第7話 プロポーズ と 契約書

 それから数日後――納骨を済ませた翌日。

 親父とお袋は、俺を祖母ちゃんに預けて父さんの墓へと向かった。

 そして、父さんの眠る墓前で土下座をして謝罪と許可をもらったそうだ。……うん、二人で並んでな。

 当然、親父は「俺だけでいいんだから」と言ったらしいのだが、「いいの……」と言って、お袋も土下座をしたらしい。


 お袋が親父の紹介を受け入れた理由と、父さんの墓前で土下座をした理由。

 実は、ここだけの話。

 って、その前に。

 そもそも俺が知らない過去話だったり、小さい頃の話をこんなに克明に説明できる理由。

 父さん関係の話は、俺が家に戻ってから親父達がすべてを教えてくれたのだった。


 いや、ほら、その話を聞く前に逆上して家を飛び出していたからさ……。

 もしも踏みとどまって話を聞いていたら、あんな馬鹿はしなかったんだろうなって今でも思うのだ。

 たぶん、そのせいなんだろう。話を聞き終わった時、自責の念に押し潰されそうになって仏壇の前で土下座して泣きながら謝罪していたっけ。そんな俺の背中を優しく撫でてくれていたお袋。

 少し恥ずかしかったけど、心の痛みがやわらいでいた記憶がある。

 そんな、未だに心の古傷が痛む思い出なのだった。

 あっ、親父の割り箸の話は、親父が酔っ払って、いつも話すネタの一つなのである。


 そんな親父達に聞いている話とは言え。

「親父がお袋を最初から好きだった」って話は、親父が一人の時に「母さんには内緒だぞ?」と口止めした上で教えてくれたのだ。別に俺へ話す必要はなかったんだろうけど、単に惚気のろけたかったんだろう。

 そして、同じようにお袋が一人の時に、「昇さんには内緒よ?」と口止めした上で教えてくれた話。それが――

「お母さんね……深智くんに出会う前……昇さんのことが好きだったのよ」

 とのこと。

 だけど親父と同じように奥手だったお袋は、想いを打ち明けられずにいたのだった。

 つまり、両思いだったってこと。そう、両想いじゃなくて両思い。両側からの片思いってことさ。

 いや、漢字は俺が勝手にそう解釈しているだけで正解ではないんだけどね。どうでもいいんだけどさ。


 だけど奥手な親父の態度から「自分のことを好きじゃない」と諦めていたらしい。もちろん、「嫌い」って意味じゃなくて、「妹」って意味。

 うん。お袋って親父の二歳年下。つまり、父さんと同い年なんだ。そして、由姫おばさんは四歳年下。

 親父が、奥手な上に、女の子への接し方に慣れていないからなのか。

 ……なるほど、俺の免疫のなさは親父の遺伝なのか。違いますね、知っています。

 お袋への接し方が由姫おばさん――つまり、妹のような接し方になっていたのだろう。

 まぁ、俺もあまねるとの接し方は小豆と同じになっているかもな。でも彼女は妹だと思っているから問題ないのである。あるかもしれないけど、それ以上は無理なので勘弁してください。


 そんな理由で自分の気持ちを諦めて蓋をしていた頃に、親父から父さんを紹介されたお袋。

 そして何度か父さんと会っていた頃に、父さんの方から告白されたそうだ。もちろん、すごく悩んだのだと言う。

 蓋をしているとは言え、お袋は親父が好きなんだ。だけど、相手にされない人を待ち続けるよりも、こんな自分を必要としてくれる人ならば――。

 そう思い、父さんの告白を受けたお袋。もちろん最初は苦しんだそうだ。蓋をした想いなんて溢れ出してくるんだから、さ……。


 それでも、父さんと同じ時間を刻んでいくにつれ、少しずつ溢れる勢いが弱まっていた。

 そして数ヶ月後には、完全に父さんへの愛で蓋を覆っていたそうだ。

 ――そ、そんなことができるのか!

 だったら俺だって同じ時を刻んで蓋を覆ってしまえば?

 この話をお袋から聞いたのは、確か去年の秋だったか……。

 既に小豆の洗脳によって蓋をしていた想いが溢れ出してきて、困惑していた時期だったのである。

 だから『渡りに船』だと解決策を見つけたように喜んだんだけどさ?


 いや、小豆への想いを蓋したいのに小豆と同じ時を刻んでいたら意味ないじゃん!

 うん、香さんやあまねるとも同じ時を刻んでいるけど……比率で言えば、小豆が断トツだもんな。

 あっ、小豆と同じ時を刻んで、その想いを覆ったから蓋をした想いが増大したのか!

 つまり当然だけど、蓋なんて覆うことなどできないのである。

 ……まぁ、小豆への想いを認めちゃったから気分的には清々しいので先に進めよう。


 だから、父さんにプロポーズをされた時。

 お袋は満面の笑みでOKをしたのだと言う。うん、親父のことを「彼の兄」だと割り切ることができたのだった。

 そして父さんと結婚をし、俺が産まれたことで愛が更に深まっていたのだろう。


 だけど、そんな矢先――父さんが亡くなってしまう。絶望に染まり、すべてを失っていたお袋。

 そんな時に突きつけられた、いとこ夫婦達の言葉。

 たぶん、精神が崩壊寸前だったんだろうな。

 父さんの死に直面したことで蓋をしていた親父への想いを覆っていた、父さんへの想いが弱まる。

 突きつけられた言葉によって、父さんへの想いが吹き飛ばされる。

 そして、蓋にヒビが入ったのだと思う。


「本当……あの時は自分でも呆れるくらいに余裕がなかったのよね。絶対に、そんなことを望んじゃいけないって理解しているのに『昇さんに善哉を面倒みてもらいたい』って、思っていたんだから」

「……お袋……」

「もちろん深智くんのことは今でも愛しているわよ? あんたのことが大事だってことも嘘じゃない。だから、あの時あんたを幸せにできないから家に残してほしいって苦渋の選択をしたのは本当よ?」

「……うん」

「でもね? それだけじゃなかったのよ……あんたを、この家に残すことは。昇さん……深智くんには申し訳ないけど、彼との『つながり』を残しておきたかったんだと思う……」

 

 お袋は、苦渋の表情を浮かべながら言葉を紡いでいた。

 親父との『つながり』――それは義理の妹としてでも、霧ヶ峰家の嫁としてでもない。

 一人の霧ヶ峰鷹音として、霧ヶ峰昇との接点を断ち切りたくなかったってこと。

 自分はもう家に残ることは叶わないだろう。それでも。

 俺を親父に預けていられれば、親父に会うことは許されるはずだ。

 うん。祖父ちゃん祖母ちゃんも由姫おばさんも、歓迎してくれるだろうしな。

 だから、一時の安らぎだけでも求めていたのだと思う。


「だからね? 私はもう再婚しないつもりだったのよ」

「え?」


 お袋の言葉に驚きの声を発する俺。いや、だって、再婚したんじゃ?

 俺の心を察したのだろう。お袋がクスクスと笑いながら言葉を繋いでいた。


「いやねぇ~。『あの時はそうだった』って話じゃないの。……私は一度、深智くんを受け入れた。もちろん、それを後悔はしていないし、幸せだった……それと同時に、昇さんへの想いに蓋をしていたの」

「うん……」

「そして、深智くんを失った……でも、だからって想いが消えることもないし、深智くんを失ったからって、昇さんへ想いを馳せることは二人に対して失礼なことだと気づいていた……」

「……」

「それでも私は深智くんを愛しているし……そして、昇さんも愛しているのよ。だから昇さんとの繋がりを断ち切りたくなかった。別に想いを打ち明けるつもりはなかったのよ? 昇さんにとって、私は義理の妹なんだから。……それでも、たとえ昇さんが誰かを愛したとしても、私は昇さんを愛し続けようと決意していたの」 


 お袋は一点の曇りもない瞳で俺を見据えながら、迷いのない言葉を紡いでいた。

 お袋は再婚をしないんじゃない。

 既に自分は霧ヶ峰深智の妻であり……これからは霧ヶ峰昇の妻でもあるのだと、心の中で整理をしていたのだろう。

 そう、目に見える『形』ではないけど、心の奥に秘める『形』として。

 一生変わることのない誓いとして、固く決意していたのである。


 そんな決意をしていたお袋だったが、突然目の前に降り注いだ親父の言葉に、驚きを隠せないでいたのだと言う。


「本当に、ね……自分の耳を疑ったわよ。あんなことを言ってもらえるなんて、思ってもいなかったんだから……。あんただけじゃなくて、私まで面倒を見てくれる……幸せにしてくれる、なんてね?」

「お袋……」


 本当に幸せそうに、嬉しそうに微笑みながら紡いでいたお袋に、俺も同じような微笑みを返していた。


「もちろん、冷静になって……昇さんの言葉が単なる『私達を家に残せる為の口実』だったんじゃないかって思い直していたわよ? あの時は舞い上がっていて……私を幸せにしてくれるって勝手に浮かれていたから涙を流して三つ指ついてお願いしていたのだけれど……」

「……」 

「冷静になると自分がすごく恥ずかしくなったのよ。ただ、義理の妹だから優しくしてくれたのに、ね?」

「あはははは……」


 苦笑いを浮かべるお袋を眺めて、同じように苦笑いを浮かべる俺。

 ……うん、実はその時の話も親父から聞いていたんだよね。


 あの時。

 親父は別に『あんなこと』をお袋に伝えようなんて考えていなかった。いや、言わなくても誰も反対なんてしないだろうからと。

 お袋さえ気にしなければ、そのまま家に残ってもらうつもりだった。

 そして、父さんとの約束通り二人の面倒を見るつもりだったらしい。まぁ、それ以上の感情はあったんだろうけどね。

 もちろん、お袋の気持ちを第一に考えながら、少しずつ距離を縮めていきたかったそうだ。

 それで、気持ちの整理がついた頃に「もしよかったら?」とプロポーズをするつもりでいた。

 と、こんな風に考えていた矢先に、お袋が窮地に立たされて自分の前からいなくなりそうだった。

 だから咄嗟に『あんなこと』を口走っていたのだと言う。


 つまり、親父にとっては『一世一代の告白』だったらしいけど、残念ながら伝わっていなかったと言うことだ。

 まぁ、お袋も心意に到達していたんだけど、奥手な性格のせいで自分から遠ざかっていたんだけどね。

 そんなことを知っている俺は、乾いた笑いを奏でながらお袋を眺めていたのだった。

 

 そんな理由で、お袋は――

 父さんのことを忘れた訳ではないけど……これからは親父のことも愛していく。叶わないかも知れないけれど、親父の妻として親父と寄り添っていく。

 そのことを父さんに謝罪と許可をもらう為、一緒に土下座をしたらしいのだ。

 

 だけど、この話には後日談があり――。

 父さんの一周忌いっしゅうきも無事に終わり、が明けた数日後。

 親父はお袋にプロポーズをした。

 うん。祖母ちゃんと由姫おばさんには、親父やお袋の気持ちなんて最初からお見通しだったようだ。

 まぁ、態度に出ていたのだろう。

 ――互いには気づいていなくても周りで見ていれば丸わかりよ。あれで気づかないんだから、兄さんも義姉さんも鈍感を通り越して土管よね?

 とは、由姫おばさんの談である。いや、おばさん……まぁ、何も言うまい。

 

 そう言えば……小豆が俺に想いを寄せているのを最初に気づいたのって、お袋だったって小豆が言っていたな。……女って、すごいね。

 と言うより、そのスキルはどこで売っているのですか? 商店街か秋葉原か某密林に売っていたのなら買いたいところです。

 ほら、そんなスキルがあれば香さんやあまねるの気持ちが……俺に向いてないって知ったら立ち直れないので遠慮しておきましょう。

 うん、やっぱり男は鈍感な方がいいのだろう。と言うより、自分へ向けられている気持ちには使えないみたいだから意味ないのかな。

 よし、解決したところで話を戻すか。


 結局、互いに気持ちを向けてはいたものの、喪にしているからか。やっぱり父さんに遠慮しているからなのか。

 一年間は何も進展がなく過ぎていたらしい。

 一周忌の法事のあと、そんな煮え切らない親父の態度にしびれを切らした由姫おばさんは――

「喪が明けたのだし、よし坊は私と母さんで面倒みておくから、日頃の疲れを癒して?」と、お袋のことを外出させていた。

 お袋が外出すると、ものすごい剣幕けんまくで親父に――


「ちょっと兄さん! 義姉さんだって若いんだから、よし坊の母親だけに専念させるなんて可哀想かわいそうじゃない! 第一、兄さんが義姉さんを幸せにするって言ったんでしょうが!」

「……し、してるじゃね――」

「どこがよっ!」

「うぐっ……」


 こんな風に食ってかかられて、二の句を告げられずにいた親父であった。

 困惑していた親父に、おばさんは――


「いい? 母親だけやらせて、あしながおじさん気取りされたって、母親の幸せは感じるのかも知れないけど……女の幸せなんて感じる訳ないじゃない? それとも兄さんは、よし坊の幸せだけが義姉さんの幸せだって思っているの?」

「そ、そんなことは……第一、深智のことがあんだしよ?」

「はぁあ? なんで今ここで深智兄さんに気兼きがねしてんのよ! 大事なのは義姉さんの幸せじゃない……そもそも、兄さんは『深智兄さんが義姉さんの幸せを望んでいない』――『深智兄さんが義姉さんをずっと縛りつけておきたい』なんて考えていると思っているの?」

「そんなことは思ってねぇけどよ……」


 こんな風に言葉を投げかけられていた親父。

 すると、突然おばさんの表情が一変して悲しい顔で言葉を繋いでいた。


「……兄さんは義姉さんを『義理の妹』としか見ていないの? あくまでも『深智兄さんのお嫁さん』として幸せにするつもりだったの? 一人の女性として幸せにするつもりじゃないの?」

「え? い、いや、その……」


 おばさんの核心をつく言葉に言葉をにごらせる親父。

 そんな親父の態度に腹が立ったのだろう。


「もういいわ! 兄さんになんて任せておけない! 義姉さんの女の幸せの為に、私が、誰か義姉さんに素敵な男性を紹介するわ! ……それでいいわよね、母さん?」

「あら、それなら知り合いに独身のいい人がいるから聞いてみようかしらね? 竹中さんって言うんだけど、子供好きだから鷹音さんも気に入るんじゃない……」

「本当、母さん? それなら早速さっそく連絡を――」

「え? い、いや、ちょっと待てって……」


 突然こんな宣言をして、隣に座って俺をあやしていた祖母ちゃんに声をかけていた。……俺、いたんだ、その場に。  

 まぁ、いたとしても何も理解できずに「あうあう」言っていただけなので、いないのと一緒なんだけどね。

 言葉を受けた祖母ちゃんは、おばさんの援護をしていた。反対してくれるだろうと思っていた親父は顔を青ざめる。

 祖母ちゃんの言葉が終わるや否や、おばさんは嬉々ききとした表情で携帯を取り出して相手に連絡をしようとしていた。

 それを見た親父は、慌てておばさんの手を掴んで制止していたのだった。


 結局。

 おばさんと祖母ちゃんにきつけられて、重い腰をあげてプロポーズをした親父。

 うん、他人に取られるって思ったら、ても立ってもいられなくなったのだろう。

 ただ……。

 実は、おばさんも祖母ちゃんも本当に紹介するつもりなんて最初からなかったんだけどね。単なる芝居だったのである。


 余談だけど。おばさんの名前は『竹中由姫』と言う。

 そう、旦那さんは祖母ちゃんが紹介しようとしていた独身で子供好きのいい人な『竹中さん』である。

 つまり自分で紹介してもらって大恋愛の末、数年前にゴールインしたのだ。……かませ犬にならなくてよかったね、竹中のおじさん。って、どうでもいいか。


 当然ながらプロポーズをされた時、お袋は驚いたそうだ。

 うん、諦めていたから心の奥に秘める『形』として決意していたんだしな。

 お袋は二つ返事で了承していたのだと言う。

 父さんには納骨の翌日に土下座をして謝罪と許可をもらっていた。だから何もうれいはなかったらしい。

 もちろんプロポーズした日に、その足で寺に向かい、父さんに結婚の報告をしていたそうだ。うん、仲良く土下座しながら。

 もしかしたら父さんも二人のことで、やきもきしていたんじゃないかな? やっと安心できたのかも知れないね。まぁ、霊感ないんで知りませんけど。

 

 ――そんな経緯で、名実ともにお袋は『霧ヶ峰昇の妻』として認められたのだった。


◇8◇


 ……そもそも、俺はなんで親父達の話をしていたんだっけ? えっと……。

 おお、風邪を引かないって話から、親父に「体だけは丈夫にしろ!」って言われていたって話を経由して、父さんの話から、親父とお袋の話題になったんだっけ。

 ……うん、思い出すのに時間がかかるくらい遠回りしたな。

 まぁ、俺のアキバ散策よりは早いのだろう。そんなことはどうでもいいから先に進めるか。


 本当、体は丈夫な親父が言うとみょうに説得力があるんだよね。俺も人のこと言えないけどさ。

 当然、あの頃はそんなスパルタじみた熱血が嫌いだった。泣き出して逃げ出したくなったことも頻繁にあった。

 だけど、そのおかげなんだろうな。俺は今でも、こうして五体満足であり、健康状態でいられるのだ。

 うん。あんな黒歴史時代を全治一ヶ月未満程度の怪我が十数回だけで済んでいたんだから。

 これは間違いなく親父のおかげなんだと思っている。感謝だってしているさ。

 だけど、口が裂けても本人には感謝の言葉なんて伝えない。と言うより、口が裂けたら伝えられないので、何があっても伝えないと言うことだ。……恥ずかしいじゃんか、そんなの。


 こんな理由からか、あんまり病気で辛かった記憶がないのも事実。

 だから、ある意味憧れている看病とお見舞いイベント。

 だって、小豆――


「お兄ちゃんが病気で寝こんだら~、ナース姿で看病してあげるね♪」


 こんなマニフェストを打ち立てているんですよ? 支持するでしょ? 病気になってみたいと思うでしょ?

 ……たぶん、こんな下心があるから病気にならないんだよね。

 病気にも人を選ぶ権利があると言うことなのだろう。


 そう、残念なことに……『●●コン』は病気かも知れないが、医学的に見れば病気とは認められていない。当たり前だけどな。

 だから俺がアズコンの末期患者であっても小豆は看病してくれないのだ。

 いや、俺が妹に「俺はアズコンだ!」ってカミングアウトしてしまえば、小豆はたぶん看病してくれるかも知れない。

 その代わり、契約書に名前や住所などの個人情報書いて印を押すことになるだろう。なぜか看病する小豆も隣に名前や住所などの個人情報を書いて印を押すことになるんだけど。

 うん、本来看病なんだから医療なはずなのに、どう言う訳か区役所で発行されている契約書。なんか左上の方に『婚姻こんいん届』って書いてある紙。


 余談だけど、先月に俺も十八歳になった訳だが。

 その俺の誕生日に小豆が――


「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう♪ ついでに、これ、あげるよぉ~♪」


 と、プレゼントと一緒に婚姻届を手渡してくれたので、実物を知っているのだ。

 うん、アニメとかゲームで知識があるから実物を見てみたいと思っていたので嬉しく感じてはいるんだけどな。

 サービスなのだろうか。既に『妻になる人』の欄に小豆の個人情報が書かれていて捺印なついんされている。

 更に親父達までサービスしてくれて『その他』の欄に同意を。

 明日実さんと江田さんが『証人』の欄に署名しているのだ。

 つまり、あとは俺が『夫になる人』の欄に自分の個人情報を書いて捺印して、区役所に届ければ契約は成立する訳だ。患者さんの負担を減らすなんて、とても親切なナースさんですね。


 ほうほう、簡単だな。それだけで契約できるなんて楽でいいな。では、さっそく契約を――って、するかー!

 そんな感じで小豆の巧妙こうみょうな罠にかかりそうだった俺は、『生涯しょうがい看病』の誘惑を断ち切っていたのである。 

 そう、きれいさっぱりと断ち切った俺は小豆の渡した婚姻届を……机の引き出しの中。親父から渡されたコンドーさんと一緒に隠してある。

 い、いや、捨てるなんてもったいないからさ。ナニかに使えるかも知れないのである。そう、エコだよ、エコ! 


 ――いや、隠した時にさ、こんな言い訳がましく考えていたんだけど。そもそも『書きかけの婚姻届』なんて契約以外に何に使うんだろうな。うん、完全なエゴでしかないと思う。

 あと、どうでもいい話だけど戸籍上、『養女』の小豆って、さ。

 そのまま俺と結婚ってできるのかな? 一度戸籍を外す必要があるのかな? そこら辺って親父達は知っているのだろうか。

 前は全然気にしていなかったんだけどさ。「もしかしたら?」ってこともあるし、婚姻届のことを思い出していたからさ……気になってきたんだよね。

 まぁ、今考えることでもないから先に進めようかな。

 

 そんな感じで誘惑を断ち切ってしまった俺には、普通の病気をする以外には看病してもらう術がなかった。普通、そうなんだけどね。

 きっとタンスの中で出番を待っているんだろうなぁ……ピンクでミニスカのナース服。変態お兄ちゃんの趣味を網羅もうらしている妹ならば、間違いなく眠っていることだろう。

 うん。普段なら暴走しそうで小豆を傷つけそうだから遠慮したいところだけど、たぶん病気だったら暴走できる気力もないだろうから安心だしさ。いや、病気なんて最近していないので保証はできないけどね。

 ――と言うより、病気のせいにすれば暴走して『責任取る』ことも、自分を強引に納得させることができるかも?

 ……既に末期患者だな、俺ってアズコンの。

 なんか生涯看病を契約すれば一石二鳥な気がしてきたぞ。

 そもそも今、小豆の将来って俺が自由にできるんだよな。俺が区役所へ小豆に黙って契約書を届けちゃえば、あいつに拒否権なんてないんだよな? 区役所だって何も言わずに契約を認めてくれるだろうし。

 だから契約が完了して現実を突きつけた時に――


「冗談だったのに、なんてことするのよ! もう、やだぁ~、さいあくぅ~! お兄ちゃんのバカ、変態……実用系エロゲ主人公ー!」


 なんて、泣いてわめいても、聞く耳持たずに俺が、小豆のことを、そ、その……自分の―― 


「――もぅっ!」

「のぉぉぉおおおおー! あぶっ! ……すぅ……ん? ……ぅぅぅ……んぅぅ――ぶはっ! って、なにするんですか、明日実先生!」

「……少しは落ち着いたかしら?」

「……は、はい、すっかり……」


 俺が思考を暴走していると、突然目の前に明日実さんが近づいてきて……俺の鼻をつねっていた。それも、力の限りゴーゴゴー! って感じに。

 そしてそのまま彼女は自分の方へと引っ張った。


 鼻に走る衝撃と、突然引っ張られた衝撃に思わずジェットコースターで落下したような絶叫をしていた俺は目の前の柔らかで人肌のクッションに顔を突っ込むことになる。

 ぶつかった反動なのだろうか。「ふわり」と、俺にとって懐かしく嗅ぎ慣れた香りが、俺の鼻腔に注ぎ込まれていた。だから無意識に胸いっぱいに吸い込もうとしていたんだけど。

 そんな懐かしく嗅ぎ慣れた香りを彩る香り――うん、大人のたしなみである香水に違和感を覚えていたのだった。

 なんとなくは理解しているんだけどさ。きっと江田さんの嗜好なんだろうと思うから、俺が何かを思うのは筋違いなんだけど。あと、単純に二人は婚約中なんだしさ……二人に幸せになってほしいし、部外者の俺が何を言っているんだろうって思うんだけどさ。

 明日実さんが江田さんに取られたって感じて悲しくなっていた俺なのであった。


 そんなことを考えて悲しくなり、泣きそうになっていた俺だったが。

 突然後頭部を押さえつけられる衝撃を覚える。

 かろうじて呼吸ができていた谷間に鼻が密着したことにより呼吸困難に陥る俺。

 慌てて顔を引き離して息を吸い込むと、彼女に文句の弓矢を放つ。

 だけど、とても冷たい視線で紡がれた彼女の言葉で、逆に俺が射抜かれていたのだった。ママ、こわい……。


「まったく……それで用件は何なのよ?」

「……用件? ――ふがっ!」


 呆れた表情で紡がれた彼女の言葉を、理解できずにキョトンとした表情で聞き返す俺だったけど。

 再び谷間に顔を押し付けられて「ふがふが」と空気を求めるのであった。ほんとうに、ママ、こわい……。


「と言うよりも……さっきから、あんたの持っている巾着袋が気になっているんだけど? まさかとは思うけど――」

「その『まさか』です! ――おげっ!」


 俺を解放した彼女は、怪訝な表情で俺の手に持っている巾着袋に視線を移して訊ねてきた。

 だから以前小豆が使った台詞を使ってみたのに引っぱたかれるのであった。やい、小豆! 『まさか顔』なんて周知されていないじゃねぇかよ!

 ……知っていましたけどね。


「……なんで授業中にお弁当を持ってくるのよ!」

「お腹すいたからに決まっているで――ぐわっ!」


 売り言葉に買い言葉。と言うより、俺が口を開くと攻撃してくる彼女。や、やっぱり家庭内暴力だ。

 そんな感じで、そのあと数発攻撃を受けながらも。

 最終的には土下座と泣き脅しで、保健室で弁当を食べる許可をもらった俺。

 彼女の優しさなのだろう。

 顔と腹には攻撃を受けていないので、小豆の弁当に加えて昼休みに補充された香さんのおかずを美味しく堪能していた俺なのであった。

 


「……あら、誰か来たみたいね?」

「授業中なのに珍しいですね?」

「……授業中に弁当を食べに来るのよりは珍しくないわよ? って、入ってこないわね……開いているわよー!」


 弁当を食べ終わり、彼女にれてもらったコーヒーで一息ついていた俺の鼓膜に扉をノックする音が聞こえてきた。

 だから素直な感想を述べたのに、呆れた顔でこんなことを言われる俺。そ、そうなのか……。 

 愕然がくぜんとしている俺に苦笑いを浮かべていた彼女だったけど、入ってくる気配がなかったので大声で外に声をかけていた。

 すると声が届いたのだろう。ゆっくりと扉が開き人影が映る。


「って、あまねる?」

「お、お兄様……」


 俺は思わず、立っていた人物に驚いて声をかけていた。

 そう、俺なんかと違い、授業中になんて訪れることなどないはずの――

 あまねるが鞄を抱えて顔を青ざめて立っていたのだった。  

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る