第2話 壁ドン と 風除け

◇2◇


「……せん、ぱい? ……。――? ……」

「……あ、あぁ……ん?」

「……ぁ……ぅ、ぁ……ぅ、ぁ……」

「――って、うわっ!」 

「ぁぅぁぅ……」

「……う、うん、その、ごめん……」


 少しだけ時が止まった感覚に陥っていた俺。

 だけど、背中に回されていた彼女の腕がゆっくりと離れていくことに気づく。 

 彼女は半歩下がり、壁に寄っかかりながら上目遣いで声をかけてきた。

 俺は「頑張ってみたんだけど持ち上げられなくて断念してくれたのかな?」なんて安心しながら、彼女を見下ろしていた。いや、最初から持ち上げようとしている素振りは感じなかったんだけどさ。

 それまでは、たぶん自分のことで精一杯になっていて、単純に見えていなかっただけなのかも知れないけれど。

 落ち着いたことで、見下ろしている彼女の表情の変化に気づいた俺。


 目の前の彼女は顔を赤くして、とても居心地いごこちが悪そうだった。

 軽く曲げた指を口元に添えて、微かに体を前後に揺らし、潤んだ瞳の物欲しそうな顔で。って、彼女はそんなつもりじゃないんだろうけど、エロい自分勝手なお兄ちゃんには彼女がそんな風に見えていた。

 そんな表情で俺の胸元を見つめては声にならない音を奏でて、恥ずかしそうに視線を逸らす。そんな不思議だけど可愛い仕草を繰り返す彼女。

 そんな可愛い彼女を眺めて冷静さを取り戻した俺は、今の自分の体勢を把握する。

 って、お、俺、なにやってんだ?

 自分の格好を冷静に把握した俺は慌てて彼女から一歩後退する。そして冷や汗まじりの表情で謝罪をするのだった。


 ――うん。今でこそ、有名なシチュエーションとして確立されてはいるが、たぶん『当時』は名称なんてなかったはず……いや、俺、その手の作品の知識はあんまりないんだ。

 まぁ、当時から名称があったのかも知れないけど『男性向け』には使われている確率が少ないと思うから、記憶にないんだよな。それに今でも『女性向け』の定番シチュエーションだと思うから、ほとんど見たことないし。

 たぶん俺の好む作品的には――

『朝起きたら隣に美少女がシャツ一枚で寝ていた!』ってシーンよりも少ないと思う。いやいや、知らんけどな。

 あと、遠足のおやつにバナナは含まれませんが、作品の美少女に姉妹は含まれるのでシーン的には多いと思われます。

 だけど我が家の場合、あれはリアルなのでシーンには含まれませんし、そもそもほとんど寝られなかった上に朝起きたら小豆は既に起きてしまっていて、思わずシーツに顔を埋めて少し泣いちゃう数日間を送っていましたけどカウントしません! どうでもいいんだけどね。


 要は、当時からシーンそのものは存在していたけど名称なんてなかった……はずの。

『壁ドン』を彼女にしていた俺。口説いている訳でもないのにね。

 それこそ……俺のような雑魚ざこが彼女を口説こうものなら、彼女の右足が俺の両足の間に蹴り上げられること間違いなし。あ、想像しただけで痛みが……。

 まぁ、彼女の育ちのよさから、そんな乱暴なことはしないとは思う。いや、思いたい。と言うより、そうであってください、お願いします。

 ――うむ、もしも彼女を選んだとして告白することになっても『壁ドン』はやめておこう……。

 だけど、アニメとかでは……意外とナンパ野郎が蹴られた箇所を押さえてピョンピョン跳ねるシーンが存在するので断言しても問題ないのだろう。


 そんな厚顔無恥こうがんむちな振る舞いをしていた自分を恥じて彼女に謝罪をしたのだが。

 俺が慌てて離れた途端に、まるで『大事なおもちゃを取り上げられた小さな女の子』のように悲しそうな顔をして、うめき声を漏らしながら俺を見つめる彼女。


 ――それは、まるで。土曜の夜にテンションが高まりすぎて日曜日の朝に寝坊をし、ついでに録画を忘れていたから……。

 プリ●●ア観る為に智耶へ――HDから焼いた円盤を借りようとすると、妹に必ずされる顔にそっくりなのだ。さすがにほぼ毎週のことなので覚えてしまっていたのだな。

 いや、妹は早起きして毎週のように目を輝かせて、嬉しそうにリアルタイム視聴しているんだよ? 

 ……自分の部屋のTVでも、リビングのTVでもなく、俺の部屋のTVでヘッドホンしながら。なんで?

「だったら起こしてくれても?」と言いたいところだが、日曜なんてワン●ースが終わるまで絶対に起きたくないからさ。お兄ちゃんの安眠の為にヘッドホンしているのだと思う。だから、なんで?


「いや、それなら自分の部屋で視聴しろよ……」と言いたいところだが。

 妹がヘッドホンをしているのでアニメの音声は聴こえないのに、智耶の『実況の音声』が大音量で聴こえてくる。いや、感嘆とかだけど。

 妹が画面の前にいるので映像は観れないのに、智耶の後姿の『実況のリアクション』が鮮明に映し出される。

 つまり、お兄ちゃんは毎週アニメを観る妹の姿を、寝ぼけ眼でリアルタイム視聴をしているのだった。だからアニメが気になって観たくなるってこともあるかも知れないが、お兄ちゃんはプリ●●ア自体も好きなのだ。

 そんな風にアニメを楽しそうであり、真剣に食い入るように視聴している妹を「うん、やっぱり智耶は小学生なんだな」と微笑ましく眺めているのである。

 そして、「やっぱり妹って可愛い生き物だよな」と素直に感じているのである。

 ……要は小豆による洗脳の一環なんだろうな、俺の部屋で観ているのって。まぁ、悪い気分はしていないけどさ。

 つまり俺は言うほど困ってはいない。


 そして、正直に言って。

 アニメが終わってからの約一時間する二度寝が、最近の睡眠の中では一番快眠できるのだ。とても気分よく起きられるのだ。思いっきり寝ぼけていますけどね。

 だから再び目を開けた時……いつの間にか俺のベッドに潜り込んで嬉しそうに俺の寝顔を眺めている小豆にも――


「……おぁょう、あぅきぃ……」

「むふふぅ♪ おにいちゃぁ~ん……すぅ~、ふぁ~。……おふぁひょ~♪ すぅ~、ふぁ~。……」


 微笑みを送りながら頭を撫でてあげつつ、ごく自然に……呂律の回らない口で「おはよう、小豆」なんて挨拶ができるのだ。普段なら驚いて、と言うより恥ずかしくて飛び起きているところだと思う。寝ぼけているだけのような気もするけどさ。

 

 俺に頭を撫でられている妹は、更に嬉しそうに微笑みながら俺に抱きつき『くんかくんか』して挨拶を返す。そんな妹を眺めながら、小豆の体温と香りに包まれながら。

 それから三十分ほど一緒の時を過ごしているのだった。 

 約三十分後。小豆が満足そうな表情を浮かべながら部屋から出て扉を閉める。その閉まる音で我に返る俺は……「なにやってんだ、俺ー!」と自己嫌悪に陥りながらも、智耶に円盤を借りてきてアニメを鑑賞するのだった。いや、アニメに罪はないからさ。毎週楽しく視聴させていただくのであった。

 まぁ、アニメを観終わる頃には自己嫌悪なんて消え去っているんだけどね。アニメは偉大なのである。

 そんな理由で……いや、小豆はともかく、智耶については強く否定できない俺なのであった。

 あと「だったら録画しておいてくれても?」と言いたいところだが、智耶は録画の仕方を知らないので無理なのである。

 

 そして、智耶の持っている円盤と言うのはリピート視聴用に親父が焼いてあげているんだ。って、親父、なんで娘には甘いんだよ! だったら俺にも焼け! 

 ……まぁ、単純に智耶の部屋には録画機器がないから、親父が焼いてあげているんだけどね。

 今度、智耶に録画機器を買ってやるかな……俺の観たいアニメを録画してもらう為に、親父の金で。

 でもなぁ、親父に金借りると大変なんだよ。だって「利息は『といち』な?」とか言い出すんだ。 

 うん……完済するまで十日に一日は『小豆とデート』しろって言うんだ。どこの悪徳商法なんだっての!

 って、まぁ毎日『おうちでデート』しているような俺は、きっと過払い金が発生しているだろうから、請求すればチャラ……ヘッチャラなんだけどね。


 ――本当にな? 悪徳商法すぎるよな。

 小豆と一日でもデートなんてしてみろよ? 次が十日後なんて待ちきれる訳ないじゃんか……。

 小豆ロスに陥って、デート終了直後から憂鬱になって『スイカの画像』が心の支えになっちまうぞ?

 夜中に悲しくなって、涙で濡らした枕カバーと……ほとりちゃん達を毎日小豆に洗濯させるぞ?

 今はまだ眺めているだけだが、無意識にポケットに入れて自分の部屋まで持っていっちゃうぞ? 

 出陣の強制加勢をブラック企業並みに酷使させるぞ?

 そうなったら大事な娘さんが可哀想だろ?

 ……だから毎日とは言わないけど、せめて『にいち』か『さんいち』くらいにしてくれよぉ。

 って、毎日『おうちでデート』しているような俺は、特に禁断症状は発症しないけどね。変態症状までは保証できないのだ。


 いやいやいや、そもそも『あの頃』の俺はまだ小豆を愛してはいないのだから、小豆に暴走してはいけないのだよ。まぁ、認めていなかっただけで実際には既に愛していたんだと思うけどな。

 ……うん、単純にあの頃はそんなこと考えていなかったんだからさ。少しは冷静になれよ、『あの時と今』の……特に暴走しまくっている『今』の俺!


「……ぁぅぁぅ……」

「……」


 未だにうめき声を漏らしているあまねるを見て、少しだけ心を落ち着かせていた俺。

 やっぱり他人の冷静じゃない姿を見ると、自分は意外と冷静になれるもんだな。さて、冷静になったところで考えを進めよう。


 つまり、リピート視聴をしようと思っている智耶から強引に円盤を取り上げたら、もの凄く悲しい顔をされる訳だ。

 ……あー、冷静にならなきゃよかった。自分で自分を殴りたい衝動にかられたじゃねぇかよ。ごめんな、智耶……来週も多分、よろしく。と言うより智耶が可哀想だから俺の分も焼いてくれ、親父!

 などと、当時の俺は考えていたのだった。



「……本当に、ごめんね?」 

「……なにを謝っているのですかぁ?」 


 そんな、この場にはいない智耶の悲しそうな顔と重ねて見つめていた彼女に、もう一度謝っていた俺。

 彼女の表情を眺めて「やっぱり、フロントスープレックスを諦めていないのかな?」なんて感じていたのだろう。……もう勝手にしろ! って、俺だけど。

「彼女の力だったら大惨事にはならないだろうから、彼女の気の済むようにしてあげるべきなのかな?」なんて、俺が再び彼女に近づこうとした瞬間。

 少し拗ねた顔をしながら俺に言葉を投げかけていた。その言葉で足を止めた俺。

 口調も甘えた感じに戻っていたので俺を投げるのを諦めたのだと安心していたのだった。


「いや、ほら……うん。さっきの格好が、ね……」

「――ぇぃ!」

「わっ! ……え? ぅぅぅ……」


 不思議そうな表情をする彼女の言葉に、自分の腕を肩辺りまで上げながら眺めて、向き直りつつ言葉を紡ぐ俺。

 その瞬間、小さく掛け声をかけたと思ったらピョンと跳ねて俺の胸に飛び込んできた彼女。

 一瞬何が起きたのか理解できなかったんだけど、そんな俺の体に冷たい風が吹きつける。

 しっかりと防寒してきたんだけど、汗をかいたせいか体が冷えていたのだろう。一瞬だけ体を震わしていた俺。


「……ありがとうございます♪」

「え? なにが?」


 そんな俺を見上げて笑顔でお礼を言ってきた彼女。なんのことだか理解できずに聞き返していた俺。


「……クスッ♪ ……私の為に『風け』をしていてくれたのですよね?」

「……あ、ああ、そ、そうなんだよ! うん、そうそう、風除け風除け……あんまり効果なくて、ごめんね?」

「そんなことはないですよぉ~」


 困惑している俺を見上げて嬉しそうに微笑むと、お礼の意味を教えてくれていた。

 うん、この微笑み。よく小豆が俺に抱きついてくる時にするような、熱のこもった「うっとり」としている微笑みに似ているんだよなぁ。とは言え、彼女の心意は謎だけどさ。 

 特に壁ドンに深い意味はなかったんだけど、プラスの方向に勘違いしてくれた彼女の言葉が助け船のように思えて、彼女の言葉に乗せてもらうことにした俺。……船だけにな。

 そう言う理由で謝ったってことにして、フォローのつもりで念押しをしておくと、彼女はクスクスと笑いながら言葉を繋いでいた。そして、再び背中に手を回すと顔を赤らめて言葉を送る。


「すごく嬉しいです……でも、――が、冷たく、なっちゃって、いますか、ら……わ、私が暖めて、さ、差し上げます、わ?」

「――ッ! ……あ、ありがとう、すごく暖かいよ……」

「すぅ、ふぁ~。……ふぃぇふぃぇ~?」 


 言葉が重なるにつれて、少しずつ背中に回された彼女の両腕が、俺の上半身へと圧を加えていた。その圧と連動して、彼女の体が俺に少しずつ更に密着する。

 そんな彼女の体温を感じて俺の体は熱を取り戻す。いや、行為そのものにより一瞬で蒸発するほどに熱を帯びていた。

 ――あの時は、恥ずかしさからくる火照りだと思っていたけど、ありゃ完全に『恋の炎』に焼かれていたんだろうなって、今なら思えるのだった。


 彼女の体温と言うよりも、自分の発熱だろうと思うものの。結局の着火は彼女がしてくれたんだと認識していた俺。

 正直に言えば、この言葉が適しているかは疑問だったけど、気の利いた台詞なんて持ち合わせていない俺は火照りを顔でも感じながら彼女にお礼を伝えていた。

 そんな言葉に顔を埋めて深呼吸をしながら、視線だけ俺に合わせて「いえいえ」と返事をする彼女。

 うん。俺、汗かいているしさ。臭いとか少し気になるところだけど。

 俺を暖めてくれるって言っちゃったから、我慢してくれているのかなって思っていた。

 嫌がる素振りなんて一切見せずに、ずっと俺を暖めてくれている彼女。

 そんな優しさが嬉しかったんだけど、それ以上に胸元辺りで「ふがふが」言いながら、嬉しそうに顔を真っ赤にしている彼女が可愛いなと思いながら、俺は彼女に微笑みを送っていたのだった。


「……ふぅ……」

「……」


 だいぶ体と心が暖まっていた俺の鼓膜に彼女の軽く息を吐く音が響いてくる。そして再び背中に回されていた腕が離れていく。

 途端に背中を襲う外気の冷たさを感じていた俺。彼女の優しさが、温もりが、それだけ暖かかったと言うことなのだろう。

 そんな訳で外気で少し冷えたことにより、彼女の熱でのぼせていたであろう脳内も冷静さを取り戻していた俺は、二人の決着――そう、肝心な結末について、疑問を覚えていたのだった。


 そもそも俺は彼女の望みを受け入れなかった。それに対して、彼女は怒りをあらわにしていた。

 それでも俺は彼女の望みを受け入れる訳にはいかなかったから。自分が悪いのだと非を認めていたのだから。

 俺は彼女に嫌われる為に、彼女と小豆が幸せになれるように。

 彼女に敵意を向けさせる選択肢を突きつけたはずなのだ。

 俺の選んだ最良の選択肢。彼女を傷つけることなく、俺に確実に敵意を向けさせる言葉。

 ――小豆とあまねるは俺の妹。妹の痛みはお兄ちゃんの痛みなんだから誰にも渡せない! ってな。

 ……ああ、うん。改めて思い出しても最悪な言葉だよな。自己嫌悪に陥りそうだ。

 

 いや、言葉そのものに対して最悪な言葉だと感じたり、自己嫌悪に陥っているのではない。別に嫌われる為に嘘を言った訳ではないのだから。

 言葉そのものは俺の本心。本気で小豆と同じくらい、彼女のことも『俺の妹』なんだって感じている。小豆と同じように、彼女にも『親友の兄貴』としてではなく、彼女の『お兄ちゃん』として接しているつもりだ。だけど、さ。

 それって俺の勝手な独りよがりなんだと思う。本人の了承なんて取っていないんだしな。

 俺の気持ちである以上、どんな風に彼女のことを思っていようとも、彼女に何かを言われる筋合いはないと思う。……あくまでも、俺の脳内で考えているだけであるならば。


 そう、俺は彼女に自分の独りよがりな考えを押し付けた。彼女に向かって「俺の妹だと思っている」と伝えた。彼女のお兄ちゃんであることを前提に話を進めた。

 いや、それ以上にさ。小豆の痛みを俺の痛みだから譲れない。あまねるの痛みも俺の痛みであり、それは「お兄ちゃんだけが与えられた特権だ!」なんて口走っていた。

 ……本当、吐き気がするほどキモいよな。「あなたは、何様なんですか?」って、感じるよな。

 某自転車競技部のオタクな彼の京都にあるライバル校の彼なら「ぷぷっ、キモッ! ほんま、キモすぎるよ……なぁ? きもがみねくぅん?」なんて嘲笑あざわらわれるレベルのキモさを発揮していた俺。 

 とは言え、俺の狙いはそこにある。彼女に俺への不快感を与えるのが目的だった。


 そう、俺の言葉を受けた彼女はきっと――


 『あまねる』を勝手に『俺』の妹だと思っていた。ただ、私は彼が親友の兄だから邪険にできないだけ。単なる社交辞令で接していただけなのに、さも私が好意を抱いているのだと、彼は錯覚している。自分に好かれる要素があるなどと陶酔とうすいしきった過大評価をしている。

 そんな、勘違いなナルシスト野郎。

 それだけでも鳥肌が立つほど不愉快なのに……私の親友である、本人の妹にさえ変な考えを持っている変質者。

 こんな下劣で最低な人間に私は罪を感じていたのだろうか。とても腹立たしい。罪を感じるのが馬鹿らしく思えてきた。

 そして自分だけでなく、親友にまで気持ちの悪い考えで接していることは非常にがた屈辱くつじょくだ。 

 だから金輪際、彼との接触などしない。彼女にも必要以上深追いはさせない。彼女は私が守る。


 と、こんな風に気持ちの整理をつけて、彼女は俺に完全に敵意を向けるものだと思っていたのだった。


 そう、結局のところ、な。罪の意識なんて責任転嫁すれば簡単にぬぐえちまう。「自分が悪い」ことだと理解していても、「それ以上に相手が悪い」のだと思い込めば自分に課した罪なんて消えちまうのさ。誰だって自分が一番可愛いんだからさ。

 相手が悪いと理解したのに、わざわざ自分を罪で押し潰すことなんてしないのだ。

 ……昔の俺がそうだった。とは言え、俺の場合は自暴自棄になり、押し潰されそうになっていた自分へ突きつけられた現実から目を背ける為に。

「俺は何も悪くない、全部親父達が悪いんだ」と、自己防衛して理性を保っていただけ。

 結局、自分が馬鹿なだけで親父達は何一つ悪くなかったのだが。

 矛先を変えたことで、恨みを抱くことで、俺は自分を保っていられたのだと思う。

 きっと矛先を変えられなかったら……今頃どうなっているのかなんて自分でも想像ができないのだ。

 もちろん、小豆の存在が常に俺の心の奥底にみついていたから、今のように普通の家族として生活できている俺が存在しているんだけどさ。

 矛先を変えていなければ、小豆の存在すら消し去っていたのかも知れない。

 だから俺は、彼女の矛先を変えることで彼女の罪を受け取ろうとしていたのだった。


「はぁ~、はぁ~。……すぅ~。……うふふ♪ ……ぅぅぅ……」


 そんな困惑する俺の目の前で両手に息を吹きかけて暖を取っていた彼女。

 だけど一瞬だけ両手を見つめていた彼女は何を思ったのか、両手を自分の顔に近づけて鼻から息を吸い込んでいた。そして微笑みを浮かべたけど、我に返って俯くのだった。

 やっぱり無理をしていたのかな、我慢していたんだろうな。

 そんなことを考え、申し訳なさで一杯になる俺。きっと、俺なんかを抱きしめていたから気分が悪くなっていたのだろう。

 だから自分の香りを嗅いで気分を落ち着かせたかったのだと思う。

 でも彼女の性格上、目の前の俺がいることを思い出して、自分を責めて行為を恥じていたのかも知れない。

 それが例え事実だとしても、決して自分からは俺に自分の失態なんて見せないだろうから。


 そう、なんだ。それが不思議なのだった。

 なぜ、彼女は『こんな表情』を未だに俺に向けているのか。いや、俺の壁ドン以降の彼女の行動すべてが俺には想像できなかった。

 俺は彼女の望みを受け入れなかった。それだけでも彼女にとっては腹立たしいことだと思うのに。

 更に最低な人物だと理解した今。彼女の行動は『俺に攻撃を仕掛ける』ことだと俺は思っていた。

 いや、それすらも価値がないと判断して、一刻も早く存在を消し去りたいと願い、早々に立ち去るのだと考えていた。

 ところが彼女の行動は真逆。今日――俺に怒りを見せるまでと同じように接してくれている。

 俺は確実に敵意を向けさせたはずなのに……なんで、こんな風に俺と向き合いながら穏やかな時間を過ごしてくれているんだ。俺には彼女の心意がわからずに悩んでいたのだった。


 俺の言葉が彼女に届いていなかったと言うことなのかも知れない。やはり落第者の俺の言霊では彼女の心には傷一つ与えられなかったのだろうか。

 ……いや、それすらも自分を過大評価していたのかも知れないな。

 最初から彼女にとって俺は『小豆の付属品』、『小豆のおまけ』に過ぎなかったってことなのか。

 俺が何かを突きつけたところで、彼女にとっては蚊に刺された程度のことなのだろうか。

 彼女が俺に罰を望んだのは、俺に対して非を感じていたからじゃなく。

 ただ自分が自分で許せなかっただけ。俺なんて関係ない。そうすることで自分の罪と向き合う為だけ。

 つまり最初から俺の存在、俺の決意なんて空気と同じだったってことなのだろう。 


「――ッ! ……あ、あの、さっ!」

「――ひゃ、ひゃいっ! ……な、なにか?」


 もちろん、彼女に好印象を持たれているなんて考えてはいない。あくまでも俺は親友の兄貴に過ぎない。いや本来ならば、最悪の印象しか持たれていないはずなのだから、高望みをしているつもりはない。

 それでも……これまでの彼女の態度で、多少は彼女の心にも俺が棲みついてくれているのだと思っていた。親友の兄貴としての自分が存在しているのだと思っていた。

 それが単なる勘違いだと気づかされてショックを隠せないでいた俺。

 思わず強めの口調で彼女に言葉を紡いでいた。

 そんな俺の言葉にビクッと驚いて視線を合わせ、恐る恐る訊ねてくる彼女。


「……」

「あ、あの? ……」


 ああ、俺は何を腹を立てているんだろう。

 目の前のビクビク震える彼女を眺めながら、心の中で自嘲気味に呟いていた俺。

 彼女が俺をどう思っていようとも、それは彼女の自由であり、それについては俺が何かを言える権利は存在しない。

 数分前に逆の立場で考えていた自分の気持ちが、見事にブーメランとなって自分の心に突き刺さる。

 それに今そんなことを知ったところで意味はない。

 俺はただ彼女の心意――彼女の押し潰されそうになっていた罪の意識の行方が知りたいだけなんだ。


「え、えっと、その、――?」

「ふぅ。ごめん……聞きたいことがあるんだ?」

「あっ、はい……」


 オロオロしながら声をかけてくる彼女に、軽く息を吐いてから優しく微笑むと俺は言葉を紡いでいた。

 どうでもいい相手だとは言え、目の前で怒りを体現していれば狼狽ろうばいしてしまうだろう。まして彼女には、そう言うがあるのだから……。

 だから俺は優しい微笑みで彼女に訊ねるのだ。萎縮いしゅくしている状態で本当のことを話してくれるとは思えない。

 そう、彼女の考えに俺が怒るのは筋違いなのだし、ただ彼女に本心を聞き出したいだけなのだから――。


◇3◇


「えっと、それで……結局俺は、きみに……許してもらえるのかな?」

「え?」


 俺の素直な問いかけに、目を見開いて驚きの声をあげる彼女。そして、おずおずと言葉を繋ぐ。


「あ、あの……申し訳ないのですが、私は何を許せばよいのでしょう?」

「……」


 彼女の言葉を受けて、俺の心に冷たい風が吹く。やはり俺は彼女にとって空気に過ぎなかったのか。

 想像していたとは言え、現実に突きつけられてショックを隠せないでいた俺だけど、自分を奮い立たせて言葉を繋いでいた。


「い、いや、その……俺が、きみの望みを叶えてあげなかったことに……」

「……ぁぁ……」


 俺の言葉を聞いた彼女は、今思い出したかのように小さく呟いていた。その表情に俺は自分の考えを確信していた。ところが。


「あ、あの、そう言うことでしたら……条件をつけさせて、い、いただいても、よろしいでしょうか?」

「え? ……ああ、うん……えっと、なにかな?」


 突然こんなことを言い出してきた彼女。条件? 俺のことなんて、どうでもいいんじゃないのか?

 条件をつけると言うことは、条件さえクリアできれば許してもらえるってことなのか? 

 そんな考えが浮かんだ俺の脳裏に、既に消え去ったはずの可能性が浮かび上がる。

 これは……敵意を向けることに成功していたってことなのだろうか。

 それまでの態度は単なる彼女の優しさ。高貴な血筋による慈悲じひだったのかも知れない。 

『一寸の虫にも五分の魂』と言うことだろう。

 そう、条件と言うものが必ずしもクリアできる保証はないのだ。

 まさに、お嬢様である彼女は『かぐや姫』なのだろう。つまり断る口実を作ったに過ぎないってことさ。

 きっと条件は、「今後一切、私と小豆さんに関らないでください」だと思う。そして。

 俺には彼女の条件を拒むことはできないのである。俺が彼女に許しを申し出ているのだから。

 それに最初から覚悟の上で敵意を向けさせていたんだ。遠回りしていたけど、これでいいのではないか。これが俺の選んだ答えじゃないか。

 そんな風に考え、再び覚悟を決めて彼女に言葉を促していた俺。ところが。


「――私を、小豆さんと一緒に恵美名高校を受験することを許してくださいっ!」

「えっ?」


 突然頭を下げて懇願する彼女に困惑する俺なのであった。

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