第8話 汗 と タオル

「だ、大丈夫? ……ほら、小豆、涙拭いて? よんちゃんも、はい……」


 俺達の間でオロオロしながらも小豆にハンカチを貸して、俺にタオルを差し出した香さん。気づかないウチに俺は汗をかいていたみたいだ。

 そんな香さんのハンカチを受け取って涙を拭った小豆。俺もタオルを受け取って汗を拭く。

 香さんに手渡されたタオルで顔を覆う。爽やかな柔軟剤の香りを鼻から吸い込んで、俺の気持ちはとても落ち着いていた。そんな穏やかな心を取り戻した俺は、スッと顔からタオルを離す。

 そして目の前の、まだ辛そうにしながら俯いている小豆を眺めて、俺は右手を差し出して小豆の頭をポンポンと軽く叩いた。


「……」


 頭を叩く感触に気づき顔をコッチに向けた妹へ、俺は優しく微笑んで――


「当たり前だろ? あそこが俺の家なんだからさ?」

「……お兄ちゃん……」


 そう、優しく伝えるのだった。

 俺の微笑みと言葉と、頭に乗っている手の平の感触に安堵したのだろう、表情を和らげていく小豆。

 そして、笑顔を取り戻して――


「うん♪」


 はっきりと俺の顔を見つめて肯定する。その笑顔と言葉に安堵して胸をなでおろし、この笑顔を忘れずにいようと固く心に刻みながら、俺は小豆の頭を撫でていたのだった。



「……」

「……あっ、香さん、すいません。タオル洗って返しますから……」


 なんとか普通の空気に戻っていった教室内。チラチラと視線は感じますけどね。

 でも、好奇とか冷たい視線じゃなくて、本当に俺達への心配からくる視線なので、暖かい雰囲気ではあるのかな。

 まぁ、空気が読めるクラスメートだとはいつも思っているし、このクラスはとても雰囲気が暖かいと思っている。小豆が好きなことも、ヒシヒシと伝わってくる。その恩恵を受けられていることへも少しは感謝をしているのだ。何かお礼をしてやろうかなとも考えている。

 だが、放っておこう。

 そんな風に小豆の頭を撫でながら教室を眺めていた俺の視界に、香さんの右手が映りこむ。

 俺は左手で握っていたタオルの存在を思い出して、香さんに謝って洗って返すことを伝える。


「いいわよ、そんなの……」


 香さんは笑って言葉を返すと、更に右手を突き出した。返せと言うことなんだろう。


「いや、でも……」


 だけど俺は戸惑っていた。だって、汗拭いちゃったし、汚しちゃったんだし。このまま返すとか、俺、どんだけジゴロなの? いや、ジゴロじゃないかも知れないけど。  

 さすがに気が引ける。と言うよりも信用されていないのかな? なので、きちんと洗って返すことを告げる。


「ちゃんと洗って返しますから……」

「何言ってんのよ……洗うのは小豆なんでしょ?」

「ぅ……」


 香さんの呆れた表情で放たれた言葉に反論できない俺。事実ですけどね。

 正確には香さんのタオルは、我が家の完全自動洗濯機が洗ってくれるのだった。自分で洗わないのにこんなことを言っている俺。いつぞやのお袋と一緒なのだった。これじゃあ、お袋のこと言えないな。

 心の中でお袋に謝罪をしながら、香さんに苦笑いを浮かべていた。


「でも……」

「い・い・か・ら――あっ!」

「げっ!」


 とは言え、やっぱり気が引ける俺は手渡さずにいたのだが、ごうを煮やした香さんは顔を真っ赤にしながら強引に取り上げようとしていた。

 ところが、俺の手からタオルを取ろうとした瞬間にタオルが横へと移動する。香さんと俺は驚いて声をあげていた。

 ――そして今の段階では関係ないが、唐揚げは、いい感じにがっていたのだった。やはり、唐揚げは美味しいのである。


 俺と香さんがタオルの移動した方向に目を向けると、小豆がタオルを掴んで満面の笑みを溢しながら、顔を埋めていた。いや、教室での変態行為はご遠慮ください……。

 あえて教室中の視線を無視しながら小豆を見ていると、数秒ののち、名残惜しそうに顔を離して何処に隠し持っていたのかは知らないけれど、ジッパー付きのビニールを取り出して、中にタオルを入れると密封するのだった。

 き、きっとアレだ。自分のモノにお兄ちゃんの臭いが移るのを拒んでいるんですね。わかります。

 ……そう言うことにしておいてください、小豆さん。


「……あはははは。い、いや~、何やっているんでしょう……ね?」

「……ぅぅぅ~」


 とりあえず、小豆の私生活を香さんに暴露するのも抵抗があるので、乾いた笑いとともに「何やっているんでしょうね~」って言おうと視線を向けると、何故か悔しそうに顔を赤らめて、ふくれっ面で小豆を睨んでいる香さんが映っていた。ど、どったの?

 そんなに洗濯されるのがイヤなのか? もしかして、お気に入りのタオルだとか?

 いや、どう見ても先週商店街で開催された秋祭りで、参加者に配られた店の名前入りのタオルだよね。普通に「ウチに余ったのがあるから、何本かあげる♪」って言っていたタオルですよね。その節はありがとうございました。つまり、お気に入りではないのだった。

 そんな香さんを眺めてみると、何故か香さんも……何処から取り出したのか知らないけれど、ジッパー付きのビニールを手に持っていた。

 う、うん……わかっているんですけどね。そこまで目の前で露骨にされると、さすがにへこみますよ。せめて俺の見ていないところで入れてほしいですね。

 ……手で持ちたくないほどに不快なのだとは思いますけれど。


 俺が心の中で凹んでいると、香さんはふくれっ面の矛先を俺へと向けてきた。しかも何気に目尻に涙を溜めていらっしゃる。

 俺がさっさと渡しておけば問題なかった訳ですもんね。小豆とは言え、やっぱり他人の洗濯では落ち着けないのかもな。ど、どうしよう……今更小豆さんに返せとは言えないし。

 いや、言っても問題はないんだろうけど、さっきの今だと下手に刺激したくないからな。

 

「……」

「――ッ♪ ……」


 そんな風に焦っていた俺は、再び額から汗をかいていた。すると、すかさず新しいタオルを取り出して俺の汗を拭き取る香さん。お、お手数かけます。  

 そして拭き終わって一瞬だけジッとタオルを眺めていたけど、ハッと我に返って顔を赤くしながら、当然のようにタオルを手に持っていたビニールに入れて密封していた。や、やっぱり凹むなぁ……。

 密封したビニールを膝において眺めていた香さんが顔を上げると、何故か上機嫌になっていた。何かあったの?

 あっ、きっとアレだな。洗濯したい人なんだな。洗濯に命を燃やしている人なんだろう。

 わかりますよ、俺も洗濯をしたいところですね。今の現状で疲れた心を癒す、アキバで命の洗濯を……。


 理由は知らないけれど……小豆はともかく香さんは。何となく二人とも上機嫌に戻っているようなので、昼飯を再開しようと思います。


「それでさ、小豆……」

「なぁに~、お兄ちゃん♪」


 昼飯は中断されました。まぁ、俺がしたんだけど。

 俺はさっき中断してしまった本題を切り出す。すっかり上機嫌な小豆さんは普段通りに笑顔で聞き返していた。俺は安堵しながら言葉を繋げるのだった。


「……浮気はしないし、ちゃんと帰宅するけど、帰りにアキバ寄ってくるから遅くなるぞ?」

「……わかった♪」


 同じことを繰り返す訳にもいかないので、先手を打ってから続きを伝える。いつものやり取りをするほど昼休みも残っていないと言うことだ。

 すると少し不満そうに見える――いつもの表情を見せていたけど、すぐに表情を変えて笑顔で了承してくれたのだった。

 不満そうに見えた表情が『いつもの浮気に対しての態度』なのか『純粋にやり取りができなかったことへの不満』なのか俺にはわからないけど、さっきの件もあるからな。誠意を見せておこうと思っていた。 


「それで、さ……何か欲しいもの――」

「お兄ちゃん♪」

「……」


 まぁ、ご機嫌取りなんだけどさ。何か欲しいものがあったら買ってやろうと思っていたのだった。

 先日の小豆の誕生日はゴタゴタしていて……その後もずっとゴタゴタしていて。ついでに頭の中もゴタゴタしていて、何も買っていなかったことを今思い出したのだった。

 たぶん何もなければ、ゴタゴタしたままだったと思うけど。

 一応、ほとりちゃんの誕生日にはチーズケーキを買っていた。チーズケーキをワンホール。これはテッパン事項なので異論は認めん。いや、誰にも意見は求めちゃおらんが。

 チーズケーキは日持ちしない。だけど俺の部屋のほとりちゃん達は全員少食だからさ。総動員で食べても、まったく減らないのだ。

 なので俺も相伴したんだけど、食べきれないのである。丸々食うようなものだしな。

 そんな理由で小豆と智耶にも分けてやっていた。

 もしかしたら、それで小豆の誕生日を有耶無耶うやむやにしていたのかも知れない。まぁ、当日のできごと悪夢が俺の脳内を有耶無耶にさせたんだろうけどな。

 つまり、小豆本人の誕生日には何も買っていなかったので、プレゼントを買う為に聞いてみたのだった。


 俺が言葉を言い終わる前に、当然のように言い切る小豆さん。「そうですよねぇ?」と普通に思ってしまう自分に唖然となる俺。そして、ごく自然に二人の会話を聞き流して普通に昼休みを満喫している香さんとクラスメート達――って、こら!

 そこは驚いていただかないと俺の立場がないだろうが。

 とは言え、元から存在していないのかも知れないですけどね。やっぱり、このクラス冷たい……。

 

「……えっと、どの作品の?」

「――『私の』お兄ちゃん♪」


 クラスの冷たさで頭がほどよく冷えたので、冷静に作品名を聞いてみた俺。自意識過剰な勘違いだったら恥ずかしいのである。……どうやら、まったく勘違いじゃなかったようです。わざわざ『私の』を強調してきましたし。

 なるほど。『勘違い主人公』の道は険しいのだった。いやだから別に、俺は主人公じゃないし、使い方も間違っているだろうけどな。

 

「そんな作品知らないんだけどなぁ……」

「小豆のお兄ちゃん♪」


 素直に肯定するのも変だと思い、俺なりに反抗してみたんだけど動じない小豆さん。そして隣では、自分の弁当を食べ終わった香さんがほんわかと俺達を眺めていた。

 ――って、こんなことしている暇ないじゃん!

 

「わ、わかった……いや、わかんないけど。お兄ちゃんは非売品なので、俺セレクトで何か買ってきてやるから! そ、それより、飯の時間なくなっちまうぞ?」

「――えっ! わわわ……」


 教室の時計を見上げて、残り時間が少なくなっているのに気づいた俺。

 とりあえず話を切り上げて弁当を食べることに集中する為に、慌てて小豆に声をかけた。それまで暢気な表情を浮かべていた小豆さんも、俺の言葉に時計を見上げて驚きの声を上げると、弁当に集中するのだった。


 こんな感じで慌しくも、有意義な昼食の時間も終わる。

 食べ終わった小豆は急いで……さすがに廊下は走れないので、制限速度ギリギリの早歩きで自分の教室へと戻っていく。廊下の張り紙に書いてある『校則廊下速度 時速四キロまで』を守りながら。

 ――って、ウチの学校、スピードメーターでも設置してんのかな。普通わかんないよね。

 

 そんな小豆の後ろ姿を微笑ましく眺めてから、優雅に隣の教室へと歩いて戻っていった香さんを見送る。

 そして何故か俺が二人の座った、高松くんと美紅田さんの席を戻すのだった。まぁ、弁当のお礼だけど。

 席を戻して、待っていた美紅田さんをレディファーストで椅子に座らせ、そして高松くんを座らせる。席を譲ってもらったお礼だね。それくらいはしておかないと、申し訳ない気がするのだ。

 ……ある意味、強奪されているんだからさ。昼休み中、自分の席をね。

 自分の席に座った二人は何故か顔を赤らめていた。美紅田さんはともかく高松くんはやめて? まぁ、美紅田さんもやめていただきたいところですがね。

 二人とも俺よりもイケメンなんですから。ウチのクラスにも非公認ファンクラブがあるのを知っているんですから!

 その手の厄介ごとは小豆だけで十分です……いや、小豆のも特に頼んでいないんですけどね。

 とりあえず、そんな二人を無視して自分の席に座る俺。熱い視線を感じますし、何か背筋が凍る感触がしますが、気のせいだと思いたい……。


 自分の席に座って時計を見上げると、予鈴の数分前を指し示していた。少し休むくらいならできそうだ。

 俺は少し疲れた脳内を休めようと、机に伏せて目を閉じるのだった。


◇7◇


 あの日――家を飛び出してから数年が経ったある日。俺は明日実さんの口から、とある悲しい事実が告げられる。

 あの頃、離れ離れになっていた妹。小豆が登校拒否をしていると聞かされたのだった。

 俺が家を飛び出した当時、まだ小学生だった小豆。

 今と変わらずに、当時から成績もそこそこ優秀で、品行方正な妹。

 そんな小豆を見ていた担任の薦めで、お嬢様学校で名高い私立中学校を受験することになったのだ。


 正直あの頃の俺は、相当のフダツキだったのだと思う。

 そこそこの人数の『チーム』の頭を張っていたこともあった。ここら辺の警察の人達とも顔馴染みだった。今となっては汚点でしかないような『二つ名』まで存在していた俺。

 当然中学の担任の耳には入っている。そして、俺の通う中学校と小豆の通う小学校はすぐ近くだ。教職員の繋がりがあっても不思議ではない。

 つまり、小豆の担任がすべてを知っていたとしても不思議ではないのだろう。

 そんな俺が通う公立中学に妹を通わせるのを躊躇っていたのかも知れない。

 親父達も、そのことを考えていたのだろう。とは言え、親父達や小豆は担任が考えているような『小豆の体裁』に対して考えていた訳じゃなかったと思う。

 あくまでも『俺への配慮』だったのだろうと、今なら素直に思えるのだった。

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