第5話 土下座 と 本心

 これが俺のことなら嘘をついても問題ないだろう……なんて、言っていることが矛盾しているけどさ。

 もう、俺に残された時間は数ヶ月――あと数ヶ月もすれば卒業してしまうのだ。

 だから、この場では嘘をついておき、あとで香さんにだけ真実を打ち明ける。

 そして卒業まで誤魔化ごまかせられれば何も問題はないのだと思う。

 まぁ、俺のことなんて最初から誰も気にしないだろうし、それで十分なんだろう。


 ――だけど小豆は違う。あいつには二年以上の時間がある。それに、あいつは学校のアイドルなんだ。

 嘘で誤魔化した偽りの時間を、小豆は二年以上も周囲に晒し続けて生活することになる。

 それが本当に小豆の為になるのだろうか。妹が笑って高校生活を送れるのだろうか。

 また以前のように、偽りの笑顔を浮かべることになるんじゃないのか。

 今年はまだ俺が守ってやることができるけど、来年になれば守ってやることも叶わない。

 もちろん、あいつ自身がそれほど弱いだなんて思っちゃいないが、それでも俺はあいつのお兄ちゃんだからさ。迷惑かも知れないけど、守ってやりたいんだと思う。 

 だけど現実に俺は小豆の卒業まで守ってやることなんてできないのだ。そうなった時に、あいつから笑顔が失われるかも知れない。正直、その時には俺は気づくこともできないのだろう。

 だから、あの時と同じで……俺がまた妹の笑顔を奪うことになるんじゃないのか。

 結局、俺は妹を守れなかった。俺のせいだ、全部俺が悪いんだ……。

 そんなことを考え、心に侵食する冷たい風を感じていたのだった。


「……ふぅぅぅぅ……」

「……」


 軽く瞳を閉じ、顔を歪めながらも決意を新たに深く息を吐き出していた俺。

 このまま隠し通せる問題ではない。それが小豆の為になるとは思えない。だから真実を打ち明けることには変わりはない。


「……」


 息を吐き出した口を閉じて、今度はゆっくりと鼻から空気を肺へと送りこむ。

 俺の鼻腔へと、目の前に置かれた小豆と香さんの料理の香りが注ぎ込まれて、冷たくなっていた心も少し落ち着きを取り戻す。

 そう、今やるべきことをするまでなんだ。ありのままの事実を伝えるだけなんだ。


 だからと言って、これから起こりうる現実――小豆に突き刺さるであろう現実を見過ごす訳にもいかない。これもまた、俺への罰なんだから。

 俺が妹を守る。すべてを償う。

 その覚悟を胸に秘め、すべてを打ち明けるつもりなのだった。


 打ち明けるのは小豆の為。だけど、そのせいで突き刺さる現実は俺のもの。

 そう、幸せな高校生活はあいつのモノ。そして、悲しい現実は全部俺がけ負えばいいんだと思う。

 俺はどうなってもいい。何を言われてもいい。冷たい態度を取られても、俺から離れていこうとも。

 あいつが心から笑ってくれるのであれば、俺もきっと笑っていられるのだから――。

 

「……」

「……」


 俺はおもむろに目を開けて、ジッと香さんを見据える。

 彼女も俺をジッと見据えていた。そして周囲の生徒達も見据える中。俺は言葉を紡ぎ始めるのだった。


「そこに書かれていることは……すべて真実です」

「……そう、なの……」


 俺の言葉と表情に、重苦しい表情を浮かべて答える香さん。

 周りで聞いていた生徒達も、彼女と同じような表情を浮かべて俺を見つめていた。

 想像通りの反応。当たり前の反応。世の中がそんなに甘くないって証拠だろう。

 心では理解していたことなのに、「それでも香さん達は違う」って、そう思いたかった俺の甘さを嘲笑あざわらう現実。

 

「――ッ! ……」

「――よ、よんちゃん?」


 そんな現実に。教室内に蔓延はびこる現実の重さに、押し潰されそうになっている自分の気持ちをふるい立たせて。

 俺は椅子から立ち上がると昼飯の為に移動したことによって作られた、机と机の間のスペースに正座する。

 突然のことに驚いた香さんが声をかけてきたが、俺は彼女の言葉を聞き流して、床に両手をつき、そのまま額を床に打ちつけたのだった。

 打ちつけた瞬間に、「ゴンッ」と言う鈍い音が教室に響く。

 俺の額に激痛が走り、視界に火花が散る。少しだけ眩暈めまいを起こしている視界。それでも俺は、心の叫びを教室中に響かせるのだった。


「お願いしますっ! ……小豆と今まで通り、仲よくしてやってください!」

「よ、よんちゃん……」


 俺が叫びきると、香さんの困惑した声が鼓膜に響いてきた。頭を下げたままだから表情は見えていない。

 周囲は声すら発していなかった。だけど、見ていなくても想像できる。今、目の前で纏っている冷たい空気。その空気を、ここにはいない小豆に馳せようとしていることを。

 俺は彼女の言葉を受け流し、想いを叫び続けていた。


「小豆とは……妹とは血は繋がっていません。そもそも俺もお袋の連れ子。本当の父親は今の親父の弟――俺が生まれてすぐに病死した父親の代わりに再婚したんです」

「――ッ!」


 血が繋がっていないことは書かれていても、俺自身が親父と血が繋がっていないことを知らない香さんの息を飲む音が鼓膜を震わす。


「……そして小豆は……お袋の知人の子供です。あいつが生まれてすぐに……あいつの両親が事故死した。でも身寄りのなかった妹に、お袋は自分と俺を重ねたんだと思うんです。だから、親父と相談をして、養女に迎え入れて……我が子として育てているんです。なので、両親の本当の子供は智耶だけなんですが、それでも俺達は本当の家族のように育てられてきたんです……」

「……」

「そして、あまねるとは中学時代に、悲しい衝突がありました。そのせいで妹は私立中学を退学して公立中学へと転校しました。一時期、いじめにも苦しんでいました。そして、その原因でもある……あいつ自身がアニオタだってことも……そこに書かれていることは全部本当のことです……」

「~~~~」

「……」 


 手紙の内容の全てが真実であることを認めると、少しだけ教室内がざわついていた。

 俺は顔を上げると、正面をジッと見据える。目を逸らすことなんてしない。目の前の光景、突き刺さる現実を受け止める為に。

 俺の目の前には、悲愴の表情で俺を見つめる香さん。その後ろに見える、同じような表情のクラスメート達。俺は、そんな無数の突き刺さる現実にひるむことなく叫ぶ。


「――それでもっ! 小豆が小豆だってことには変わらない……何一つ変わっちゃいないんです。血が繋がらない兄妹でも、過去にあまねると衝突していても……あいつがアニオタでも。それは単なる設定でしかない。あいつの個性であり過去のことなんです。ただ、人より少し個性が強いってだけで、中身のあいつは目の前に存在する。みんなの知っている小豆でしかないんです。だから今まで通り、距離を置かずに仲良くしてやってください!」

「……」


 俺の言葉に誰も何も言わない。ただ悲愴な表情で俺を見つめるだけ。それは拒絶を意味しているのだろうか。やはり真実だけが世のことわりだと言うのだろうか。

 いや、こうなることは理解していた。これが自然なんだと覚悟していた。ただ……俺が微かな望みを諦めきれなかっただけなのだろう。

 いいさ。だったら……俺が真実を捏造ねつぞうしてやる。全部俺が悪いことにすればいいんだ。

 降りかかる非難は俺が受け止める。だから小豆は笑っていてくれれば、それでいいんだ。


「――ッ!」


 俺はきつく唇を噛むことで、無意識に感じていた微かな唇の震えを抑える。

 そして決意の表情を浮かべて、非難を俺に向ける為に捏造した真実を紡ぐのだった。


「ごめんなさい! 小豆は、悪くないんです……真実を、全てを伝えなかった、隠していたのは……俺の指示。俺が、妹に隠しておくように……命令、したんです。あいつが俺に……好意を寄せて、くれているのを知って、それを、利用したんです! 俺が……誰も知らない秘密なんだって、優越感に、浸りたくて……誰にも、喋らせなかったんです!」

「……」


 少し酸欠に陥り、霞んだ視界。自分の叫びに微かに耳鳴りを覚える鼓膜。だけど心地よい。冷たい風に覆われていた心が一気に熱くなる。

 もちろん言っていることは捏造だ。真実なんかじゃない。偽りを伝えているに過ぎない。

 だけど、なんだろう、この清々しい気分は。

 自分でも理解できないくらいに、とても心地よい高揚する感覚に包まれていた。


「すぅ……」


 次の捏造を紡ぐ為、開いたままの口で空気を吸い込む俺。

 刹那、心の底で「パリン」と音を立てて、何かが解放される錯覚にとらわれた。

 次に紡ぐのも当然捏造だ。そう思って、舞台袖に配役していた俺の意志である捏造の言葉など無視するように――

 奥に閉じ込めていた俺の想いが驚くほどにスラスラと口から飛び出していくのだった。


「――こんなのは単なる我がままかも知んねぇけど……俺は小豆に笑っていてほしかった。幸せでいてほしかった。ただ嬉しそうにしている姿を見ていたかったんだ。あいつの笑顔を見ているだけで、俺は幸せになれるんだよ……そりゃあ、さ? そんなもんは、ただの自己満足だってわかっているけどさ。単純に俺のことを幸せにしてほしかっただけなのかも知んないけどね? だけどさ、その笑顔があるから……俺があいつに何倍もの幸せを与えてやりたいって願えるんだよ! あいつを幸せにしてやりたいって感じられんだよ! ……だけどさ……俺って欲張りなんだよ……俺だけに向けられた笑顔だけじゃ幸せになれないんだよ!」

「……」


 スラスラと口を飛び出す言の葉に、香さん達は目を見開いて驚きの表情を浮かべている。だけど、それは俺の心も同じこと。   

 捏造した言葉とは打って変わって流暢りゅうちょうに紡がれる想い。その変化に驚きと違和感を覚えつつあった。

 何より口調が、香さん相手だと言うのに普段よりも荒々しい。

 いや、違うな。これは飾らない素の自分なのだろう。

 小豆を認めてほしくて。現実を俺に仕向ける為に選んでいた言葉じゃない――俺の本心。飾らない気持ちだから流暢に紡がれているのだと思う。

 だけど正直、今の口調は頼みごとには適していない。内容だって、俺へ非難を誘導する要素が感じられない。

 だから俺の想いなんて、この状況では無意味なことだって。ただ周りの印象が悪くなるだけなんだってことは、頭の中では理解しているつもりだ。

 だけど、堰を切った想いをしずめる術なんて知るはずもない。

 そう、俺自身どうすることもできずに翻弄されていた。

 そして本来、頼みごとをしているはずの相手から『こんな言われ方』をすれば誰でも気分を害すだろう。不愉快さや怒気を含んで顔を歪ませるだろう。

 それまで平身低頭へいしんていとう、敬語でお願いしていた相手が、突然タメ口で関係ないことを熱弁すれば誰だって「輝け!」の英語ローマ字読み的なツイートをしてしまうほどの感情をいだくと思うのだ。それなのに……。


「……」

「……ふぅ」


 俺の目の前に映る光景に、そんな感情が渦巻いているとは思えなかった。

 と言うよりも、何故かは知らないけれど目の前に映る全員の表情には微笑みが。

 優しくて暖かな微笑みを感じていたのだった。

 

 もちろん俺の思いこみによる自己暗示に過ぎないのだろう。そんな表情を浮かべられる理由が見当たらないのだから。

 だけど、既にここまで言ってしまったんだ。今更引き返すことも、なかったことにもできやしない。

 だったら言い切ってしまうしかない。それしか俺にはできないのだから。

 そんな風に開き直ると、俺は言葉を繋げることにしたのだった。


「みんなから愛されている――少なくとも、俺はそう感じているけど……そんな、みんなに愛されて、みんなを愛して、心の底から笑っているあいつの笑顔が俺は好きなんだ。……別に俺だけに笑顔を見せてくれだなんて思わない。俺が一番じゃなきゃだめだなんて思っちゃいない……いや、俺に微笑んでくれなくてもいいんだ。俺はただ……誰かに向けた笑顔を眺めていられるだけで幸せ……それが俺の幸せなんだよ!」

「……うん……」


 俺の叫びを微笑みのような表情で見つめていた香さんは、瞳を閉じ、おもむろに小さく声を発すると納得の笑みを溢しているような表情でコクンと頷いていた。そして、そのまま俯いていた。

 彼女の心意はわからない。それでも想いが伝わったんじゃないかって思えていた。だけど――


「そうさ……だから、だから俺は……あいつの為なら、あいつが笑顔でいられるなら何でもする――みんなが小豆を許してくれないなら、俺に償わせてほしい! みんなが妹を許してくれるなら……俺は学校を去ってもかまわない!」

「――ッ!」

「……だ、だから許してやってください! あいつから笑顔を奪わないでください! 約束してくれるなら俺は今すぐにでも退学――」

「はい、ストップ!」

「――ッ!」


 次の言葉で彼女は驚きの表情でバッと顔をあげ、俺をまっすぐに見据える。彼女の表情に一瞬だけひるんだけど、俺は言葉を繋いでいた。

 でも俺が「今すぐにでも退学します」と言い切る前に、「パンパン」と甲高く音を響かせた彼女の開手ひらてと言葉でさえぎられてしまう。いや、違うな。

 正確に言えば、香さんの怒気を含んだ表情。そして周囲のクラスメート達の怒気を含んだ表情。

 そんな怒りを纏った空気に飲み込まれていたのだろう。

 過去には、何度も怒りや狂いに満ちた空気に対峙たいじしても怯まずに足を踏み出せていた俺。

 そんな俺でさえ二の句を告げることができずに、言葉が喉へと張り付いていたのだった。とは言え、理由など明白めいはくだ。


 俺の退学程度が、小豆を許す対価になんてならないってことなのだろう。俺の存在なんて単なる「小豆のお兄ちゃん」でしかないのだから。その程度で小豆と仲良くしてやってくれと言われても、納得なんてできないのかも知れない。

 だけど、それでも……俺には他に償えるものなんて何もない。それで許してもらえないからって、他に打つ手なんてないんだ。だから無理だとわかっていても、簡単に引き下がる訳にはいかないんだよ。


「たいが――」

「ストッ プッ!」

「――ィッ!」

「~~~! ……」

「か、香さん……」


 奥歯を噛み締め、張り付いた言葉を引き剥がして無理やりにでも飛ばそうとしていた俺。

 だけどそんな俺の言葉を一刀両断するように、彼女は俺を睨みつけたまま握り締めた右手を振り上げると。

 隣の高松くんの空いている机めがけて、言葉とともに拳ついけんついを叩きつけたのだった。


 鼓膜に響く打撃音に思わず顔を引きつり、声を発していた俺。その音は周囲のクラスメート達にもハッキリと聞こえていたのだろう。俺と同じように目を見開き、彼女を凝視していた。

 それだけの音量を奏でた打撃。彼女の右手が無事であるはずもなく。

 直後、彼女は痛みを耐えるように顔を歪ませ、声にならない声を漏らしていた。

 そんな彼女を心配して声をかけた俺と、心配そうに見つめるクラスメート達。

 少しして、多少は痛みが和らいだのだろう。目尻に涙をためながら、彼女は口を開くのだった。


「……」

「……」


 口は開いているが何も言わない。いや、何かを言おうと唇を震わしてはいるけど、俺には何を言っているのか伝わらない。だけど俺には、彼女の表情だけで言いたいことが理解できていた。

 突き刺すような視線と押し潰すような気迫と。

 心から俺を想ってくれているって伝えようとしている雰囲気。そう――

「次、そんなことを言ったら本気で怒るよ?」と言いたいのだと思う。

 別に今が「本気で怒っていない」こともないんだろうけど、これは警告。気持ちではなく態度で示すって意味なのだろう。


 ……ははは。「小豆の為に」って熱くなりすぎたみたいだな。後先考えずに突っ走りすぎたようだ。

 心の中で乾いた笑いを浮かべながら自分の愚かさを嘲笑っていた。

 そう、俺にとってはこれもまた『禁句』なんだって理解をしていたはずなのに――。

 香さんが怒っている理由。

 それは俺が小豆の為に退学をするって言ったこと。とは言え、別に根底から否定をしている訳ではない。

 ただ……以前の自分と小豆を重ねているから。小豆の気持ちがわかるから怒っているのだろう。


◇6◇


 彼女は以前、とある事件に巻き込まれて入院を余儀なくされた。

 その原因となったのが、俺とフダツキ連中との乱闘。その最中に俺をかばって大怪我おおけがをしたのだ。

 彼女の人気が校外まで及んでいたことにより、近隣で活動していたフダツキ連中のリーダーが噂を聞きつけ、どうやら彼女のことを見初みそめたって言う……まぁ、よくある話なのだろう。

 もちろん最初は彼女も穏便に断っていたらしい。だけど断られ続けて素直に引き下がる相手でもなく。

 彼女だけではなく、最終的には周囲の生徒にまで被害が及び始めていた。……肉体的、精神的、経済的、その他もろもろ。

 とは言え、今回の小豆とあまねるの件とは違い、単なる八つ当たり目的だった為に、周囲に直接的な結びつきを悟られてはいなかった。まぁ、それとなく事情を知っていた俺は悟っていたけどさ。


 そこで見るに見かねて、俺がフダツキを説得する為に単身アジトへ乗り込んでいったのだった。

 別に勇者ぜんとして、学校の為に立ち向かったつもりはないんだけどな。ただ俺が気に食わなかっただけさ。

 あと、香さんの周りをウロチョロされるのを黙って見過ごす訳にいかなかった。……みっともない嫉妬なんだけどな。

 そんな理由で乗り込んだ俺は、最初こそ穏便に済ませようと試みていた。だけど売り言葉に買い言葉。

 要は相手の挑発に乗っかってしまい、そして乱闘騒ぎを起こしていた。

 多勢たぜい無勢ぶぜい。途中までは何とかなったんだけどさ。ついに追い込まれてしまう。

 俺を羽交い絞めにするフダツキ。目の前には、ボロボロの視点が定まっていない瞳のリーダー。

 そして右手に握る銀色の冷たい光を放つ刃。

 同じくボロボロの視点が定まっていない俺の瞳に、刃を向けてリーダーが突進してくる姿が映し出される。

 そんな絶体絶命の瞬間、誰にも伝えずに単身乗り込んだはずなのに、香さんが突然俺の視界を覆い、俺とリーダーの間に立ちはだかったのだった。

 一瞬何が起きたのか理解ができなかった俺だけど、次の瞬間に彼女の悲痛を訴える表情と叫び。

 そして彼女の肩越しに映る、恐怖を覚えて後ずさりするリーダーの姿と。

 右手に握った赤く染まる銀の刃。地面に滴り落ちる赤を見て現実を理解する。

 ……これが、彼女を巻き込んでしまった事件。彼女を入院させて留年させてしまった事実。

 俺達の周りでは二人だけしか知らない事件の真相なのだった。


「……ふぅーふぅー。ぅぅぅ……」

「……」


 涙目のまま、自分の拳ついに息を吹きかけて左手で擦っている香さん。まだ痛みは取れていないのだろう。

 そんな彼女を見つめて心の中で謝罪をする俺なのだった。

 あの時は結果的に彼女に庇ってもらい、俺は大怪我をしなかった。だけど。

 もしも香さんが現れなかったら。タイミングが遅れていたら。大怪我をしていたのは俺だったはずだ。

 あの時点で俺が回避をすることも、リーダーが手心を加えていたとも考えられない。視点の定まらない瞳とボロボロの体では、そんな器用なことなどできるはずはないのだから。


 つまり、『自分のせい』で俺が不幸になる。俺にとっては自己満足、ただの自己犠牲に過ぎないんだけどさ。それは相手には通用なんてしないだろう。俺が受ける傷と同等の心の傷を負うのだと思う。

 実際にあの時、誰が見ても重症のはずの彼女は俺の悲痛の叫びを遮るように――

 俺の頬に周りへ響く甲高い音を奏でるほどの一閃いっせんの平手を打ちつける。それはフダツキ達のどんな攻撃よりも衝撃を覚えていた。そんな肉体以上に心に走る激痛を抱きながら。

 俺は彼女の大粒の涙が頬を伝う悲壮ひそうの表情で紡がれる、心からの彼女の怒りを受け止めるのだった。


 今だって、みんながいるから抑えただけ。これが二人きりで話をしていたなら、振り上げた右手は俺の頬に振り払われていたのだろう。怒りの言葉を突きつけていたのだろう。

 それをしなかったのは彼女の優しさ。俺を想って抑えてくれただけ。俺が何かをした訳ではない。


「……すみませんでした!」

「……まぁ、いいわ……頭は冷えたわよね?」

「はい……」

「……くすっ……まだ冷えてないのかしら?」

「――え?」


 俺は彼女に頭を下げて謝罪をする。結局、俺の独りよがりな行動が彼女を傷つけたのだから。これは俺のけじめ。現実を受け止めるには必要なんだ。

 そんな風に彼女を見つめていると、彼女は表情を和らげて、こんなことを言ってきた。

 それまでの行動を振り返り、反省するように答えると彼女は椅子から立ち上がり、俺に近づきながら小さく微笑みを溢してから言葉を繋ぐ。

 俺の意志が伝わっていないのかと驚きの声をあげる俺の額に――


「少し頭……冷やそっか? ――ッ!」

「――イタッ!」


 こんな言葉とともに俺の前にしゃがんでデコピンをする彼女なのであった。

 

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