第五章 心情

第1話 鉄槌 と 一太刀

◇1◇


「……ぇ?」


 路地裏中に響いたのではないかと思われる、甲高い打撃音が俺の鼓膜に響いてから数拍後。

 俺の鼓膜に彼女のか細い声が響いてくる。

 目の前の彼女は、驚きの表情を浮かべて目を見開いている。そんな姿が俺の左目に映し出されていたのだった。


「……う、そ……な、ぜ……」


 彼女は信じられないと言うような、「もしかして、夢なの?」と言いたそうな、困惑した面持ちで言葉を紡いでいた。

 だけど残念ながら、これは現実だ。夢なんかじゃない。

 路地裏に響いた甲高い打撃音と、俺の右手に伝わる衝撃を、実際に俺の耳と右手は現実として受け止めている。

 そう、俺は確かに頬を引っぱたいた。打撃音は消えてしまったけど、右手を伝っている痺れが、夢ではないのだと物語っている。

 彼女が罰を望んで……俺が受け入れて罰を与えた。そのことに驚きの表情を浮かべている彼女。

 だけど、それは紛れもない現実なのである。


「……ど、どう、して? ……」

「――痛っ!」

「――ご、ごめんなさいっ! ……」


 目の前の彼女は驚きの声を発しながら俺に近づいてきた。

 そして普段なら見逃さないはずの彼女の左手が、突然俺の死角へと入り込み、思わず彼女の手を見失ってしまう。

 刹那、俺の右頬に何かがふれた感触を覚えたのだが、ふれた場所に激痛が走り、思わず声を出して顔を歪めていた俺。

 そんな俺の視界に、慌てて謝罪をする彼女の顔と、見失っていた左手を勢いよく引き戻した彼女の姿が映し出されたのだった。

 

 痛がっている俺を見つめて少しだけ泣きそうな表情を浮かべていた彼女だったけど、決心するように俺に言葉を投げかける。


「……なぜっ、引っぱたかれたのがっ、私――ではなくてっ、先輩がっ、ご自分をっ、引っぱたいているのですか?」

「……ははは……」


 あえて言葉を区切りつつ、言葉尻を強調しながら、少し不機嫌さを含ませて紡がれたその言葉に、頬の痛みが和らいだ俺はゆっくりと右目を開き苦笑いを浮かべて、乾いた笑いを奏でていたのだった。

 

 そう、俺は確かに頬を引っぱたいた。打撃音は消えてしまったけど、右手を伝っている痺れが、夢ではないのだと物語っている。

 そう、それは紛れもない事実なのである。

 ……だけど右手を伝っている痺れが与えていた衝撃もまた、俺の右頬に感じている。

 つまり俺は、振り上げた右手を勢いよく振り下ろし、自分の右頬に叩きつけていた。

 引っぱたいたあと、頬の痛みで右目を開けられなくて左目だけで彼女を眺めていた訳だ。


 ――そして、だから振り下ろす直前に心の中で謝罪をしたんだ。俺には彼女の鎖を断ち切ってやれないから。彼女のことを救ってやれないのだから、ってな。


 まぁ、俺は別にフェミニストではない。だから、単純に「女の子に手を上げることを拒絶している」訳ではないのだ。

 いや、まぁ、基本女の子に手なんて上げるつもりはないけどさ。どうせ上げるんだったら『相手の株』を上げておきたいくらいだな。うん、愛でることを許してもらえるくらいには、さ。

 ……だ、だけど俺も一応健全な男子な訳でして。

「出陣!」の時、強制的に本人の知らないところで、本人の許可無く『加勢』してもらうことも……まぁ、あるのですね。

 いくら妄想内のこととは言え――

 画面や紙面の向こう側に存在する見ず知らずの女性陣だけでなく……それこそ「愛している」って認める前から、「愛している」三人に加勢してもらうことのある俺。考えるまでもなく最低だよな。でも、とりあえずこの場面では関係ないので黙認しておいてください。

 正直そんな下品で低俗な最低妄想野郎が、フェミニストを語れる資格なんてないはずだ。と言うより、認めてはいけないだろう。


 元より、基本手を上げたくはないけれど、絶対に手を上げないとは言い切れない。

 申し訳ないが自分が進むべき正しさに必要ならば、相手の間違いを正す必要があるのならば。

 俺は迷わずに手を上げるのだろう。当然、それ相応の受ける痛みは覚悟の上でだけどさ。

 要は信念だとか更正だとか。大儀たいぎの名のもとに『正義の鉄槌てっつい』をくだすことはある。あくまでも俺にとっての正義だけどね。


 つまり、だ。俺は彼女が妹に仕向けた行為を知っても。今回の彼女の願いを受けてもなお、「彼女は正しい。罰を受けるべきではない」と判断していた。

 そして、本当に罰を受けるべき相手――つまり悪いのは俺だと判断したから、正義の鉄槌を下して自分の頬を引っぱたいた。それだけの理由なのだった。

 


「ぅぅぅ~。なんでですかぁ~?」

「ははは……」


 未だに納得がいかないような表情で俺を睨んでいる彼女。とは言え、そこに俺の頬を心配する表情も含まれているからなのかも知れない。

 俺には目の前の彼女の表情が、拗ねているようにしか見えなかった。口調も甘く感じられていた。

 どことなく小豆が拗ねた時と雰囲気が似ていることから、彼女には申し訳ないが心が癒されていた俺。

 そんな可愛い彼女の拗ね顔に頬の痛みも少しずつ和らいでいく。

 ヒーリング効果のある目の前の彼女を眺めながら、俺は乾いた笑いを繰り返すのだった。


 確かに……。

 彼女が小豆に仕向けていたことは非道だと感じた。笑って許せることではない。それは素直に認めている。だけど――

 俺が腹を立てるのは筋違いだと思っていた。実際に彼女に仕向けられていたのは小豆なのだから。


 小豆は既に彼女を許している。その上で彼女のことを親友だと想っているのだ。

 仕向けられた本人が許していることを、衝突については部外者の俺が、どうして怒れると言うのだろうか。それこそ、そんなことで腹など立てれば俺が小豆に怒られてしまうだろう。

 ……うん。小豆は怒るだろうね? たぶん本気で怒ると思う。別に「お兄ちゃんのすべてが正しい」なんて考えは持っていないだろうからさ。きっと親友を傷つけたって本気で怒ってくるのだろう。

 妹もまた、自分の判断によって正義の鉄槌を下せるのだと、俺は信じている。いや、そうであってほしいと願っているのだ。

 つまり、衝突の詳細それを今この場で聞かされたからと言って、俺が彼女に腹を立てて感情をぶつけるのは間違っていること。当事者でもない俺が何かを言える権利など存在しないと思う。

 

 ……それに、さ?

 そもそもの話、俺はすべての元凶が自分にあるのだと、素直に非を認めているのだ。

 確かに彼女は小豆に色々と仕向けていたかも知れない。それは紛れもなく現実なのだろう。だけど俺には――

『二人が出会ったことでさえ、既に現実ではなかった』のだと、そう結論づけていたのだった。


 もちろん、二人が出会っていなければ二人が親友になることもなかった。だから、この出会いを否定したい訳じゃない。むしろ出会ったことを喜んでいる。彼女が妹の親友になってくれたことを素直に感謝している。

 だけど二人の在籍していた小学校――彼女は宇華徒学院の初等部。そして小豆は恵美名小学校だ。

 そう、本来ならば彼女は宇華徒学院の中等部。そして小豆は恵美名中学校に、そのまま進学していたのだろう。つまり接点なんてあるはずがなかったのだ。

 それが俺の、『小豆を巻き込んだ我がまま』が原因で、妹は宇華徒学院の中等部に入学を余儀なくされていた。

 同じ学院生として二人は出会ってしまった。

 そして、とあるキッカケにより小豆の秘密――アニオタだってことを彼女に知られてしまう。

 それが原因で妹は……彼女に敵意を向けられてしまうのだった。


 そう、もしもあの時俺が我慢できていれば。理解していれば。自暴自棄になっていなければ。

 小豆はそのまま恵美名中学校に進学していたのだと思う。そうすれば当然彼女とは出会っていないだろう。出会っていなければ、あんな悲しい衝突なんて起きなかったのだと思う。そのことで彼女が罪の意識に苛まれることもなかったのだろう。

 結局は、すべての元凶は俺だったのだ。俺が小豆だけでなく彼女のことも苦しめていた。俺が彼女に罪を植えつけていたってことなんだ。

 つまり、植えつけた張本人である俺が、植えつけられてしまった彼女に裁きを与えることなど、それこそ笑止千万しょうしせんばん

 今ここで裁きを受けるのが俺であることは……桜吹雪を拝まなくとも、大●裁きを受けなくとも、当然の話なのである。


「……なぜ、です、の?」

「……ああ、うん……あのさ? ……」


 乾いた笑いを奏でている俺に、ちっとも答えが返ってこないからか、悲しそうな表情を浮かべて呟く彼女。

 罪の意識と、やり切れない感情に支配されて、今にも泣きそうになっている彼女の雰囲気に、このまま誤魔化すことは不可能だと悟っていた俺。

 できれば彼女にも笑ってもらって水に流してほしかったんだけど、「世の中そんなに甘くない」ってことなのかな。

 俺は真面目な表情に戻すと、真っ直ぐに彼女と向き合うことにしたのだった。

 

 とは言え、俺の考えを彼女に伝える訳にはいかない。あくまでも俺個人の考えなのだから。

 これを言ってしまえば、「二人が出会わなければよかった」と、俺が考えているように思われてしまう。

 でも俺は「出会えてよかった」と素直に思っているのだ。

 今の二人は俺が羨ましく思うほどに幸せそうなんだ。楽しそうで充実しているって感じている。

 だから出会ったことが間違いだったと思われるような、そんな俺の考えは伝えたくない。


 第一、俺の考えを伝えたところで彼女は納得しないだろう。これは俺の導き出した罪であり、彼女の導き出した罪ではないのだから。

 きっと俺が自分の考えを伝えたとしても、「それでも実際に私達は出会っているのです。出会った事実は変わらないのです。当然、私の罪も……」なんて、そんな言葉が返ってくるのだろう。

 そして再び「引っぱたいてください」と懇願してくるはずだと考えている。

 それでは意味がない。俺の考えを伝えて、更に罪を感じさせては元も子もないじゃないか。これは完全に俺の罪なのだから。

 だから俺の考えは伝えない。だけど、いつまでも誤魔化していられる場合でもなさそうだ。


「……えっと、その、いや、あの……」

「……ッ! ……ぁぅ、ぅぇ、ぉっ……」

「……」


 言葉が上手く出てこない俺を眺めて、悲しみに押し潰されそうになっている彼女は、少しずつ罪を打ち明けていた時と同じような雰囲気に戻りかけていた。

 青白い悲愴が肌を覆う。唇を紫に染め上げ、瞳は潤み焦点を失う。微かに体がふらつき、唇から漏れる音は声になっていない。


 ――本当、なにやってんだよ、俺は。

 誤魔化していれば罪の意識に押し潰される子だって、最初から理解していたんじゃねぇのかよ!

 伝えないことで彼女を追い込んで、どうすんだよ。これなら鎖を断ち切ってあげた方がマシじゃねぇか。

 自分のエゴで彼女を追い込むくらいなら、彼女の望みを受け入れた方が万倍もマシじゃねぇか。それが彼女にとって一番楽になれる方法じゃねぇか。


 そう、心の中で叫んでいた俺。

 だけど、俺は彼女の望みを受け入れたくなかった。

 でもそれは、暗に「小豆に嫌われたくない」ってだけなのだろう。小豆に嫌われることを恐れていたんだと思う。


 ――結局、彼女の為なんかじゃないんだ。彼女を引っぱたかないのは俺の為なんじゃねぇかよ。自分が可愛いだけなんじゃねぇか!

 彼女に嫌われたくないだけなんだろ? 小豆に嫌われたくないだけなんだろ?

 だけど安心しろ、どう転んでも『どちらにも』嫌われない選択肢なんて存在しねぇんだよ!

 いや、それすら甘えなんだろう。 

 元凶である俺が好かれる選択肢なんて残っていねぇんだよ!

 ……だったら、前のめりに倒れられる選択肢を選ぶしかないだろ。どうせ嫌われるんだったら、自分が自分で誇れる選択肢を選べばいいんだよ。

 ただ、二人が幸せになることだけを考えた選択肢を、な。


「……すぅ、はぁ……」

「……」


 俺は軽く深呼吸をする。そんな俺にすがるような面持ちを送り続けている彼女。

 きっと彼女と話ができるのは、これで最後だろう。俺の言葉を聞けば、彼女は怒って金輪際こんりんざい俺に近づかないのかも知れない。彼女だけでなく、小豆とも距離ができるかも知れない。二人に敵意を向けられるのかも知れない。

 だけど、それしか残された道がないのだったらいさぎよく受け入れるしかないのだろう。

 俺にできる唯一の『彼女を救えるかも知れない選択肢』なのだから。


「あ、あの、さ……」

「……はい……」


 俺は最後になるかも知れない悲しさで、喉にしがみついて離れようとはしない選択肢を、強引に引きがして彼女に送ろうと声をかけていた。

 俺の決意の雰囲気で何かを感じ取ったのか、彼女は悲愴な面持ちではあるが落ち着きを取り戻し、俺のことを真摯しんしに見える。

 その高貴さを纏った二つの瞳に少し気後れしてしまったが、覚悟を決めて言葉を紡ぐ俺なのであった。

 

「……染まらない未来を目指して……崩れない願いを抱きしめて……消え失せない想いの地図……この手に掴もう」

「……はい? えっと、その、あの……はい? ……」


 そんな俺の詠唱を唖然とした表情を浮かべながら反応を返していた彼女。まぁ、当然の反応ですよね。 

 と言うよりも、関係ないんだけど以前……まぁ、正確には『この時』の数年後のことなんだけどさ。

 前に小豆が詠唱して俺が困惑の魔法にかかっていた件。

 この詠唱は、俺が当時頻繁に唱えていた――カラオケや鼻歌で頻繁に歌っていたのを小豆が覚えていて、それを真似していただけなんだと思う。

 俺には、あいつ自身が歌っていた記憶がない。俺の歌を嬉しそうに聴いていた記憶しかないんだ。

 つまり、アニオタの妹としては重要な魔法詠唱だったのかも知れないな。正直俺には、まったく重要でもないんだけどさ。

 そして余談だけど……これが本来の歌詞である。

 基本、俺は『電波ソング』は嫌いじゃない。むしろ大好きだ。

 しかし、この曲は本来電波ソングではなく、あれは小豆が勝手に捏造しただけ。だから、それは「認められないわー!」って却下していたのだった。

 第一、あれ……メロディを無視しているから、どんなに頑張っても。音を合わせようとしても歌えないんだにょにょ……。

 

 とは言え、妹の場合は歌いだし。最初から小豆の詠唱した部分しか存在していない。

 だけど、俺のはサビの歌詞であり、完全オリジナルなので効果は強大きょうだいなんだと思う。

 ……うん。俺と小豆は誰が何と言おうとも兄妹きょうだいであり。

「何、恥ずかしいこと口走っているんだ? 少し自分と向き合った方がよくね?」と言う意味で鏡台きょうだいを差し出されても困るが、詠唱の効果は覿面てきめんなのだろう。 

 俺の放った困惑の魔法により完全に動きの止まっていた彼女。それは同時に彼女を纏う悲愴すらも吹き飛ばすことに成功していたのだろう。そのことに少し心が軽くなる俺。

 ただただ困惑している目の前の彼女に、俺は優しく微笑みながら自分が誇れる選択肢を告げるのだった。


「……ごめんね、時雨院さん。俺はきみの望みを叶えてあげられないんだ」

「――え? ……」


 俺の言葉に目を見開いて驚きを表現する彼女。そしてジッと俺を見つめていた。

 その表情には「私の願いを聞き入れてくれたのではないのですか? 痛みを受け取ってもらうっておっしゃったじゃないですか……」と言いたそうに感じ取れていた。

 だから俺は苦笑いを浮かべて言葉を繋げる。


「俺は確かに痛みを受け取ってもらうって言ったけど……俺の受けた痛みは受け取ってもらったはずだよ?」

「――え?」


 更に驚きを色濃くしていた彼女。信じられないと言いたそうに見つめていた。


「ちゃんと……俺を引っぱたいた音は伝わったと思うんだけど? もしかして聞こえなかった? だったら、もう一度……」

「――そ、そんな訳ありません。ちゃんと聞こえておりましたけど……」


 説明をしても納得しない彼女に「実は音が伝わっていないのかも?」と疑問を覚え、彼女に訊ねながら右手を水平に持ち上げていた。

 俺の行動を見て、さっきのことが頭に過ぎったのだろう。慌てて声をかける彼女。

 ちゃんと聞こえていたことを確認して、俺は右手を下ろすと微笑みを浮かべて言葉を繋いでいた。


「そっか……だったら受け取ったってことで大丈夫なんだよ」

「……どう言うことですの?」


 少しムッとした表情で聞き返す彼女。馬鹿にされたと感じたのだろうか。


「聞こえていたのなら……俺の受けた痛みをちゃんと耳で受け取ったじゃないか?」

「どうして、そうなるのですか! 私は『あの日に先輩が受けた痛み』を受け取りたいと言ったのです! どうして先輩が更に痛みを受けて、私は『音』だけを受け取らなければいけないのですか!」


 語気を荒げて俺に食ってかかる彼女。だけど彼女の反応は想定内だ。と言うよりも、そうとしか考えられないのだが。

 そして「キッ」と音が鳴りそうなほどに鋭い視線で俺を射抜いていた。


 ……ああ、数年ぶりに彼女の『この顔』を見たな。そして、俺は今後『この顔の彼女』しか見れなくなるのか。俺に向けられる表情は、感情は、負のイメージしか与えられないのか。

 いくら俺に残された、二人が幸せになることだけを考えた選択肢だとは言え……くやしいな。もっと仲良くなりたかったのに、さ。

 そしてそれは彼女だけじゃなくて、小豆とも再び距離が離れることになるのだろうか。

 少しずつ距離を近づけて、やっと兄妹らしく接することができたのにな。

 俺なんかに愛情を注いでくれているのにな。すべてを白紙に戻さないといけないのか……悲しいな。もう、俺を「お兄ちゃん」って呼んでくれなくなるかも、な。


「――ッ! ……」


 彼女の顔を眺めて心が悲しくなっていた俺は、今だけでも表情に悲愴が出てこないように無理やり笑顔を作ると、最後の言葉を投げかけるのだった。


「ごめんな? 最初から『あの日に受けた痛み』は、時雨院さんに譲ることはできなかったんだよ?」

「……それって、どう言うことです……かっ?」

「――ッ! ……」


 俺の言葉に更に怒りのオーラを纏いながら、言葉を言い切ると同時に一歩前に踏み出していた彼女。その気迫に俺は半歩後ずさりしてしまう。言葉にも今まで以上に怒気を感じていた。

 もしかしたら自分の決意を、覚悟を……俺が最初から受ける気などなく。

 反応を見て楽しんでいると、自分の覚悟を心の中で笑われているのだと。

 からかわれたのだと思っているのかも知れない。

 だけど、それは自然なことだ。俺だって『そんな態度』を取られれば、きっと同じ感情を抱くのだろうから――。


 ……これは完全な蛇足だし、『この時』ではなく『回想している今』の俺の言葉になるのだが。

 さっきの香さんの件について。

 確かに彼女は俺の望み、覚悟を受け取らなかった。俺の願いとは別のことをしてきた訳だ。

 だけど俺は、そのことに負の感情は抱いていなかった。

 べ、別に『ほっぺにチュ』って、されたからではなく……まぁ、近からずも遠からずなんだけど。

 結局俺の願い以上のことをサラッと実行されてしまえば、怒れるはずもないのである。当たり前だよな、嬉しいんだからさ。


 仕事にどうしても必要だったから、正直に普通の斧を伝えただけなのに。

 正直者だと褒められて、合わせて金と銀の斧まで貰えたのに「頼んでねぇよ! 俺の望み通り普通の斧だけ返してくれればいいんだよ! ったく、余計なことすんな!」とは誰だって怒らないだろう。

 もし仮に金銀の斧が貰えるなら、普通の斧を返されなくても困らないだろう。

 例えが微妙だけど、そう言うことなんだと思う。

 つまり、この時の俺は……彼女の望み以下のものしか与えられていなかったと言うことなのだった。

 

 正直、この雰囲気の彼女と対峙するのは恐いし、踵を返して逃げ出したくなる。

 あの時と同じ――目の前の彼女は、妹の親友の時雨院雨音じゃない。有数の財閥である時雨院家の、次期当主の時雨院雨音。そんな生粋きっすいのお嬢様である彼女の、本気で本物の怒りのオーラを全身に浴びているのだ。

 恐いに決まっている、逃げ出したくなるのも当たり前だ。……こんなオーラですら可愛いものだと感じられるような、そんな結末へと足を踏み入れようとしているんだからな。


 だけど恐がっている場合じゃない、逃げられる訳もないんだ。

 俺は二人を幸せにするって決めたんだから。彼女の罪を断ち切るって決めたんだから。

 そう、すべての罪を俺が受け取る。そう決めたんだからな!

  

「……ふぅー。……チッ! ……どうっ、言うっ、意味っ、なんっ、ですっ、のっ!」


 答えを出さずに黙る俺に、彼女の怒りは頂点に達したのだろう。

 苦々しい表情で息を吐き出すと、突然腕を胸の下辺りで組み、視線だけで俺を睨みつつ顔を少し横へ曲げて、完全に敵意を抱いているのを表現するように、これみよがしに舌打ちをする彼女。

 そして顔を戻すと怒気を含んだ言葉を体現するように。まるで地面に敵意を抱くように、言葉尻に合わせて強く踏みつけながら俺に一歩一歩近づいてきていた。

 身長差があるせいか、下から俺に睨みを効かせて腕組みをしながら近づいてくる彼女。

 そんな彼女を眺めながら俺は――心の中で「もう大丈夫だよな?」と感じているのだった。

 俺は確かに彼女を恐く感じていたけど、彼女におくして言葉にするのを躊躇っていたのではない。タイミングを探っていただけだ。

 そう、俺の言葉で「完全に彼女を救える」瞬間を、な。


 俺の選択肢は彼女を傷つけるものではない。敵意を俺に向けるだけのものに過ぎないのだ。だから確実性には欠けるのだと思う。

 例えるならば、キャンプなどで火を起こすのに、木へ直接火を点けているようなものだろう。

 燃える可能性はあるが、火が消える可能性もある。と言うより消える確率の方が高いはずだ。

 今の状態で怒りの炎が消えてしまった場合、彼女が再び罪の意識に囚われるってこと。最悪、今の敵意すらも罪に上乗せされるかも知れないのだ。それは本末転倒だと言えよう。


 だから俺は……油を含んだ紙切れを導火線として使うように、燃える確実性を増すように。

 彼女の怒りを沸点まで上昇する必要があったのだ。

 これだけ燃え広がれば鎮火することはないのだろう。確実に俺だけに敵意を向けるようになるだろう。

 そう判断した俺は心の中で決意を固めて、彼女に伝える選択肢と言う名の刃に手をかける。

 

「はっきりと、仰って、くだっ、さらっ、ないっ、か し ら ねっ?」

「……」

 

 現実に起こる訳がないと理解しているのに、彼女の身を包む――

 すべてを焼き尽くすような紅蓮の業火と、すべてを斬り焦がすような雷帝の一振りが俺には見えていた。

 それだけ彼女は真剣に怒っていると言うこと。それだけ真剣に俺と向き合ってくれていると言うことなのだろう。だったら俺も真剣に向き合わなければ失礼だ。

 そんな炎といかずちを身に纏いながら、確実に近づいてくる彼女。

 だからこそ、俺も覚悟を決めて踏み込まなければいけない。


 ――僕の最弱さいきょうを以て、君の最強を打ち破る!

 

 彼女に向かい心の中で宣言し、心の刃を極限まで研ぎ澄ませていた俺。 

 お嬢様である彼女に小手先の技量なんて通用しない。人生の落第者である俺にできるのは……この一太刀だけ。これが決まらなければ俺の負けだろう。

 負けられない闘いを前に、迷いも躊躇いも、彼女に抱く色々な感情も今は重荷になるだけだ。そんな感情は邪魔なだけだ。邪魔な感情をすべて排除し、この一刀にすべてを託す。

 ――だから俺はこの一太刀の為に修羅になる。この一刀を修羅のごとく彼女へと射抜く。


 ジリジリと詰め寄る彼女に、俺は自分の持てるすべてを賭けて捨て身で踏み込む。


「――ッ! この痛みは誰にも譲っちゃいけないんだ! これは小豆の為――妹の為に受けた痛みなんだからな!」

「――ッ!」


 俺の踏み込みと言葉に、驚いて足を止める彼女。だけど、まだだ。俺の一太刀は彼女を纏う炎と雷のオーラにふれただけ。彼女自身には届いていない。

 だから俺は更に踏み込んだ。


「妹の痛みを受けられるのは俺だけだ! 俺があいつのお兄ちゃんだから受けることが許されるんだ!」

「――ッ! ――ッ!」

「だから俺の痛みは俺のもの。小豆の痛みも俺のもの! 妹の痛みを受け取っていいのは、お兄ちゃんである俺だけなんだよ!」

「――ッ! ――ッ! ……」

「そもそも、きみは妹の親友だ。妹の親友なら俺にとっては妹も同じ……いや、俺の妹だ! だったら可愛い妹から受けた痛みだって、お兄ちゃんだけが与えられた特権なんだ――よっ!」

「――ッ!」


 俺が一歩一歩踏み込んでいくのに対して、その気迫に押されるように彼女は一歩一歩後ずさりしていく。

 もう少しだ。もう少しで彼女の心へ届くんだ。だからもう少しだけ耐えてくれよな、俺の心……。

 既に心が折れかけていた俺だったけど、迷わずに前へと突き進む。

 帰りなんて考えていない片道切符の特攻――小豆の十八番を奪うカミカゼアタックを決行していた俺。

 って、いや、昔の俺はいつもこんな感じだったから小豆の十八番を奪ったつもりはないけどね。


 そんな俺の気迫に押されるだけになっていた彼女だったが、何かに気づいたらしく驚いて後ろに振り返っていた。どうやら壁に退路を阻まれていたようだ。

 チェックメイト。困惑する彼女を見て心の中で呟いた俺。

 だけど……きっと、自分の信念を貫くことに夢中で彼女の表情の変化に気づいていなかったのだろう。

 目の前の彼女の表情には既に怒りや悲愴と言った感情などなく。

 ただただ顔中を赤くして、潤んだ瞳を輝かせて嬉しそうに俺のことを見つめていたことを――。


 俺の言葉が彼女のオーラを突き破った。そう感じていた。あと一歩踏み込めば……そう感じていた。

 だけど彼女の動きが止まったことに気づく。俺の視界に彼女の行く手を阻む壁が映し出される。

 くそ、あと一歩だったのに。俺は心の中で舌打ちをしていた。これ以上は踏み込めないのかってな。

 ……まぁ、厳密に言えば『あと一歩』だけなら踏み込めたんだけどさ。俺と彼女の間には、その『あと一歩』の隙間があったのだから。

 とは言え、俺は言葉を突きつけていたんだ。その為に『あと一歩』の隙間は必要だった。あとは……それ以上は踏み込めなかったんだ、恥ずかしくて。

 そんな踏み込めずにいた、もどかしい感情を右手に込めて――俺は彼女の顔の斜め上に手の平を押し当てる。壁に押し当てた瞬間に響く「ドンッ」と奏でた音に、一瞬だけ体をビクッと震わす彼女。

 俺は気にせず、そのままの姿勢で彼女へ最後の言葉を投げかける。

 

「だから、きみに……俺の可愛い妹にだって俺の痛みは渡せねぇ……自分の可愛い妹を悲しませたい兄貴なんて、この世には存在しねぇん――ィッ!」

「……」 

   

 だけど言い切る前に彼女が俯きながら一歩踏み出していた。

 俺の言葉は彼女に届かなかったのか? あと少しだったのに、俺は敗北するのか。

 いや、怒りが爆発したのか? 俺に平手を叩きつけるのだろうか。俺の勝利なのだろうか。

 俯いているから審判を下せずに困惑していた俺。

 だけど次の瞬間。

 俺の胸に「ポフッ」と軽い音を鳴らして彼女の顔が吸い込まれていた。そして次の瞬間。

 俺の背中に彼女の両腕が回る。そう俺は完全に彼女に拘束されてしまうのだった。


 ややややばい。これって、俺の勝利なんだろうけど……人生の敗北をきっしてしまうんじゃ?

 人生の落第者である俺は、次の彼女の行動に戦慄せんりつを覚えていた。

 うん。今まで、こんな経験ないしさ……あ、小豆と智耶と香さんは妹と姉だからカウントしていないけど。

 それに、こんな状況は黒歴史の方が経験あるから。この体勢で導かれる答えなんて一つしかないんだよな。

 そう、俺は彼女が怒りで暴走して『フロントスープレックス』を仕掛けようとしたのだと思っていた――って、馬鹿だろ、俺!

 だから仮に投げられた場合、俺は壁に直撃することになるのだ。多少、他人より頑丈な俺でも壁には勝てないのである。

 ……はいはい、そもそも彼女に俺を投げ飛ばせる力がないことを失念している大馬鹿な俺でした。

 そんな意味もないことで戦々恐々せんせんきょうきょうとしていたので――


「……もぉ、先輩はずるいですぅ……こんな素敵な嬉しいお言葉を持っていたのなら最初から仰ってくれてもいいのにぃ……私なんて叩く価値もないような『どうでもいい子』なのだと勘違いして悲しくなって、嫌われるかも知れないって理解しているのに、無理にでも怒ってもらって叩いてもらおうとしていた私がバカみたいじゃないですかぁ……本当にぃ、『先輩だけの、先輩にとっての可愛い妹』を、悲しませないでくださいねぇ……ふふふ♪ ……すぅ、ふぁ~。……これが先輩の香りなのですねぇ~。……小豆さんは、いつも、この香りを嗅げているのですか……すぅ、ふぁ~。羨ましいですわね……今度お願いしてみようかしら……」


 胸に顔を押し当てながら何かを呟いていたようだけど。

 胸元に熱い吐息を受けながら、口ごもっていた彼女の言葉を理解できずにいた俺。

 まぁ、戦々恐々としていたので俺は彼女が『俺のことを投げる算段』をしているのだと思って怯えていたのだった……。

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