第8話 甘え と 姉

 彼女は一人っ子であり、時雨院家の跡取り娘だ。

 きっと、俺ごとき庶民には想像ができないほどの厳格な家庭で育ったのだろう。

 お嬢様として、次期当主として――。

 それは周囲からの重圧だけではなく、自分自身でさえも厳しく律していたのだと思う。

 つまり「甘える」ことに飢えていたのかも知れない。

 

 とは言え、彼女のそばにだって『染谷さん』と言う、俺よりも年上で、頼りがいがあって、俺から見ても格好いい男性がいる。だけど彼は彼女の『執事』だから、彼女としては甘えることができないのだろう。

 そんな時に出会った俺を――正確には小豆の兄として出会った俺を、『甘えさせてもらえる、都合がよくて便利なお兄ちゃん』だと思ってくれたようだ。

 ……彼女の名誉の為に付け加えるならば、「思われた」ではなくて「思ってくれた」である。むしろ俺としては喜ばしい、名誉なことだと感じている。


「ふみゅ~、ふにゅ、ふにゃ、にゅにゅ~♪」


 俺の手の平の動きに合わせて、ほくほくした表情で普段なら絶対に聞けないであろう、甘えた小動物のような鳴き声をあげる彼女。そんな愛らしい鳴き声と表情が、俺には「もっともっと♪」と語りかけているように思えていた。

 だから彼女に応えるように、俺の想いを込めた手の平で、優しく丁寧に彼女の頭を撫で続けてあげるのだった。


 普段の彼女からは想像できない姿に、俺だけでなく周囲も釘付けになっていたのだろう。もちろん周囲から注がれる視線に、『れ物にさわる』ような視線だったり、好奇な視線は存在しない。

 あるのは純粋に、目の前に降臨した貴重な小動物をでるような視線が、彼女に注がれていたのだった。



 ああ、うん……実は、これは兄妹の日常的なスキンシップの一つなのだ。

 ある日、あまねるの目の前で小豆の頭を撫でてやっていた時に、彼女が羨ましそうに俺達のことを眺めているように見えた。

 そんな彼女の顔を眺めていて、「してほしいのかな?」なんて無謀な考えを起こしてしまった俺。

 だから怒られるのを覚悟して「撫でても、いいかな?」って聞いてみたんだ。

 そうしたら……恥ずかしそうに頭を突き出してきて「お願いします……」って小さな声で呟いていた。自分で言ったことなのに顔の火照りを感じながら、ぎこちなく手の平を彼女の頭に乗せたのを今でも覚えている。そんな……彼女への初なでなでイベント。

 まぁ、直後に小豆が頬を膨らまして、もう片方の手を掴んで自分の頭に乗せたので――って、さっきまでお前を撫でていたんじゃねぇか! 

 なんで「雨音ちゃんを撫でてあげるんだったら、私だって撫でてよ~」とか言いたそうな顔をしてんだよ……。

 そんな訳で何故か俺は、両手で二人の頭を『なでなで』することに――。


 その時に「きっと甘えることに飢えていたんだろうな」って、頭を撫でられながら嬉しそうにしている彼女を眺めて、そんなことを感じていた。

 それ以降、たまにではあるが彼女にも小豆と同じように『お兄ちゃん』として接してきた俺。

 撫でてあげると、必ず甘えるように嬉しそうな微笑みを浮かべるので、今回も実行してみたのだった。


「……」

「にゃふぅ……うみゅ、にゅふふ……」


 俺の腕の中で嬉しそうに微笑む彼女を見下ろしながら、少しだけ寂しさと言うか悲しみが俺を襲う。

 そうなんだ。結局俺は彼女にとって『お兄ちゃん』でしかないのだと思う。それは俺が気持ちを認めても。

 もしも、この先彼女を選んだとしても。

 俺はあまねるの『お兄ちゃん』にしかなれない。それ以上の存在にはなれないんじゃないかって思っている。

 だけど。

 それを決めるのは当分先なんだと思う。それに、そんなことで諦められるようなら本当の愛なんて言えない。第一、それが障害になって勝手に除外することなんて、俺の心の中の話とは言え、彼女に失礼なのだと思う。

 と言うよりも、本気で彼女を選んだのなら……そんな障害くらい乗り越えようとするだろうしな。待っている結末が玉砕だとしても、さ。

 まぁ、そんなのは当たり前なんだろう。


 相手に何かがあったくらいで諦めるようなら、最初から好きになんてならない。

 その覚悟がないなら最初から好きになんてならない。

 その程度のことで揺らぐような愛情は抱かない。

 自分が抱く『相手への愛』を自分で卑下ひげするような、情けなくて誇れないことは絶対にしない。


 ……これが俺の、アニメや女性声優さんへ抱いている想いである。

 まぁ、簡単に言えば基準は自分。俺が好きだと感じている『相手への愛』だけが唯一無二の好きになる絶対条件である。

 当然その基準は三人にも適用されている。

 まぁ、そもそも相手に何かがあったくらいで想いを諦めているようなら……俺は最初から誰も愛せていないだろう。三人がそれぞれに、俺の中で色々ありすぎて……恋愛感情に踏み込めるはずがないからさ。


 とにかく、結局まだ決められないでいるのだから偉そうには言えないけどさ。

 自分の好きだって気持ちに、自分の信念に、正直に、まっすぐに、諦めずに突き進むだけだと考えている。

 不器用で格好悪くても、俺にはそれしかできないのだろうから――。


「……ふぅ。……あまねる?」

「ふみゃ……ひゃい?」


 頭を撫でてあげながら彼女の表情を眺めていた俺。

 すっかり表情も和らいで、泣きそうだった雰囲気も感じられなくなったことに安堵した俺は、軽く息をついてから彼女に声をかけていた。

 まるで夢心地だと言わんばかりに恍惚こうこつな表情を浮かべて鳴いていた彼女も、俺の声に気づくと俺に視線を合わせて一鳴きする。まぁ、その瞬間に彼女の表情を見て「トクン」なんて、俺の心臓も負けじと一鳴きしてましたけどね。

 

 別に下心がなかったなんて言わないさ。むしろ、下心だけで成立しているような行為だって自覚はしている。だから、「ずっとこのままで……」なんて願いがない訳じゃない。どのみち予鈴が鳴れば終了なんだしな。 

 だけど今は、彼女が泣きそうだったから落ち着かせるのに撫でてあげただけ。ただ話ができる雰囲気にしたかったまでだ。 

 言葉で俺の心意を伝える必要があるのと、彼女に聞きたいことがあるのだ。

 だから名残惜しい気はするけれど、楽しい時間の幕引きを選んだのである。


「えっと……」

「……ふぅ。……なんでしょう?」


 撫でていた手の平を離しながら声を発する俺。そんな俺の手の平を名残惜しそうに見上げた彼女は、それでも俺の心意を理解してくれたのだろう。

 軽く息を吐きながら体を離して俺に向き合いながら、優しい微笑みを浮かべて普段通りの口調で俺に声をかけていた。毎度のことながら切り替えの早さに驚く俺なのであった。


「まずは、ごめん……」

「え? あの……何を謝っているのですか?」


 まずは彼女を泣かせてしまったこと。そう感じさせてしまったことを詫びる俺。

 当然俺の心意を理解できない彼女は不思議そうに俺に問いかける。

 そんな彼女に苦笑いを浮かべて言葉を繋ぐ。


「いやさ? 別に、あまねるの言ったことに驚いた訳じゃ……ま、まぁ、驚いたんだけど――」

「も、申し訳あ――」

「い、いや、そう言うことじゃないんだ……」


 俺の説明が悪かったんだな。俺の言葉を受けて、彼女は再び悲愴な表情を浮かべて謝罪しようとしていた。

 だから慌てて彼女の言葉を遮り、優しく微笑んで否定をした。


「俺が驚いたのは、言った言葉じゃなくて……小豆のこと、なんだ……」

「小豆さん……ですか?」

「ああ……あのさ?」


 俺が驚いたのが小豆のことだと知った彼女は、不思議そうに聞き返す。俺は返事をすると一瞬だけ周囲を見回す。もう予鈴が近いのだろうか。先ほどまで立ち止っていた生徒達も、いつの間にか霧散していた。

 少しホッとしながら彼女を見据えて言葉を紡ぐ。

 

「小豆……数週間前から俺と香さんとは昼飯を食べていないんだ」

「――え?」


 俺の告白に驚いて目を見開く彼女。


「うん、小豆はあまねると昼飯を食べるから俺達とは食べないって……だから俺も何も言わずに了解したんだけど……」

「そ、そんな……小豆さんなら、お昼休みになると毎日お弁当を持って教室を離れるので、私はてっきりお兄様の教室へ向かっているのだと……そうなの、ですか……」

 

 俺の説明を受けて言葉を紡いでいた彼女の表情が、少しずつ悲愴を浮かび上がらせる。


「あっ、いや……あいつにも悪気はないんだと思うんだ? だから怒らないでくれないかな?」

「……なぜ私が小豆さんを怒るのですか?」


 彼女の表情を見て自分の失言だと感じていた俺は、妹を怒らないでほしいと懇願する。

 そんな俺にキョトンとした顔で聞き返す彼女。

  

「ほら? 俺には、あまねると昼飯食べるって言っておいて、あまねると昼飯を食べていないからさ? 嘘をつかれたって感じているのかなって……悲しそうな顔をしていたから」

「いえ、別に私は嘘をつかれているなんて思っていませんよ?」

「あれ? そうなの?」

「はい、私はただ勘違いをしていただけ……実際に嘘をつかれたのはお兄様ですからね。……それについては、『――いる』お兄様……がっ! ――う、嘘をつかれたと考えるだけで胸が張り裂けそうなくらいに悲しくて泣きたくなりましたが私が小豆さんを怒ることはないですにょにょ? ……ぅぅぅ」

「……あ、ありがとう」

「い、いえ、ぅぅぅ……」


 小豆を怒っていないって部分に気を取られてしまっていて、何か重要な『聞き逃してはいけない言葉』が含まれていたような気がするが、どうやら注意が抜け落ちていたのだろう。

 いや、それ以前に一瞬だけ俯いてボソボソと呟いた部分が聞き取れないと感じたんだけど。

 その直後バッと視線を戻したかと思うと、真っ赤な顔をして一気に捲くし立ててきたので、言葉を聞き取ることに精一杯だったのだと思う。

 まぁ、そんな勢いで捲くし立てたからなのかも知れないけれど。

 最後をものの見事に噛んでいた……と言うより、『ちでじこ』になっていた。

 ああ、うん。考えなくても小豆が原因だな。不肖ふしょうの妹がご迷惑おかけします。


 ずっとこの語尾が可愛いのか疑問だったけど、可愛い子が言えば何でも可愛いのだと気づいた俺。

 やっぱり『可愛いは正義』と言うことなのである。

 だけど本人的には恥ずかしいのだろう。俯きながらうめき声をあげていた。

 彼女の説明を聞いて、彼女が小豆を怒ってはいないことを理解した俺は安堵を覚えて、笑いを堪えながら彼女に礼を伝えていた。そんな俺に少しだけ恥ずかしそうに頬を染めて答える彼女。

 そんな彼女の可愛さに微笑みを溢しながら、彼女が落ち着くようにと再び頭を撫でる俺なのであった。


「あ、あの……」

「ん?」


 少しは落ち着いたのだろう。恥ずかしそうではあるが視線を戻して俺に声をかける彼女。

 優しく頭を撫でながら微笑みを浮かべて声をかける俺。


「私はただ、その、あ、小豆さんの身を案じていただけなのです……」

「……そっか? まぁ、あいつにも何か考えがあるんだと思うから、それとなく気にかけて……」

「……」

「いや、『普段通り』接してやってくれな?」

「はい♪」

「……」


 俺を見据えて答える彼女の言葉に、納得の笑みを溢した俺は手の平を離す。

 そして言葉を送ったのだけど、ジッと見つめる彼女に言い直して言葉を送りなおしていた。

 そんな俺に向かって満面の笑みを浮かべながら肯定の意を伝える彼女。

 心の中で「また、やっちまったな?」なんて、同じことを何度も繰り返す自分を嘲笑う俺なのだった。


 彼女は妹の親友だ。それは一方通行でも、二人だけが感じていることでもなくて、周囲さえも認めている両想いの事実。それは二人に片思い中の俺にとっては羨ましい事実なのだろう。

 言い換えれば、香さん……は、まぁ、俺達兄妹にとっては我が家の『長女』みたいな存在だから同じなんだろうけどね。

 他の生徒達以上に『深くて確かで固い』心の繋がりで結ばれているのだと思う。

 それが、これくらいのことで壊れるはずはないんだ。こんなことで揺れる心なんて持ち合わせていないんだ。それが親友……いや、既に二人は『親優』なんだと思う。意味不明だけどな。


 まぁ、二人のような女の子同士の『可愛い尊い山百合会』とでは比較対象にならないかも知れないけれど……俺は透達と親友だと思っている。

 さすがに面と向かっては恥ずかしいから言ったことがないし、向こうも俺のことを『兄貴』だと思ってくれているようなので、彼女達とは少し違うのかも知れないけどさ。

 ただ、彼女達と同じで……俺達も最初から友人ではなかった。対立していた。とは言え、俺達の場合はほんの一瞬だったけどね。

 でも、そう言う障害を乗り越えて今の俺達がいる。平たく言えば『雨降って地固まる』……いや、違う。

『昨日の敵は今日の強敵とも』なのである。たぶん同じ意味だけどな。

 つまり、キッカケだけ見れば、小豆達と俺達は似たような感じだったのだ。


 だから俺があまねるの立場だとして、もしも透達に小豆と同じことをされたとしたら、きっといじける――いや、本気でねるけど泣きわめくけど一週間くらい部屋に閉じこもるけど!

 ……なぁんで、みんな俺をお兄ちゃんとか兄貴として接してくれているんだろう。精神年齢で言えば、俺って普通に智耶の弟みたいだよなぁ?

 うーん。「智耶ねえたん」に「小豆ねえたん」か……悪くないかも? 今度お願いしてみようかな。って、違うだろ!


 一瞬だけ、小学生離れした風貌ふうぼうの弟と、小学生にしか見えない姉が織り成す四コマギャグ漫画原作のショートアニメ。

『縦笛と小学校カバン』と言う作品を思い出して、その世界観に憧れを抱いていた俺。   

 まぁ、アニメは外見の話であって、俺の場合は精神年齢の話なので違うんだけどね。あと呼び方は完全な俺の願望である。 


 はてさて、俺の『姉属性の甘え願望』からくる軟弱さは無視しておいて……仮に小豆達と同じことが俺達に起きたとしても。

 俺はあいつらに怒りなんて感じないし、それくらいで感情が左右されることもない。ただただ、「何があったんだろう?」とか「大丈夫かな?」と言う相手への心配や不安を覚えるくらいだと思う。

 それに、常に親友を気にかけるのだって俺がわざわざ言わなくても、彼女にとっては当たり前のことだろう。クラスメートでもあるんだしな。

 まぁ、俺は愛する人を気にかけるのが忙しいので、それほどあいつらを気にかけませんがね。

 ……俺の通話やメールやツイッターにおける一日のやり取りの約七割はあいつらとのやり取りですが、基本「かまってちゃん」なだけなので気にかけているとは言えないのです。そして向こうは俺一人ですが、俺は三人を同時に相手にしないといけないので大変なのです。だから電話をかけているだけなのです!

 

 つまり親友と言うものを俺だって理解しているはずなのに、たぶん普段なら絶対に理解できることなのに――

 小豆が絡むと何故か香さん達の時と同じように「あまねるが嘘をつかれて怒っているから小豆のフォローを入れなくちゃ!」なんて、冷静な判断のつかない筋違いな考えを持っていたと言う訳なのである。

 ほんの数分前に反省をしたばかりなのに、舌の根の乾かぬうちに同じ過ちを繰り返していた俺。


 なんだ、俺って相当なシスコン……いや、俺の場合末期のアズコンだったんだな。


 ――最終融合、承認!


 心の中で『ファイナルなんちゃら、承認!』的な日本語を叫ぶ俺の本能。

 いやいや承認も何も、俺の脳内でしか言っていないのだが。そもそも何と融合したんだろうね。

 第一、承認欲求はないし、誰かさんと違って口外しないんだぞ? 


「……あ、あの?」

「……」

「……ふみぃ~」


 脳内で葛藤していた俺に、おずおずと声をかけてきた彼女。じっと黙ったまま向き合っているからね。お昼休みも残りわずかだから、次の行動に移るか悩んでいるのだろう。

 まぁ、聞きたいことは聞けた訳だし、挨拶をして踵を返すのも一つの手だろう。だけど何となく、もう少しだけ彼女と一緒にいたかったのだろう。

 俺は無言で手を伸ばして再び彼女の頭を撫でていた。すると彼女の表情が豹変して、さきほどと同じように嬉しそうに鳴き声をあげる。

 そんな彼女を眺めながら、脳内で続きを考えるのだった。


 アズコンか……。とは言っても、俺は別に最初から受け入れ拒否をするつもりはない。むしろ受け入れたら気分的に楽になっていたくらいだ。

 それに、さ。アズコンって俺だけの特権なのかなって。これも特別な感情って言えるのかなって。

 特別な絆を望んでいた俺としては嬉しく思えることなのかも知れない。一方通行の感情だとしてもさ。

 だけど……俺はどちらかと言えば、お姉ちゃんの方のシスコンを所望したい! うん。無理だけどな。香さんは我が家の『長女』みたいな存在だけど本当のお姉ちゃんじゃないからさ。

 何はともあれ、家族の中で俺は除け者ではなかったようだ。別に嬉しくはないけどね。


「……」

「……どうかされましたか?」

「なんでもないよ、あまねえたん――ッ!」

「……はい? ……も、申し訳ありません。もう一度――」

「ななな、なんでもない――ッ! なんでもない、なんでもない……」


 脳内でアズコン――正確にはシスコンについての考察をしていた俺。まぁ、全然大したことは考えていなかったけど。

 小豆のことを考えていたからなのか。無意識に彼女の頭から手を離していたのだろう。

 俺の視界に心配そうな表情の彼女が映りこむと、普段の口調で俺に向かって声をかけてきていた。

 そんな彼女の言葉を受けて無意識に返事をしようとしていた俺だったけど。

 脳内に残っていた甘え願望が口を飛び出してしまうのだった。しかも、ご丁寧に『あまね』と『ねえたん』を縮めて『あまねえたん』とか呼んでいるし……。

 咄嗟に出てくるとか呼ぶ気まんまんだな、俺。いや、彼女の反応が恐いから呼ばないけどさ。


 思わず出てしまった願望に蓋をするように、目を見開いて両手で慌てて口を隠す俺。

 そんな様子を眺めていた彼女はキョトンとした表情を浮かべて、小首を傾けながら疑問の声をあげる。か、可愛い……。

 幸か不幸か。彼女もそれなりにアニメについて見識があるとは言え、『あまねえたん』の意味までは理解していないようだ。まぁ、瞬時に自分のことだって理解できる訳ないけどね。そんな風に呼ばれたことなんてないだろうしさ。

 うん。口走ってしまった俺ですら自分の神経回路が理解できていないので、そのまま理解しないでいてくださいお願いします……。


 なのに彼女は律儀な性格なのだと思う。自分の否を素直に認めて謝罪してきた。

 そしてこともあろうか「もう一度言っていただけますか?」なんて死刑宣告を突きつけようとしてきたのだ。いや、彼女は何も悪くないんだけどね。

 さすがに言える訳がないと判断した俺は焦り気味に「なんでもない」と口にしながら一歩後退する。

 だけど瞬時に彼女が困惑の表情を浮かべて一歩前に詰め寄る。だから俺は更に一歩後退する。彼女が詰め寄る。一退一進の攻防を繰り広げていたのだった。


 彼女はただ俺に聞こうとしているだけだと思う。他意もないし無意識なのだと思う。

 だけど彼女の真面目さが俺との距離を縮めている。

 腕を伸ばして彼女の頭に届いていた距離が……既に抱きしめて腕を背中に回せる距離まで近づいてきていた。と言うよりも更に近づこうとして、少し背伸びをしながら顔を近づける彼女。

 首筋に彼女の熱を帯びた鼻息を感じる距離。俺が少しでも近づけば顔が密着するほどの距離。


「――な、なんでもないにょにょー! ……」

「――お、お兄様ー!」


 俺はさっきの香さんの頬の感触を思い出して顔に火照りを感じ、焦りぎみに叫ぶと踵を返して早足で撤退するのだった。うん。別に彼女の真似をした訳ではなく、ちでじこが偉大だと言うことなのだ。

 嘘です、焦りすぎていたから自分でもわからないんだにょにょ……。

 そんな足早に去っていく俺を呼び止める彼女の叫び声が聞こえる。


「……。……ふぅ……そろそろ予鈴鳴るな……教室戻るか……」


 だけど振り返ることなく廊下を曲がり、その場に立ち止る俺は呼吸を整えながら彼女の動向を気にしていた。

 ――ごめんね、あまねえたん。今は恥ずかしすぎて、ドキがムネムネでガクがヒザヒザなんです。

 

 数秒間ほど待ってみても追いかけてくる気配は感じられず、お昼休みも終わりに近いことから自分の教室に戻ったのだと推測する。

 俺はその場で安堵のため息に心の声を乗せて吐き出し、足早に教室へと戻ることにしたのだった。 

 

◇9◇  


「……」


 教室へと戻る道すがら、さっき途中にしてしまった自分の考えを整理していた。

 

「……って、あれ? どこまで考えていたっけ?」


 だけど脱線しすぎて何を考えていたのかすら……あらゆる忍法を強制的に破ってしまう『破幻の瞳』によっておぼろになっていた俺の思考。

 いや別に俺は忍法を使った覚えがないし、あまねるの瞳がそうだと言っているつもりもないんだけど。

 でも美少女とか美女って、誰しも『破幻の瞳』の使い手なのかも知れないな。俺程度のレベルの男が彼女達に見つめられたら、一瞬で考えている作戦なんて完全に無効化――破られそうだしなぁ。そして打つ手をすべて封じられてオタオタする訳だ。

 ……まぁ、人はそれを自滅と言うんだけどさ。

 

「おっと、いけない! ……えーっと……どんなこと考えていたっけ?」


 更に脱線している俺は何とか思い出そうとしていた。と言うより、既に「どんなことだったのか」すら忘れていた。だめだろ、俺……。

 まぁ、それすらも思い出せない内容なんだから、別に無理に思い出さなくてもいいんだろうけど、今の気分で教室に戻りたくなかったのだと思う。

 香さんは自分の教室に戻っているとは思うけど、少し落ち着きたかったのだった。


「……うーん、なんだったっけ? どうだったっけ? ああだったっけこうだったっけ……したっけ! ――おおっ! そうだった……」


 一人でブツブツ呟きながら考えていた俺。だけど何故か「~たっけ」を繰り返したことで。

 ラッパーならぬアッパラパーな俺は、思わずいんをふんで「したっけ!」と――


 光になった誓いを握り締めたこの手を突き上げてみた。まぁ、地球上から見える太陽以外で最も明るい恒星的に光るわけもなく、何も変化は見られないけどね。当たり前ですけど。

 もしも仮に握り締めたこの手が、光るなら……それは四月のような君の嘘なんだろう。意味不明ですけどね。 


『したっけ』とは、北海道の方言で「そうしたら」って意味らしい。よく軽い別れの挨拶で使われるのだとか。

 某青と翼のイメージなアニソンシンガーさんが頻繁に使っていた言葉。過去形なのは……まぁ、そう言うことだ。とても残念だけど希望は捨ててはいないのである。

 と言うよりも、彼女の足跡は確かに俺の心に刻まれている。だから大丈夫なのだ。何が大丈夫なのかは知らんけどな。 


 結局突き上げた右手は光らなかったけど、方言を思い出したはずみで脳内に再生されていた彼女の楽曲のおかげだろうか。俺の視界に光が差し込む。

 そう、思い出そうとしていた考えを導き出していた俺。彼女の曲は、まさに俺にとっての『夜明けの賛美歌』だったようだ。


「……」 


 確か……「俺だって親友であるあいつらに、小豆みたいなことをされても怒ったりしないし、その程度で感情が左右されることはない」って考えていたっけ。したっけ!


 ……って、まぁ、別に親友のあいつらだけに限った話じゃないけどさ?

 俺と接してくれている全員……大なり小なり俺が好きな人達にはそう言う感情を抱くのだと思う。


 それでも、俺だって人間だから、さ。その中でも家族と明日実さんと。あいつら親友と。愛する二人と……。


 【――そして、他の誰にも負けたくないし渡したくないし。心の底から他の二人以上、いや他の誰よりも愛している『俺だけの小豆』には――】


「――え? ……な、なん、だ?」


 甘え願望が心の中を渦巻いたことで俺の全身に、『萌えあがる炎』が広がっていたのかも知れない。

 その熱によって俺の脳を溶かし、そして心までも溶かしていたのだろう。

 熱にうなされて意識が朦朧もうろうとしているような俺の思考を、溶岩のように流れてきた心の叫びが覆うことで完全に思考が停止する。

 ――え? 俺は今、何を考えていたんだ? 何を想ったんだ? ……小豆にどんな想いを抱いたって言うんだ?


 ほんの一瞬だったが、無自覚の間に溢れて俺の脳内を覆っていた心の叫び。

 自分のことなのに何を考えたのかを理解できずに、俺は困惑の表情でボソリと呟く。

 確かに、流れてきた叫びは理解できていない。それなのに困惑している理由。

 それは――流れてきたと思われる瞬間に、胸を焦がす炎と早鐘のように鳴り響く鼓動を確かに感じていたから。

 心の中で「愛する二人と」と呟いていた直後にそんな感覚に陥っていた。俺はただ――

『そして、愛する小豆には特別な感情を抱いていると思うのだ。』と付け加えるつもりだった。

 俺は小豆への愛を認めた。愛していると素直に感じている。つまり、既に本心と向き合っているじゃないか。

 そう、だから普通に考えて、蓋をして溢れてくる想いなんてあるはずがないのである。


 三人を同じくらいに愛している俺。敗北宣言をして解放している本心。そこに隠されている想いも、優先順位も存在していないはずだ。

 つまり小豆にだけ『何か特別な感情』を抱いていることはない。

 小豆にだけ向けた『特別な叫び』なんてあるはずがないだろうし、当然『それ以上』の感情なんて抱いていないと思っている。

 そう思っていた俺だったけど、身を包む炎と胸を打つ鼓動に心地よさを感じていた。その熱と力強さに、心の中が幸せと充実感で満たされていたのだった。 


 なんだろう。俺が俺でいられる理由と言うか、俺を突き動かす原動力と言うか原点と言うか――。

 生きる源――俺にとって一番奥底に眠る、大切な願いや想いなのだろう。


「……ふっ」


 俺はその場で自嘲するように軽く息を吐いていた。 

 何を叫んだのかは理解していないが、そんな風に心の叫びを解釈していた俺。

 結局いくら考えてみたって答えは見えてこないと思う。確かに小豆へどんな想いを抱いているのかは未だに理解できてはいないけど。

 俺は考えるのをやめていた。理解できなくても問題ないと判断していた。


『まだだ。今はまだその時ではない!』 


 俺の脳裏に……妖怪を『見る』のと『時計』の二重の意味を持つ某子供向けアニメに登場する妖怪が言いそうな台詞が響いてくる。

 ――そうだ。たぶん今はまだ『その時』じゃないから聞こえなかったんだろう。きっと『その時』になれば理解できるのだと思う。すべてを悟ることになるのだと思う。

 ……まぁ、『その時』が来るのかは定かじゃないけどね。それでも今の段階で理解できることではないのだろう。


「ははは……だったら考えるだけ時間の無駄ってことなのかな。……まぁ、他のことを考えた方が有意義なんだろうなぁ?」


 俺はそんな降参の意味を含めた苦笑いの表情を浮かべて、軽くため息をつきながら口に出していたのだった。


(おに……い……ちゃん……ごめん……ね……)

「――ッ! ……」


 だけど言葉を吐き出した直後。どこからともなく、小豆の『悲しみに溢れた消え入りそうで泣きそうな声』が響いてきたのだった。


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