第7話 プライド と 愛

◇7◇


「……」

「……」


 頬をはじいた振動と、鼓膜に染み入る淫靡いんびな調べ。

 刹那、伝う熱が失われ、残り香を漂わせる湿り気が外気に晒されたことで、頬に冷たさを感じていた。

 だからなのかは不明だが、俺は彼女が「いい」と言ってもいないのに、ゆっくりと瞳を開けていたのだった。


 別に名残惜しかったからじゃない。失いたくなかったからでもない。だけど……実はそうなのかも知れない。

 そんな玉虫色にいろどられた光景の真ん中にたたずむ彼女を、俺は少しずつ定まっていく視界の中、言い知れぬ感情を抱きながら見つめていた。

 そんな視界の先に映る彼女は頬を桜色に染めて、潤んだ瞳と唇で俺をジッと見つめている。

 勝手に瞳を開けてしまっていることに対して怒っているような素振そぶりも見せず、ただジッと俺のことを見つめていた。


 なんだろう。瞳を閉じて開けるまで、それほど時間は経過していない。それなのに、目の前の彼女は瞳を閉じる前とは雰囲気が違って見えていた。

 実際に年上だし、色っぽいとは前から思っていたけれど。

 そう言う認識で見ていた俺でさえ、「ドキッ」とするような大人の女性の魅力を感じていたのだろう。


 目の前の彼女は何かが吹っ切れたような、自分で一歩を踏み出したような。

 まるで『リブレイブ!』第二期最終話。三年生の卒業式を終えて全員で向かった屋上。

 全員が去ったあと、最後に去ろうとした主人公のこのかちゃんが振り向いて言った台詞。

「やり遂げたよ。最後まで――!」

 そう言い切った彼女の、満足で誇らしい表情のように見えていたのだった。


「……ぁ……。……ぅぅぅ……」


 瞳が完全に開いた瞬間、固く閉ざしていた時に心の奥へと押し込んだはずの心の汗が、一雫ひとしずくだけ残っていたのだろうか。いや、違うな。

 たぶんその時に溢れていた心の汗は、に綺麗さっぱり洗い流されていたはずだ。この一雫はきっと、彼女の優しさがふれた瞬間に溢れてきた、暖かい恵みの雨なんだと思う。

 たぶん「彼女を好きになってよかった」って素直に思えていた。そんな想いが押し寄せていた。それが形になって溢れてきたのだと思う。

 って、まるで『ほっぺにチュッ』ってされたから、そう思ったみたいになっているよな。

 ずっと前から好きでした。……なのに、今好きになる。みたいに感じているとか現金すぎるだろ、俺。

 ……前からずっと、想っていたって別に偉くはないんだけどさ。

 それにまぁ、本人的には嬉し泣きは嫌いじゃないんだけど、やっぱり好きな人の前で涙を流すとか恥ずかしいよな。今更遅いけど。


 ――本当、男のくせに涙がでちゃうなんて……「あいうぃるぎ~びゅお~まいらぁ~ぶ」で「び~いんら~うぃずゆ~」な気分だな。意味はないけどさ。


 そんな二重の意味で恥ずかしくなっていた俺は、彼女の桜色を映しているのかも知れない。顔の火照りを感じながら少し俯こうとしていたのだった。


「……」

「ぅ? ……」


 だけど俯きかけていた俺の視線に彼女の人差し指が映りこむ。そのまま指は俺の頬にふれ、下から上へと滑らせながら指の甲で伝っていた雨をぬぐい取る。

 ふれた人差し指の動きによって視線を戻されていた視界の先。


「……んっ……」

「――ッ!」


 拭い取った人差し指を引き寄せた彼女は、一瞬だけ指を見つめてから瞳を閉じ、そのまま指の雫を唇に含む。

 あたかも以前、西瓜堂であんこを掬って唇に含んだ時のような、それが自然な流れだと錯覚してしまいそうな彼女の仕草に、思わず息を飲み込んでいた俺。

 あんこなら理解できるが、俺の涙を彼女が口に含んで俺が平然としていられる訳もない。

 

「……うふぅ♪ んん~。……んっ」


 狼狽ろうばいする俺の目の前で、彼女はゆっくりと目を開ける。そして俺にあでやかな微笑みを送りながら、口に含んでいた指を滑らせて、指先をつややかな唇に押し当てていた。


「ッ! か――」

「ん……」

「――ッ! ……ぁぅ」


 そんな彼女の瘴気しょうきとも言える雰囲気にてられたように、全身が熱にほだされていた俺。

 ここが教室――周囲のクラスメート達に目を瞑ってもらっていることを忘れて、思わず声をかけようとしてしまっていた。そんな俺の口をふさぐように、彼女の人差し指が俺の少し開いた上下の唇に優しくふれる。

 別に手の平で口を覆われた訳じゃないのだから、出そうと思えば声は出たのだろう。

 だけど視線の先に映る彼女の雰囲気にせられていた。

 そんな雰囲気に中てられて……何を血迷ったのか、我を忘れて告白しようとしていた俺。

 刹那、彼女の唇にふれていた人差し指が俺の唇に押し当てられる。

 その行動に気づき恥ずかしくなるのと同時に、我に返って自分が取ろうとしていた行動に気づいて更に恥ずかしさが増し、唇を少し閉じながら言葉を失っていたのだった。


「……んん~?」 

「――ぅ!」

「……んふっ♪」


 押し当てられている指に圧を加える彼女。そしてそのまま、指は俺の口内へと侵入してきたのだった。

 あまりのできごとに驚き、目を見開いて彼女を見つめていた俺。だけど幸いなことに、唇を少し閉ざした時点で、歯は既に噛み合わせてあった。

 別に侵入を防ぐと言う意味ではなくて、驚きのあまり彼女の指を噛む心配がないと言うこと。

 今彼女の指先は俺の唇で包み込んでいる状態になっている。

 何が何だかわからなくて何も行動に移せずに固まっている俺に向かって、指をくわえられている彼女は、いたずらが成功した子供のような表情で微笑むのだった。


「……」

「――ぁ」


 微笑みを浮かべた彼女はゆっくりと俺の唇から指を引き抜いていた。引き抜かれた瞬間、言い知れぬ寂しさが俺を襲う。既に彼女への想いで溢れかえっていた俺は、素直に悲しさを表現していたのだろう。

 宝物を取られた子供のように、涙を堪えて彼女を見つめていたのだと思う。


「……うふ♪ ……んっ……あ~むぅ……」

「――ッ!」


 そんな俺に母性溢れる微笑みを送っていた彼女。そして引き抜いた指をそのまま愛おしそうに自分の唇に押し当てると、つやめいた唇で包み込むのだった。


「……ん……ん?」

「……」

「……うふ♪」


 口に含んでいた指を引き抜いた彼女は、唇の前で人差し指を立て、ウィンクをしながら「内緒よ?」と言いたそうに声を漏らしていた。

 そんな彼女の仕草にコクコクと何度も頷く俺。そんな俺に笑顔を返す彼女。


「――ぁ……ぅ……」

「……」

 

 今まで幾度いくどとなく、彼女のからかいこの手の間接的な行為をの当たりにしてきていた。

 小豆のスキンシップによって、多少は免疫がついてきたと思っていた。

 だけど今までのことが子供だましだって思うほどに、今の俺はうろたえていたのだろう。彼女への熱におかされていたのだろう。自分が自分じゃないようにも思えていた。

 だから根拠もなしに「今だったら受け入れてくれるのではないか?」なんて錯覚していたのかも知れない。

 俺は彼女をまっすぐに見つめて、一度は飲み込んでしまった告白の言葉を伝えようと口を開いたのだけど――

 何故かは知らないが、その瞬間に小豆の悲しい顔が脳裏を過ぎる。

 そして出かかった言葉は、小さなうめき声に変わっていたのだった。


 ――いや、俺は別に小豆の想いに応えてあげられないのだし、何より俺は香さんのことが好きなんだ。

 だから俺が香さんに告白をすることで小豆を悲しませたとしても、小豆には俺の気持ちを理解してほしいと思っている。その為に償いが必要なら、俺は迷わずに受け入れるつもりだ。つまり、告白そのものを躊躇ったのでも、小豆に惹かれて、いる、から、でも、な、い……。


「……くっ!」

「よ、よんちゃん……」


 脳裏に浮かぶ小豆の悲しそうな顔と、突然俺の思考に突き刺さった痛みに顔を歪めていた俺。周りに聞こえない程度の小さな声で、心配そうに俺に声をかけてきた彼女。

 苦笑いを浮かべて「心配いらない」ことを表情で伝えた俺は、再び自分と向き合うのだった。


 ――たぶん俺が躊躇っているのは、過去の過ちにおける小豆への罪悪感を抱いたまま、俺だけが自分の気持ちを打ち明けて楽になっていいのだろうか。

 万が一にも告白を受け入れてもらえたとして……小豆を悲しませてまで俺が幸せに笑っていられるのだろうか。

 自分勝手な我がままを再び妹に突きつけて、俺だけが平然と香さんと一緒にいられるのだろうか。

「妹を守る」なんて決意をしておいて、自分だけが幸せになってもいいのだろうか。

 そんな兄貴としての自分が、妹を無視して彼女に告白することへの躊躇いを覚えていた……。 

  

「……ふっ」

「……ん?」

「……」


 そんなことを考えていた瞬間、さっきから思考を突き刺しているナイフのような『自分の本当の気持ち』が、更に奥深く突き刺さってくる感覚に陥る。

 そのことに気づき、すべてを悟った俺は自嘲ぎみな笑みを溢していた。

 突然のことに不思議そうな表情で俺のことを覗きこむ彼女に、俺は苦笑いを浮かべて首を横に振っていたのだった。


 何を今更格好つけようとしているんだろうな。自分の気持ちなんて、とっくに気づいているって言うのにさ。

 未だに兄貴だからとか、決意だからとか。過去への償いだからなんて、綺麗ごとで自分の気持ちを否定しようとしていたって、そんなのはただの偽善であり言い訳だ。そう言うもので自分の気持ちに蓋をして、自分のことを正当化したいだけなんだ。


 すべての真実を受け入れてくれた香さん達のように。

 揺るぎのない絆で結ばれていると信じてくれているように。

「小豆は小豆。何があっても変わらない」のだと言い切ってくれたように――

 俺が自分の気持ちを認めたって、俺があいつの兄貴であることには変わらない。過去は消えない。決意も償いも風化することなんてないのだと思う。

 ……それって、俺自身が真実を打ち明ける前に考えていたことじゃんか。他人には言えたとしても自分には言えない。認めるのが、受け入れるのが恐いんだよな、情けない話だけど。

 でも、さ。人の想いなんて、綺麗ごとで蓋ができるほど割り切れるものじゃないはずだ。だから苦しいのだし、見えない未来に逃げ出したくもなるのだと思う。

 それでも、だからこそ、俺は今の生活へと戻れたんだと思っている。

 現実に目を背け、すべてを突き放していた、あの頃に蓋をしていた想い。

 家族への想いや願いや憧れ。そう言うものが蓋をした程度で消え去ることなく心に眠っていたから、今の生活を得ることができたんだと考えている。

 それは、見えない未来だろうと、恐いと感じようとも――

 相手を信じて、すべてを認め、そして受け入れることでしか解決しないんだと思う。結局、自分の正しさを信じて、自分の足で一歩を踏み出さないといけないのだろう。


「……ははは」

「……」


 その瞬間、俺の脳裏に映し出される映像――アニメの戦争ものなどで目にする名シーン。

 敵国に領土を奪われそうになっている時に、臣下に愛され親しまれている姫さまや王女さまや王様が国民の身を案じて言う台詞。


『国など奪われても、また一から作り上げればいいのです。ですが民は……貴方達の命は、失ってしまえば二度と還ってこないのです。国とは民があって、はじめて国と言えましょう……ですから貴方達の命は何物にも変えられないのです』


 そんな演説が、俺の心に響き渡るのだった。

 当然、今の現状がそんなに大層な場面ではないことは理解している。だけど何故、今この台詞が心に響いたのかも理解している。

 国と言うのは、俺の守ろうとしているくだらない自尊心プライド。民と言うのは、俺の奥底に眠っている本心。

 正直そんなプライドなんて、崩れたのなら一から積み上げればいいだけなのさ。実際に俺は、中学時代に失っていた『家族の姿』を一から積み上げているのだからな。もう一度積み上げるまでなのだ。

 だけど俺が本心を捨て去る、蓋をしたままにする、否定をするってことは……俺じゃなくなるってこと。俺でいる意味すらも失うってこと。

 本心を持ち続けているからこそプライドは成立する。本心を失ってまで保つプライドなんて、ただのにせものイミテーションにしかならないのだから――。


 俺は彼女を見つめ、そして脳裏に映る小豆の笑顔。そして意固地いこじになってかたくなに蓋をしていた、滑稽こっけいな自分自身に向かって。

 清々しいほどの笑顔を送りながら、いさぎよく心の中で降伏宣言をするのだった。 


 

 ――そうさ。俺は香さんと同じくらいに、小豆のことも好きだ。いや、同じくらいに愛しているのだと思う。

 だからまだ、小豆への想いがある以上、香さんへの告白ができないだけなんだ。

 どっちつかずで優柔不断なのかも知れない。八方美人なのかも知れない。

 とは言え、これは俺の気持ちであって二人の気持ちなんかじゃない。俺が二人を同じくらい愛しているだけで、二人からの想いを利用している訳でも、二人からの想いを天秤にかけている訳でもない。そのことで迷惑だってかけていない……と思いたい。

 そう、片思いである今は誰かに縛られる必要はないのだと思っている。だって俺の想いは俺だけのものであり、誰かを想う気持ちに優先順位なんて存在しない。そう、一人だけのものじゃない。平等で自由なはずさ。

 二人を同時に愛したって、どちらか一人を選べなくったって、誰にもとがめられないのだと思う。

 これは俺にとっての正しいこと。いくら二人でも、そのことで何かを言える権利はないのだろう。

 

 もちろん『その時』が来たら決断するつもりだ。二人を愛している以上、俺の『二人への想い』を利用なんてしない。未練を残すことはしない。絶対に引きずったりしない。

 だってそれが……俺の愛している二人に対する『俺自身のプライド』であり『偽りのない二人への愛』なのだと考えているから――。

 ……だから、こんな優柔不断で八方美人なお兄ちゃんで後輩ですが、必ず自分の足で一歩を踏み出すので、もう少しだけ待っていてください。


「……」

「――ッ!」

 

 心の中で愛する二人へと想いを馳せ、懇願しながら実際に頭を下げていた俺。

 目の前の彼女には、どう映っているのかなんて考えていなかった。それでも態度で示したかったのだと思う。ケジメをつけてスッキリしたかったのだと思うのだ。


「……ふぅーーー。……ははは」

「ふふふ♪ ……みんな、ごめんね~。もう、いいわよ?」


 ケジメをつけてスッキリできた俺は、頭を上げると大きく息を吐き出した。そして、完全に吹っ切れたことを体現するように満面の笑みを彼女へと送る。

 俺の心意なんて伝わっていないだろうけど、彼女なりに俺の変化を察していたのだろう。

 俺と同じように嬉しそうな満面の笑みを送ってくれるのだった。

 そんな彼女の笑顔に一瞬「ドキッ」と鼓動が跳ねる。それこそ、小豆への愛があったから踏みとどまった彼女への告白を後悔するほどには、な。

 だけど次の瞬間に彼女は声を張り上げ、クラスメート達へと目を開けるように伝えていた。

 そして二人だけの時間は終わり、クラスメート達の視線が俺達へと集中するのだった。


「……」


 俺は何となく気まずくなって、周囲へと視線を泳がしていた。いや、なんか全員すごくニヤニヤしながら俺達を見つめているんですけど?

 と言うより、女子達なんか顔を真っ赤にしながら、満面の笑みで彼女に無言で握手したりハグしているんですが?

 まぁ、男子共なんて拍手したり雄たけびを上げたり泣き出したりしてますね。お前ら、うっさい!

 そんな中心にいる彼女はと言うと。

 女子達と同じように真っ赤な顔で苦笑いを浮かべてはいるものの、とても嬉しそうに微笑みながらクラスメート達の暖かな洗礼を受けていた。

 あれ? もしかして……いや、もしかしなくても?

 これって「ドッキリ大成功!」ってやつなんじゃ? 別に彼女が仕掛けていた訳ではないんだろうけどさ……。


「~~~ッ!」

「よ、よんちゃん?」


 目の前の光景が醸し出す雰囲気で悟った俺は、全身が『茹でぜんざい』になっていた。

 いや、ぜんざいは茹でないけどさ。茹でるのは小豆だし、小豆を茹でたのがぜんざいであって……。

 って、あれあれ? じゃあ、普段俺に甘えてくる茹で小豆は実は俺なのでは? と言うより俺自身が実はあいつなのか?

 俺があいつで、あいつが俺で?

 

 君の前前ぜん……ざいから僕は 小豆を探しはじめたよ!


 ……いや、そもそも俺は『ぜんざい』じゃなくて『よしき』だし、俺の中から小豆は探してはいない。と言うより『君の前前ぜんざい』って何だよ……。


 目の前の光景に、隕石が落ちてきたような衝撃を覚えて軽いパニックを起こしていた俺。

 そんなパニック状態の俺が考えた意味不明な思考によって、更にパニックは加速世界へと誘われていくのだった。

   

「~~~ッ! ……」

「よ、よんちゃん?」

  

 俺はゆっくりと椅子から立ち上がる。そんな俺に心配そうに声をかける香さん。俺はおもむろに口を開くと――


「よんちゃん、おそと走ってくるぅーーーーーー!」

「――よ、よんちゃん、お昼はっ!」

「先に食べちゃってくださーーーーーーい!」

「ちょ、ちょっとー!」


 叫びながら廊下を目指して早歩きを始めた。いや、本当に走ったら校則違反だしね。

 そんな俺の背中に向かって彼女が声をかけてくる。ああ、うん。弁当食べている途中だったっけ。

 振り向かずに彼女へ返事をした俺は、そのまま教室の扉を開けて廊下へと出て行く。

 扉を閉める瞬間に彼女が俺を呼び止めたんだけど、心の中で謝罪をしながら、そのまま扉を閉める。


「……ふぅ……」


 ――ごめんなさい、香さん。今は色々ありすぎて胸がいっぱいなんです。

 そんな心の声を軽く吐き出す息に乗せてから、俺は足早に教室から離れることにしたのだった。 

 

◇8◇ 


「……あら、お兄様♪ いかがなされたのですか?」

「――ヒッ! ……あ、あまねる……だけか……ふぅ」

「ふふふ♪」


 ただ教室から離れたかっただけなので、特に目的もなく彷徨さまよっていた俺は、無意識に一年生の教室の近くまで歩いてきていたらしい。

 そんな俺の背中に向かって聞き覚えのある声が響いてきた。

 声の持ち主があまねるだと言うのは瞬時に理解していた。だけど同時に『ニコイチ』なはずの声が響いてくることを予測していた俺は無意識に身構えてしまっていた。

 いや、香さんから逃げてきたのに小豆に遭遇していたら逃げてくる意味ないからね。まだ冷静とは言えないからさ。

 おっかなびっくり冷や汗を浮かべながら振り向いてあまねるに声をかけたのだが、隣にいるはずの妹の姿が見えないことに安堵のため息をついていた。

 そんな俺に微笑みを浮かべた彼女だったが、少し頬を膨らまして――


「そうですよ? ……どこかの誰かさんに、私の大事な親友を『お昼休み中、拘束』されておりますからね?」

「――え?」


 こんなことを言ってきたのだった。

 彼女の言葉に思わず目を見開き、驚きの声をあげてしまう。すると目の前の彼女も驚きの表情で俺を見つめていた。だけど瞬時に狼狽し、泣きそうな表情へと変化していた。

 そんな彼女の変化に、彼女の狼狽が伝染したかのように狼狽する俺の目の前で、彼女は俺に頭を下げるのだった。


「も、申し訳ありません!」

「い、いや、あまねる……さん?」

「……」

「あ、あまねる?」


 彼女の後頭部が俺の視界に映りこみ、思わず「綺麗な形の頭だなぁ……髪もサラサラだし、撫でたら気持ちよさそうだ」なんて――思っている場合じゃねぇ!

 突然のことに驚いて思わず「あまねるさん」と呼んでいた俺。愛称に敬称とか……新鮮でちょっと好きだけどね、俺的には。

 だけど呼んだ瞬間に顔だけを俺に向け、頬を「ぷっくり」と膨らませて睨んでいる彼女の顔を見つめて。

 彼女の可愛さに、ムー●ン谷よりも深く反省しながら言い直す俺なのであった。

 ……うん。心の中で「あまねるたそ」って呼んでみたい衝動と格闘しながら。


 俺が言い直した途端に再び表情を歪ませて言葉を紡ぐ彼女。


「わ、私ったら、お兄様に生意気なことを申し上げてしまって……」

「え?」


 生意気なことなんて言っていたの? いつ? 

 ……どちらかと言えば「彼女にそんな顔をさせている、お前の方が生意気だ!」と、周囲のファン達が無言のジト目で申しておりますね。


「べ、別に悪気はないのです……」

「う、うん……」


 お、俺にも悪気はないんですよー? なので、みなさん、突き刺す視線を解除していただけませんかね?


「た、ただ……普段の小豆さんとお兄様の会話のように……」

「ん?」

「お兄様に少しだけ意地悪をしてみたかった、だけ、なん、で……す……ぅぅぅ……」

「――ッ! あまねるっ!」

「――ふぇ?」 


 俺が周囲を気にしながら彼女を見ていると、ついに俯きかけながら泣き出してしまう。

 俺は思わず彼女を抱きしめていた。正確には、彼女の後頭部と背中に軽く手を回して引き寄せ、彼女の顔を俺の胸に埋めていたのだった。何をやってんだろうな。

 突然引き寄せられて、おでこに胸が当たったことで状況を理解したのだろう。顔を赤らめ目を丸くしながら視線をあげる彼女。

 正直、周囲の視線が恐いので即座に離れることを提案したいところなのだが。

 両手に伝わる彼女の、微かな……密かな確かなミライ、ではなくて微かな震えに「ななな!」と驚いていた俺。埋蔵金はないけど「まいったぞう?」な近未来を予測していたのである。


 泣き出しそうな顔をして、微かに震える彼女を突き放すことはできない。いや、俺の腕の中におさまる彼女に小豆を重ねていたのかも知れない。

 そう、彼女もまた……あくまでも一方通行なんだけどさ。

 俺にとって小豆と同じく『可愛い妹』なのだと感じている。……ああ、うん、つまりはそう言うことだ。

 小豆と同じってことは、あまねるのことも愛しているってこと。小豆への愛を認めたことで浮上してきた想いかも知れないけどな。

 小豆への想いを封じていながら妹の親友を好きになることを、小豆を愛している俺が許せなかったんだと思う。


 当然ながら、その感情に『妹の親友』なんて言うオプションは加味かみしてはいない。純粋に一人の女の子として、あまねるを愛していると言うこと。

 まぁ、香さん同様、叶う望みなんて皆無かも知れないけどさ。と言うより、一番確率は低いと思う。だって俺は『親友の兄貴』としか、思われていないのだろうから。

 とは言え、あくまでも俺の気持ちなんで「妹の親友にまで恋愛感情を抱いてんのかよ!」なんて恥じてはいない。


 むしろ――「自分で自分をほめてあげたいです!」


 そんな、日本を代表する元女子マラソン選手の名言のように俺は感じている。昔……そう、中学時代の俺には想像もつかないこと。あの頃は、送ってくれる想いですら拒んでいたのだから。

 自分から相手に、それも恋愛感情を抱けるなんて思ってもいなかった。しかも三人を同時になんて、な。

 たぶん俺がこんな風に変われたのは……当然ながらアニメのおかげだろう。アニメが俺を救った。それは紛れもない真実である。

 だけど……同じくらい小豆のおかげだと思っている。

 小豆が俺に愛を与えてくれたから、俺は三人のことを自然と愛せるようになれたんだろう。

 そう、小豆が俺の気持ちを変えてくれたんだ。

 ……ん? 小豆? ……あ、そう言えば?


「あはは……」

「ふぇ?」


 胸と両腕に伝わる彼女の体温と、鼻腔に伝う彼女の香りを感じながら、脳内で小豆のことを考えていた俺。だけど今の状況が『小豆について疑問を覚えた』のがキッカケだったことを思い出していた。

 そうなんだ。そもそも彼女の会話の、妹の話が気になったから驚きの声をあげたのに。

 好きな子を抱きしめていることに幸せを感じているあまり、肝心なことを忘れていた自分の浅はかさに俺は苦笑いを浮かべていた。


「……」

「ふぁ? ……ふみぃ~」


 とは言え、好きな子を腕の中に引き寄せているんだ。好きな子が涙を流して震えているんだ。俺としては悲しみを和らげてあげたかったのだろう。

 まぁ、彼女が心から望んでいるのかは疑問だけどさ。だけど効果はあると信じていた。

 だから彼女の後頭部を包んでいる手の平を軽く動かす。そう、優しく彼女の頭を撫でていたのだった。

 そんな俺の手の平の動きに気づいた彼女は、一瞬驚きの声を発したけど表情を緩めて、優しい微笑みを浮かべながら子猫のような甘い声を漏らしていたのだった。

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