんかもらえない。


 そんな思いが俺達の表情に出ていたのだろう。

 ところが。


「……あんた達、何か誤解をしているでしょ?」

「……え?」

「……え?」


 俺達を眺めていたお袋が呆れた顔で言葉を紡いでいた。

 その言葉に驚きの表情を浮かべて声を発する俺と妹。


「あのねぇ? 誰も『あんた達が兄妹だから、家族だから』って話をしたつもりはないわよ?」

「え?」

「私は、ただ……『誰かを好きになり、愛し合い、互いの全部を共有する』ことに対して、生半可な気持ちでいるべきじゃないって言っただけ。あんた達に限った話じゃないの。ごく当たり前のことよ?」

「……」


 お袋の言葉を受けて同時に驚きの声を発する俺達。やはり妹も同じことを考えていたのだろう。

 そして、お袋も……いや、お袋と同じような表情で俺達を見つめている親父もだろうな。俺達の心意を察していたのだと思う。

 だけど俺と妹は、お袋の繋げられた言葉に呆然としていた。

 そう言う、ことか……。

 俺は心の中で納得するように呟いて親父達を見つめていたのだった。


 そう、これは当たり前のこと。俺達が兄妹だからとか、家族だからとか……そんな世間体せけんていの話じゃなかったんだ。

 誰かが誰かを好きになり、互いに愛し合い、互いの全部を共有する――。

 それは時間とか思考とか嗜好しこうとか、感情とか想いとか記憶とか……その、まぁ、「そう言うこと」まで。

 それは好き合う者同士なら誰にでも与えられる権利と責任だ。

 楽しい時間――つまり、権利を行使こうししている時なら覚悟なんて何も感じないはずさ。だけど辛く苦しい時間だって訪れるかも知れない。

 もしも、そうなった時――片方に押し付けるのではなく、互いに全部を共有して二人で解決をする。それが責任ってこと。

 そこまでを視野に入れることが、「覚悟を決める」と言うこと。

 俺達が進もうとする道には、必ず権利と責任が発生する。だから生半可な気持ちでいるべきじゃないと言いたかったのだろう。

 その上で、俺達の覚悟にはその場しのぎなケジメ程度では釣り合わない。きちんとした形にするべきだと、親父達は伝えたかったのだと思う。

 とは言え――。


「……」

「……」


 俺と小豆は手の上に乗せられた指輪を怪訝そうに眺める。

 これが……俺達の覚悟に釣り合う形なのか? いや、親父達には悪いが……俺には釣り合うとは思えないんだけどな? 

 普通、ケジメの形として指輪を贈るんだったら俺が小豆に贈るものだろうし。親父達から俺達へ渡すのは不自然じゃないのかな。

 それに正直な話……もちろん小豆のことは真剣に考えているし、そう言う部分も視野には入れて覚悟を決めてはいるけどさ。

「これから」って時にリングを受け取るのは早すぎるような気がする。第一、確定事項でもないんだしね……。

 指輪を眺めながら、俺は親父達の考えに疑問を覚えていたのだった。


「そこで、だ?」

「……ん?」

「……うん」


 疑問を覚えたまま指輪を眺めていた俺の鼓膜に親父の声が響いてくる。

 その言葉で視線を親父へと移していた俺達。

 そんな俺達に優しく微笑みながら親父が言葉を繋ぐ。 


「結局、俺達では……お前達の覚悟に見合うものを与えてやれない。いや、与えられないんだ……」

「あ、あぁ……」

「だから俺と母さんは、お前達に……その指輪を渡すことにした」

「これ……を?」

「そうよ? たぶん、あんた達にとって……これ以上にないほどの『形』なのだと思うわ?」

「……この指輪って?」


 親父とお袋は俺達の手の上に乗る指輪に向けて、感慨深い表情で言葉を紡いでいた。

 この指輪が俺達の覚悟に見合う、これ以上にない『形』なのだと言う。

 だけど俺達には親父達の心意が理解できないでいた。

 そんな素直な気持ちを小豆が言葉にする。

 すると。


「善哉……お前に渡した指輪はな? ……深智……お前の父さんの指輪だ」

「――ッ! ……」

「そして小豆の指輪は……美憂みゆ……あなたの本当のお母さんの指輪なの」

「――ッ! ……」


 親父達は俺達に、真実を教えてくれるのだった。

 その真実に息を飲み込んでジッと指輪を凝視していた俺達。

 

「深智の指輪も、美憂さんの指輪も、今まで母さんが形見として大事に保管していたんだ」

「そう、深智くんの指輪は亡くなった時に……いいえ、息を引き取る直前にね? 『これを将来、善哉へ渡してやってくれないか……』って深智くんに渡されたの」

「……」

「……」

「そして美憂の指輪はね? 美憂と孝司こうじさんが事故に遭った日。私へ小豆を預ける際に『お守り』だって渡されたのよ……」


 指輪を凝視していた俺達に優しく語りかける親父達。

 父さんの指輪は妻なんだから形見として譲り受けていても理解ができる。

 だけど小豆の指輪が美憂さん――小豆の本当の母親の指輪だってことを知り、驚きの表情を浮かべていた俺達。

 俺達の表情で察したのだろう。お袋が説明を続けていたのだった。 



 小豆の本当の両親――孝司さんと美憂さんの事故の話は、俺が家に戻った頃に聞いたことがある。

 元々、孝司さんは父さんの親友。そして親父を兄貴だと慕っていたらしい。

 そして美憂さんは、お袋のレディース時代の後輩だったのだと言う。

 そんな縁もあり、二人は知り合い、結婚するまでになったようだ。

 

 なお、以前俺が『俺と小豆の名前について』心の中で親父に文句を言っていたことがあったのだが。  

『小豆』と言う名前は親父達が孝司さんと美憂さんに「どうしても」と頼まれて、親父が真剣に考えて名付けたらしい。 

 二人とも親父達を敬愛していたらしいし、我が子に名前を授けてほしかったのだろう。

 そして、善哉って名前も――父さんとお袋に親父が頼まれて名付けたらしいからさ?

 俺と小豆の名前を名付けたのは親父だってことなのだ。

 当然あの時の文句は単なる偶然だし、親父にしたって俺達が兄妹になるなんて思っていなかったんだろうけどね……。


 小豆が生まれて間もない頃――。

 急な用事で孝司さん達は遠出をすることになった。

 だけど小豆は生まれたばかり。遠出に耐えられないって心配があった。

 だから親父とお袋に頼んで小豆を預かってもらったのだと言う。

 ……まぁ、美憂さんはお袋と同じ理由で実家から断絶されていたし、孝司さんも美憂さんと一緒になる時に、実家から勘当されたらしいのだ。そんな理由で他に頼れる人がいなかったのである。

 孝司さん達が色々と苦労をしていたのは知っているし。

 用事を終えるのが真夜中になるって聞いていたから――


「たまには二人で、夫婦水入らず、ゆっくりしてくるといい……娘は俺達が責任持って預かるからさ?」


 って、親父達は言っていたらしいんだけど。

 我が子のこともあるし、迷惑をかけられないって思ったんだろうね。

 用事を終えると大急ぎで車を走らせていたらしいのだ。

 だけど。

 日頃の疲れもあったのかな……高速道路を走っている時に、対向車の居眠り運転に巻き込まれてしまったのだと言う――。

 


「本当だったら……もっと早くに渡すべきだったのかも知れないのだけれど……」

「……」


 お袋が少しだけ悲しげな表情を浮かべて言葉を紡ぐ。当時のことを思い出したのかも知れないな。

 お袋の言葉に親父も悲しげな表情を浮かべていた。

 そんなお袋と親父も軽く息を吐くと、苦笑いの表情に変えて言葉を繋ぐ。

 

「善哉にしろ、小豆にしろ……ちゃんと私達が責任を持って我が子のように大切に育てようって決めていたから。指輪は二人が自立する時に渡そうと思っていたのよ?」  

「だから二人が、まぁ……それぞれ高校を卒業する時に渡そうと、最初は決めてはいたんだがよ……」

「小豆の気持ちを考えて――善哉が高校を卒業する時に、一緒に二人へ贈るつもりだったのよ」

「……ははは」

「……あはは」


 親父とお袋の言葉に苦笑いを浮かべる俺達。

 そんな俺達を眺めてフッと微笑を溢した親父達は、優しい微笑みに変えて言葉を繋ぐ。


「でもな? 出がけに善哉から事情を聞いて……雨音ちゃんから解決の連絡を受けて。母さんと『今日二人に贈ってもいいんじゃないか?』って話をしていたんだ」

「でもね? 贈ろうって思いはあったのだけれど……解決しただけで、贈るのには『まだ早い』ようにも思えていたのよね? それで、どうしようか決めあぐねていたのだけれど……」

「そんな時に、お前達の話を聞いて――俺も母さんも……今、贈るべきなんだと思った訳だ」

「そう……きっと、その指輪が――あなた達の背中を優しく押してくれると思うから……」

「……そっか」 

「……そう、なんだ」


 俺と妹は、親父達の言葉に納得の笑みを浮かべて相槌を打つのだった。


 そもそも、俺達は指輪の存在を知らなかった。

 それに。 

 確かに父さんや孝司さん達は俺達にとって「とても大事な人達」ではあるけどさ?

 今の俺達が存在しているのは、紛れもなく親父とお袋が家族として育ててくれたからだって思っている。

 ちゃんと責任を持って大切に育ててくれたからだって理解している。感謝だってしているさ。

 だから親父達が指輪を俺達が高校を卒業する時に渡したとしても……俺達は、それを責めることはない。普通に嬉しいと感じるだけだろう。

 まぁ、俺としてはだな?

 お袋が最初の頃は「別々に『渡す』つもりだった指輪」を……「小豆の気持ちを考えて、二人へ一緒に『贈る』つもりだった」と言い直していた部分が、苦笑いを浮かべる要素だったのである。たぶん、妹も同じなのだと思うけど。

 うん、簡単に言ってしまえば……。

 婚約指輪のような役割を持たせようとしていたのだろう。だから、別々に「渡す」ではなく――二人一緒に「贈る」なのだと思う。

 そして。


「……あぁ、そうだな……これ以上ないってくらいの一撃だったよ……」

「……うん……」


 俺は手の上に乗せられた指輪を見つめ、優しく包みこむように握り締めると。

 親父達に視線を戻して決意を含んだ笑みを浮かべて答える。妹も涙ぐみながら両手で優しく指輪を包み、胸の前で抱きしめながら答えていた。

 そう、親父達が俺達の覚悟に見合うと――この指輪を贈った意味を理解する俺達なのであった。


 この指輪が父さんと、小豆の母親の指輪であること。それを親父達の手から贈られるってこと。

 それは俺達を産んで育ててくれた全員が見守っているってこと。想いを受け継ぐってこと。託されるってこと。

 幸せに、一生懸命に――自分に、互いに。そして見守ってくれている全員に、胸を張って向き合えるような関係を築いていく。

 常に、そんな覚悟を心に刻み続けていける。そんな――

 その場の覚悟なんかじゃない。俺達にとっての『最高の形』――心にズドンと深く重く響き渡る一撃なんだって思っていたのである。


「……そうか」

「……そう」

「……」

「……」

「……だが、二人とも勘違いはするなよ?」

「――え?」

「――え?」


 そんな二人の答えに満足そうに答える親父達。

 だけど、親父達の満足そうな表情を眺めてから指輪へ視線を移して、少しだけ表情を曇らせる俺と妹。

 いや、俺達……指輪を受け取っても、いいの、かな。

 もちろん贈られることは素直に嬉しい。それは妹も同じだろう。

 だけど俺達は、いや俺は贈られていいのだろうか。そんな考えが脳裏に渦巻いていたのだった。


 俺は小豆以外に愛している人がいる。それも二人も。

 そんな俺が胸を張って向き合えるのだろうか?

 小豆にしても、「それでいい」と言ってくれた。選ばれるのが自分じゃない可能性があったとしても、だ。

 確かに自分達で納得して出した答えではある。それが間違いだとは思っていない。

 だけど、この指輪に向き合えるのだろうか。それで納得してくれるのだろうか。


 俺達が「指輪と向き合えるのか」って考えて表情を曇らせていると、親父が優しい口調で言葉を紡いでいた。

 思わず驚いて親父へ視線を移すと――


「俺達は『お前達の話を聞いた上で』指輪を贈ろうと決意したって言ったよな?」

「あ、あぁ……」

「う、うん」

「それは別に、お前達に『二人で幸せになれ』と言いたかったんじゃない……『指輪に恥じない生き方を歩んでいけ』と伝えたかっただけなのさ」

「……え?」 


 親父の言葉に俺と小豆は同時に驚きの声を発する。

 そんな俺達に微笑みを浮かべると再び親父が言葉を繋いでいた。

 

「俺と母さんは当然だが……深智や孝司くんや美憂さんだって、お前達に幸せになってもらいたいだけ。後悔しない人生を歩んでほしいと願っているはずさ?」 

「……」 

「正直な? その先に何が待っているかなんて、俺達には重要ではないんだ。結局、お前達の人生なんだからよ? お互いに納得した上でなら、今の状態で『そう言う関係』になることも……そう言う関係に『なるならない』は別にして……最終的に別々の人生を歩んでいくとしても、俺達が何かを言える権利はない。ただ、俺達は……二人が一緒に悩んで決めて、お互いが納得した道を歩んでほしい……自分達の人生に後悔をしないでほしいだけなのさ」

「……あ、あぁ……」

「……う、うん……」


 ――そう言うこと、だったんだな……。

 優しく語る親父の言葉に深く頷きながら、相槌を打つ俺達なのであった。


 俺は親父達が指輪を贈った理由を「小豆一人を選んで幸せになれ!」と言う意味が含まれているのだと思っていた。

 正直に言えば、俺の考えていた親父の言い分は正しい。誰に聞いても正解だと答えるだろう。

 だけど、それは自分達の望まない結末だって思っていたのである。

 そう、俺も小豆も既に自分達の答えを出していた。自分に正直でいることを互いに望んでいた。そんな相手が好きだって理解していた。

 俺は愛する小豆が望む以上、三人を真剣に愛して……真剣に悩んで決めようと思っている。

 つまり、俺達は親父達の望まない道を進む可能性だってある。

 だから――そんな意に沿わないことをするかも知れない俺達が親父達の想いを「受け取ってもいいのか?」と悩んでいたのだが、どうやら違ったようだ。


 最初から俺達の気持ちを知っていた親父達。俺の気持ちと小豆の答えを聞いた上で、指輪を贈ったのは――


 この先何があっても自分の気持ちに正直に、互いが納得できる答えを見つけて歩んでいけ!


 そんなメッセージを常に心に刻ませる為の具現化されたしるしだったってことなのだろう。


 親父は「今の状態で『そう言う関係』になることも……そう言う関係に『なるならない』は別にして……最終的に別々の人生を歩んでいくとしても、俺達が何かを言える権利はない」と言っていた。

 それは俺が三人を愛している状態で小豆を求め、小豆が俺を受け入れてくれて『ひとつ』になることも。

 そんな関係になってから結局付き合わないと決断しても、親父達は俺達をとがめないってことなのだろう。あくまでも、俺達の人生は俺達のもの。感動も喜びも悲しみも苦しみも、俺達が全部背負っていくものなのだから。

 二人で決めて、互いに胸を張って納得できる人生を送れるように――俺達に後悔をしないでほしいだけなんだ。

 それは、きっと……志半こころざしなかばで俺と小豆の成長を見守ることが叶わなくなった父さんや孝司さんと美憂さんから託された、親父達の切なる願いなのだろう――。


「親父……お袋……ありがとう……」

「お父さん、お母さん……ありがとうございます……」

「おぅ!」

「えぇ」


 そんな全員の想いや願いが詰まった手の上に乗せられた指輪に一瞬だけ視線を落とした俺は。

 正面へ向き直り、親父とお袋に礼を伝える。隣の妹も同じように礼を伝えていた。

 俺達の礼を受けて満足そうに微笑みながら答える親父達。


「……今度の休みにでも……父さんと、孝司さんと美憂さんの墓参りをしてこようと思う」

「……」

「……そうか?」

「……そうね?」


 そんな親父達に俺は父さんと。そして孝司さんと美憂さんの墓参りをすることを告げる。

 当然理解してくれているようで、隣で妹も頷いていた。

 俺の言葉を受けて、親父達は懐かしむような、照れているような、それでも暖かい微笑みを浮かべて言葉を返していた。そして妹も俺に暖かい微笑みを送っていた。

 うん、親父達……そして、小豆なら俺の心意を理解してくれているって思っていた。

 そう、俺と小豆は……二人で並んで墓前で土下座をする。

 産んでくれた感謝と、これから一緒に歩んでいく道の報告。

 そして。

 これからも今までと同じく、俺と小豆を見守っていてほしいと願う為に――。


 こうして、俺達兄妹の……『はじまりのエピローグ』は希望を胸に幕を閉じるのであった。


 なお、これは余談だけど。

 俺が「……『そう言う仲』になるかも知れない」って言った時に、親父とお袋が顔を歪めた理由なんだけど。

 まぁ、単純に「キスをしている時点で『そう言う仲』だと思うんだがな?」って意味だったらしい。

 ……言われてみれば、そうだよね? キスしちゃっていたから気が大きくなっていたのかな? いや、知らんけど。

 そんな話を聞いて――俺達兄妹が顔を赤くして俯いたのは言うまでもない。恥ずかしすぎます……話を進めます。

 

◆ 

 

「ぅぅぅぉぉぉ……」

「……すぅ~、ふぁ~。……ふぇへへへ~♪」


 俺は『はじまりのエピローグ』を思い出しながら……必死にスイカ包囲網からの脱走を試みていた。

 いや、だって……アラームボイスを止めないと大変なことになってしまいますからねっ!

 まぁ、呑気に回想している余裕なんて、普通になかったはずなんだけど……走馬灯そうまとうでも見えていたのかな? って、人を勝手に三途さんずの川に飛ばすな!

 ……あぁ、うん。飛ばされてもいないし……小豆の『決意の一日』レベルの短い走馬灯だよな。どうでもいいけど。

 

 と言うよりも、なんで『こんな大音量』なのに起きないんだ? これも夢なのか? 

 まぁ、普段まったく起きない俺が言えることではないのですがね……。

 正直、廊下まで聞こえているんじゃないかってレベルまで音量を上げているアラームボイス。

 実のところ、これくらいの音量になるってことは――

 大慌てで起き上がり、制服に着替えて食パンを口にくわえながら家を飛び出して。

 通学路の曲がり角で向こうから来た見知らぬ女子とぶつかり、その後教室で運命の再会――なんて夢のようなシチュエーションは俺には絶対に起こらないから。


 いや、俺の通学路に『ぶつかりそうな曲がり角』はないし。食パンなんて『家を飛び出す時点で既に食べ終わっている』だろうし。

 そもそも俺の右腕には『常に小豆が絡まっている』のだし。小豆が一緒に遅刻をするのであれば『俺が学校へ急ぐ理由』など存在しない。

 まぁ、それ以前に――俺が『そんなラブコメ主人公のようなハイスペックステータス保持者』の訳がない! 


「……ぅぅぅぅ。……ふぁ?」


 ……なんだろう、これ以上にないほどの明確な答えを出したはずなのに、喜びどころかむなしさと悲しみが俺を襲っている。純然たる周知の事実のはずなのに非常に虚しくて悲しい。

 と言うより、心が辛い……胸が苦しい……正確には息苦しい――って、あ?

 ここで俺がスイカに包囲されていることを思い出すのだった。

 つまり、俺の答えに反応したのではなく物理的な苦しさだったようだ。

 おかしいと思ったんだよね? 

 純然たる周知の事実なんで俺の答えを聞いても――


「つまんねーこと聞くなよ!」


 って、某……落語を一切しない楽屋での会話中心なアニメ作品の主人公である『血まみれマリー』さんばりに、一刀両断するはずの俺の精神が過剰かじょうに反応していたからさ? いや、聞いたんじゃなくて、答えたんですけどね。

 でも、まぁ、ただ肉体的に酸欠状態に陥っていたってことらしい。なるほど、納得納得――してもいられないので話を進めます。


 とにかく、時間的に『遅刻』って文字が目の前に、ずらずらずらーっと見え始める――未来ずら! いや、現実ですが。

 うむ、そもそも妹ならば既に朝食の準備をしている時間なのである。なんで、寝ているの?

 一瞬、「もしや風邪か? ……もしくは、お兄ちゃんを摂取しすぎて体調不良に?」なんて心配したのだが。えっと、後者はお兄ちゃん立ち直れなくなるので本当に勘弁してください……。

 俺の顔面を包むスイカは人肌の温もりであることを確認中なのである。どちらかと言えば、俺の顔の方が熱いくらいだと思う。


「すぅ~。すぅ~。……えへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ~♪」


 って、笑い長っ! まぁ、ちゃんと途中で息継ぎはしていましたけども。

 それだけの肺活量を発揮できるくらいの空気をお兄ちゃんにも分けてくださいよ……。

 とにかく、普通に……妹オリジナルの普通に寝息を立てているところを見ると、別に心配をすることもないのだろう。他の心配など知らん! それ以前に自分の心配をしたいからな!


 つまり、普段ならば起きているはずの時刻なのだ。 

 それなのに、まったく起きる気配もなく、呑気に人の頭を抱えて寝息を立てる妹。


「……あむあむ……」

「ぅぉぉぉぉぉ……」


 正確には――歯は立てていないけど人の頭を絶賛召し上がり中な妹。俺はアン●ンマンじゃねぇ!

 とりあえず起きなくては何も始まらないと悟った俺は心の中で決意をして『最終手段』に出ることにした。


 ――チロッ――


「――にゃぅん♪ ……うぅ~ん……」

「……」


 ――チロチロッ――


「――みゃぅ♪ ……ふぅ~ん……」

「……」


 ――チロチロチロチロッ――


「――んんんん~♪ ――はぅん……」

「――ふがっ! ……はぁはぁはぁ……ふぅ」


 俺は舌を伸ばし……スイカの谷間を舐めてみる。

 如何いかに人肌恋しい季節だとは言え、完全防寒装備の布団の中。まして、人肌の湯たんぽを抱えているような密着状態。

 スイカの谷間には、ほんのりとだが生命の泉とも言えよう――大地より湧き出る『恵み』が谷間に潤いを与えていた。そんな恵みを口に含む俺。

 少し喉が渇いていたのだろう。

 たった一滴の泉でも、口に含んだ瞬間に「人間の体は水と塩を欲している!」と実感できるほどの。

 塩分を含んだ恵みに心と体が満たされていたのだった。

 

 そんな俺の行動に反応して艶やかな声を発する妹。一瞬だけ包囲が緩んでいたのだったが、再び包囲を始めていた。だから俺は再び行動に移る。そして妹が再び艶やかな声を発して包囲を緩める。

 こんな攻防を数回繰り返し……まぁ、完全に当初の目的を忘れている俺なのであったが。

 既に前回公演から数分が経過していることにより、アラームボイスリサイタルの追加公演が開演されようとしていたのだ。

 だから、さすがに遊んでもいられないと判断して、断腸の思いで包囲網を脱出したのである。

 息を整えながら俺の首に絡んでいる妹の両手から抜け出して、上半身を起こして安堵のため息をついた俺。


「すぅ~。すぅ~」

「……よしっと……あれ?」


 そして、未だに変わらず寝息を立てる妹を起こさないよう、静かにベッドから起き上がり……机まで歩いて机の上に置いてある目覚ましのセットを解除する。

 あぁ、うん……最初の頃は枕元に置いてあったんだけどね。

 まったく意味がないことだと悟ってさ? ほら、最悪の事態に陥る前に智耶が起こしてくれるから。

 智耶さん、いつもありがとうございます!

 ただ、お兄ちゃんごと分際ぶんざいで欲を言わせてもらえるならば……女の子の体と言うものは、世の男性諸氏しょしの永遠の宝なのですから。

 決して、ご自分で乱暴に扱わず……もう少し、お兄ちゃんを優しく起こしてくれると助かりますですはい……。

 とりあえず、睡眠中に洗脳されることを回避する為に目覚ましを遠ざけているのである。意味があるのかは俺も知らんけどさ。

 一応、最悪の事態を免れたことで安心していた俺の視界に。

 机の上の開きっぱなしのPCと、乱雑に積み重なった漫画やラノベ。それにアニメDVDのケースが映し出される。いや、待て……何が起きたんだ?

 俺は目の前の不自然すぎる光景に戸惑いを覚えていたのであった。


 確かに俺は整理整頓せいとんができる方ではない。威張いばって言うことではないですが。

 だからと言って、こんな乱雑な光景は見たことがない。と言うより、あり得ない。

 何故ならば、朝は机の上に鞄と制服が置かれているのだから、こんな乱雑な置き方をしているはずがないんだ。そもそも、鞄と制服はどこ? 


「――ッ! ~~~~」


 って、もう時間ないし、机の上は帰ってきてから片付けるとして鞄と制服探さなきゃ!

 そんな感じで乱雑な机の上は棚上げしつつ、慌てて制服と鞄を探す俺の視界に壁のカレンダーが映り込む。


「……ぁ? ……」


 ……あ? そっか……今日から試験休みだった……。

 俺はカレンダーの今日の日付から数日間の下に矢印が引かれ、その下に書かれた『俺達は自由を勝ち取った!』と言う自筆の文字を見やり。

 今日から試験休みに突入していたことを思い出すのだった。


 事実を知ると全部に納得がいくし、思い出すこともある。

 確か?


「どうせ明日から試験休みなんだし? 朝起きたら……この読みかけの漫画を読んで。あと、そうだ! ……これこれ! まだ読み終わっていないラノベ達の続きを読んで――そうそう、この間買ったアニメDVDの続きも観て……あぁ、PCも起きたら開くだろうし、このままでいっか? よし、明日起きたらすぐに堪能できる為の準備オッケー!」


 なんて、意気揚々と寝る前に自分で並べておいたんだっけ?

 当然ながら昨日の時点では「休みだ」って理解しているのだから鞄と制服なんて用意はしていない。

 そして。


「……」

「ぅ~、ぅ~、ぅ~。……ぅぁ♪ ……うぅ~ん。……むにゃむにゃ……」


 ベッドの方へと視線を移す俺。

 すると、何やら悲しそうな表情を浮かべながら両手をモゾモゾと動かしていたが。

 俺の身代わりとして妹へ近づけておいた彼女に触れると、笑みを浮かべて彼女をギュッとスイカで包み込む。そして安心したような表情で再び寝息を立てている小豆さん。

 まぁ、ほとりちゃんは女神様なので窒息することもないでしょう。そう言うことにしておこう。

 俺が試験休みと言うことは、同じ『えみんちゅ』の小豆も当然ながら試験休みに突入している訳で。

 だから未だに起きないのだろう。


 なお、親父達と智耶にとっては、今日も変わらずに平日なんだけど。

 はじまりのエピローグの翌日から、お袋の宣言通り――親父と智耶の家事は、お袋が担当することになったのだ。

 とは言え、あくまでも小豆の意思を尊重した上での担当なんで……基本的には小豆が我が家の家事全般を担ってはいるんだけどね。前みたいに全部を任せているのではない。

 つまり、親父達三人は既に朝食を済ませて出かけている可能性はある。休みまで小豆が無理に家事をする必要もないのだから。

 まぁ、ここまでは理解したさ? ここまでは、な。

 だけど……あれだけの大音量で鳴っているアラームボイスで起きないって、さ? 

 ……あぁ、うん。今の状況にまで普段の俺が起きられないことを無理に持ち出す必要はないのだろう。と言うことにしておいてください……。


「……」

「むふふふふぅ~♪ ……」

「……ぁ? ……」


 疑問を解消する為に、再びベッドへと近づき妹を眺めていた俺。

 俺の探偵スキルでは解消できる可能性は少ないが、と言うより皆無ですが。

 他に解決の糸口になりそうなものが見つからないので仕方なく……そう、仕方ないのだよ。

 うむ、仕方なく……妹の幸せそうな寝顔を堪能することにした。あっ、堪能って暴露しちまった。事実だし気にしないでおこう。

 すると。

 俺は小豆の耳を眺めて小さく声を漏らす。

 ああ、はいはい、そう言うことね? なるほど、これなら確かに聞こえないな?

 って、そこまでするならアラームボイスを解除しておいてくれよー!

 思わず心の中で叫んでしまっていた俺。

 そう、妹は――耳栓をして寝ていたのであった。


「まぁ、いっか……あ? ……ふぁ~。……」


 俺は苦笑いを浮かべて妹を眺めながら、自分の頭に手を乗せる。もう解除したんだから今更な気がするし、別に休みなんだから寝かせておいても問題ないからさ。

「しゃーなしだな!」って意味で頭をこうとしていたのだが。

 妹のおやつにされていたことを思い出していた俺。まぁ、食べられておりませんけどね。

 俺としては特に気にならないのだが、再び妹が召し上がる可能性を考慮して。

 一度頭と顔を洗ってこようと思っていた俺。一応、うれいは取り除けるからさ。

 そんな理由で欠伸あくびをしながら寝ぼけた頭でフラフラと洗面所へ向かう俺なのであった。


「……ふぁ~」

「……」


 洗面所で頭と顔を洗い、歯磨きを済ませた俺は再び自分の部屋へと戻ってくる。

 洗面所へ向かう途中に眺めてみたが、やはり親父達と智耶は出かけたようだ。まぁ、もう会社も学校も始まっている時間ですしね。

 なるほど、数日間俺達兄妹はニートってことなのか? 違いますね、知っています。

 なお、お袋は本来、専業主婦なのだが……元々人望が厚く、色々な人からヘルプを頼まれることが多い。まぁ、レディース時代の後輩達や商店街のおじ様おば様連中からなのですが。

 そんな理由から、今日も何処どこかで『高嶺の花』を演じていることだろう。

 つまり、今この家にいるのは俺達兄妹――いや、俺と小豆の二人だけと言う訳だ。

 あまり意味はないのだろうが、精神的に言い直してみた。

 一向に起きない妹。耳栓をしている妹。そして、二人っきりの状態。そこで俺は『あること』を実行しようと考えていたのである。


「……よいしょっと……ふぅ……」

「すぅ~、すぅ~」

「ん? ……」


 部屋に戻った俺はベッドまで戻ると自然な流れで布団に潜り込む。まぁ、内心はドキドキですけど。

 そして確認の為……妹の耳に顔を近づけ息を吹きかける。だけど妹は変わらず寝息を立てていた。

 俺は一瞬小さく疑問の声を漏らしていたのだが。

 

「……あずき、おきろぉ、あさだぞぉ……」

「すぅ~、すぅ~」


 最終確認の為……囁くように声をかけていた俺。だけど、結果は同じだった。

 だから俺は『あること』を実行する為に、更に妹の耳元に顔を寄せて言葉を送っていた。


「……あずき……だいすきだ……」

「……すぅ~、すぅ~」

「だれよりも、あいしているぞ? あずき……」

「……す、すぅ~、すぅ~」

「せかいいち、かわいいぞ、あずき? ……」

「……す……すすすぅ~、すぅ~」

「……あずきのあずき、おいしそうだ……たべちゃおうかな……」

「――すっ♪ ……す、すすぅ~、すすぅ~」


 あぁ、うん、やっぱり面と向かってだと恥ずかしいからさ。

 どうせ聞えないのだからと、普段から心の中で思っていることを囁いていた俺。

 相変わらず寝息を立てる妹の寝顔を間近で眺めているからか、高揚するように自然と言葉が紡がれる。

 もしかしたら、睡眠学習のような効果でもあるのだろうか。夢の中の俺に囁かれているのかな?

 俺の囁きに少しだけ頬を染めて寝息を立てる妹。

 とは言え、中々起きないものだ……。

 俺は一度周囲を見回して、それから小さく息を飲み込むと最後の言葉を囁くのであった。


「……ほら、はやく、おきろ? おきないと……あずきのあずきを、たべちまうぞ?」

「――ッ! ……す、す、す、すぅ~~~~」


 うん、睡眠学習って凄いんだね。

 俺の言葉に顔中を真っ赤にして口を尖らせて寝息を立てる小豆。

 まぁ、ちゃんと断ったからな? 寝ている方が悪いんだからな。

 俺は耳もとから移動して、眠ったままの小豆の正面へと顔を近づける。

 そして、艶やかで弾力のある小豆の唇へと近づくと――


「……」

「――んむぅ……」

  

 自分の唇を重ねるのであった。

 ――なんて、な?

 いや、今のお兄ちゃんに『あやてちゃん寝入り』は通用しないんだぞ?


「……ぅん~」

「……」


 俺が唇を重ねた瞬間、妹は鼻から甘い吐息を漏らす。

 そして……小豆の舌が俺の唇を割って中へと侵入してくる。俺の首へと両腕が絡みつく。

 更に、うっすらと潤んだ瞳で俺を見つめる妹。

 そう、妹は既に起きていた。あやてちゃん寝入りと言う名の『たぬき寝入り』をしていただけなのである。

 それを知っていたから俺はキスを求めた訳で……さすがに寝込みは襲えませんよ? そこまで度胸ないですからね……。


 実際には俺が部屋に戻ってきた時。正確には確認で息を吹きかける際、顔を近づけた時から妹が起きていたのは知っていた。

 いや、だって、こいつ……口の周りが綺麗になっているんだもんよ? 寝ぼけて俺を召し上がっていたから口の周りがベタベタだったはずなのにさ。

 更に抱き抱えていたはずのほとりちゃんが元の位置に戻って俺の寝るスペースを空けているし。

 それ以上にアニオタだからね……俺の行動を理解していたのだろう。

 部屋を出る前に比べて、妹の唇の艶やかさが増していた。絶対にリップクリーム塗ったよね?

 まぁ、俺も歯を磨いてから塗ってきましたけども、何か?

 と、とにかく起きているのを理解していたから求めたとは言え。

 部屋を出るまでは普通に普段言えない言葉を囁こうとしていただけ。

 でも、起きているって知ったのだから……恥ずかしいけど頑張った『ご褒美』がほしかったのです。それだけなんです。



 しばらくの間、二人は唇で語り合う。それ以外には必要ないと言わんばかりに。

 そんな語らいの最中、俺は思い出したことがある。

 いや、昨日意気揚々と準備をしていたアニメ関連達って、さ。

 小豆と一緒に楽しむ為に用意していたんだっけ。だから、意気揚々と集めていたのかも知れない。

 それが俺達を繋ぐ確かな繋がりなのだから。

 とは言え。

 これもまた、俺達を繋ぐ確かな繋がりの一つなのだろう。


 はじまりのエピローグから、俺達の関係は……親密度のステータスだけを急成長させながら『兄妹以上恋人未満』な毎日を送っている。互いを求め続けている。密着度も以前とは比べ物にならないだろう。

 だけど、不思議なんだよな。

 以前の俺ならばオタオタしているはず、暴走するはずの今の関係。

 もちろん、ドキドキはする。言葉にすれば恥ずかしさがつのる。時々、よこしまな考えが脳裏に浮上したりもする。

 でも、それ以上に。

 小豆と一緒にいたい。温度を感じていたい。この距離感が嬉しい。言葉にすると心が暖かくなる。

 既に存在が素直に「尊い」と呼べるのかも知れない。

 そんな風な安心感に似た気持ちが支配して、密着すればするほど心が落ち着くのである。

 オタオタしない、暴走する恐れも感じない。ただただ「大切にしたい、この関係を壊したくない」って気持ちが募るばかりだ。

 でも、俺達の関係は『兄妹以上恋人未満』――未だに俺は小豆を選んでいないし、香さんとあまねるも愛している。それを妹も理解している。

 それでも俺達は今の関係を続けられている。


 それはきっと、はじまりのエピローグ。

 俺達は一緒に試練を乗り越えた。辛いしがらみを断ち切った。互いの想いを相手に届けた。苦しい一歩を踏み出した。そして――

 確かな覚悟と見守ってくれる全員の想い。それを象徴する徴を手に入れた。

 だから俺達は俺達のまま、自分の正しさを見つめ、相手を思いやりながら求め、求められたことに全力全開で向き合えるのだろう。

 

 俺達兄妹はアニオタだ。互いにとってのアニオタなのさ。

 だから俺達ならば大丈夫。だって俺達にはアニメがある。アニメがある限り俺達は大丈夫なんだ。

 アニメから色々なことを学んできた俺達。学ぶすべを教わってきた俺達。行間から読み取って、自己解釈を導き出してきた俺達。常に自分の正しい道を歩いてきた俺達。

 そう、アニメがある限り、俺達はまだまだ学んで成長できるのだろう。

 そして、それはリアルな相手の気持ちだって同じじゃないか。画面か、目の前かの違いでしかないんだ。

 別に順風満帆じゅんぷうまんぱんじゃなくったって問題ない。すれ違いだって問題ない。

 その時はぶつかればいいだけなんだ。全力全開でぶつかればいいだけなんだ。

 自分の正しさを抱いて全力でぶつかれば……その先には新しい未来が待っている。

 そう、俺達は互いの色に合わせられる色違いのピースなのだから――。


「……お兄ちゃん……大好き……」

「俺もだぞ、小豆……大好きだ……」

「愛しているよぉ~」

「愛しているぞ……」

「……んぅ♪」

「……」


 眩しい朝の日差しを浴びながら、俺達は自分達の望みを求め、受け入れ。二人で一つの物語を紡いでいる。

 だけど、まだまだ終わらない。いや、始まってすらいないのかも知れない。

 今までのことは、本当に俺達のプロローグに過ぎなかったのだろう。

 この先のことなんて俺達には見えていない。どんな結末を迎えるかなんてわからない。

 だけど、それが面白い。先を知っているアニメが面白いはずがない。知らないからこそ、面白い。

 そう……人生は筋書きのないアニメなんだからな!


 俺は、小豆は……お互いのオタクとして。

 これからも互いを求め、自分の信念を貫き、期待に胸を膨らましながら次の話を待っていればいいのだと思う。

 そう、俺達はアニオタ。

 次から次へと生まれてくる素晴らしいアニメ達を心待ちにするように。

 二人で一緒に新しいストーリーの一ページを綴っていく。二人で俺達のアニメを描いていくのだろう。


 ――願わくば、俺達のアニメが俺達にとって『究極のアニメ』でありますように……。


 そんな想いを胸に、そんな決意を胸に。

 俺達は新たなストーリーを心に刻むべく、いつまでも互いを求め続けているのであった――。



 完

 

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I need always tiny.【完結】 いろとき まに @minamibekoyori

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