第9話 泣き声 と 告白

「……」


 俺は勢いよく振り返って廊下を見回していた。だけど視界の先に小豆はおろか、誰も見えない。

 まぁ、何となくは理解していたけどな……が俺の脳裏に響いていた声だってことは。

 それでも認めたくなかったんだろう。小豆のこんな声を聞きたくないって、他でもないが脳内でこんな声を再生させたって事実を……。


(ごめん……ごめん、なさい……ごめ……ん……ね……おにい……ちゃん……)

「――ッ! ~~~ッ! ……」


 この声が脳内に響いている妄想なんだって俺に理解をさせるように、誰もいない廊下で未だに響いてくる小豆の声。

 その声を振り払うように、無視をするように。押さえつけるように。

 唇を固く閉ざして、俺は『とある場所』を目指して一心不乱に歩いていたのだった。



「……」


 とある場所……まぁ、お手洗いなんですがね。

 個室に駆け込み、脳内に響く小豆の声に抗っていた俺の耳に予鈴のチャイムが聞こえてくる。

 心を開放していたおかげか、はたまた俺の発していた声でかき消したのか。小豆の声は聞こえなくなっていた。

 個室を出て鏡の前に立つ俺。鏡の中に佇む自分を呆然と眺める。

 そう……目立つほどではないけど、微かに腫れて赤くなった瞳で、悲愴の面持ちの自分を見つめていたのだった。


 だからお手洗いの個室に逃げ込んだ。時間的に人が少ないって知っていたから。人が少なければ、多少音が漏れても大丈夫だろうって思っていた。

 でも、中に入ってきた時に誰もいなかった。個室に入ってからも誰かが入ってきた気配を感じなかった。

 もちろん途中で入ってこないなんて確証は得られていないけどさ。そこまで気が回わっていなかったのだと思う。我慢の限界だったのかも知れない。

 熱していた物を急激に冷やせばヒビが入って割れることがある。きっと俺の心もそんな感じだったんじゃないかと考えていた。


 直前まで全身に感じていた熱が、脳内で小豆の悲しい声を聞いたことによって急激に冷やされる。

 その温度差によって、俺の奥底に眠る一番大切な想いや願いにヒビが入った。

 そして、小豆への想いや願いが外へと放出されてしまう感覚に陥っていたのだろう。

 もちろん、そんなことは現実的には起こらない。だけど精神的に、そんな感覚が俺を包み込んでいたのだと思う。

 言い知れぬ不安が俺を包み込み、想いや願い――いや、もしかしたら小豆自身だったのかも知れない。

 妹を失うことへの見えない恐怖を感じていたのだろうか。思わず恥も外聞がいぶんもなく嗚咽おえつを漏らして泣き崩れてしまうのだった。

 泣き崩れてしまった自分を、情けないとかみっともないとか格好悪いとか恥ずかしいとか。

 俺は別にそんな負の感情なんて抱いてはいない。あるのはただ……小豆の悲しい声を聞きたくなかっただけ。その為に吐き出す必要があっただけだ。


 脳内に再生される声が、甘えた嬉しそうな声じゃなくてもいい。

 拗ねたり怒った声でもかまわない。

 何だったら俺を小馬鹿にしたり、からかっている声でも問題ない。

 誘惑してきたり……そ、その、そう言う時の『ロマンティック・ヴォイス』だとしても、この際何も思わないし受け入れられるだろう。ドギマギするけどさ。

 だけどだけどだけど!

 悲しくて泣きそうな声だけは聞きたくないんだ。それだけは受け入れちゃいけないんだ。

 現実でだって聞きたくない声。そんな声を、俺が脳内に再生させたってことが一番俺にとってはショックなのだ。

 だけど、どうしてそんな声を俺は再生したんだろう。そのことだけが俺に疑問を与えている。

 わからない。理解できない。俺は妹に何を求めていたって言うんだ。

 

「……小豆……ぅぅぅ……」


 鏡を見つめて無意識に、呼び慣れている妹の名前を呟く俺。途端に脳内で小豆の悲しい声が再生される。心に冷たい風が吹き荒れて視界が潤む。


「……香さん……あまねる……え? ……あれ?」


 同じように、愛する二人の名前を呟いていた俺。

 だけど、脳内で再生されるはずの悲しげな声が流れてこないことに驚きの声をあげる。だから自分で再生してみたのだが、妹の名前を呼んだ時、心に吹き荒れていた冷たい風は。

 まるで台風の目に入ったかのように穏やかになり、潤んでいた視界も落ち着いていた。そのことに違和感を覚える俺。


「……小豆……ぅぅぅ……」


 もしかしたら気の迷いなだけかも知れないと、もう一度だけ妹の名を呟いてみた。だけど結果は同じ。


「……か、香……あ、雨音……。……小豆……ぅぅぅぅぅぅ……」


 だから今度は恥ずかしさを我慢して、二人のことを呼び捨てにしてみた俺。

 意味はないのかも知れないけれど、「距離感の違いが生じているのかも?」なんて思ったのだろう。

 小豆だけが呼び捨てだから、二人よりも踏み込んでいる気がしていたのかもな? 本当に意味はないんだけどさ。それでも結局、穏やかな心を取り戻すだけだった。

 未だに理解できずにいた俺は再び妹の名前を呟く。そして冷たい風に包まれていた。

 何故か小豆に反応する俺の心に戸惑いを覚えながらも、悲しみに覆われて泣き出しそうになってしまう。


「――くっ! ……」


 ――なんでだよ、なんでなんだよ。なんで他の二人は平気なのに小豆の時だけは悲しみが俺を襲うんだよ?

 おかしいだろ、おかしいじゃねぇか。『お前』が本心を認めろって突きつけたんじゃねぇかよ!

 だから認めただろ、愛しているって認めたじゃねぇか。なんで未だに俺を苦しめてんだよっ!


 俺は鏡の中に住まう『もう一人の自分』を睨みながら心の中で文句を突きつけていた。

 当然ながら鏡の中の俺は、何も言わずに俺のことを睨んでいるだけ。


「~~~ッ! ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」

 

 俺の視界を完全に覆った涙がこぼれて顔を歪ませる俺。

 目の前に映る同じ顔の自分を滑稽だなんて思えずに、悲しさと痛みだけが俺をむしばむ。その悲しさと痛みに耐え切れず、心が折れかけていたことを体現するように。ついにその場で膝を折ろうとしていた俺。だけどその瞬間。


(ごめんね、お兄ちゃん……許して……)

「――ッ! ぐぁっ――だぁぁぁぁぁ! ……かはっ、くっ……はぁ、はぁ、はぁ……」


 再び俺の脳内に小豆の声が響く。

 その声で我に返り、咄嗟とっさに手洗い場のふちに両手をかけ、折れかけていた膝と心を強引にふるい立たせるように。

 力の限りに叫びながら、強引に腕の力だけで俺の全体重を支えて体を持ち上げていたのだった。

 突発的に叫んで両腕に力を入れたことで、俺の全身に負荷がかかっていたのだろう。

 両足だけで体重を支えられることを確認できた俺は、体重を支えていた両腕の力を抜く。すると途端に肺が深呼吸を要求してきた。

 叫んでいたことと、力を振り絞るのに、数秒だけ息を吸うことを忘れていたのかも知れない。鏡をぼんやりと眺めながら、大きく肩を揺らして息を整えるのだった。



「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……ふぅー」


 瞳を閉じて、息を整えながら小豆の声を思い出す。

 なんで俺が小豆の悲しそうな言葉を、泣きそうな声を再生していたのかは未だにわからないままだけど、そんな俺でも自己解釈できていることが一つだけある。


 それが……俺の心に、「最近の小豆の様子が変なのは、全部『例の彼女達とフダツキ連中』が絡んでいるんじゃないか?」って疑問が芽生えているってこと。

 ずっと、「まだ小豆達には何も起こっていないのだろう」なんて楽観していたんだけどさ?

 既に小豆の身に災いが降りかかっているのかも知れないってことなのだ。


 たぶん彼女達の狙いは『小豆とあまねる二人』ではなくて、あくまでも『小豆一人』なのだろう。聞き込みの目的は二人についてではなく、『小豆の、あまねるに対する付き合い方をチェック』する為なんだと思う。

 そして手紙の内容は、あきらかに小豆を周囲から孤立させる為だけに書かれていた。

 あまねるとの件だって、直接的ではなかったが彼女を擁護ようごし、小豆を悪者に仕立て上げるように書かれていた。

 まぁ、その点は全員が「そんなことがあるはずはない」って、妹を信じてくれているのだと香さんが教えてくれていたので安心したんだけどさ。

 要は今日知った手紙の内容で、俺はそう判断していたのだった。


 さっき香さんに、「配られている手紙の内容って、これだけですか?」って聞いてみた俺。

 すると、「私の知る範囲ではそうよ?」と言う、肯定する答えが返ってきていた。

 もちろん全部を把握なんてしていないのかも知れないが、それでも配られている手紙の大半以上を彼女は把握できているのだと思う。それだけの『信頼』を彼女は持っているのだから。

 だからたぶん手紙の内容は、香さんが持っていた一つだけだと考えている。他に配られている手紙がないと言うこと。

 つまり、あまねる自身を憎んでの暴走ではないのだろう。

 第一、あまねるにまで被害が及んでいるとは考えていない。だからこそ俺は、彼女達の標的が小豆一人なんだって思っているのだった。


 さっき、彼女は普段通りの態度で俺と接していた。小豆と同じく平静を装っていたのかも知れないが、それでも彼女からは小豆に感じたような違和感を覚えていない。

 まぁ、小豆のことですら見抜けていなかったんだから、俺に彼女を見抜くことは無理なのかも知れないがな。

 だけど少なくとも、あまねるには被害はおろか、小豆のこと……いや、彼女達の行動すらも知らされていないのだと思う。


 もし仮に、小豆や彼女達のことを知っているのならば彼女が平然としていられる訳がない。それは親友であり、彼女達と繋がりがあるからではない。

 今回、彼女達が小豆に対して仕向けていると考えている行為。それは中学時代、あまねるが転校した小豆に対して仕向けていた行為なのだ。

 とは言え、当時は二人の間に何が起きていたのかなんて何も知らなかった俺。まぁ、あの頃は小豆と週に数回しか会っていなかったんだし、知ろうとも思っていなかったのかも知れない。

『例の件』で俺があまねるに会いに行ったのだって、小豆が学校でいじめられて周囲と孤立していた。

 その時にあまねるが関係しているって知った。彼女との関係を修復できれば元通りになるかも知れない。そう考えたから会いに行っただけなのである。

 

◇10◇


 俺が、二人の間に起きた衝突。

 その詳細を知ったのは、俺があまねるに会いに行って無事に二人の仲が修復されて。

 その後、俺が家族とのわだかまりがとけて家に戻った『あの日』から数年後――。

 その頃には衝突していた事実ですら風化して、すっかり親友の間柄が板についてきていた中三――つまり、受験生の二人。

 小豆のお兄ちゃんとして、俺も彼女に親しくしてもらっていた、そんな年の瀬のある日。

 突然「二人っきりで話したいことがあるのですが?」と、彼女から呼び出しを受けたのだ。

 はい、免疫のない俺はドギマギと勘違いをフルドライブしながら、某自転車競技部のオタクな彼ばりに、ハイケイデンスを回して彼女の元へと駆けつけたのである。とは言え、回していたのはペダルじゃなくて自分の足ですけどね。弱虫なのは間違いないですが。

 ――そして実際の向かっていた道は平坦でしたから、本来ならば『スプリンター』なのですが、あの時の俺には山道のように思えていたので『クライマー』だったのです。意味ないですけどね。


「ご、ごめん……時雨院さん、お待たせしちゃって……」

「い、いえ、私の方こそお呼び立てして申し訳ありません。霧ヶ峰先輩……」


 大通りから横道に入り、細い路地の先に位置する、少しだけ視界の開けた場所。呼び出された待ち合わせ場所で佇む彼女を見つけた俺は、その場で汗を拭い、息を整えてから歩いて彼女に近づき声をかける。

 そんな俺に気づいて、彼女も申し訳なさそうに言葉を返していた。

 小豆と親友になり、俺も多少は親しくしてもらっていたとは言え、当時はまだ距離感が微妙な感じだったから『時雨院さん』『霧ヶ峰先輩』と呼び合っていたのだった。


「えっと……話ってなにかな?」


 二人っきりで向き合っていることで変に意識してしまい、少し上ずった声で本題を切り出す俺。

 すると彼女は顔を真っ赤にしながら決意の瞳で――


「私……恵美名高校を受験しようと思っております」


 と、俺に告白をするのだった。決意表明と言う名のな!

 まぁ、最初から俺が愛の告白をされるようなフラグを立てた覚えはないけどね。なんで勘違いしたんだろうなぁ……。


「え? ……あ、ああ……そ、そうなんだ?」

「はい……ッ! ……」


 自分の勘違いが恥ずかしくて、照れ隠しの意味で苦笑いの表情を浮かべて声をかける俺に言葉を返す彼女。

 その直後に一瞬だけ顔を歪めた彼女だったけど、すぐに何かを決意したような真面目な顔で俺に言葉を繋げていたのだった。


「あ、あのっ? ……私は恵美名高校を受験してもよろしいのでしょうか?」

「……はい? それって、どう言うこと?」


 彼女の言葉が理解できずに心意を確かめようとしていた俺。

 自分で「受験します」と宣言していたのに「受験してもよろしいのでしょうか?」なんて、俺にお伺いを立てていたことについて疑問を覚えたんだけど。


「……えっと、私は今、中学三年生なので高校を受験できるのですよ? そして、宇華徒学院は普通に外部への進学も可能なのです。そこで、恵美名高校に入学願書を提出して受験票を受け取り、入学試験を受けて――」

「ああ、ごめん……そう言うことじゃないんだ」

「そ、そうなのですか? ……申し訳ありません」


 俺の言葉を受けて、こんなことを説明していた彼女。うん、彼女はお嬢様だし、根が真面目な子だからね?

 俺の言った「どう言うこと?」を、受験そのものを知らないのだと受け取ったらしく、わざわざ丁寧に説明してくれたのだろう。だけど、ごめんね。

 お兄ちゃん、こう見えても一応現役高校生なんだ……本当に『一応』なんだろうけどね。

 更に言ってしまえば、あまねるの受験をしようと思っている恵美名高校の生徒――通称『えみんちゅ』なんだよ。

 ……ああ、この呼び方はあくまでも恵美名高校の生徒達の間で呼ばれているだけの通称だ。

 数年前に巻き起こった『沖縄ブーム』の時から呼ばれ始めている通称なんだとか。詳しくは知らんけどな。つまり、受験システムそのものは俺でも知っているのだ。

 小豆のおかげで多少は彼女と接する機会がある俺は、ほんの一部分かも知れないけど彼女のことを理解していたと思う。まぁ、本当に一部分だろうけどね。

 だから正直に言えば、彼女が「中学三年生なので」って言った時点で、なんとなくは悟っていた。

 だがしかし、当たり前のようにスラスラと言葉を繋げていた彼女が面白か――い、いや、自然すぎて呆気に取られていた俺は、つい言葉を遮るのを忘れていたのだった。ほ、ほんとうだよ。


 そんな俺の言葉を受けて自分の勘違いに気づいたのだろう。顔を赤らめて俯きがちに謝罪していた彼女。

 性格からくる『素の受け答え』なのだと理解していても、彼女の言葉が新鮮で可愛く感じて微笑みを送っていた俺なのである。


「えっと……その話って、小豆には?」

「い、いえ、これから話そうと思っております……」

「そうなんだ?」

「はい……」


 彼女の言葉に違和感を覚えていた俺は、彼女に「小豆が知っているのか?」と訊ねる。すると表情を曇らせながら彼女が重苦しく言葉を紡ぐ。

 そんな彼女の雰囲気に飲まれて、俺も少しだけ表情を曇らせて言葉を返していた。

 うん……「受験しようと思っている」と教えてくれるのは理解できる。だけど「受験してもよろしいでしょうか?」と訊ねられても俺には答えようがないのだ。俺に彼女の進学先を決定する権利はないのだから。

 ただ、それ以前の問題で、彼女がこの言葉を使ったことに違和感を覚えていたのだ。


 そう、この話を小豆は知らないんじゃないかってな。だって小豆に話しているなら「受験してもよろしいでしょうか?」なんて言葉は出てこないはずだと思う。

 確かに彼女のことを考えれば、恵美名高校よりも宇華徒学院に進学する方が彼女の人生には優位になるだろう。

 だけど俺でも理解できることを彼女が理解できないはずはない。俺よりもはるかに聡明な彼女。まして自分自身の将来のことだ。誰よりも理解しているのだろう。

 その上で、彼女は恵美名高校を選んだ。それは小豆と同じ高校に入学する為なのだと思う。

 当然小豆だって……いや、親友なのだから俺以上に彼女のことを理解しているはずだ。

 だから妹に話したところで全面的に応援してもらえるのだと思う。すごく喜ぶだろうし、やる気になるだろう。それは彼女だって理解していると思う。

 それなのに妹に話す前に俺に話した。そして「受験してもよろしいでしょうか?」なんて聞き方をしてきたのだ。


 本来ならば、俺には小豆に話したあとにでも「一緒に受験します」と報告するだけの話。

 なんで俺が先になっているんだ? なんで俺に伺っているんだ?

 彼女の言葉に覚えた違和感と、言葉を紡ぐ曇った表情。この呼び出しの意味を問うべく、俺は彼女に素直な疑問を投げかけるのだった。


「なんで俺に、小豆よりも先に教えてくれたんだ? それに……『受験してもよろしいでしょうか?』なんて、俺が決められることじゃないと思うんだけどさ?」

「あ、あの、そ、それは……すぅ、はぁ……」


 俺の質問に少し困惑しながら口ごもる彼女。だけど胸の辺りに右手を当てながら軽く深呼吸をすると、俺を見据えて言葉を繋ごうと口を開く。だけど。


「も、申し訳ありませんっ!」

「――え?」


 突然、勢いよく頭を下げながら彼女は謝罪の言葉を述べていた。そのことに驚きの声をあげていた俺。

 困惑の表情を浮かべる俺に、ゆっくりと頭を上げて視線を合わせた彼女は心意を伝えてくれるのだった。


「小豆さんは『あの時』、私のことを許してくれました。今でも親友だと想って接していただけています。そして先輩にも親しくしていただいております。そのことについて、私は大変嬉しく思っております。お二人と同じ時間を過ごせて幸せだと感じております。もちろん私もお二人のことを大切に想っております……」

「あ、ありがとう……」

「い、いえ……ふぅ」

 

 彼女の言葉に瞬間的に顔の火照りを感じながら、照れ隠しに苦笑いを浮かべて礼を伝える俺。そんな俺の表情で悟ったのか、同じように顔を赤らめて答える彼女。

 ああ、うん……彼女の告白が勘違いで正解だったな。『これだけ』のことで舞い上がれちまうんだからさ。

 赤らんだ顔を落ち着かせるように、瞳を閉じて軽く息を吐き出す彼女。そのおかげだろうか、彼女は落ち着きを取り戻していた。そして目を開くと、真剣な面持ちで再び言葉を紡ぐ。


「なので、私は小豆さんと、先輩……お二人と同じ高校に通いたいと願っているのです」

「そっか……」

「はい♪」


 彼女はこう言ってはいるが、単純に親友である『小豆と同じ高校に通いたい』と言うのが本心なのだろうと察していた俺。目の前にいるから付け足しただけで、俺については彼女なりの『社交辞令』なんだと思っている。俺が通っているのは知っているんだからな。

 とは言え、それが寂しいとか悲しいなんて感じてはいない。社交辞令でも言ってもらえるのは嬉しいのだ。

 初対面の時には、まさか数年後にこんなことを言ってもらえるなんて思っていなかった。

 何より、小豆と一緒の高校に通いたいと願ってくれることが俺にとっては一番嬉しいこと。それは確実に彼女の心に妹が存在しているって感じられるのだから――。

 俺は優しく微笑みを浮かべて相槌を打っていた。そんな俺に満面の笑みで肯定する彼女。その表情に胸が高鳴る俺。

 ところがその直後、彼女はまた表情を曇らせて言葉を繋ぐのだった。


「……私はお二人と同じ高校に通いたいと願っております。だからこそ、お二人に確認しておきたかったのです」

「え?」

「……いえ。先輩にすべてを打ち明けて、『それでも私が小豆さんと同じ高校に通いたい』と言う願いを抱いても先輩は許してくれるのか……それを知っておきたかったのです」 

「……」

「今から……私が、小豆さんに、て、敵意を抱、き……そして、ひ、非道な、ふ、振る舞いを、彼女に向けていた日々。か、彼女が、学院を去ってもなお、て、転校してからも繰り返していた、ざ、残酷な仕打ちの……か、数々。いじめられて、孤立するように、仕向けた……私の犯していた罪……そ、それを、先輩に、す、すべて、お話いたします……」


 痛みを堪えるように言葉を紡ぐと、彼女は二人の間に起きた衝突の一部始終を克明に説明するのだった。

 説明している間中、彼女は表情を歪ませ、辛そうに語っていた。泣くのを我慢しているようにも見えていた。

 きっと彼女の全身には『見えないナイフ』が無数にも突き刺さり、全身を容赦ようしゃなくえぐっていることだろう。そんな今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべる彼女。

 それでも、決して逃げることなく、俺から視線を逸らさずに紡いでいる彼女の言葉を、ただただ言葉を失い受け止めていた俺。同時に俺は彼女の強さを感じ、そして彼女には一生勝てないのだろうと……素直に負けを認めているのだった。


 ――まぁ、別に彼女と対立をしている訳ではないんだけどさ。どちらかと言えば、憧れとか羨望とか慕情ぼじょうとか。

 きっと、瞬間的に俺の心は『一人の女性』として彼女に惹かれていたのだと思う。

 それまでの『妹の親友』に抱く感情から、淡いけど確かな恋へと変化していたのだろう。とは言え、あの頃の情けなくて軟弱な俺が、自分の気持ちになんて正面から向き合って気づくことなど当然なく……漠然と揺れ動く心境に戸惑いを覚えるばかりだった。

 そう、『惹かれている』なんて想いは、彼女を愛しているって認めた今だから理解していること。

 だけど、そう考えれば彼女を好きになった理由なんて簡単だろう。


 俺は自分の秘密――俺と小豆の関係について、誰かに話そうなんて考えてはいなかった。結局のところ、香さん達に打ち明けてしまったけどな。でも、あれは知られてしまっただけ。だから仕方なく真相を伝えただけで、自分から打ち明けた訳じゃない。

 いくら自分が一歩を踏み出す為だとは言え、わざわざ古傷を抉ってまで自分から誰かに打ち明けることはしなかったはずだ。

 それが例え、自分の為――強いては小豆の為だとしても……。

 きっと現実が恐くて足がすくんでしまっていたのかも知れない。自分が可愛くて保身の為にずっと隠していたのだろう。


 彼女の語る内容は、今の彼女からは想像もつかないほどに冷酷で非道なものだった。なんて、あくまでも『彼女が仕向けていたと言う意味』でなんだけどな。

 俺の中学時代なんて、相手に残虐と暴虐と破壊を与え続けていたのだから、俺がこんな印象を抱くのが失礼なんだけどさ。だけど当時の小豆のことを考えると、そして今の彼女のことを考えると――。

 過去の話なのに、自分のことじゃないのに。俺は自分の身が切り裂かれるような感覚に陥っていた。


 辛い。苦しい。すべてを忘れて逃げ出したい……。


 そんな感情がナイフのように突き刺さる痛みを纏って渦巻いている。

 中一の時――俺に突きつけられた現実。

 それが俺達『兄妹の出生の秘密』だった訳だが。

 秘密を知ったショックによって、俺が自暴自棄になって抱いていた感情と同じように思えていたのだろう。

 それは、当時の小豆も、あの頃の俺と同じ感情を抱いていたってことなのだろうか。そして、あまねるも……。

 彼女の話を聞きながら、俺はそんな風に感じていたのかも知れない。

 もちろん、その頃の彼女に罪の意識そんな感情はないだろう。俺と最初に会った時も正直冷酷な印象だった。

 だけど仲直りをして、こうして親友として接している今。彼女の心境は確実に変化しているのだと思う。言い方は失礼かも知れないけど、きっと改心したんだと感じている。

 つまり、彼女の心には自責の念が常に寄り添っているのだと思う。

 自分の仕向けていた敵意が、行為が……小豆の笑顔を見るたびに心を抉る。小豆の優しさにふれるたびに苦しく圧し掛かる。小豆と一緒にいるだけで良心の呵責に苛まれるのだろう。

 だけど逃げ出したくない……それでも小豆と一緒にいたいと願う自分がいるから。


 うん……彼女の気持ちは手に取るように理解できる。だって俺がそうだから。俺が家族に感じている想いなんだから。辛くても苦しくても逃げ出したくても、必死で縋っていたいんだと思う。傷ついても苦しくても、それが自分の救いなんだって信じているのだろう。


 でも、もう小豆とは親友になっている。小豆が許している以上、俺とは違って過去になんて固執する必要はない。そして自分を傷つけてまで俺に打ち明ける必要はないんだ。俺が知る権利なんて存在しないじゃないか。知らなくたって問題ないじゃないか。俺にそれを責める筋合いなんてない。だって、俺は小豆が苦しい時、傍にいてやれなかったんだから。

 もう終わったこと。解決したことなんだ。だから忘れてしまっても誰も怒らないはずじゃないか。

 もう楽になっても誰も何も言わないじゃないか。小豆もそれを望んでいるんじゃないか。

 もう自分を傷つける必要はないじゃないか。罪に押し潰される必要なんてないじゃないか。頼むから、傷つかないでくれ。お願いだから泣かないでくれ……。


「……こ、こうして……わた――ぅっ! ~~~ッ!」

「――あっ!」

「……」

「――ッ! ……だ、大丈夫か? もう、いい……何があったのかは理解し――」

「……ッ! ……私は、小豆さんを、お、追い込んでいま……」


 そんな風に悲しさを含んだ表情で彼女を見ていた俺。見つめる先の彼女も限界が近づいていたのだろう。

 突然、彼女は言葉を詰まらせ、苦しんだ表情でうめき声をあげると、前のめりに倒れこもうとしていた。

 思わず俺は彼女の両肩に手を当てて、彼女のことを支えていた。そのことに気づいた彼女は、ゆっくりと俺に視線を合わせる。

 目の前の彼女の顔を見て俺は一瞬息を飲み込んでいた。

 普段の彼女からは想像もつかないほどに青白く強張らせた顔。既に焦点が定まっていないように見える虚ろな瞳をうっすらと濡らし、唇を紫に染め上げ震わしていた。

 ――俺は自分の考えで精一杯になり、目の前の彼女のことすら見ていなかったってことか。

 そんな自責の念を心に刻み、俺は彼女を支えながら見つめていたのだった。


 目の前の彼女はこんな状態になってもなお、言葉を紡ごうと唇を震わしている。

 まだ続ける。そんな強い意志を感じていた。

 だけど、もう無理だ。これ以上は危険だ。彼女自身が壊れてしまう。

 俺はそう判断して彼女には申し訳ないが、話を中断させようと言葉をタオルのように彼女の元へ投げ入れたのだった。

 だけど彼女は俺の投げ入れたタオルが宙を舞っているのに気づいたのか。

 言葉を拒絶するように、唇を強く噛んで、彼女を支える俺の両腕を両手で握ると自分自身で体を離して元の場所に立つ。そして説明を再開するのだった。


「……使って?」

「……え? あ……ありがとうございます……あ、洗ってお返しいたします……」

「あ、あぁ……」


 強く噛んだ衝撃なんだろう。説明を始めた彼女の唇から一滴の赤が肌を染めていた。

 俺はポケットからハンカチを取り出すと彼女に差し出す。

 一瞬、理解できないように驚きの声をあげた彼女だったけど、すぐに理解してくれたように頬を染めて礼を述べてから受け取ってくれていた。

 唇を噛んだ衝撃で自分を取り戻していたのだろう。普段の彼女に戻っていたのだった。


 口元を拭った彼女は両手でハンカチを胸元あたりに持ってきて優しく包み込むと、はにかみながら「洗って返す」と言っていた。

 そんな彼女に俺は「ドキッ」と高鳴る鼓動を感じながらも了解していた。

 本来なら「いいよ、そんなの」と、遠慮するところなんだろうけどさ。

 まぁ、我が家の完全自動洗濯機からの冷たい洗礼を受けるのは必至でしょうけど。そこは土下座でもすれば……体を起こされて膝の上に小豆が座って『人間座椅子』になれば機嫌を直してくれるでしょうが。

 さすがに彼女の唇。それも『彼女自身』が付着したハンカチを持ち帰りたいなんて言えば。

 俺は確実に彼女から『変態先輩』の称号を欲しいままにできるだろう……いや、欲しくないから、そんな称号。……で、でも、ハ、ハンカチは、ほ、欲しいかなぁ……。

 そう、俺は変態だけど周りからは変態に見られたくないのである。だめじゃん、俺……。


「すぅ、はぁ……。私は、小豆さん、を、追い込んで、いました……」

「……」


 彼女は軽く深呼吸をしてから、それまでの暖かくなっていた雰囲気が嘘だったかのように、再び悲愴の面持ちで言葉を紡いでいた。

 結局、彼女は歩き出す。辛くても苦しくても、逃げ出したいと思っていても歩み続けるのだろう。

 ならば俺も覚悟を決めよう。彼女の想いを受け止めよう。彼女と一緒に傷つこう。それが俺にできる唯一の役割なんだと思うから。

 俺は何も言わずジッと彼女のことを見据えて、彼女の言葉を聞き入っていたのだった。


 ――それでも彼女は俺に打ち明ける道を選んだ。自分の犠牲なんて、突き刺さる痛みなんて気にせずに。

 ただ小豆の為、自分の為。それが正しいことだと信じるように突き進む彼女の姿。

 俺は自分で一歩を踏み出す為とは言え、自分を犠牲になんてできやしない。小豆の為にだって傷つくことは恐い。それが正しいことだって理解していても、な。

 だから……俺にできないことを目の前で、それも辛さを我慢しながら俺よりも年下の、か弱い女の子が実行しているんだ。

 負けたって思うじゃないか。勝てないって思うじゃないか。

 そして、そんな姿を見たら憧れるし、少しでも彼女に近づきたいって思うじゃないか。恋心を抱くじゃないか。好きにならない訳がないじゃんかよ!

 それって普通のことだよな。俺は普通だと思っている。

 ……まぁ、さっきまで封印していたので普通じゃなかったんですけどね。


 そんな風に、駆けつけた時よりも高鳴る鼓動と火照っていた体に戸惑いながらも、目の前で眩い光を放っているように見える彼女の説明を聞き続けている俺なのであった。

  


「……こ、これが小豆さんと、私の間に起こった、しょ、衝突の全貌ぜんぼうです……」

「……そう、だったんだ……」


 彼女は苦しそうではあったけど、小豆との仲直りまで言い終えると俯きがちに言葉を締めていた。 

 自分自身も満身創痍まんしんそういな感覚に陥り、立っているのが精一杯だったけど。

 聞いている俺よりも、話している彼女の方がダメージは大きいはずだ。

 肩を震わせ涙を堪えている彼女を優しく抱きしめてあげたい衝動……たぶん彼女の為じゃなくて、自分の欲望の方が大きかったのかもな。

 思わず彼女に失礼だって理解していても彼女に近づいていった俺。

 だけど、その直後。目の前の彼女は固く瞳を閉じて顔を強張らせながら俺に言葉を突きつける。


「わ、私を思いっきり引っぱたいてください!」

「――え?」


 その言葉に思わず抱きしめようと広げていた両手と、近づいていた足が止まる。

 ゆっくりと目を開ける彼女は固まっている俺を見据えて言葉を繋ぐ。


「そ、その為に私は先輩をお呼び立てしたのです。きっと小豆さんなら、私の願いを何も言わずに聞き入れてくれるでしょう。『あの時』既に私を許してくれているのですから……ですが先輩は何も知らない。私が小豆さんに何をしてきたのか……何も知らずに私に優しくしてくれているのです!」

「……」

「それでも今までは先輩に甘えてきました。それでも小豆さん自身が許しているのだからと、打ち明けられずにおりました。ですが同じ高校を受験する今、それではいけないのだと感じたのです!」

「……」

「もし仮に二人が高校に合格して恵美名高校に通えるのでしたら……私は今まで以上に小豆さんと一緒に過ごせる時間が増えるのだと思います。そして先輩とも一緒に過ごせる時間が増えるのだと思います。もちろん、ご迷惑やお邪魔になるつもりはございません……」

「い、いや、俺も小豆も……時雨院さんのことを、いつだって迷惑とか邪魔なんて思っていないから……」

「うふふ♪ ありがとうございます……ふぅ……」


 俺の言葉に微笑みを浮かべて礼を述べた彼女は一呼吸を挟み、説明を続ける。

 

「同じ高校に通えば確実に今よりも、お二人と一緒の時間を過ごすことになります。ですが、それは同時に……先輩に真実を偽って過ごす時間が増えると言うこと。何も知らされていない先輩が、何も知らせていない私に優しく接してくれるのです……」

「……」

「そして私はきっと、そんな先輩に甘えてしまうのだと思うのです。私はそれが許せない――いえ、許してしまう自分が許せないのです!」

「……時雨院さん……」


 彼女はここで周囲を軽く見回してから視線を戻し、言葉を繋げる。


「……先輩は『この場所』を覚えていらっしゃいますか?」

「ああ……もちろんさ?」


 彼女の言葉に確かな頷きを添えて答える俺。その言動にホッと表情を緩めた彼女。

 忘れるはずはない。いや、忘れようがないじゃないか。

 だって『この場所』は……俺が彼女を『あの日』呼び出した場所なんだから。うん、今回立場は逆になったし俺達だけしかいないけどさ。

 と言うより彼女はあの時、よくこんな場所に来てくれたよなぁ。まぁ、いいけど。

 正直誰も拠りつかないような場所だしさ、それこそ『誰にも知られたくない行為』をする以外には誰も利用しないだろう。

 だから俺も訪れたのはあの日以来だった。


「あの日……小豆さんの為だったとしても私までボロボロになって助けてくれた先輩。ですが実際には私は先輩に守ってもらう資格なんてなかった! 私がボロボロになるべきだった……先輩が私をボロボロにするべきだった!」

「お、おい……」

「……」


 突然声を大きくして叫び出した彼女。誰もいないことは知っていたけど、俺は冷や汗まじりの顔で周囲を見回しながら声をかけていた。

 すると急に俯いて沈黙する彼女。少し不安になって近づく俺。

 だけどその瞬間、彼女は顔を上げる。大粒の涙を溢れさせた瞳で俺を見つめる。そして。


「だか、らっ、この場所、でっ……きちん、とっ、先輩、のぉ……あの時受け、たっ、痛み、をっ、受け入れ、てぇ……先輩、にっ、許し、てっ、ほしいんで、すぅぅぅぅぅ……」


 零れる涙など気にせずに、嗚咽まじりの言葉で俺に訴えかけ、最後には瞳を閉じて泣き出していたのだった。

 そっか、そう言うことだったんだな。

 泣き出してしまった彼女を眺めて、俺は彼女が俺を呼び出した本当の理由を知ることになる。


 彼女は恵美名高校を受験することを報告する為に呼び出したんじゃない。

 真相を打ち明けるのが目的でもなかったのだろう。

 彼女はただ、自分の罪と正面から向き合い、あの日受けた俺の痛みを受け取り。

 そして俺に許しを得る為に、自分なりのケジメをつける為に俺を呼び出したのだろう。

 だから、あの日。俺が痛みを受けた『この場所』を選んだのだろう……痛みを受け取る為に。


 すべては小豆と一緒の高校生活を送りたい。小豆と向き合いたい、そして俺とも向き合っていきたい。何よりも。

 自分自身と正面から向き合って、高校に入学してからも胸を張って俺達と接していきたいから。

 受験が始まる前に彼女なりにケジメをつけたかったんだと思う。

 もしかしたら、俺が「許さない」と言えば受験すらもやめてしまうだろう。

 俺が絶対にそんなことを言わないなんて、軽く考えているのでもないと思う。

 目の前の何かに怯えて縮こまっている彼女の姿が、そう物語っているのだから。


「……ふぅー」

「――ッ! ……」


 それだけ真剣に俺達……俺はともかく小豆のことを想ってくれていることは素直に嬉しい。

 だったら、俺は彼女の覚悟に全力全開で応えてやるのが筋ってもんだろう。

 その為なら、俺は『悪魔』の称号だって甘んじて受けるつもりさ……いや、あいつは勘弁だけどな。


 俺は自分の覚悟を表現するように、深く息を吐き出していた。そんな俺の吐き出す息に気づいて「ビクッ」と体を震わしながら目を見開いていた彼女。そして、まるで小動物のような、恐る恐ると言った雰囲気で俺を見つめていた。りょ、良心の呵責が……。

 未だにビクビクしながら見つめる彼女に向かい、優しく微笑みながら言葉を紡ぐ俺。


「わかったよ、時雨院さん……きみに、俺の受けた痛みを受け取ってもらう」

「先輩……」

「そして、きみのすべてを許す……それで、いいかな?」

「は、はい。ありがとうございます。よろしくお願いします……」


 俺の言葉を受けて少しだけ晴れやかな表情で礼を伝えて、頭を下げながらお願いしていた彼女。

 結局、さ。俺は彼女の罪に罰を与えてやらなければいけないんだと思った。それが俺の役割なんだと考えた。

 たぶん俺が曖昧に彼女を言いくるめてもさ。そんな話術は持ち合わせていないけど。

 きっと彼女の気持ちは晴れないんだと思う。ずっと遺恨を残したままなんだと思うのだ。

 そんな気持ちのまま、彼女をずっと罪悪感で縛ってしまうくらいなら。

 俺がその鎖を断ち切ってやらなければいけないんだと思う。

 ……これもまた、鎖に縛られている俺ができる贖罪なのかも知れない。


「そ、それじゃあ……歯を食いしばって目を閉じてくれるかな?」

「は、はい……お願いします……」


 俺の言葉に神妙な顔つきで返事をした彼女は、目を閉じて歯を食いしばっていた。

 そんな彼女を眺めてから、視線を落として数回ほど自分の右手を開いては閉じていた俺。

 自分の気持ちに踏ん切りをつける。話を聞いた自分自身の気持ちを整理する。ケジメをつける。そう言う意味があったのかも知れない。


「ふぅ。……それじゃあ、いくぞ?」

「――は、はいっ! ……」


 気持ちの整理をつけて目を固く閉じている彼女に声をかけた俺。目を閉じたまま緊張した声で答えて顔を更に強張らせていた彼女。

 俺はゆっくりと天高く右手を振り上げる。その気配を察したのだろうか、彼女の体が一瞬ビクッと震えた。

 そんな彼女を眺めて、一瞬だけ顔を歪ませて「ごめんな?」と、心の中で彼女に謝罪をする俺。

 そして自分の気の迷いを振り払うように、振り上げた右手を勢いよく振り下ろす。

 

 刹那――路地裏中に響いたのではないかと言うくらいの、甲高い打撃音が俺の鼓膜に響くのだった。



 第四章・完

 

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