第二章 人情
第1話 容認 と 幼女
色のない世界。目に映るのは白と黒。そんな二色のぼやけた輪郭の世界――。
声もない世界。聞こえてくるのは音。苦しみをもたらす音――。
感覚もない世界。感じるのは苦痛。蝕んだ心を突き刺す感覚――。
裏切られた。奪われた。壊された。……殺された。
すべてを知り、すべてに裏切られたと思った日。
俺は家を飛び出した。そしてすべてを失った。
そんな絶望に切り裂かれた俺を救ったのは赤。誰もが平等に与えられた赤。
そんな誰にでも平等な赤に裏切られた俺は、他の赤を欲した。誰彼かまわず奪いさった。
だけど、そうじゃなかった。俺の勝手な勘違いだった。
奪われたんじゃない。手放したんだ。
殺されたんじゃない。自分で自分を殺したんだ。そのことに気づいた時、俺はもう手遅れなんだと思っていた。
◆
すべてを奪われて、すべてを憎んでいた俺の唯一の心の拠り所であり、心残り。
俺を慕ってくれていた妹。小豆に対して何も伝えていなかったことだけが俺に微かな光を残していたんだと思う。
あいつには罪はない。すべてを憎んでいたとしても、それは俺の感情だ。無関係なあいつに、八つ当たりすることだけは俺にも間違っていると思えていたんだろう。
だから差出人を書かずに一通の手紙を小豆宛でポストへ投函した。
理由は話せない。と言うよりも、何を書けばいいのか思いつかない。だから一言だけ――
『ごめんな』
そう、書き記していた。
そして、重たくなった気持ちの気晴らしに……荒んだ生活への気晴らしにと与えられたアニメ雑誌を眺めていて、当時放送されるアニメの紹介記事で、俺は『善哉』と『小豆』の文字を見つけた。
俺は夢中になって記事を読んだ。そしてガラにもなく、この二人に俺達兄妹を重ね合わせていた。
俺はあいつと一緒には歩けないだろう。だけど、俺は小豆を忘れたことなんてない。
そう伝えたくて、記事を切り抜いて、手紙に同封したのだった。
それから、あいつとは何もない。ただ俺自身の憎しみと絶望を塗り替えるような生活を送っていた。
もう、あいつは俺を忘れたかも知れない。でも、それでもいいのだと思っていた。俺があいつを忘れなければいいだけだと思っていたから。
だけど、すべてを手放したと思っていた俺の手を……あいつはずっと握ってくれていた。
あいつだけじゃない。親父やお袋……あの頃に出会ったすべての人達は俺を手放してなんかいなかった。
ただ、俺が手放していただけ。俺が、突き放していただけだった。
そして月日が流れ、俺が中学を卒業する間近。小豆は俺に真面目な表情で「帰ってきて!」とお願いしてきたのだった。
それまでにも数ヶ月前から月に一・二度は会いに来てくれていた妹。だけど今日は雰囲気が違うなと思っていた矢先の言葉だった。
もうその頃には周りの人達のおかげで俺も自分の過ちに気づいていた。色も声も感覚も、与えられていることを実感していた。ただの俺の我がままだったって気づいていた。
親父達への恨みも憎しみも何もない。ただ、俺が真実を受け止めることができなかったってだけ。
俺がバカだっただけなんだ。だから親父達に何もわだかまりを感じていない。
だけど数年間の溝が、俺をあの家に戻ることへ
そんな俺に手を差し伸べてくれた妹。親父達も説得してくれたと言っていた。
俺はその言葉に救われた。その笑顔に救われた。小豆の存在に救われたんだと思う。
数日後。俺はあの日以来近づくことをしなかった我が家の門を通り玄関のインターホンを鳴らす。
数秒後。扉が開くとそこには親父とお袋。そして――
満面の笑みを浮かべる小豆が待っていた。その後ろに隠れた小さな影。まだ小さかったから俺を覚えていないのかな? 少し怯えた表情で小豆の陰に隠れていた。
「お帰りなさい」
俺を見つめて笑顔で出迎えてくれた、俺の家族。俺は家族の一員に戻れたんだ。絆をもう一度与えられたんだ。
俺は改めて、はにかみながらも「ただいま」と伝える。そして靴を脱ぎ廊下に上がろうとした瞬間――
俺の目の前の景色が眩い光を放ちながら、完全色として蘇るのだった。
色を失った世界。赤だけが与えられた世界。周りの人達のおかげで淡い色を取り戻した世界。
そして今、完全な光輝く色を取り戻した俺。
俺はその中心に立つ小豆を眺めて、心の中で『もうコイツを悲しませない……ずっと笑顔でいさせられるお兄ちゃん』でいようと決意するのだった。
◇1◇
妹の言い放った一言によって、俺のアニオタへの認識が過去の認識へと塗り替えられた日から数日後――。
悪夢を引き起こすキッカケになった『秋アニメ』も、既に三・四話ほど放送されている、そんなある日の朝。
俺はいつものように自分のベッドで……ほとりちゃん達に間借りさせてもらいながら睡眠を満喫していた。少し懐かしく苦しい……だけど最後には暖かくなれる夢を見ながら。
そう、快適な眠りに就いていたのだった。
我が家の絶対ルールによって強制されていた『お兄ちゃんを抱き枕にする権利』は、あの日を境に数日間続いていた。
正直、俺がそんな状態でまともに寝られる訳がない。俺はついに授業中にぶっ倒れてしまうのだった。って、単なる寝不足なんですけどね。
ところが、運がいいのか悪いのか。ウチの学校の保健医である『
名前をもじって『
そして彼女は、俺や小豆のことを昔から知っている……と言うよりも、俺が家を飛び出していた頃に大変お世話になっていた、俺にとっての『もう一人のお袋』的な存在の女性。
どちらかと言えば、お袋以上にとてもご迷惑をおかけしていた、頭の上がらない人物なのかも知れない。まぁ、本人は全然気にしていないみたいだから、俺は精神的に助かっているんだけどさ。
そんな彼女は、俺の親父とお袋の学生時代の後輩なのである。
だから我が家の事情を理解している彼女は、俺がぶっ倒れて保健室に運ばれた時に、呆れた顔をしながら――
「あんたほど血の気が多い人間が貧血とか、天文学的にあり得ないわよね? どうせ
なんてお言葉とともに、穏便に処理をしてくれたのだった。……特に小豆さん関連。
と言うか、俺の貧血ってそんなに確率低いの? 確かに血の気は多いけど、流れる量も多いから貧血になる確率高いよ? 昔の話なんだけどさ。
そんな風に昔からの付き合いなんで小豆のことは『こまめちゃん』と呼んでいる。俺は『あんた』なのにな。別にいいけど。
だけど、そのあとで明日実さんが両親と一緒に飲んでいた時に、シッカリとそのネタを酒の
それも『ネタオンリー』の肴で飲んでましたからね。
「新鮮なネタは素材だけで飲める!」とか豪語していましたしね。いや、意味違うでしょ。
本当に三人ともさ、もう介護……保険料を支払うくらいには歳くっているし、立派な大人なんだから、肴はもっと上質なものを選びましょうよ……まともに食えるもので。
そんな話を隣で聞いていた小豆は、顔を青ざめて涙をボロボロと
そして、そんな俺達を眺めて、上機嫌な顔で笑いながら更に肴にする三人。なに、この
ただ、そのおかげなんだろうな。不本意だけど。
さすがに小豆さんでも、俺が困ることはしないらしい。極限状態以外は完全に無視していますけどね。
だから俺は晴れて、抱き枕の刑から解放されたのだった。だが、それと同時に俺の制服のシャツは完全に拘束されていた。
洋服ダンスに入っている洗濯済みの制服のシャツ。それがすべて『シャツ質』に取られてしまったのだった。
とは言え、別に「学校行けなくなるじゃん、ラッキー!」なんてことは起こらない。世の中はそんなに甘くないのだね。
ちゃんと毎朝、一枚のシャツが手渡されるんだよ。小豆の手から。
いや、最近は枕元に置かれていることが多いんだけどな。意味はわからないが小豆が作ったのかも知れない、大きな靴下の形をした袋に入っているのだ。
そんな毎日がクリスマスならぬ理解にクルシミマスな俺の枕元。そんなサンタさんならぬサタンさんからの贈り物。
だけど渡されるシャツは少しだけ、ほんのり暖かいんだよね。少しだけ、いい香りがするんだよね。なんでだろうね。
――答えは『秀吉の草履とり』である! いや、違うけど。
つまり、小豆さんの寝巻きが、洗濯前のシャツから洗濯済みのシャツに変わったって話だ。
そんな、夜中に自分の香り付けをしたシャツを手渡してくる我が妹。さすがに対応に困ったんで――
「なぁ? この際、今まで通り……洗濯前のシャツは目を
そう、冷や汗まじりの表情でお願いしてみた。
結局のところ、洗濯されてから俺の手元に戻ってくるんだし、それまでの間の出来事は忘れてしまおうって結論に至った訳だ。なのにコイツときたら――
「ソッチは着ていると匂いが遠いから……ほとりちゃんに着せて、顔埋めるのに使っているもん」
と言う、屁理屈をこねていた。いや、君はほとりちゃんをなんだと思っているのだね?
まぁ……『彼女の名はほとりちゃん。それ以上でもそれ以下でもない、ただのほとりちゃん』なんだけどさ。
まったく、誰が好き好んで俺の『洗濯が必要な』シャツなんて着たいとか思うんだよ。いるって言うなら目の前に連れてきてみろよな……いましたね。最初から目の前に。
汚さないでね。俺のシャツじゃなくて、ほとりちゃんのピュアな心を汚さないでください。お願いします、何でもしますから……両親が。
俺が心の中で懇願していると、小豆は満面の笑みを溢しながら――
「だから、お返しに私の香りをおすそ分け~。……えへへ~♪」
なんて顔を赤くしてモジモジしながら言ってから、はにかんでいた。恥ずかしいなら言うなよ……俺まで恥ずかしいじゃねぇか。
とは言え、小豆に「だったら洗濯されているのは返せ」と、言ったところで返ってこない俺のシャツ。
俺の家には『完全』自動洗濯機が装備されている。なんせ、俺が洗濯カゴに洗濯物を放り込むと――
勝手に洗濯機に放り込まれて洗濯されて、乾燥どころか天日干しされて、綺麗に畳まれて俺の洋服ダンスに勝手に戻ってくる。世の中、本当に便利になったもんだ。
――うそです、ごめんなさい、小豆さん。いつもお世話になっております。
つまり、全部を小豆に任せているんで俺としては、何かができる訳もないので諦めた。
きっと、戻ってくる間の工程ラインが少々変更になったんだろう。そう言うことにしておこう。
そんな訳で俺は毎朝、小豆の香り付きシャツを着ることになったのだった。
必ず、それはまるで満員電車のドア付近に立っていたせいで、乗客の押し寄せる圧迫で悲惨な体勢を取っていたような……疲れきって「たわわ~」と叫んでいそうな、第二・第三ボタンに憐れみの視線を送って、ため息をつきながら……。
◆
そんなことはあるものの、抱き枕の刑から逃れた俺は安らげる睡眠を満喫していた。
まぁ、仮に抱き枕になっていたとしても小豆さんなら……とっくに朝食の準備があるから起きている時間なんだろうけどな。そんな、寝る前にセットしていた目覚ましがもうすぐ鳴ると思われる時間帯。
いそ助さんの部屋の方の、カーテンで遮っていない窓から差し込む太陽の光。そして部屋に漂う美味しそうな香り――小豆の……枕元から漂う方ではなくて、作る朝食の香り。
そんな二つの目覚ましに俺の意識が少しずつ、現実世界へと引き戻されている。そんな、夢と現実の狭間で浮遊していた俺の脳内に、突如物音が聞こえてくるのだった。
夢なのか。現実なのか。まだ、ハッキリと区別が付かないでいた俺。そんな俺の脳内に「ドドドドド」と言うけたたましい音が響き渡る。だから一度は意識が引き戻されかけていたが、ピタリとその音が消えた。
俺の脳内で響いていただけなのかも知れない。そう解釈した俺は曖昧な感覚に陥り、再び眠りに入ろうとしていた。
そんな曖昧な状態だったから、そのあとに部屋内に響いていたはずの……微かに扉が開く音と、床をソーっと歩く小さな足音を聞き逃していたんだろう。
ゆっくりと視界が暗くなっていくのを全身で感じていた時、突然ベッドが軋む。刹那――
「よぉ~にぃ~」
「――んっ!」
そんな声とともに、俺の下腹部に衝撃が走る。俺は思わずうめき声を上げてしまった。誰も『容認』した覚えがない衝撃。だから咄嗟に目を開ける。すると、そこには――
「あっ、お目覚めですか? おはようございます。よぉ~にぃ~。朝ですよ~?」
満面の誇らしげな笑顔が輝く幼女の姿があった。俺の上に跨りながらの状態で。
俺はそんな幼女に呆れた顔で声をかけるのだった。
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