第5話 内田さん と 芹澤さん

 ――って、これだけを聞けば「アニメが好きじゃないといけないの?」なんて。

 アニオタな小豆さんの名台詞……いや、別に名台詞ではないけどね。

 アニメが好きではない人間にとって、人権がないように思われる我が校なのだが――

 あまねると小豆の入学によってアニメが好きではない人間が……そう、人権どころか人種がいなくなったのだと思う。

 もちろん、あまねるの御両親の影響だけではアニメに興味がない人物だって存在していたのだろう。そんなこと、まったく興味がなかったんで知らないけどさ。

 だけど二人の入学によって、それまでアニメに興味のなかった人達の考えも急激に変わっていたのだった。


 あまねるは御両親のこともあるけど、本人も「アニメが好き」だと誇らしげに公言していた。

 余談だけど、以前は『あんな考え』を持っていた彼女。

 ところが小豆と親友になり、彼女は考えを改めていた。とは言え――

 

「アニメを愛し、深くふれて真摯に向き合いアニメからたくさんのことを教わり、そして学び……アニメに恥じないだけの自分磨きを心がけていきます!」


 と、根本的には何も変わらずにグレードアップをしていた彼女。

 うん、「俺の方が考えを改めるべきなのでは?」と考えさせられるのだった。


 そして小豆は……あの頃は俺の影響としか思われていないのかも知れないけど。

 俺やあまねるとの接し方で、周囲から「アニメに好印象を持っている」と思われていたのだろう。

 そんな新入生アイドル二名のアニメに対する好感度。

 好きなアイドルが好印象を持っていると知れば、少なくとも興味くらいは持つのだと思う。

 まして、学校のアイドルならば会話の糸口になって、お近づきになれるかも知れない。

 更に、アニメ環境が学校主体となったことで、隠れオタクが普通に活動できるようになったおかげだろうか。

 それまで知らない人が多かった事実――

 俺の影響で香さんが。親父達の影響で明日実さんが。

 そう、学校のアイドル全員がアニメに好印象を持っていることが判明した。って、全部霧ヶ峰家のせいじゃねぇか!

 あまねるだって小豆の影響なんだしさ。どんな家庭なんだよ……まぁ、ごく普通のアニメ好きな家族ですけどね。


 そんな理由で、周囲の生徒は大なり小なり、誰もがアニメに興味を持ち始めたのである。

 もちろん「それでもなぁ?」と思っている人もいるだろう。とは言え、誰も否定的な考えを見せたりしない。

 ――周りの顔色や評価ばかり気にして、が自分なんだと勘違いしている最近の傾向。

 と言うよりも、アニメを批判することは、アイドル達に悪い印象を持たれる危険性がある。

 そして、周りからも彼女達と同じような感情を抱かれる。って、当然四人は偏見へんけんなんて持たないんだけどさ。

 そう感じている人達は、周りの顔色や評価を気にして、表立って嫌悪感を出さずに取りつくろっているのだろう。

 いや、俺には区別がつかないから「うちの学校の全員がアニメに興味を持っている」と信じているけどな。

 

 だから誰も疑問など挟まずに、やりたい放題学校生活を楽しんでいるのだ。

 あれ? これも一つの「より良い学生生活の一環」と呼べるのではないだろうか。校長先生は理解した上で浸透を受け入れていたってことなのか?

 まぁ、校長先生にそんな教育的な考えはなかったのだろうけどね。

 そんな――アニメに好意的な校風の、俺達の通う『恵美名高校』なのであった。



「……うーん……」


 ロッカーの前まで歩いてきた俺は、自分のロッカーを開けようとして扉に手をかけながら『とあること』について悩んでいた。

 

「うーん……。……あ、あのさ、委員長?」

「……なぁにぃ、善哉くん?」


 俺は悩みながらロッカーから手を離し、踵を返して歩き出す。当然弁当箱は手に持ったまま。

 そして、窓際の後ろの方の席で自習をしていた女子――『内田うちだ』さんに近づいて、彼女に声をかけるのだった。彼女はクラス委員長なのである。

 委員長らしく、真面目で清楚。控え目な『ふんわり』とした印象の女の子。

 俺の声に気づいて、ノートから視線を移して俺を見つめた彼女は、優しい微笑みを浮かべて聞き返してきた。だから俺は彼女に言葉を繋ぐ。


「お弁当食べるんで保健室に行ってきてもいい?」

「……んん~? ……。……んっ?」

「はいはい……あっ、ちょっと置かせてね? ……」


 そんな俺の言葉に小首を傾げながら疑問の声を発していた彼女だったが。

 持っていたシャーペンを置くとポケットからハンカチを取り出して、両手を拭いてから目の前に差し出してきた。

 ある意味パブロフの犬である俺。いやクラス女子の犬である俺は、当たり前のようにマッサージをしてあげようと思ったのだけど、手に弁当箱を持っていることに気づく。

 だから彼女の机に置かせてもらうようにお願いをしてから、マッサージを開始したのだった。


「……んっ、んぅ、ん~、ぁぅ……ふっ、ふぅ、くぅ――んぁ! はぁぅぅ……」

「……」

「……も、もぉ、いいょ~、あぃがひょ~♪」

「――ッ! い、いえいえ……」

「……ん~? どうかしたぁ?」

「な、なんでもないよ……」


 両手だったこともあり、自習なのに真面目に勉強しているから疲れているだろうと、少しだけ普段よりも念入りにマッサージをしてあげていた俺。

 それが失敗だったのだろう。彼女の様子が変になっていた。

 もみほぐしてあげていると、少しずつ頬に赤みが増していた。

 トロンと瞳が潤み、肌も少しだけ汗ばみ、微かに開いた唇からは吐息が漏れて、俺の鼻腔に歯磨き粉なのだろうか。ミントの香りが注ぎ込まれていた。

 そんな状態の彼女は恍惚こうこつとした表情を浮かべて、呂律ろれつの回らない口調で俺に声をかけてきたのだった。

 き、きっと血行がよくなったんだな。マッサージ効果があったってことなんだろう。……うん、暴走しそうなんで、そう言うことにしておいてください。

 

 ミントの香りを吸い込んだ俺は、目の前の彼女の雰囲気に中てられたのか。

 俺がしているのはマッサージであって、別に変な下心なんてなかったはずなのに。

 両手でふれている彼女の手の平のぷにぷに感とか、すべすべ感とか。

 同い年の女の子の手にふれているんだって意識しだしていたのだった。

 そのせいか……『興奮して無意識に握手をしてしまい、そのことに気づいて思わずバッと両手を離してバンザイをするキャラクター』のように振舞っていた俺。いや、だから俺はマッサージをお願いされたから握っただけだ。……興奮については否定できないけどさ。

 そして焦り気味に返事をしていた俺。

 そんな俺にキョトンとした表情で聞き返す彼女。

 さすがに「委員長の吐息のミントの香りに暴走しそうになった」なんて言える訳もなく。いや、言ったら退場させられちゃうじゃん。

 無理やりに冷静を保ちつつ「なんでもない」と返す俺なのであった。

 そんな俺にクスクスと笑みを溢した彼女は言葉を繋ぐ。


「うん、いいよぉ~?」

「え? なにが?」

「え? ……」


 焦っていた俺は彼女の言葉が理解できていなくて聞き返していた。自分でお願いしていたはずなのにさ。

 俺の言葉に驚きの表情を浮かべた彼女だったけど、机の上に置いてあった俺の弁当箱の底を、いとおしく両手で包んで俺の目の前に持ち上ると、頬を赤らめながら嬉しそうに口を開く。


「……はい、あなた……お弁当?」

「――ッ! ……あははは……」

「んんん~、んっ!」

「――ッ!」

「……はやく、帰ってきてねぇ~? ……」


 彼女の言葉に息を飲み込んだ俺。もちろん彼女はからかっているだけなんですが。

 だって彼女の差し出した弁当箱は俺が家から持ってきた弁当だし、小豆さんの手作りなんですからね。

 そんな苦笑いを浮かべていた俺の目の前で、驚くべき行動に移っていた彼女。

 持ち上げていた弁当を自分の顔へと引き寄せると、突然口付けをしていたのだった。弁当箱の入っている巾着袋にだけどさ。

 彼女の行動に再び息を飲み込んでいた俺。

 この流れって……アニメで見かける新婚さんの朝のいってらっしゃいシーンだよな? 現実は弁当箱じゃないけどさ。

 こともあろうか、脳内でそんなシーンの現実ヴァージョンを俺と内田さんで再生していた俺。って、何を考えているんだー!

 そもそも彼女の脳内の旦那さまは、小豆の作ったお弁当。そう、小豆へ向けられている愛情なんだ。勘違いするな、俺……。

 それはそれで、どうなんだって話だけど……俺は『そっち系作品』も大好きなので特に問題はないはずだ。


 変な勘違いをしてしまったせいで、早鐘のように鳴り響く鼓動。

 恥ずかしさを堪える俺にクスッと微笑んだ彼女は、俺の目の前に弁当箱を差し出しながら、何故か少し悲しそうな表情を浮かべて軽い口調で声をかけてきた。まぁ、演技でしょうけどね。

 なんとなく新婚さんテンプレのようなニュアンスはあるんだけど。

 単に「次の授業まではカバーできないんだから、それまでには戻ってきてね?」って意味なんだと思う。

 俺は言葉が出ずに無言で頷くと、俯いたままで両手を差し出す。恥ずかしいから顔を合わせられないのです。


「……。ん? ……」

「ん~。……」

「え? ――いっ!」 


 すると、俺の手の平の上に彼女の手の甲が乗る。底を持っているのだから当たり前なんだけど。

 でも彼女の手の感触が消えることなく数秒間が過ぎる。あ、あれ?

 不思議に思って彼女を見ると、何かを期待しているような視線で俺を見つめている彼女が映るのだった。

 視線が重なったのを確認すると、おもむろに彼女は横を向いて、真っ赤になった耳を俺に見せつけながら頬を突き出してくる。

 その行動に疑問を覚えた俺だったけど、その瞬間に「バンッ」と言う鈍い音が俺の鼓膜に響いていた。

 驚いて音のした方向――扉の方を眺めると。

 芹澤さんが机に両手を突きながら立ち上がり、前のめりの状態で顔を真っ赤にしながら「ま」の口で固まっていた。たぶん、さっきの音は机を叩いた音なんだろう。でも、どうしたの? と言うよりも、すごく怒っているような表情で睨んでいますけど、何があったのでしょうか?

 

「……はぁ……」

「……え?」

「むぅ~? ――ぇぃっ!」

「――わっとと……って、ちょ――」

「あなた、いってらっしゃ~い♪」

「……いってきます……」


 何が起きたのか理解ができずに芹澤さんを眺めていた俺の耳に、内田さんの落胆のため息が聞こえてきた。 

 そのため息に視線を内田さんへと戻した俺。すると、目の前の彼女は頬を膨らまして睨んでいた。ど、どうしちゃったの?

 だけど次の瞬間、彼女は突然持っていた弁当箱を少しだけ持ち上げる。そして、小さく言葉を発するとパッと手を離していた。

 当然、支えをなくした弁当箱は、万有引力の法則よろしく、落下する。

 そして負荷のかかった弁当箱が俺の手の平へと直撃したのだ。

 予測していなかった事態に、思わず弁当箱を落としそうになっていた俺だけど、なんとか落下は回避できていた。

 落としたら大変なんですよ……俺のお腹と、小豆への謝罪が。

 これはさすがに一言文句を言わないといけないと思った俺は、彼女に視線を合わせて声をかけたのだが。

 目の前の彼女の『有無を言わさないオーラ』を纏った、満面の笑みで右手を振りながら紡がれた言葉に。

 すごく幸せな気持ちになりながら、声をかけてから踵を返す俺なのであった。

 ……ほら、彼女の『旦那さま』は言葉を話せないから俺が代弁したのである。うん、代弁したんだから俺が幸せな気持ちになっても問題ないよね? そもそも、これは代弁じゃなくて俺の弁当ですけどね。


 周囲の男子生徒達の血走った瞳で突き刺してくる視線をくぐり抜け。女子生徒達のニヤニヤした顔で隣の友達と小声で何かを話している光景を見ないようにして。

 なんとか扉の近くまで到達していた俺の前に立ちふさがる最大の敵。って、胸の下で腕を組んで、大胆不敵な笑みを溢しながら仁王立ちをしている芹澤さんなんですけどね。なんで通せんぼしているの?


「あ、あの……芹澤さん?」

「よ、し、き、くぅ~ん? ん~~~」

「――え? ――いっ! あ……」

  

 恐る恐る彼女に声をかけた俺に、近寄りながら声をかける彼女。そして両手を俺の首筋めがけて広げながら。

 なななんと、唇を尖らせて接近してきたのだ。俺汗かきすぎたのか? 教室に充満していたのか?

 目の前の彼女に怯えて後ずさりしている俺の耳に、概視感にも思える「バンッ」と言う鈍い音が俺の鼓膜に響いてくる。

 驚いて音のした方向――窓際の後ろの方を眺めると。

 内田さんが机に両手を突きながら立ち上がり、前のめりの状態で顔を真っ赤にしながら「ゆ」の口で固まっていた。たぶん、さっきの音は机を叩いた音なんだろう。仲良しだね、二人って。

 まぁ、委員長として俺の汗へ無言の苦情を突きつけているのだろう。

 でも、彼女は何も感じていなかったように思えていたんだけど、我慢していたのかな。

 いや、それで「さっさと出て行け!」って意味で追い出そうとしていたのかも。ごめんね、みんな?

 だけど俺の汗って、そんなにみんなから顔を歪められるくらいに「っぱい」のかな。

 どうしよう、小豆が普通だと思いがちで忘れていたけど、ネットで調べて改善した方がいいのかな。

 うん、とりあえずの応急処置として、あとで明日実さんに消毒液でも借りようっと……。


「――いっただき~♪」

「って、あ……」

「――あむっ……あむあむ、んん~、んっんぅ、むぅ……ふぅ~」

「……」


 そんな風に俺が内田さんを眺めながら考えている隙に、俺の手に持っていた弁当が芹澤さんに強奪されていた。

 あっ、酸っぱいのはフェイクだったのか……よかった――って、よかったけど、よくない!

 狙いはやっぱり旦那さまだったのか!

 俺に近づく理由なんてマッサージか小豆しかないですからね……。

 驚いて声をかけようとしていた俺の目の前で彼女は、強奪どころか本当に「いただき」していた。……いや、中身は無事だけどね。

 彼女が「いただき」していたのは巾着袋。紐で閉じてある袋の口の部分を、自分の口の中に含んでいたのだった。お腹へっているのかな……でも袋は食べられないよ?

 そ、それに、あれだね。

 チラッと視線を内田さんの方へ向けたんだけど。うん、なんか背筋がゾクッとしたから。

 そうしたら、みるみるみるきぃ……な、白い彼女の肌がリコピンを摂取せっしゅしたように赤くなっていた。かなり、お怒りのご様子です。

 自習中とは言え、授業中の教室内のご飲食は禁止事項でしょうから、クラス委員長としてお怒りはごもっともですね。

 ……保健室で食べるのが正解だとは申し上げておりませんが。正解はひとつ、じゃない! ってことなのでしょう。

 い、いやいや、保健室で食べるのも間違いなのは承知しているので、大粒の涙を溜めながら俺を睨むのはやめてくださいよぉ……。


 うん、どうやら芹澤さんは相当お腹がへっていたようだ。錯乱さくらんして袋を一心不乱にもぐもぐしている。ほ、本当は美味しいのかな。

 でも、内田さんが恐いし、俺のなんだから……食べないでくださーい!


 そんな風に眺めていた俺のことなど気にせずに、もぐもぐしていた彼女は袋の中に息を吹きかけていた。

 彼女の息に少しだけ膨らむ巾着袋。あれ、でも袋の口って閉まっていたはずじゃ……。

 って、えーーーーーーーーー?

 疑問を覚えた俺だったけど、彼女の行動を理解した俺は思わず一部分が膨らみそうになっていた。

 い、いやいやいや、なんで巾着袋にそんなテクニックを駆使くししているんですか?

 

 彼女は見た目――ああ、うん。世間で言うところの『コギャル霊』……じゃなくて、ギャルっぽいのだ。

 なんで「ぽい」なのかは……俺がギャルをよく知らないからだ。 

 そんな俺が得たアニメの知識によれば、ギャルと言う生き物は往々おうおうにして大人である。

 うん、あくまでも往々……あんまり見かけないからね。

 そんなギャルの大人な部分に加えて、明るくて活発。何事にも動じない積極的な猪突猛進ちょとつもうしんタイプな彼女。


 つまり、閉じている口を舌でこじ開けたってことなんだと思う。って、エロゲの知識でした。

 ディ、ディープや……いや、相手は巾着袋なんですけどね。そして吹き込んだ意味も理解できませんが。

 

「……んん~、んっ……ふっふっふぅ♪ ……はぁい、ダーリン、お弁当だよぉ?」

「あ、うん……」


 唖然あぜんとなって眺めていると、息を吹き終えたのか袋から口を離した彼女。

 だけど、俺を見つめながら舌を伸ばして袋の口を、美味しそうに舐めていた。ナニソレ、オイシイノ?

 そして満足したように完全に口から離した彼女は、俺から視線を外すと俺の後方を見つめて大胆不敵な笑みを溢していた。

 そして俺に視線を戻すと弁当箱を大事そうに持ち上げながら言葉を紡いで差し出してきた。

 内田さんの時と同様、動揺しながら曖昧に答えて受け取る俺なのであった。

 俺は彼女の視線の先を理解して振り向くことができずにいた。

 いや、視線の先が内田さんだって理解しているからね、恐くて見れないのですよ……。


◇6◇

 

 内田さんと芹澤さん。

 見た目も性格も正反対……なんて言えば失礼なのかも知れない二人は、誰もがうらやむ親友同士だ。

 小豆達四人が学校のアイドルとして君臨しているから、そこまで目立ってはいないけどさ。

 それでも我がクラスではアイドル的存在の二人である。

 うちら男子の間では――


『内に秘めてる内田さん。り出している芹澤さん』


 こんな風に二人を認識しているのであった。いや、性格の話だよ……果実は二人とも立派に育っていますし、甲乙つけがたし! って、二人ともごめんなさい……。


 まぁ、女子の間では――


『受けの、うっちゃん。攻めの、芹ちゃん』


 なんて認識されているようだけど……意味は男子と同じだよね? そう言う関係じゃないよね?

 まぁ、女子の場合は『ねこたち』かも知れないけどさ。

 って、変な妄想をしそうだから集中集中。何に対してかは不明だけど、とにかく集中!

 意識を集中したいんだから血液は霧散しろーーーーーーーーーーー!


 心で幕を開けた葛藤と言う名の合戦は、からくも理性が勝利を収め、平穏な大地を取り戻していた俺。

 落ち着きを取り戻したところで考えを再開するのだった。


 幸運なことに、二人とは三年間同じクラスになっている。俺の運を使い果たしているんじゃないかって心配するくらいにな。

 まぁ、香さんまで同じクラスだったら確実に使い果たしているんだろうけど、それがなかったから少しは残っているのかも知れない。いや、知らない。

 ともかく、だからなのだろうか。

 他の生徒達よりも俺のことを懇意こんいにしてくれていると感じている。まぁ、自意識過剰じいしきかじょうなだけかも知れないけど。少なくとも、俺はそう感じているのだ。

 それは素直に嬉しく思うし、普段の二人って誰から見ても仲良しだって思えるんだけど。親友な間柄なので当たり前だと思うけどね。


 どう言う訳か、俺が絡むと途端に仲が悪くなる。別に相手に嫌悪感を抱くってほどじゃなくて、小豆とあまねると同じような感じなんだけどね。

 まぁ、きっと……『自分のおもちゃを取られた』って感覚なんだろう。

 うん、俺も取られたら気分悪いもんな……悪いんですけどね、小豆さん?

 そして、あの頃は本当に申し訳ありませんでした、智耶さん!


 だから二人の気持ちも理解できるんだけど。

 でも、やっぱり『みんなのおもちゃは仲良く使いましょう!』って思うのです。あっ、自分がおもちゃなのは自覚しているんで何とも思いませんけどね。むしろ大事に遊んでくれるのであれば本望なのです。

 と言うよりも、物が溢れている昨今。新しいおもちゃの登場で捨てられないかとビクビクしております。

 とは言え、卒業までもう数ヶ月しかないので、せめて卒業までは飽きずに可愛がってくれることを切に願うばかりです。

 なんて、おもちゃの分際で偉そうかも知れませんが……おもちゃにも魂はあるのでご理解願います。


「そ、それじゃあ……」

「はぁい♪ いってらっしゃ~い……」

「――え?」

「ん~、ちゅ♪ ぇぃ……」

「――んっ!」


 そんなことを考えていると、芹澤さんがスッと道を開け……ついでに扉も開けてくれていた。

 そんな彼女にお礼を伝えて、満面の笑みを浮かべてヒラヒラと手を振る彼女の紡ぐ言葉を聞きながら彼女の横を通り過ぎる。

 そして廊下に出た俺だったけど、「トントンッ」と肩を叩かれて振り向いていた。すると俺の視界に。

 俺に向かってウインクしながら『投げキッス』を送ってくる彼女の姿が映し出されるのだった。なんて生易なまやさしいものじゃないかも知れないな。

 だって普通の投げキッスって、画面とか紙面とか数メートルの距離があるものだと思うけど。

 今って、すぐ目の前で……しかも、さ。

 投げキッスの仕草って、自分の唇に指をふれさせて、遠くに投げ飛ばすように手を伸ばすんだよね。

 肩を叩けるほどの距離で手を伸ばしたからか。

 彼女の唇にふれた指先は、見事に俺の唇に直撃した。と言うより、俺の口の中に指先が侵入してきたのだった。


「……あむぅ……んふふふふ♪ ……」

「……。はっ! ははははは……ふぅ……保健室行こうかな……」


 ほんの数秒ほど停滞していた彼女の指は、ゆっくりと引き抜かれていく。そして、そのまま少し光沢を発している自分の指を、自分の口に含んでいた。

 口に含んだまま満面の笑みを浮かべる彼女の姿を唖然あぜんとして眺めていた俺に、余韻よいんを残しながらも彼女のサービスタイムは終わりを迎える。いや、彼女が扉を閉めたのですね。

 一瞬思考が彼女の残像を追いかけていたが、我に返って苦笑いを浮かべながら保健室へと歩き出す俺なのであった。


『――あああああああ! ちょっと、芹ちゃん、もしかして……』

『ふぇ~? ふぁんのふぉと~? ……んぅ……よしきくん、ごちそうさま……美味しかったよぉ~♪』

『ずるいずるいずるい! 私にも! ――はむっ』

『えぇ~、うっちゃんが奥手なだけじゃ~ん……って、私の指舐めても、もう私の味しかしないんですけどぉ~? にしし♪』

『……ぅぅぅぅぅ……ふぇぇぇええん……よしきくぅ~ん……』

『って、うっちゃん、なにしてんのよ?』

『えぇ~、よしきくんのロッカー開けているんだよぉ~? なにかあるかなぁ~?』

『鍵かかってんじゃないの?』

『忘れると大変でしょって言ったら番号教えてくれたもん♪ よしきくん、優しいからぁ~』

『ずるいずるいずるい! 私にも!』

『えぇ~、芹ちゃんが聞かないだけじゃ~ん……あっ、私のタオルみっけ♪ ん~、昨日入れておいたから、いい感じぃ~」

『なんで入っているのよ! と言うか、私にも番号教えなさいよ!』

『ん~? 私のロッカー、いっぱいだから一緒に入れてもいい? ってお願いしたら「い、委員長が気にしないなら」って顔を真っ赤にしながらオッケーもらえたんだよぉ……って、芹ちゃんには意地悪されたから教えないし、もう閉めちゃったよぉ~? にしし♪』

『ふぇぇぇええん……よしきくぅ~ん……』


 踵を返して保健室を目指して歩き出した俺。だけどその瞬間。

 教室の中から内田さんだと思われる悲鳴が聞こえてきた。

 思わず振り返って教室を眺めると、透き通る綺麗な声が廊下に響いてくる。直後、元気で綺麗な声も響いていた。たぶん芹澤さんだろう。

 うん。芹澤さんの声が廊下に響いてくることは割とあるんだけど。内田さんが廊下まで聞こえるほどの大声を出すことってないんだよな。明るい子だけど控え目な女の子だから。

 まして、今って授業中だしさ。委員長としては珍しいなって思っていた。

 まぁ、遠いんで何を言っているのかまでは聞き取れないんだけどさ。聞き耳を立てても出歯亀でばがめみたいに思われそうだから、早々そうそう退散たいさんする俺なのだった。

 うん、廊下に響くほどなんだから教室の中では普通に聞こえているだろうし、聞き耳を立てても問題ないだろうけどさ。

 なんとなく聞いてはいけない気がするし、二人だけじゃなくて他の生徒達まで一緒になって騒ぎ始めているから近寄りたくないんだよね。

 そもそも……今、戻って聞き耳を立てたくてもさ。

 きっと俺の腹の虫がうるさくて聞こえないと思うから意味ないんだよな。ずっと「飯食わせろ!」って騒いでいるから。いや、今は授業中なんですけどね。


 とりあえず、教室からだいぶ離れた階段付近まで歩いてきた俺の耳にすら聞こえてくる教室内の喧騒けんそう。そして保健室へ弁当を食べに向かう俺。

 今が授業中だと言うことを忘れさせる異世界にいるような気分な俺。

 これ以上騒ぎが大きくなって、隣のクラスから苦情が来て現実世界に引き戻されませんように……。

 そんなことを願いつつ、俺は階段を下りていくのだった。


「……うーん。でも、あれって……やっぱり見られていたってこと、なんだよな~」


 保健室へ向かう途中、俺はさっきの二人の行動について考えていた。

 見られていた――うん、昼休みの香さんとの件なのですが。

 二人とも、あの時教室にいたのである。だから、あんなことをしたのだろう。からかうのが目的で……。

 ただ、素直にからかってくれるだけなら何も思わないんだけど。

 あの時、周りの女子は嬉しそうと言うか完全に楽しんでいる雰囲気で香さんの周りに集まっていたのに。

 二人だけは嬉しい反面悲しいような、複雑な表情で香さんのことを遠巻きに眺めていたのだった。

 まぁ、二人って入学当初から香さんの大ファンだったし、今は自他共に認める「彼女の妹達」みたいなものだからさ。複雑なのは理解できるかも知れない……し、できないかも知れない。


 だから単純に姉の真似をして、からかっているだけならば俺は嬉しい。うん、嬉しい嬉しい。

 だけど、さ。「敵意の裏返しで?」とか考えると恐いんだよね。行為がではなくて、捨てられるのがだけど。

 ほら、姉の大好きなおもちゃだけど、大好きな姉がおもちゃに執着しゅうちゃくしすぎて自分達がないがしろにされれば――

「こんなおもちゃがあるから姉は私達に愛をくれないの。そうよ、こんなおもちゃさえ、なけ、れば……」

 なんて考えるかも知れない。

 結局、二人の懇意も香さんのおかげだと思うし、完全に敵意が上回れば捨てられるだけなのだろう。


「……ぅぅぅ、壊されるのも捨てられるのやだよぉ~」


 なんとなく壊されるか、捨てられる未来を想像して半べそをかきながら保健室へ向かう俺なのであった。

    


「……お邪魔しまーす!」

「――邪魔しないの!」

「はーい……って、いやいやいや! 邪魔じゃなくて用事ですってば!」

「……あんた、善哉だし、図体ずうたいだけは大人じゃないの?」

「いや、洋司でも幼児でもなくて……えっと、その、あの……ぅぅぅ……」


 保健室の前までやって来た俺は、ゆっくりと扉を開けて声をかけて中に入ろうとしていた。

 さすがに明日実さんの前で半べそをかいていると……まぁ、それ自体は「いつものことじゃない?」と言われるだけですが。

 さすがに保健室に誰もいないとは限らないので、見られたら恥ずかしいので泣くのは……心の中ですることにしていた。だから表面上だけは明るく言い放っていた俺。

 そうしたら、中からこんな言葉が突きつけられた。

 反射的に返事をして扉を閉めようとしていた俺だったけど、閉める手を止めて慌てて突きつけられた言葉を否定する。それなのに、呆れた顔で紡がれた、こんな答えが返ってくるのだった。

 って、何ですか、その図体『だけ』は大人って……事実ですけどね。と言うより、イントネーション違うでしょ!

 だからボケを正そうとしたんだけど、上手く『用事』を言い換えられずに口ごもる俺。イントネーションでは理解してもらえないからさ……。

 だけど、いくら考えても思いつかずに泣きそうになっていた俺の耳に――


「はぁー。……しなくてはならない事柄ことがらでしょうが。まったく、それくらい覚えておきなさいよ?」

「あ……ごめんなさい、明日実さ――」

「ん~?」

「あ、明日実先生……」


 落胆のため息とともに、呆れ顔で用事の意味を教えてくれた彼女。なんだ、知っているんじゃないか……まぁ、からかわれているだけですが。

 とりあえず、助け船について謝罪をしようとしたんだけど、睨まれたので慌てて「明日実先生」と言い直していた俺。ここは学校だからしめしがつかないからね。そう言うところは厳しい彼女なのである。

 うん、自分は俺のことを「あんた」としか呼ばないし……俺には「ママ」って呼ばせないような、とても厳しい人なんですよ。

 そんな理不尽な現実に打ちのめされている俺に向かって、呆れ顔のママ……まま、彼女が言葉を繋いでいた。


「それで、用事は?」

「あ、ああ、うん、実は……」

つばつけときゃ治る!」

「なにゆえー!」


 自分から聞いてきたくせにさ? 俺が理由を話そうとしたら勝手に一刀両断いっとうりょうだんしてきた彼女。思わず叫んでしまうのだった。

 いやいやいや、おかしいでしょ? 俺まだ理由言ってないじゃん!

 そんな意味を含ませて抗議の表情を浮かべる俺に、彼女は説明する。


「だって、どう見ても病気じゃないでしょ? 特に風邪はないわよね? あ、頭の中身は病気とは言わないわよ? それに、こまめちゃんや先輩達絡みじゃなければ寝不足だって認めないのは知っているわよね? ……そもそも、あんたのことだから怪我かと思ったわ」

「……」


 なんなんでしょう、この説明……的を射すぎて反論できないんですが。

 ですが、明日実さん。お言葉を返すようですが、馬鹿も風邪は引くんですよ?

 ただ、馬鹿は風邪を引いたって言う事実を認識できないだけなんですから。……あれ、なんか寒気が。

 まぁ、汗かきすぎて寒いだけだろう。少し熱っぽい気もするけど、体が火照っているだけだよな。

 少し視界がフラフラと――ごめんなさい。お腹がすいているだけでした。

 あれ……そう言えば、俺って最後に風邪引いたのって、いつだ? 記憶にないんだけど……。

 もしかして風邪の方が変態お兄ちゃんにドン引きして寄ってこないのか?


 馬鹿は風邪を引かないとか言われたんで、馬鹿でも風邪を引いていることを証明しようと思ったんだけど、今の状況は風邪ではないと気づいた俺。

 そもそも最後に風邪を引いた記憶ですら曖昧あいまいになっていた。そして、とある結論に至るのである。

 そう、馬鹿でアホで変態の俺だから、風邪の方がドン引きして近づいてこないのではと言う結論に至ったのだった。

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