第6話 ケジメ と ペンケース

「くぅぅ……」

「……。ふふふ♪ と言うより、もう席に座って?」

「あ、はい……」


 突然襲った額へ伝わる痛みに、両手を当てて抗う俺を一瞬だけ見つめると、踵を返して椅子まで戻って座りなおしてから、涙目の俺に微笑みを送る香さん。

 俺は彼女の言葉を受けて立ち上がり、自分の席へと座りなおしていた。

 突然の衝撃に、額が少しだけジンジンと痛みを感じている。

 だけど額に伝わる痛みに、俺は救われた気分になっていたのかも知れない。

 そう、確実に……彼女が放った一撃により、それまでの重苦しい雰囲気が霧散して、優しい雰囲気へと変わっているのを感じ取っていたから。


 その理由は彼女の言った言葉。

「少し頭……冷やそっか?」とは、かのはシリーズ三作目。

『罵倒笑女キキタルかのは すっとりゃいかあず』で、前作より数年の月日が流れ。

 大人になったかのはさんが、焦りで自分を見失いかけていた自分の教え子に向けて言い放った台詞。

 当然香さんも、この台詞の元ネタを知っている。そしてクラスメートも知っていること。

 つまり、仮に彼女がまだ怒っている状態なのであれば、こんな台詞が出てくることはないのだろう。

 それがどんなに緊迫したシーンの台詞であれ、アニメはアニメ――彼女にとって、心からの言葉ではないのだから。

 と言うより、彼女の言葉を肯定した俺に向かって、この台詞を返してくる時点で冗談だってことは理解しているんだけどさ。

 そして周りのクラスメートも、「彼女が、もう怒っていない」と理解した上で優しい雰囲気へと変えているんだと思っている。

 そう、あくまでも場を和ませるのを目的として彼女はこの台詞を使ったのだった。


「……ふぅ。それでね、よんちゃん……」

「……はい」


 微笑みを浮かべていた香さんは、軽く息を吐きだすと優しい微笑みのまま俺を見つめて言葉を紡ぐ。

 額の痛みも和らいだことで、両手をおろして彼女に返事をしていた俺。


「そもそも、よんちゃんは何か勘違いをしているのよね?」

「……え?」


 彼女の言葉が理解できなかった俺は驚きの声をあげた。

 そんな俺を見つめて「やっぱり」と言いたそうな苦笑いを浮かべる彼女。そして彼女は俺の「勘違い」を指摘するのだった。


「あのね? ……私達は、ただ真実が知りたかっただけよ?」

「真実?」

「そう、真実……これに書かれたことが本当なのか、嘘なのか。それが知りたかっただけ」

「……」


 彼女の言葉を聞き返した俺に微笑みながら頷いて答える彼女。彼女から視線を周囲に向けてみると、同じように頷いていたクラスメート達が視界に映し出されていた。

 彼女の言葉の真意が理解できずに呆然とした表情を浮かべる俺に、彼女が微笑みのまま優しく言葉を繋げる。


「だからね? 別に私達はどちらにせよ……それを受け入れるし、何も気にしないってこと」

「……」

「みんな、中途半端なモヤモヤした気分じゃ、受験勉強や学校生活に身が入らないでしょ? だからスッキリしておきたかっただけなのよ」

「……あ、あの……それって小豆を許してくれるってこと、ですか?」


 彼女の言葉を受けて、一抹の不安を覚えながらも恐る恐る訊ねる俺。

 すると彼女は呆れたような表情を浮かべて――


「何言ってんの? 許すも許さないも小豆は小豆でしょ? ……って、よんちゃんさぁ?」

「は、はい……」


 あっけらかんと言い切ると、少し頬を膨らませてムッとした表情で声をかけてくる。

 また怒らせたのかと萎縮いしゅくぎみに言葉を発した俺に向かって、そのままの表情で彼女は言葉を繋ぐのだった。


「あんまり私達を甘く見ないでよね?」

「え?」

「小豆の過去に何があったとしても……そのことで態度が変わるような、そんな浅い付き合いはしていないはずよ?」

「……」

「それは私だけじゃなくて、ここにいる全員……ううん。きっと学校中の全員がそうだと思う。もちろん、一概にそうとは言えないかも知れないけれど、大半はそうなんじゃないかな……いい? よんちゃんは自分の妹だから、そう感じているのかも知れないけれど……あの子は周囲の人達に対して、そんな薄っぺらい付き合いなんてしていないし、上辺うわべだけの付き合いで私達があの子にかれることはないんじゃない? 少なくとも私はそう思っている……」  


 彼女の言葉に、周囲のクラスメートは力強く頷いていた。

 そんな光景を目の当たりにして、周囲が小豆を『洗脳フィルター』を通して見ているだなんて思っていたことを、深く心の中で反省していた俺。結局、小豆を洗脳フィルターを通して見ていたのは俺の方だったのだろう。


 ――小豆は学校のアイドルだ。これがまだ一般的なアイドルならば、内面を見ずに外見だけで惹かれる人間もいるだろう。

 ……いや、まぁ、一般のアイドルやアニメだったり、声優さんに関しても、正直絵面えづらだけ。つまり上辺だけで惹かれ続けるなんて無理だと思うけどな。俺は内面が可愛くて面白い子じゃなきゃ推せないから。って、周りは知らんが。

 

 だけど、学校のアイドルが外見だけで惹かれることはないんじゃないかって思う。いや、惹かれるかも知れないけど持続はしないだろう。

 何故ならば、周囲からプライベートを常に監視され続けているようなものなのだから。

 そもそも本人はアイドルになりたい訳じゃない。ただ普通に生活している……イメージなんて気にせずに、素の自分のまま生活しているのである。

 だから正直、内容に難があれば一話切り、手の平クルー、重箱の隅をつつくような揚げ足取り、責任転嫁な――

『自己責任という概念が存在しない窮屈きゅうくつな世界』的な昨今のメディアに通ずる学校のアイドル事情。

 内面に難があれば、いとも簡単に小豆から離れていくのだと考える。そもそも、他に三人もアイドルが存在する時点で推し変しない方が不思議な世の中なのだ。


 そんな中、既に二学期も半分ほど過ぎている現在。離れるどころか校内一の人気……まぁ、統計取っている訳でもないから単なる『兄バカ』の推測でしかないかも知れないけどさ。少なくとも俺にはそう見えている。

 特に、小豆の『普段のあんな言動』を見ていながらも校内一の人気を誇っていられるのは、決して外見だけの要素ではないのだろう。それだけ小豆自身が周囲と深く、そして確かな絆を持っているってこと。

 そして周囲は小豆の内面を深く知り、そこに惹かれているってことなんだと思う。

 だから、前に小豆が起こした退学騒動で顔を青ざめていたのは、「小豆がすることは、何でも正しい」ってことではなく。

 小豆を深く知っている周囲が、あいつが怒る理由と気持ちを真摯しんしに受け止めて、素直に自分の否を認めていたってだけなんだ。

 だから、あれは別に洗脳によるものではなく、心でつながっている証拠なのだと思う。なんて、そもそも実際には洗脳なんて扱える訳はないんだけどな。


 だけど、もしも仮に洗脳が扱えるのであれば……されていたのは俺なのかも知れないって話さ。

 過去の自責により植えつけられている、『小豆を守らなければいけない』『笑顔でいさせることが俺の存在理由なんだ』って言う決意が。

 知らぬ間に小豆を、周囲を「そう言うものなんだ」と形成してしまっていた、断定していたのだと思う。それは洗脳と呼べる代物だったってことなのだろう――。


「……ふぅ……」

「……ふふふ♪」

「ははは……は……」

「……」


 自嘲じちょう気味に軽く息を吐き出す俺の表情から、俺が彼女の言いたいことを理解したって悟ったのだろう。俺に向けて満足げな笑顔を溢す彼女とクラスメート達。

 向けられた笑顔に苦笑いを返してから、俺は視線を落として漠然と机の上の弁当箱を見つめていた。


 ――そう、モノの価値や評価は送る側の人間が決めるのではなく、受け取る側の人間が決めるものだってことは理解している。

 だけど受け取る側の人間が自分勝手に、モノの価値や評価を決めつけられるものではないのだと思う。

 個人ができるのは、せいぜい自分のものさしで測った、一個人の枠組み。

 その世界を外から傍観しているだけの人間が考えた、ただの自己解釈に過ぎないのだろう。

 それをさも、自分の意見が一般論のように言い切ることが、そもそもの間違いなんだと考えている。


 与えられた情報だけで全部が理解できてしまったり評価できるものなんて、この世には存在しない。

 与えられた情報と向き合い、そこへ踏み込んで、真摯に受け止め、自分なりに考えて理解する。

 そうすることで、自己解釈かも知れないが納得できる答えを導き出せるのだと思っているのだ。


 仮に自分で答えを導き出したとしても、それは一個人の答え。自己解釈に過ぎない。

 だけどたぶん、そこまで導き出す人間は理解しているだろう。自分勝手に線引きをすることはないはずだ。

 だって、それだけの労力を費やすのは自分の答えを導き出したいだけなのだから。


 感じ方や受け取り方なんて人それぞれ、十人十色。

 当然理解が追いつかないことだってあるさ。途中で挫折することもあるさ。

 それは別に悪いことではないのだろう。誰かに強制されている訳でもないのだから。

 だけどそれは単純に自分が上辺の部分でしか把握していないだけ。

 つまり、そんな中途半端な個人的考えが、世間一般の共通見解に適用される訳がないのである。 


 俺はアニメ関連のネットで、それをイヤと言うほど見ていたはずなのに、それが間違いだと思っているのに。 

 同じことを知らぬ間に、香さんや周囲の人間にしていたってことか。上辺だけの個人的考えを一般の見識だと勘違いしていたってことか。

 押し付けようとしていたってことなんだろう。



「……すぅ……。――ぐっ!」 

「――よ、よんちゃんっ! ……急にどうしたのよ?」

「……痛ってー」


 とにかく、今回の件は完全に俺に非がある。だから次の言葉を紡ぐ前に、自分なりのケジメをつけたかった。

 俺は視線を正面へと戻し、瞳を閉じると軽く息を吸い込みながら右手を握り締める。

 そして、くの字に曲げた拳を頬の直線上まで持ち上げてから――そのまま勢いよく水平に、俺の頬へと叩きつけるのだった。

 頬に突き刺さる衝撃と痛みに、思わず声が漏れる。頬と口内に走る痛覚に声を大きく発していた。

 あまりの突発的なできごとに、目を見開いて椅子から立ち上がり、左手で体を支えながら前のめりになって俺に手を伸ばしながら声をかける香さん。

 頬と拳ついの違いはあるけれど、この痛みと同じくらい彼女も受けていたってことなのだろう。

 彼女の差し出していた右手を眺めて、痛みが引くまでの間、ぼんやりとこんなことを考えていたのだった。

 

「痛っつぅ……ふぅ……ありがとうございました!」


 頬の痛みが少し和らいだ俺は彼女達を見据えて、全員に頭を下げてお礼を述べる。

 今伝えるべき言葉は謝罪じゃないと思っていた俺。だけど、この礼は別に小豆を認めてもらえたことへの礼でもない。

 とは言え、これと言う的確な意味はないのかも知れない。ただ礼が言いたかった。それだけだ。

 小豆ほどじゃないとは思うが、俺だって全員と浅い付き合いをしていないと思う。

 だから俺は、ただお礼を言いたかったし、全員がお礼を受け入れてくれると信じていたのだった。

 

「ふぅ……ふふ♪ ……どういたしまして?」

「……ははは。あ、あの、それで香さん。お願いがあるんですけど……」 

「ん? ……なに?」


 きっと視線を戻して全員を眺めている今の俺は、とても清々しい満足感を顔中で表現していることだろう。

 俺の表情を反射するように彼女達もまた、心底嬉しそうに微笑んでいる。そんな微笑みの中心にいる彼女は安心したように席に座りなおすと、代表して俺に言葉を送るのだった。

 彼女の言葉を受け、苦笑いを返した俺は彼女に一つのお願いをすることにした。

 突然のお願いに怪訝そうに訊ねる彼女。一息ついてから左頬を突き出して言葉を繋げる俺。


「一発キツイのお願いします!」

「――えっ!」


 俺のお願いに驚きの声をあげる彼女。たぶん意味が通じていないだろうと、彼女を見つめて言葉を繋げる俺。


「香さんの手を傷めた償いをさせてください……これは俺のケジメなんです。思いっきり、ひっぱたいてください!」

「え? でも、さっきデコピンしちゃったでしょ? あれでチャラでいいわよ」

「いや、そこまで痛くなかったですから、あれはノーカンですよ……」

「とは言ってもねぇ? 別に自分でしたことだし、私は別に怒っていないわよ? ……それに、そもそも自分で右頬殴っていたじゃない?」

「あれは自分への罰ですし……ケジメは別腹です」


 俺のせいで痛めた拳ついへの償い。特に返せるものがないので俺も痛みを伴おうと考えていた。

 もちろん、その程度で彼女が満足してくれるかどうかは定かではないが、踏ん切りはつくのだと思う。

 だけど苦笑いを浮かべながら、やんわりと断ろうとする彼女。

 まぁ、償いなんだから素直に彼女の言葉を受け入れる訳にもいかないので食い下がっていた。


「なによそれ? ……まぁ、いいわ……はいはい、わかったわよ……」

「それじゃあ、よろしくお願いします! ……あ」

「……なになに~、怖気おじけづいたのぉ?」


 すると諦めを含ませた微笑みで、渋々しぶしぶだろうけど了承してくれたのだった。

 何とか無事にお願いが実行されることになって胸をなでおろしていた俺は、すぐさま左頬を彼女へ突き出す。

 だけど、あることに気づいた俺は視線を戻して声を発していた。

 そんな俺にニタリ顔を浮かべて声をかける彼女。いや、そんなことはないですけどね。そう言うことではないんです。


「……」

「ど、どうかしたの?」


 おもむろに腰を曲げ、自分の机の中を覗きこむ俺。

 もしかしたら俺が気分を害したのかと勘違いしているのかも知れない。彼女は困惑の表情をしながら声をかけてきていた。


「……これでいっか。……それじゃあ、これで?」

「……ペンケースがどうかしたの?」


 机の中を物色していた俺は、ペンケースを取り出しながら呟いていた。

 ペンケースのフタを開けて中身を掴んで机の上に置くと、フタを閉めて向き直り、彼女にペンケースを差し出しながら声をかける。

 俺の行動の意図が理解できなかった彼女は俺に疑問をぶつけていた。

 だから俺は微笑みを浮かべて答えを伝えるのだった。


「あ、いや、これ使って、俺をひっぱたいてください」

「え?」

「これなら、香さんの手も痛くならないじゃないですか」

「――ッ!」


 そうなんだ。考えれば理解できたこと。

 香さんは俺のせいで手を傷めたんだ。それなのに俺をひっぱたけば、再び手を傷めることになる。それでは罪を償えない。

 だけど『別の何か』で俺をひっぱたけば、彼女は痛みを受けないし、俺も罰を受けられるのだと考えていた。自分のペンケースなら壊れても誰も困らないしな。万事ばんじ、これで丸くおさまるのだと思っていた。


「……。……ん?」

「……どうぞ」


 ペンケースと俺の顔を交互に見やり、困惑の表情を浮かべていた彼女だったがスッと右手を差し出してきた。そんな彼女にペンケースを渡す俺。


「……ふぅ。……ああ、みんなごめんね? 悪いんだけど少しの間だけ、私が『いい』って言うまで目を瞑っていてくれるかな? ……うん。ありがとう」


 彼女は一瞬だけペンケースを見つめると、軽く息をついてから後ろに振り向き、クラスメート達にこんなお願いをしていた。そんな彼女のお願いを素直に聞き入れて目を瞑るクラスメート達。全員が目を瞑ったことを確認した彼女はお礼を伝えていた。

 まぁ、俺がお願いしたことだとは言え、学校のアイドルが男子高校生をペンケースでひっぱたく光景なんて見せたくもないだろうし、見たくもないだろう。


「それじゃあ……する、から……よんちゃんも目を瞑って?」

「は、はい……」


 彼女の言葉に俺もゆっくりと瞼を落とす。だけど直後、俺の予想もつかない展開になるなんて思いもしなかった俺は、彼女の意図を気づけていなかった。

 そう、自分で遮っていた視界の先――うっすらと映る彼女の表情が。

 恥ずかしさを含んでいるような真っ赤に染まった、だけど何かを決意している表情だったことに。


「そ、それじゃあ……い、いくわよ?」

「は、はい! ……」


 完全に光を失った、真っ暗な視界。そんな俺の鼓膜に彼女の恥ずかしそうな声が響いてきた。

 俺は咄嗟に覚悟を決めて顔を強張らせていた。と言うより少し後悔しかけていた俺。

 いや、冷静に考えれば香さんの平手って相当痛いんだよね。何度も受けているので強烈な痛みを俺の体が覚えている。それが固いペンケースで殴られるとなると……。

 背中に伝わる冷たいイヤ~な汗と、俺のイヤーに伝わる彼女のものだろう。近づいてくる物音に恐怖を感じていた。

 だけど今更「やっぱりナシ!」なんて言えるはずもなく、ただ腹をくくることしかできずにいた俺。……まぁ、しゃー無しだな。

 自分の意志とは無関係にゾンビになったり魔装少女……かっこ、格好だけ、かっことじ。になったりするよりは破格の待遇だと考えておこう。

 

「……」

「……」


 歯を食いしばって衝撃に備えていた俺だったが、中々衝撃がやってこない。って、理由は簡単なんだろうけどさ。

 そもそも彼女が『こんなこと』を平然とできるような人じゃないってこと。俺が望んだからと言って、当たり前のようにペンケースで殴れる訳がないんだ。

 きっと今の彼女は良心の呵責かしゃくさいなまれていることだろう。

 彼女の性格を知っていたはずなのに、何で俺は彼女を更に苦しめているのだろう。自分勝手な自己満足で彼女に痛みを与えているのだろう。もしかしたら告白以前にフラれるのかも知れない。嫌われてしまったかも知れない。


「――ッ!」


 ……あ、ヤバイ。本気で泣けてきた。

 実際には起こらないことだとは思うけど真っ暗な視界の中、心細さと寂しさが拍車をかけていたんだと思う。

 目の前にいるはずなのに見えない彼女のことを考えていたら、彼女への溢れる想いと悲しみに、閉じた瞼の裏側に広がる心の汗を感じていた俺。今開けば確実に心の汗が頬を伝う。

 俺は更にきつく瞳を閉じて、溢れ出す汗を閉じ込めていた。なにやってんだろうな、本当に……。

 必死で堪えているから表には出していないけど、心の中では、みっともないほどに号泣して彼女に泣き縋っていた俺。

 別に女々しくても情けなくても格好悪くてもかまわない。彼女を苦しませて傷つけて、そして彼女に嫌われるよりかは何百倍もマシだと思うから。


 ――今からでも「やっぱりナシ!」って言ってしまおうか?

 俺が恥をかいても、いくじなしって笑われても、自分の撒いた種なんだから気にしない。だけどそれで彼女の心を解放できるのなら、彼女との時間が失われないのであれば……俺に残された選択肢はそれしかないのだろう。

 彼女との時間を失いたくなかった俺は、唯一の選択肢を導き出していたのだった。

 だけどそんな決断も虚しく、次の瞬間に俺の頬へと衝撃が襲う。ところが――


「……す、き……ぅ~んっ……」


 ――ちゅっ――

 

 本来冷たくて固く、そして頬と口内に走る強い衝撃を覚悟していた俺。

 なのに実際には暖かくてやわらかい、そして心に走る強い衝撃を覚えていたのだった。


 ……って、は? あれ? え? いや? これってまさか? ……弁当のおかずのたらこ? いや、入っていなかっただろうがっ!

 ……と、いう、こと、は――あんですとーーーーーーーーーーーーーー?


 突発的なことにオーバーヒートを起こしていた脳でも、頬にふれている感触が何なのかを理解できていた俺は心の中で絶叫していた。

 こ、これでも健全な男子高校生ですからね。ア、アニメやエロゲで知識は完璧ですからね。……当然ながら実戦なんて皆無ですけど。そして皆無だからこそ動揺しているのである。免疫ないのって本当に罪だと思うのですますはい……。


 余談だけど、実は小豆とも『こんなイベント』は一度もない。……未遂や阻止は数え切れないほどあるけどさ。

 と言うか、変態お兄ちゃんで申し訳ない。正直『ほっぺにチュッ』なら外国式の挨拶だと割り切って、喜んで行為を受け入れてもいいのかなって思う。さすがに理性が抑えられる範囲までの条件付きだけどね。

 だけどあいつは、さ……最初から狙いが別の方向を目指してんだよ。つまり、単なる兄妹のスキンシップイベントじゃなくて、小豆エンド一直線の個別ルート確定フラグを狙っている訳だ。

 要は『アルファベット最初の文字』のポールポジションを狙っているんだよな。それはさすがに困るのだ。

 なんとなく最近のドタバタで、俺の決意と言う名の要塞が衰退の一途を辿っているように思える。

 正直、「もう、俺も十八になったんだよな……」なんて無血開城を考えてしまうこともある。

 ――おっと、オーバーヒートしたせいで変なことを考えていたようだ。そろそろ現実に目を向けようか。まぁ、目は閉じたままなのですが。


 そう言えば確か、頬にふれる瞬間、彼女が何か呟いていたみたいだったけど、それは短くボソリと音を感じる程度。

 いや、声だったのかもわからないほどの、熱い吐息に紛れていた言葉だった為に俺には理解ができていなかった。

 だけどそれ以上に、今の現状が俺の脳内から『彼女が何を言ったのか』って疑問を消し去っていたのだろう。


「……ぅぅんっ……ぅぅむ……」

「……」


 うーん……と言うより、未だに感触が伝わっているのは俺の願望による妄想ではないと思う。頬に伝う熱と頬に吹きかかる熱い吐息は現実のできごとなのだろう。

 よって、こんな状況の俺が暢気に疑問を気にしていられる訳がない。現実逃避はできるけどね。

 そんな俺の頬にふれている彼女は微かに震えていた。彼女の音が俺の鼓膜を震わす。とは言え、別に何かを呟いている訳ではなく。

 さっきまで弁当を食べていたとは言え『おべんと』をつけていることもなく。

 更には俺が善哉だからって『擬似ぜんざい』を食べているのでもなく。それなら弁当食べるだろうし。

 ましてや、人間を食す人外の存在と人間とのバトルを描いたアニメ『大阪喰いたんねぇ』のキャラではない彼女。当たり前だけど。

 ――いや、大阪なんだから人間食さず美味いもんを食いだおれていただきたい!

 つまり、俺を本当の意味で召し上がっている訳ではないのである。まぁ、別の意味でなら絶賛召し上がり中でありますけどね。


 しかしこの状況をどう打破しようか。

 極限まで達していたのだろう。俺の思考は逆に冷静になっていた。

 そう、冷静になっただけで別に冴えているのではない。つまり『冴えない主人公ヒーローの育て方』と言うことだ。……ボケが冴えていない上に、何度も言うが俺は主人公ではない。 

 結果。どうすることもできずにいたのである。


「……んぅっ……」 


 ――ちゅぽんっ――


 冷静な頭で、まったく冷静ではない考えをめぐり……めぐみ……えりり……うたは……倫理……はっ!

 と、とにかくまったく冷静ではない考えを巡らせていた俺の頬と耳に変化を感じていたのだった。

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