第6話 親父 と お袋

 うん……引いたことないんだよなぁ、風邪ってさ。

 もちろん、小さい頃は引いていたと思うけどね。記憶に残らない頃の話なのである。

 これはたぶん親父……いや、正確には俺の本当の父親である『父さん』――まぁ、親父の弟なんだけどさ。

 父さんのことがあったからなんだと思っているのだった。


◇7◇


 体の弱かった父さんは、俺が物心つく前に病気で亡くなった。だから俺は父さんのことを遺影かアルバムの写真でしか知らない。

 そもそも、物心がつく頃には親父がお袋と再婚していたから、俺は親父が本当の父親だと思っていたくらいだ。

 そして、二人が再婚して数ヶ月しないうちに小豆が幼女……確かにあの頃は本当の意味で幼女だったが、今言いたいのは養女だな。

 霧ヶ峰家に養女として迎え入れられたのだった。

 だから俺も小豆も、親父達を本当の両親だと思っていたし、互いを本当の兄妹だと思って生活していた訳なのだが。

 俺は中一の時に『その事実』を知ってしまい、家を飛び出したのである。まぁ、黒歴史は思い出したくないから先に進めよう。

 

 家を飛び出す前はまだ事実を知らなかったから、そんな理由があるなんて知らずに。 

「体だけは丈夫じょうぶにしろ!」と、物心つく前から親父に鍛えられていたのである。

 もちろん自分の弟がそうだったからって、息子の俺が遺伝しているとは限らないけどさ?

 病室のベッドで父さんが息を引き取る寸前に――


「……あ、兄貴……すま、ない……鷹音、と……善哉、を……守って、やって、くれない、か……」


 と、両手を握られて涙ながらに、親父は頼まれていたらしい。

 そんな遺言があるからこそ、親父は熱心に俺を鍛えていたんだとも思う。


 これは親父の名誉の為……誤解のないように付け加えると。

 当然その頃の親父は、お袋にとっては単なる『義理の兄』であり、別に不貞ふていを働いていた訳ではない。

 だからと言って、弟に頼まれたからお袋と再婚したのでもない。

 親父の方が父さんよりも先にお袋と知り合っていて……恋心を抱いていた。だけど奥手な親父は気持ちを伝えられずにいたのだった。

 

 そんな時に親父が父さんを、お袋に紹介したんだけど……二人の恋のキューピッドになってしまっていたのである。

 いや、紹介と言っても普通に「俺の弟」だって紹介しただけなのだ。

 もちろん内心ショックだったとは思うけど、好きな人と自分の弟だ。幸せになってほしいと願っていたのだろう。自分の想いに蓋をして、親父は真剣に二人を応援していたのだと思う。

 

 ――そうして二人の間に確かな愛情が芽生え、結婚をし、そして俺が産まれたのだった。

 俺が産まれたことにより、二人は確かな家族となる。


「もう、俺が幸せを願わなくても、確かな幸せが二人には存在するんだな……俺も、新しい幸せを見つけるべきなんだろうな……」


 親父は俺が産まれた日。そんなことを呟いてから、旅に出たのである。……割り箸一膳を胸ポケットに挿して。あっ、ちゃんと旅行鞄は所持しているけどね。



 余談だけど、親父が所持している割り箸一膳は親父がまだ高校生だった頃。

 たまたま地元で出会ったおじ様からもらった割り箸が影響しているらしい。

 なんでも――


「へぇ? きみ、いくつ? そう、十八なんだ。若いなぁ……うん、十八にしか見えないね。あっ、ちなみに、おじさん十八の頃があったんだけど知ってる? そっか、知らないかぁ……普通誰でも、十七の次は十八なんだよ、覚えておいてね?」


 とか。


「ところで、きみ、どこから来たの? え? 地元? そうなのかぁ……あ、ちなみにおじさんは日本なんだけどさ~」


 とか。


「いや~、きみ、ガタイいいよねぇ? なにやってるの? へぇ、柔道か……ちなみに、おじさん、こう見えても人間やっているんだよ……段は持ってないけど、冗談は得意なんだよねぇ」


 とか。

 まぁ、普通声をかけられて、こんなことを言われ続ければ不審者扱いするのかも知れないが。

 おじ様の後ろから汗水たらして付き添っているカメラマンと。

 おじ様本人を画面の向こうではあるが知っていた親父。番組のことを少しは知っていたから「これが通常なんだ」と理解していたらしい。

 そして帰り際に。


「それじゃあ、ありがとうね? ……うん、これで美味しいものでも食べて?」

 

 と言って手渡されたのが……割り箸一膳だったらしい。

 普通に考えれば、誰でも単なるネタだと気づくのだろうが。

 親父は何を思ったのか。


「おお、この割り箸があれば何でも美味しく食べられるのか!」

 

 とか、訳のわからない発想を抱いていた。ナニソレ、イミワカンナイ!

 それ以来、親父は……外出する時には必ず割り箸一膳を持ち歩いているそうだ。まぁ、さすがに、現在はその時の割り箸は使っていないけどさ。

 さんざん再利用してボロボロになったとかで新しいのに取り替えたのだと言う。いや、割り箸だよね?

 取り替えた時、おじ様からもらった割り箸を眺めて親父は不安だったそうだ。

「もう、この割り箸みたいに美味しいものが食べられないのか?」とな。

 ところが、新しい割り箸を用いて食した料理が変わらず、いや、それ以上に美味しかった。

 そこで親父は「割り箸なら取り替えても美味しいものが食べられるのか!」と喜んだそうだ。うん、割り箸は特に関係ない気がするけどさ。

 だって取り替えてから初めて食べたのって『お袋の手料理』なんだしさ。大好きな人の手料理が逆に不味いとか、あり得ないよな……。それ以前に、好きな人の手料理を割り箸で食すのは印象的にどうなんだろう。

 まぁ、父さんとの婚約中の話だから愛情は父さんに向けられていたんだけど、別に関係ないだろう。

 俺だって香さんの手料理が、誰に愛情を向けているか知らないけど美味しく感じるんだから。

 だけど、この話って……割り箸をもらってから何年も経過してからの話なんだよね。確かに外出時しか使っていなかったらしいけどさ。

 何年同じ割り箸使ってんだよ! そりゃ、ボロボロにもなるわ! 

  

 そして、一番の疑問点……「お袋の手料理が美味しいのか?」と言う疑問についてなのだが。

 お袋の名誉の為に付け加えるならば、別に親父の愛情補正がなくてもお袋の料理は美味しいのだ。


 そう、別にお袋は家事全般ができない母親なんかじゃない。どちらかと言えば優秀……と言うのは変なのかも知れないけど、世間一般の家庭的な専業主婦レベルには到達していると思っていた。

 そもそも、昔は普通にお袋が家事をしていたのだ。だから、小さい頃は普通にお袋の味で育ってきた俺。

 だけど小豆が家事をするようになって。……確か、俺が家に戻った直後だったかな。

 元々少しはしていたんだろうけど、本格的にお袋の手伝いをするようになっていた小豆。

 と、お袋がニヤニヤしながら教えてくれたのである。ニヤニヤに何の意味が?


 つまり、小豆に家事を教えたのは他でもないお袋。特に小豆の『ギガうま』な料理の基礎はお袋が指南したのである。

 そう考えると、俺が小豆の料理を美味しいと感じるのは必然なのかも知れないよな。

 だって俺の慣れ親しんでいた味を小豆が再現しているんだからさ。


 小豆の家事の負担が増えるにつれ、お袋の家事の負担が減っていた。って、おい!

 ……まぁ、最初から一切の家事をしてこなかった息子が言うのは間違っていますけどね。

 そして、小豆が高校に入学するのと同時に、我が家の主婦は完全に小豆になっていた。それだけなんだ。

 とは言え、他の家事はともかく料理に関しては、お袋もたまにすることがあるらしい。

 どうして「らしい」なのかと言えば……俺の口には入らないから。食べさせてもらったことがないのである。

 いや、別に俺だけなら何も思わないだろう……夜中に枕を濡らすだけだし。

 ――その節は洗濯ありがとうございました、小豆さん。

 

 だけど俺だけじゃなくて小豆にも食べさせていないことを知った俺。

 そう、お袋は――親父と智耶、そして祖父ちゃんや明日実さんには手料理を振舞っているのに小豆には振舞っていなかった。

 俺はずっと自分だけが、のけ者にされているんだって思っていたのに。

 その話を智耶から聞かされた時、言い知れぬ怒りがこみ上げてくるのだった。


『ヨシキは激怒した。必ず、邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの女王を正さねばならぬと、決意した。』


 ……うん、あの時の俺はきっとこんな書き出しが似合うのだと思う。

 タイトルはそう――『突っ走るなヨシキ』ってところだろう。特に意味はないけどな。

 あと、智耶が話してくれたと言っても、別に小豆とあまねるの件今回みたいな状態じゃないんだ。

 普通に「お母さんの料理、とてもおいしかったですぅ~」なんて、嬉しそうに話していたのである。

 うん、あの時は怒りで冷静さを失っていたのだろう。

 シスコンの智耶が『小豆がのけ者にされている』事実を嬉しそうに話すことの意味を、俺は考えていなかったのだった。

 だからこそ、『突っ走るなヨシキ』なんだけどね。


 まぁ、激怒したってのは事実だ。

 とは言え、別に俺のことなんて気にしていない。……ほ、ほんとうだよ?

 お袋の料理を食べられる時期に、自分自身の馬鹿のせいで放棄ほうきしていたんだから、今更俺が何かを言える義理はないさ。だけどさ……小豆は違うんじゃねぇか?

 あいつは俺が家を飛び出していた時期、親父達や智耶を支えていたんじゃないのか?

 知らないけど、きっとそうだと思っている。

 俺の代わりにあいつは頑張っていたんじゃねぇのかよ。

 それなのに、本当の娘である智耶には食べさせているのに、養女の小豆には食わせないのかよ。小豆は邪魔だってことなのかよ!


「――俺の分なんていらないから、せめて小豆の分は料理を作ってやってくれよ! これじゃ、小豆が可哀想だろ……と言うか、同じ娘なのに智耶だけに作るのは『智耶だけ』が本当の娘だからなの――ぐえっ!」


 事実を知って激怒していた俺は、リビングにいたお袋の元へとおもむき、開口一番こう言い放っていた。

 ただ、我を忘れていたからなのか。自分でも「言ってはいけない」って理解していた言葉が口から漏れていた。親父もお袋も智耶も……当然、俺だって『そんなこと』は思っちゃいないのに、さ……。

 だけど言葉を言い切る前に、俺はお袋に胸倉むなぐらを掴まれ、うめき声を発しながらお袋の方へと引き寄せられる。


「……それ以上言ったら殺すわよ?」

「……ごめんなさい……。――うわっ!」


 目の前のお袋は、普段の雰囲気など微塵みじんにも感じさせないほどの威圧感いあつかんを放ち、それこそ視線だけで殺されるんじゃないかって思うほどの。

 鋭利えいりな刃物を俺の頚動脈けいどうみゃくに押し当てているような錯覚を与えながら、俺に言葉を突きつける。

 俺って、こう見えても昔は少年ギャングのリーダーなんだけどね。それなりに修羅場しゅらばも経験しているはずなのにさ。

 そんな経験ですら子供のお遊びだったと思えるくらいに、心の底からおびえていたのである。

 まぁ、そりゃあそうなんだろうな……俺とお袋じゃ修羅場のレベルが違いすぎるんだと思うから――。


 そんな風に胸倉を掴まれながら、生まれて初めて体感する……お袋の『黒姫』時代のオーラだったのだと思う。

 って、その事実は、まぁ、今は関係ないから先に進めるかな。 

 とにかく恐かったんだよ……本当に。

 あとは単純に「自分が悪い」って理解していた。

 親父もお袋も……今までどれだけ小豆に、そして俺に愛情を注いできたのかを知っているんだからさ。それを知っているのに口走ったのは俺が悪いに決まってんじゃんかよ。まるで俺が「そう思っている」って言っているようなものじゃないか。


 だから、一発もらう覚悟で目を閉じて謝罪をしていたのだった。

 ところが突然、後ろへ突き飛ばされることになった俺。

 突き飛ばされた勢いのまま、バランスを崩して俺はソファーに座り込んでいた。

 目を開けて目の前の、腕を組んで仁王立ちしているお袋を見つめていた俺。


「……はぁーーーー。……まったく、あんたは何を馬鹿なこと言っているのよ?」

「……は? ――あがっ! ぐぉぉおおおおおお……」

「うっさい!」

「うごっ! ……ぅぅぅぅぅ……」


 そんな俺を見下ろしていたお袋は心底呆れたような深いため息をついてから、呆れた表情のまま、こんな言葉を紡いでいた。

 目の前のお袋は既に黒姫のオーラが霧散して、いつものお袋に戻っていた。

 お袋の表情の変化に戸惑いを覚えていた俺だったからか、言葉の意味に思考が追いつかずに聞き返す。

 その直後、俺の額にお袋のデコピンが爆裂するのだった。

 あまりの痛さに、両手で額を押さえて覚醒しめざめそうになっていた俺。

 うん、覚醒が完璧ならば堕天使にでもなれたのかも知れない。まぁ、俺は可愛くないので無理だろうけどさ。

 だけど覚醒途中でお袋に拳骨で邪魔をされてしまう。

 あー、だから俺って、今でも覚醒未遂で中途半端なままなのかもな……いや、中途半端なのは最初からだから邪魔は関係ないんだった。

 俺は頭を抱えて俯きながら、うめき声をあげるのだった。

 

「私が料理を作らないのは……家事をしないのは、あの子が自分で望んだことなのよ?」

「ほえ?」

「教えてほしいって言うから教えはしたけど、この家の家事は全部自分でやるつもりだったのよね……」

「ほえほえ……」

「ただ……まぁ、私も昇さんも気にしてなんていなかったんだけど? あの子にしてみれば、私たちへの恩返しのつもりだと思うわ」

「ほーえほえほ――ふぇぎゃ!」

「……馬鹿にしてんなら、つねるわよ?」

「ふふぇっふぇる、ふふぇっふぇる! ――うぎゃ! ……ぅぅぅ……」


 頭を抱えていた俺の耳に、優しいお袋の声が聞こえてきた。

 だから視線をお袋に移して相槌を打っていた。

 ――のに、いきなり俺の頬をつねるのだ。なんだよ、ちゃんと返事していたじゃないか。しかも、つねっておいて「つねるわよ?」とか言っているお袋。

 俺はつねられたまま、涙目になりながら抗議するのだった。

 あと、お袋の言った「昇さん」とは親父のこと。俺自身が「親父」だし、家庭でも「お父さん」で統一されているので忘れがちなのだが、お袋は名前で呼ぶこともあるのだ。ほら、ラブラブだからさ。

 そんな理由でお袋が名前で呼ぶと「親父ってそんな名前だったよな」って思い出すのであった。って、ひでぇ息子だな。


 すると、突然つねっていた指を勢いよく自分の方へと引き寄せるお袋。反動で俺の頬は釈放しゃくほうされるのだが、当然かなりのダメージを負っていた。

 痛みの走る頬をさすっていた俺に苦笑いを浮かべながら、お袋は言葉を繋げる。


「第一、小豆には料理を食べさせているわよ?」

「え、そうなの?」

「当たり前じゃないの……あの子に料理を教えているのは私なんだから。口で教えるよりも作るのを見せて、実際に料理を食べさせた方が早いじゃない」

「……それもそうだね……あはははは……」


 お袋の言葉を聞いて、苦笑いを浮かべながら相槌を打っていた俺。言われてみれば、そうなんだよな。

 お袋ってさ……人に何かを教えるのって、すごく苦手なんだよね。

『習うより慣れろ』タイプと言うか、『見て盗みなさい』タイプと言うか。

 とは言え、頼られている以上――全力全開、自分の真っ直ぐで真剣な想いを相手に伝えるタイプなんだと思う。

 第一、小豆を本当の娘智耶同様に愛しているお袋が、智耶に食べさせていて小豆に食べさせないでいられるはずはない。親父だって知っているのに、それを許しているはずはない。智耶がそれで納得しているはずはないんだ。

 それを知っているはずなのに、何を暴走していたんだろうな、俺。

 自分に呆れた俺は乾いた笑いを奏でるのだった。


「だから、まぁ……本当に食べさせていないのは、あんただけなのよね……食べたい?」

「ん? ……あー、うん、まぁ……食べたいかって聞かれれば食べたいけどさ? ……でも、俺にそれを望む資格がないのは『母さん』が一番知っているだろ?」

「善哉……」


 俺を眺めていたお袋は急に表情を一変して、申し訳なさそうに言葉を繋ぐ。

 だから俺は「食べたいけど資格がない」と答えて、お袋のことを「母さん」と呼んでいた。

 そんな俺の言葉に悲しそうな顔をするお袋なのだった。


 家を飛び出すまでは「母さん」と呼んでいた俺。まぁ、親父のことは「おとさん」と呼んでいたんだけどさ。

 今の呼び方に変えたのは家に戻ってから。

 別に、それまでの呼び方が恥ずかしくなったからじゃない。

 俺の馬鹿な逆恨みで親父を「あいつ」、お袋を「あの人」と呼んでいた黒歴史時代。

 だから二人に許されたとしても、自分で許す訳にはいかなかった。

 そう、いましめとして二人の呼び方を変えた。もう二度と「母さん、おとさん」と呼んでいた頃になんて戻れないんだって――。


 当然呼び方を変えた時、二人には驚かれた。

「別に昔のように呼んでくれてもいい」とも言ってくれていた。

 まぁ、呼び慣れていないから誰が見ても不自然だったんだろうな。

 だから、二人に対して謝罪の意味をこめて説明していたのだった。

 俺の説明を受けた二人は悲愴な面持ちで聞いていた。それでも「わかった」と納得してくれた。

 こんな理由で、最近呼んでいない「母さん」を使ったことで、お袋も俺の心意を理解してくれたのだろう。


「……ぐっ!」

「……」


 だけど、やせ我慢に過ぎない。食べたくない訳がないじゃないか。それに……俺だけがのけ者だってこと、なんだよな。仕方がないことかも知れないし、小豆が違うってだけでも安心できたけど。

 やっぱり……つらい、もん、だよ、な。

 心の中を襲う冷たい風に抗うように、顔を歪めて俯いていた。

 そんな俺の頭にふれる、暖かい感触を覚える。とても安心できる懐かしい感触に思わず顔を上げた俺。

 目の前には優しく微笑みながら、俺の頭を撫でてくれるお袋の姿が映し出されるのだった。


「……そもそも?」

「うん……」


 俺の表情の変化を読み取ってくれたのだろう。

 親子だからな? 何も言わなくったって理解してくれるんだ。

 こんなこと、俺が思っては小豆に申し訳ないんだけどさ……。

 お袋は俺の実の母親だし、親父にしたって伯父おじになるんだ。つまり血のつながりで言えば俺は小豆に比べて、はるかに恵まれているんだと思う。

 のけ者にされたからって、俺には確かな絆があるんだからな。

 だからこそ、小豆に『血のつながり』以上のつながりを与えてやりたいと思っているのだろう。

 ――まぁ、最近では『血のつながりでは決して得られない』確かなつながりを望むようになっている……のかも知れないけど、ね。

 

 お袋の優しい手の平の感触に、心を落ち着けて言葉を返す俺。


「今更、あんたの胃袋を私が掌握しょうあくしていても意味ないでしょ?」

「ぬぁ!」


 ところが突然こんなことを言いだすのであった。

 落ち着けた心を返していただきとうございます、母上殿……。

 驚いて声を発していた俺に「なんで驚いてんのよ?」と言いたそうな表情で言葉を繋ぐお袋。


「私の料理を食べる味覚とスペースがあるなら、小豆や香ちゃん……それに二人には遅れを取っているけど、雨音ちゃんだって頑張っているじゃない? 正直、三人の料理を食べていた方があんたにもそうだけど……三人にも重要なのよね。当然、自分の娘なんだから小豆を応援したいところだけど……善哉の母親としては、三人とも可愛いから誰がなっても嬉しいとは思うのよ。もちろん決めるのはあんただけど、全員に頑張ってほしいのよね? そう言う意味でも、今って一番重要な時じゃない? あんたも……あとで後悔しないように、三人の料理を受け入れるスペースにしておくべきなのよ? ……と言う訳で、私の出る幕はないから悲しいけど辞退するわ♪」


 などと、訳のわからないことを口走っていたお袋。言葉自体も意味不明なのだが。

 それ以上に「悲しい」と言っている割には嬉しそうなお袋。ナニソレ、イミワカンナイ!

 そもそもさ?

 小豆は、まぁ、家族の全員に振舞っているし恩返しだって自分で望んでいるのかも知れないけど。

 って、それだって俺は返してもらえるような恩を与えたことはない。返してもらえるのは親父とお袋なんだから。

 まぁ、家族の一員として相伴に預からせてもらえているってことで許してもらうとして。

 香さんとあまねるは完全に押し付けですよね? 厚意――正確には目の前で腹をすかせている欠食児童にしかたなく餌付けをしてくれているだけですから!

 何を「向こうが望んで作っている」的な言い訳をして自分が作らないのを正当化しているのでしょう。二人に失礼じゃないですか!

 と、まぁ、こんなことを考えながらも……未だに三人には甘えている俺なのであった。


 と、とにかく、お袋の料理が美味しいってことなのである。 

 うん、余談が過ぎたから親父の話に戻そう。

 


 そんな感じで旅に出ていた親父だったのだが、一年くらいで強制的に帰国させられていた。

 それが……医者からの「会わせたい人には早めに会わせてあげてください」と言う言葉だったらしい。

 連絡を受けた親父は急いで帰国し、病院に駆けつける。

 だけど海外を旅していた親父。帰ってくるまでに時間を要していた。

 元から体が弱かったと言っても、生活に支障をきたすほどじゃなかったんだ。突然倒れたみたいだし、さ。

 だから親父も海外に旅していたんだと思う。三人で幸せな家庭を築いているって信じて、な。


 時間を要していた親父が病室に駆けつけた時。既に今際の際いまわのきわだったそうだ。

 病室の前で久しぶりに再会したお袋は――親父の脳裏に残るお袋の姿など見る影もなく、心身ともに疲れきっているように見えたのだと言う。 

 既に覚悟を決めているような、それでいて現実を受け入れたくないような。いつ自我が壊れてもおかしくないような状態。

 小さかった俺を抱きかかえているから、自分を保てていたのだろうと親父は思っていたそうだ。


 そんなお袋の肩を無言で優しく「ポン」と叩いてから病室に入る親父。

 病室で見た父さんの姿は――自分が浦島太郎になった気分だったと言っていた。いや、正確には自分の時間じゃなく、父さんの時間が周囲よりも早く経過しているように思えていたらしい。

 虚ろな瞳ではあったが親父を認識した父さんは、最後の力を振り絞って親父に涙ながらに懇願していた。

 父さんの言葉に力強く頷いた親父。安心した笑顔を見せる父さん。

 そのあと、二言三言話しかけると親父は病室を去る。いや、話したいことは山ほどあったんだと思うし、話していたかったんだろう。だけど、親父は別れを告げていた。

 そう、「本当の最後は、愛する人のもの」だと思っているから――。

 

 病室を出た親父は椅子に座っていたお袋に、入る時と同じように肩を無言で優しく「ポン」と叩く。

 その衝撃に反応するように、無言で立ち上がり病室へと入っていくお袋。

 そんな背中を見送って、空いた椅子に座って悲壮の表情で天井を見つめる親父なのであった。


 それから数分後――。

 それまで静かだった病室から、お袋の悲痛の叫びが聞こえてくる。たぶんお袋の叫びに驚いたんだろう。

 俺の泣き叫ぶ声も廊下に響いていた。

 そして廊下の向こうから医者と看護師が数名慌てて近づいてきて、病室へと入っていく。

 そんな光景を眺めていた親父は、思わず顔を歪めて病室から遠ざかるように歩き出していた。

 病院の玄関まで歩いてきた親父は、おもむろにポケットからタバコを取り出して火をつける。別にタバコが吸いたかった訳ではなく。

 父さんへのとむらいと……自分を保つ為だったのだと言っていた。

 親父はただ、ゆらゆらと天に立ち上る煙を呆然と眺めていたのだった。

 

 そんな最愛の人を失い、途方にくれていたお袋に更なる試練が待ち受けていた。

 それは通夜つやの日のこと。

 集まってくれた親戚。祖父ちゃんの弟の息子夫婦。まぁ、親父たちの『いとこ夫婦』なんだけど。 

 

「鷹音さん? 深智みちさんのことは残念だが……これで君も霧ヶ峰の家に縛られなくてもいいんだ。これからは霧ヶ峰のことは忘れて、自由になるといい」


 通夜が終わって通夜ぶるまいの最中、こんなことを言われたらしい。「深智さん」とは父さんのこと。

 つまり父さんが亡くなった今――もう霧ヶ峰家に残る理由はないのだから自分の好きにしなさい。そう言う意味なのだろう。

 この頃は、親父が旅に出ていたから祖父ちゃんと。

 俺が小三の時に亡くなった祖母ちゃんを、父さんとお袋が世話していた。


 余談だけど、現在祖父ちゃんは親父と父さんの妹である『由姫ゆき』おばさん夫婦の家に住んでいるのだ。

 ……二歳になる孫可愛さになんだけどな。言うまでもなく幼女だ。

 まったく、それまでは智耶智耶うるさかったのにさ。まだ、智耶だって小三だぞ? 育ちすぎたから興味なくなったのかよ! 親族内推し変なんて可哀想じゃねぇか!

 とは言え、祖父ちゃんが引っ越しても我が家には「智耶智耶小豆小豆」言っている男性陣が二名ほど残っているので、仮に騒ぐ男性が一人減ったところで静かになんてならないけどな。

 そして二名のうちの一名については、更に輪をかけて「鷹音鷹音」とうるさいのである。俺じゃないけどね。当たり前か。

 それはともかく、ロリコンがなければ孫全員を平等に優しくしてくれるから文句はないし、大好きな祖父ちゃんではあるのだ。話を戻そう。


 そんな理由で、言葉だけを聞けば――

「親父も帰ってきたのだから、霧ヶ峰家を守る必要も、祖父ちゃん達の世話もしなくていい。これからは自分の幸せを見つけなさい」

 こんな親切心なのだと思えるだろう。

 だけど実のところ、そんな優しい言葉ではなかった。

 よくあることなのかも知れないけれど。

 いとこ夫婦。うん、祖父ちゃんの弟の子供って三兄弟なんだけどさ。まぁ、祖父ちゃんの弟は別に何も思っていないんだろうけど。

 その三兄弟夫婦が、お袋のことをこころよく思っていなかったのだった。

 それこそ、お袋と父さんが結婚するのも反対をしていた。

 お袋の過去がね……平たく説明すると「そんな人間を霧ヶ峰に入れるな」と言うことらしいのだ。

 当然、祖父ちゃん祖母ちゃんや親父や由姫おばさんは賛成していた。

 いや、祖父ちゃんなんか――


「うむ、鷹音さんほどの器量きりょうよしで気立きだてのいいお嬢さんを反対する理由などないんだが……昇にも誰か、いい人おらんかね?」


 と言っていたらしい。まぁ、親父にとっては死刑宣告だよね。好きな相手から他の相手を紹介されるのって。

 親と兄妹が賛成しているのだから、普通に障害もなく結婚することができた二人。それから数年は親戚だって何も言ってこなかった。

 ところが、だ。

 父さんが亡くなったことによって、お袋の立場があやういものとなる。いくら俺を産んだと言っても他人には違いないのだから。

 それに俺についてだって、別に自分のところの『お家問題』ではないから追い出しても気にしない。

 むしろ、お袋の血筋を受け入れたくなかったのだろう。

 祖父ちゃん達にだって「いつまで深智さんの亡霊にしがみつかせている気なんだ」と言い放てば反論できない。

 そう、ていよく『お袋と俺をお払い箱』にできるのである。

 そんな言葉を受けて、お袋は窮地きゅうちに立たされていたのだった。


 お袋は過去のことで……既にお袋の親族との縁は断絶だんぜつされていた。 

 だから実家に帰ることはできない。だけど小さい俺を育てる必要がある。当然、援助だって受けられない状況だ。

 うん……もう、あの頃は中学生だったけど、家を飛び出した時。明日実さんの家で世話になっていた俺。

 学校の面では親父達から援助を受けていたけど、彼女の意志で生活の面では援助を受けていなかった。

 当然独身の彼女は一人で俺を育てていたんだけど、その時の苦労は生半可なまはんかなものじゃなかったんだと思っている。中学生になっているからさ、彼女を見ていれば理解できていたのだ。


 そう、中学生になり少しは手のかからなくなっている時点でさえ、苦労はしているのだ。

 それを手のかかる……いや、目も離せないような俺を本当の意味で、一人で育てるなんて並大抵の努力では無理なのだろう。

 俺は父さんの忘れ形見であり、託された父さんの希望だったのだろう。

 ――なのに、当の本人が勝手に裏切っていたんだよな。ごめんな、父さん、お袋。……そう考えていたら泣きたくなってきたから、気持ちをしずめる為にも話を続けよう。


 自分一人だけなら生活できたのかも知れない。だけど俺を育てながらでは、俺のことを幸せにできないと判断していたのだろう。

 だからお袋は断腸の思いで決断する。

 恥を忍んで頭を下げてでも「息子だけでも家に残してほしい」と懇願しようとしていた。ところが、その瞬間に親父が祖父ちゃんに唐突に声をかけていた。


「……なぁ、親父?」

「なんだ、昇……」


 それまで寡黙かもくを通していた親父が突然声をかけたことで、全員の視線が親父に集中する。


「前にさ……ほら、深智と一緒になるって報告しにきた時にさ? 親父が鷹音に、俺にもいい人を紹介してくれって頼んだことがあったよな?」

「……」

「いや、実は紹介してほしい人がいるんだけどさ……」


 親父の言葉に全員が眉をひそめる。当然と言えば当然だろう。

 今するべき話ではないのだから。

 だが、親父は顔色一つ変えずに言葉を繋いでいた。


「まぁ、今すぐに何かをするつもりはないんだけどよ? その人、小さな子供を抱えながら旦那さんに先立たれちまってな……」


 その言葉を聞いた全員は驚きの表情に変わる。親父の言う『その人』が誰なのかを理解したのだろう。

 

「もちろん、亡くなったからって夫婦の絆が消え去るもんじゃないさ。だから旦那さんには墓前で土下座して謝罪と許可をもらうつもりだ。その上で彼女を幸せにしたいと思っている」

「――ッ!」


 親父の言葉に目を見開いて息を飲み込むお袋。

 ほんの一瞬だけ、驚いているお袋に微笑みを送った親父は、そのままお袋を見つめながら言葉を繋ぐ。


「……なんて、言ってはいるけどさ? 別に俺を受け入れてほしいってことじゃないんだ。忘れたくても忘れられないだろうしな。ただ俺は……その人と子供を幸せにしたいだけなのさ? だから俺は旦那さんの代わりでもいいんだ。息子を立派に育てるまでの間だけ利用するだけでもいいんだ……」

「……」

「俺に……二人を愛して幸せにする権利を与えてくれるだけで満足なんだよ?」

「……昇、さん……」

「だから……今すぐじゃなくても待っているから……俺に『霧ヶ峰鷹音』さんを紹介してくれないかな?」

「……はい、必ず……」


 そんな照れながらも優しく微笑みながら紡がれた親父の言葉に。

 お袋は暖かい雨で頬を濡らしながらも、親父に向かい三つ指をついて了承するのだった。


 確かに旅に出ていたし、祖父ちゃん達の世話は父さんがしていたけれど、親父は霧ヶ峰家の長男だ。

 そんな親父が、お袋と俺を面倒みると宣言したのだ。それは『霧ヶ峰家』にお袋と俺が残れることを意味する。

 祖父ちゃん祖母ちゃんと由姫おばさんは、安心したような表情を浮かべて親父に加勢したそうだ。

 追い出そうとしていた三兄弟夫婦は何も言えずに黙りこんでいた。

 それは当たり前だろう。追い出さなくてはいけない理由がなくなったのだから……。

 

 ――こうして、お袋と俺は親父のおかげで、今でも『霧ヶ峰』を名乗っていられるのであった。

 

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