走れ、軟弱者!(十五)


 ついに、最後の競技となるリレーが開始した。


 走者は一人につきグラウンドを一周、およそ二百メートルを走らなくてはならない。


 次々にバトンが走者に渡されていく度、待機している列が短くなっていく。仲間達に懸命に応援の声をかけながら、僕は時折、真後ろに座っている鶴野つるのさんの様子をそっと窺った。



「ほれ、白組の方がバトンの渡し方が上手いだろう? これがチームワークの結晶だ!」


「何を言う、赤組の方がリードしとるじゃろうが。チームワークも赤組の方が上じゃ!」



 彼の隣には、同じく最後尾でアンカーを務める亀山かめやまさんがいる。


 ギャンギャン喚く二人の姿が楽しそうに見えるのは、鶴野さんの想いを聞いたせいだろう。けれどおかげで、亀山さんもどことなく『ツンデレの女の子』っぽく感じられて微笑ましい。


 リレーでも白組と赤組は接戦で、抜きつ抜かれつを繰り返していた。


 足を怪我した鶴野さんにゴールテープを切らせるために、少しでもリードを稼ぎたいという皆の思いはなかなか実らない。



 手当てを終えた後、陣営テントに戻った鶴野さんはチームメイト達に怪我のことを打ち明けた。それでもどうしても走りたいんだと訴える鶴野さんに皆は心打たれ、彼に協力すると決めた。



 その証が、鶴野さんの右足の靴下。


 元は真っ白だったそれは、ハルカの提案で皆に書いてもらった応援メッセージに埋め尽くされている。



『頑張れ!』

『負けるな!』

『白組最高★』

『鶴野ファイト』



 そのメッセージの中には、僕とハルカが二人で書いたものもある。



『WE♡運動会』



 運動会の部分は、僕が書いた。ハルカはそれを見てきょとんとしていたけれど、すぐに微笑んでしっかりと頷いてくれた。



 あの優しい笑顔を思い出して、己を奮起させていたその時、場内にどよめきが走った。



 トラック半ばを走っていたミキちゃんが、転んだのだ!



 ミキちゃんは慌てて立ち上がったものの、狼狽えるあまりバトンを取り落とし――重なる失態に耐え兼ねて、ついにそのまま泣き崩れてしまった。



「お姉ちゃん!」



 そんな彼女にトラックの内側から駆け寄り、声をかける者があった――――弟のマサキくんだ。



 第一走者として既に走り終えていた彼は、手を伸ばしてバトンを拾い、それを自分の姉に向かって差し出した。



「最後まで頑張って! 俺も隣で一緒に走るから。どんな結果になっても俺、お姉ちゃんを最後まで応援してるよ!」



 力強い声援に、ミキちゃんは涙に濡れた顔を上げて頷いた。そしてマサキくんからバトンを受け取ると、再び前を向き走り始めた。



「マサキー、いいぞー! マサキの姉ちゃん、頑張れー!」



 並走する二人に向けて、マサキくんの友達二人が大きな声でエールを送る。それを受けて、見守っていた皆からミキちゃんコールの合唱が始まった。



「ミキちゃん、頑張れ! ミキちゃん、頑張れ!」

「ミキちゃん、頑張れ! ミキちゃん、頑張れ!」



 敵味方関係なく、心が一つになる。勝ち負け関係なく、皆が一人一人を応援する。この一体感に、僕も我を忘れてミキちゃんとマサキくんに応援の声を送った。


 戻ってきたミキちゃんは泣きながらチームメイトに謝っていたけれど、もちろん誰一人として彼女を責める者はなかった。


 鶴野さんも『良い走りだった、感動をありがとう!』と彼女を賛美し、あれほど勝ちに拘っていた亀山さんも敵チームを応援したマサキくんを怒るどころか『良いものを見せてもらった、美しき家族愛に全オラが泣いた』と言って、健闘を讃えていた。



「走者、前へ」



 いよいよ僕の出番がやってきた。


 白組は半周近く遅れを取っている。僕では取り戻すことなど不可能、むしろ差を広げてしまうに違いない。


 そんな酷い有様になっても、皆は僕を応援してくれるだろうか?


 ああ……何で鈍足のくせしてリレー走者に立候補しちゃったんだ!



 だらしなく震える足を見つめ、今頃になって後悔し始めた僕の耳に、明るい声が飛んで入ってきた。



「リョウくん、大丈夫! 楽しんで走ればいいよ!」


「そうよ、リョウくん! 勝ち負けよりカッコ良さが大事なんだからね!」



 見ると、トラック外側から剛真ごうしんさんとレイさんが笑顔で手を振っている。


 そして彼らの間には、愛しの愛しの彼女。



「どんな結果になっても、リョウくんは可愛いしカッコ良いし可愛いし可愛いよ! 何があってもそれだけは変わらないんだから、自分なりに精一杯走って! あたし、不器用でも一生懸命なリョウくんが大好きだから!」



 大好き……。

 大好き……!

 大好き……!!



 いよっしゃあ! 漲ってきたぁぁぁぁぁ!!



結城ゆうきくん!」



 背後から、前走者のオジサンの声が迫る。



 慌てて振り向き、彼からバトンを受け取った僕は――――走ることも忘れて絶叫した。




「うぎゃああああああ!!」




 チームメイトのオジサンの背後には、地獄を具現したかのような世界が広がっていた。


 徒競走で纏わりついてきた半身のみ爛れた男、綱引きで現れた僕を模した顔と触手のみの化物、更には中世ヨーロッパ風の格好をした紳士は目からビームを照射し、胸から上のみで腕もない漆黒の老人はカチカチと黒い歯を鳴らして笑っている。


 そして、無表情の子ども達。


 それらが全員、憤怒の形相を浮かべたゴリラ軍団の上に乗っている。



 砂埃を上げ、ナックルウォーキングで迫るオバケーズ・オン・ゴリラーズのあまりの恐ろしさに、僕は瞬きすら忘れて立ち竦んだ。



 足が……動かない。


 走らなきゃ、逃げなきゃ、と思うのに、全く体が動かせない!




「お兄ちゃん、こっちだよ!」




 甲高い声と共に、バトンを持っていない方の手が引かれた。見るとそれは、紺色の半ズボンを履いた一人の少年だった。

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