第7話 勘違い と 浮気

 ずっと香さんを気にして見ていた小豆だったが。

 香さんが落ち着いたのを見て安堵の表情を浮かべると、俺の方へと視線を移して怪訝そうな表情で問いかけてきた。


「……お姉ちゃんの香味焼きにミントの味なんてしないよぉ~?」

「は?」

「――ッ!」


 俺は小豆の問いかけに疑問の声をあげる。いや、何言っちゃっているの? するだろ、ミント。

 確かにメインと言う訳ではない。本当に微かな隠し風味程度ではあるのだが、しっかりと自己主張されているミント。

 俺以上に味覚が優れているお前が気づかない訳ないだろ?

 そんな風に思いながら、妹を見ている俺の隣で挙動不審な態度を取る香さん。

 あれ? まだ落ち着いていなかったのかな。まぁ、俺が何かをできる訳でもないしさ。背中をさすってあげたいところだけど、無数の視線で殺されかねないからね。

 頑張れ、香さん。負けるな、香さん。何に対してかは知らん。

 とりあえず心の中でエールを送ってから、再び小豆へと視線を戻す。


「……いや、するだろ? 普通に」

「……しないよぉ~」


 俺は確認の為に、もう一個香味焼きを頬張った。貴重な香味焼きなのにな。こんなことの為に食べてしまって、申し訳ありません。でもやっぱり美味しい。

 貴重な香味焼きを丁寧に味わいながら、心の中で香味焼きに謝罪と賞賛を与える俺。そして喉を通したあとにくるミントの香りを確認して、再び小豆に声をかけた。

 俺の言葉を受けて、小豆も同じように香味焼きを頬張り、丁寧に咀嚼して喉を通してから「しない」と言い張る。なんでだ?


「お兄ちゃん……食事前に歯磨きか、ガムを噛んだんじゃないのぉ?」

「する訳ないだろ……」


 そして呆れた表情でこんなことを言ってきやがった。

 中には食事前に歯磨きをする人もいるらしいけど、俺は基本食後にする。と言うより学校なんで簡単にクチュクチュっと、うがいで済ませる程度だ。とは言え、さっき早弁したけど別にケアはしていないんだけどな。

 だから歯も磨いていないし、ガムも噛んでいない。だから妹の言葉を否定する。

 直後に「だよね~?」と言いたそうな表情をするのを見て、本当に小豆にはミントの味がしないのではと感じ始めていた。

 なんか食い違っている俺達の意見。腑に落ちない俺は、不本意だが自分の分の香味焼きを一つ摘んで、小豆の前に差し出してみた。

 自分のを食えばいいんだろうけど、自分のを食っても「しない」と言い張っているのだ。

 だから同じ香さんの香味焼きだとは思うが、俺のを食えば考えが変わると思っていたんだろう。根拠はないけど。そして、もちろん一個返してもらうけどな。


「……だったら、俺のを食って――」

「ダメェーーーーーーーーーーー!」

「――ッ! ……」


 俺は小豆に「俺のを食ってみろ」と言おうとしていたんだが、香さんの教室中に響く大声を聞いて思わず手を引っ込めていた。

 俺が差し出していた時点で、既に目を輝かせて口を大きく開いている小豆さん。そして両手を机について前のめりになって俺の差し出した香味焼きを迎え入れようとしていた。

 だけど悲しいことに、小豆さんが香味焼きを迎え入れて口を閉じようとした瞬間に香味焼きは撤退した。

 そして何も入っていない口は虚しく閉じられるのだった。

 味のしない口内に気づいた小豆さんは、そのままの体勢で「ぅぅぅ」と小声で威嚇しながら俺を睨んでいる。

 そして俺は目を見開いて、ジッと香さんを凝視していた。うん。小豆と目を合わせたくないから。

 小豆も俺の睨むのをやめると、心配そうな表情に変えて香さんへと視線を移していた。ついでにクラス中が注目していた。そしてオロオロとしていた。……気持ちはわかるが、自分達の昼休みを満喫してくださいよ、君たちは。


「……だ、だめだよ、よんちゃん……小豆は知っているもん。よんちゃんは鈍感だから気づいていないようだけどぉ……小豆なら『ウチで使っている歯磨き粉』だって、気づくもん。気づいたら私の『作り方』を理解して、絶対に真似するもん。これは私だけの特権なんだから、絶対に、だめなんだよ……」


 そんなクラス中から注目を浴びている香さんは、とても真っ赤な顔で俯いている。そして両手の指を太ももの上で絡めてモジモジしながら、ブツブツと何かをささやいていた。

 何を言っているのかは聞こえなかったが、その仕草はとても可愛い。いや、可愛い。ではなくて、可愛い。とにかく、可愛かったのだった。

 彼女の仕草を可愛いとしか表現できないボキャブラリーの貧困さを嘆きつつ、様子を眺めて可愛いと感じていた俺。

 そんな俺にジト目を送るのと、心配そうな視線を香さんに送るのを、メトロノームのように繰り返す小豆。それもアップテンポなBPMを刻んでいた。器用だね。だけど途中で逆になって慌てて直していましたね。

 俺は、そんな小豆も可愛いと思いながら、二人をメトロノームのように眺めていたのだった。……疲れた。

 

「……あ、あのね? き、きっと、よんちゃんの勘違いなんだよぉ……」


 やっと正面を向けるようになった香さんは、俺にそんなことを伝える。未だに赤い顔をして、言った直後に視線を逸らしましたけど。

 な、なるほど。どうやら、俺の勘違いのようだ。

 まぁ、勘違いではない気はするんだけど、真っ赤な顔の潤んだ瞳でジッとコッチを見つめて「好きです」なんて告白しそうな勢いで言われたもんだから、俺の理性が総動員して、俺の「ミントの味がする」と言う考えを全否定してきやがった。とは言え、指揮をしていたのも俺ではあるがな。

 だから、勘違いで問題ないのだった。そう、問題は山積みだけど、問題がないことにしたかったのだった。

 ――主に隣で不機嫌な顔をする小豆さんやら、周りで注目しているクラスメートとかな。


「そ、そうですねぇー、お、おれのかんちがいでしたー。た、たた、たべましょうかぁー」


 とりあえず、場の空気を変えようとして、教室中に聞こえるような大声で目の前の二人に声をかけた俺。思いっきり棒読みになってしまっていたけどな。

 そして先陣を切って目の前の弁当城へと果敢に挑み始めると、俺を援護するように小豆と香さんも弁当城へ攻め入ろうとしていた。そんな俺達の白熱したバトルを眺めていたクラスの連中も、自分達の立ち向かう相手を思い出して視線を戻して目の前の敵に立ち向かっていくのだった。


「……そうだ、小豆?」

「なぁに、お兄ちゃん♪」


 そんな風にそれぞれが自分の弁当に舌鼓を打っている時、俺は唐突に思い出して小豆に声をかける。

 その言葉に嬉しそうに返事をする小豆。いや、白い目で見られるよりはマシだけど、嬉しそうに聞かれても朗報はないよ?

 まるでずっと待ち焦がれていた作品の続編が発表されたかのように、嬉々とした表情で聞いてくる妹に呆れ顔を浮かべながら本題に移るのだった。


「俺、帰りにアキバ寄ってくるから遅く――」

「……浮気?」


 相変わらずの反応を返す妹。何度も繰り返されるやり取りに、俺は面倒になっていたのかも知れない。つい、無意識に俺は呆れ顔のまま、適当に答えてしまっていた。


「……そうだが?」

「――ッ! ……」


 その瞬間、一斉に氷のような視線が四方八方から突き刺さる。香さんは呆れた顔をしていたけどな。

 背筋の凍る感覚に陥ったことで我に返り、恐る恐る小豆さんを眺めると、俯いたまま固まってしまっていた。

 俺の脳内に第一級警戒態勢のアラートが鳴り響く。

 まずいまずいまずい……あっ、唐揚げ美味しい――ではなくて!

 俺は相当焦っていた。焦りすぎて無意識に弁当箱から唐揚げを摘んで美味しさを噛み締めていたのだった。俺は意識を戻して、再び小豆の顔を眺めようとしていた。


「――ッ!」


 だけど小豆の姿をの当たりにして、俺は自分の愚かで、浅はかさな行動を悔やむことになるのだった。


◇6◇

  

 ――そう、こんな風に余裕でいられたのは、ほんの一瞬だったのだろう。

 それが理解できるほどに目の前の光景は、あの頃何度も夢に出てきて俺を苦しめた光景。俺を責め続けていた光景。俺に罪悪感を与え続けていた悪夢。想像でしかなかった悪夢。

 そんな、現実では絶対に見ないと心に決めていた光景が、俺の目の前に鮮明に映し出されていたのだった。

 

 目の前の小豆は未だに俯いたままだった。だけど微かに身体が震えているのがわかる。

 何かを堪えているのが伝わる。漏れそうになる声を必死で押し殺している。

 打ちひしがれて、うな垂れてしまうのを必死に堪えているようにも思える。そんな悲しみで覆われた妹の姿。

 あの時もきっとそうだったのだろうと、何度も罪悪感にさいなまれて夢に出てきていた光景。

 そんな光景をの当たりにして、俺の背中を冷や汗が伝う。少し身体が強張る。血の気が引く感覚に陥る。胃の中身が逆流する衝動にかられていた。

 ぼんやりと映る小豆の向こうに、クラスの連中の心配そうな表情が映る。

 だけど今は別に周りの視線など、どうでもいい。このままだと小豆が泣くから。きっと泣くだろうから。俺が泣かせたのだから。

 今は、ただそのことだけが、辛く俺にし掛かってくる。


 俺は、もう、コイツの涙を見たくないって思っていたのに。

 一生、笑っていてほしかったのに。

 俺が、小豆を泣かせた。

 俺の言葉が、小豆を悲しませた。

 俺はあの日に誓った決意を守れなかった。

 俺が俺でいられなくなる。俺の誓いが破られてしまう。

 もう、俺には『お兄ちゃん』でいられる資格はない。また、俺が手放したんだ。

 そんなことを頭の中で巡らせているうちに、視界の先の小豆の身体が、うっすらと色を失っていく。

 そして音が消え始め、感覚がなくなりだしていた。そんな時、突然身体が揺れ始めていた。

 

「――ちょ、ちょっと、よんちゃん! 大丈夫?」


 気づいたら俺は香さんに声をかけられ、肩を揺すぶられていた。

 血の気が引いて顔が青ざめ、無自覚で震えていた俺を心配して揺すってくれたらしい。

 声をかけられ、意識と血の気も戻り、ほんのりと暖かく感じられる身体。モヤの晴れてきた視界で妹を眺める。

 すると、小豆は顔をゆっくりと上げて正面を向いた。その瞳には大粒の涙が溢れていた。だけど小豆は涙を堪えて、無理に笑顔をつくりながら――


「……わ、わかった……でも、ちゃん、と、帰って……きてね?」

「……」


 そう答えるのだった。その言葉を紡いだ反動で溢れた涙は頬を伝う。

 俺はその言葉に、小豆の表情に、頬を伝う涙に。何も言葉を返せないでいた。

 たぶん周りは、俺達のことを見ながら「何、おかしなことをしているんだろう?」なんて、そう思っているのかも知れない。

 自分の家に帰るのは当たり前だと、そう感じているのかも知れない。 

 そして小豆は何故、こんな的外れな話の『浮気』に過剰な反応をしているのだろうと、そう考えているのかも知れない。

 それは、困惑の表情を浮かべて隣で俺達を見つめている香さんでさえも、きっと同じなんだと思っている。

 俺が家を飛び出した理由。それを知るのはウチの家族と明日実さんだけ。幼馴染の香さんでも知らない事実。

 香さんには「都合により親戚の家で暮らすことになった」と、両親が伝えてあったらしい。

 家を飛び出してはいたけど、俺は一応中学校には毎日通っていた。当然一個上の香さんも同じ中学出身。

 家を飛び出して数日後、香さんは俺のクラスを訊ねてきた。その時に俺は香さんから――

「親戚の家で暮らすことになったの?」

 そんな風に聞かれた。

 事情を知らないから深く言及できないからなのか、元々の優しい性格から詮索をしないでくれたのか。それ以上のことは聞いてこなかった。

 聞かれた俺は、曖昧に答えを合わせていた。あまり香さんに心配をかけたくなかったから。悲しい顔をさせたくなかったから。

 別に香さんは何も悪くないのだから、彼女に俺のことを話すのはやめておいたのだった。

 

 俺達の間に起こった真相を彼女は知らない。つまり、クラスの連中と同じ。

 だから、今の俺達のやり取りをおかしいと感じているのだと思う。

 だけど違う。

 これは、そう言う話なんかじゃない。

 俺だけは、小豆のを理解していたはずなのに……本当の意味では理解していなかったのだろう。


 小豆は別に、俺に向かって言っている「浮気?」を本当に浮気だなんて思っていないのだと思う。

 そもそも、何に対しても言っているのだから、百も承知なのかも知れない。

 ただ、俺が勝手に何かをすることが恐いんだと思う。俺が小豆自分の知らないことをするのを恐れているんだと思うのだ。

 俺が罪悪感から悪夢にうなされていたように、きっと小豆もトラウマのようになっているのだろう。

 俺が何も言わずに家を飛び出してしまったことを。小豆の前から消えていなくなったことを。

 頭では理解しているんだと思う。だけど、その時の光景が頭に過ぎって、反射的に出てしまう言葉なのかも知れない。

 あの日、何も言わずに出て行ってしまった、姿を消した俺を重ねているのだろう。

 それは、俺が与えた傷跡。

 俺が招いたトラウマ。

 最初から知っていたはずなのに。わかっていたはずなのに。

 俺はわかってやれていなかった。気づいてやれなかったのだろう。

 小豆の本当の気持ち。小豆の口癖の「浮気?」の意味を……。


 小豆がいつも「浮気?」と言う時、俺はコイツは不機嫌な表情をしているのだと思っていた。

 だけど違うんだ。あれは不機嫌な表情じゃなかったんだ。

 ただ、泣きたくなるのを抑えていたんだと思う。下唇を噛んで、顔を赤くして、上目遣いで震えながら見つめる妹。

 きっと俺に「違う」と言って欲しかったのだと思う。その言葉に安心したかったのだと思う。

 だから今、俺が伝えるべき言葉は謝罪じゃない。安心させてやれる言葉なんだと思っていたのだった。

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