走れ、軟弱者!(十四)


「そういうわけで、アンカーはワシがやることになった。結城くんには、アンカー手前を任せる」



 走者順序の変更を告げると、鶴野つるのさんはトイレに行くと言ってのろのろと陣営テントから出ていった。



 …………やっぱり、このまま見過ごすなんてできない。



「すみません、救急箱お借りします! ハルカ、一緒に来て!」



 テント内に置かれていた救急箱を取り、僕はハルカと共に鶴野さんの後を追った。




 やはりゆっくりとしか歩けないようで、鶴野さんにはあっという間に追いついた。しかし僕は声をかけずに、一定の距離を保って機会を窺った。


 本当はすぐにでも歩くのをやめさせて、手当てを受けてもらいたい。けれど鶴野さんは、怪我してることを誰にも知られたくないはず。だから人目がある場所では迂闊なことは言えないし、軽率な行動を取るわけにはいかない。


 彼の思いを、台無しにしてはいけない。


 思った通り、鶴野さんは簡易トイレを通り過ぎて、厳重に包囲された校舎の方へと向かっていった。恐らく建物の裏側に回って、こっそりと足の具合を確認するつもりなんだろう。鶴野さんの姿が校舎の左側に隠れるや、僕は足を早めた。ハルカは何となく事情を察してくれたようで、何も聞かずに黙ってついてきてくれた。



「あ、あのっ、鶴野さん」



 周りに人がいないのをしっかり確認してから、僕はやっと鶴野さんに声をかけた。


 校舎裏は、元は遊具が設置された遊び場だったようで、ブランコの骨組みや錆びた雲梯などが残されている。


 その片隅の花壇だったと思われる石造りの場所に、鶴野さんは腰を下ろしていた。



結城ゆうきくん、ど、どうしたんだい?」



 僕は慌てて駆け寄り、無理矢理立ち上がろうとする鶴野さんの肩を上から押し留めた。



「立たないでください、今手当てしますから。ハルカ、右側の足をちょっと診てくれる?」


「……わかった。ちょっと失礼しますね」



 ハルカは鶴野さんのスニーカーの紐を手早く解き、靴下を脱がせた。


 晒された足首は、パンパンに腫れ上がっていた。よくこんな状態なのに我慢していたものだ。


 ハルカは患部をチェックしながら、あちこちを押して鶴野さんに痛くないかと尋ねた。



「内出血も見られないし、骨折はしてない……と思います。でもあたしなんかの素人判断に頼らずに、すぐにでも病院に行くべきですよ。こんな足でリレーを走るなんて無茶です。だったら、あたしが代わりに……」


「僕もそう思う。でも……男には、やらなきゃならない時があるんだ」



 説得しようとしたハルカを制し、僕は鶴野さんの前に膝を付いた。



「どうしても走りたいんですよね? 亀山かめやまさんに、勝ちたいんですよね?」



 項垂れていた鶴野さんが、顔を上げて頷く。その目には、確かな決意の光が漲っていた。



 お年寄りの怪我は、僕達が思う以上に深刻だ。後々になって、何らかの影響が出てしまうかもしれない。鶴野さんだってきっと、それを重々承知している。けれどその上で、走るという決断を下したんだろう。


 だったら、自分がすべきは止めることじゃない。精一杯、全力で彼の戦いをサポートすること、僕にできるのはそれだけだと思った。



「ハルカ、鶴野さんにテーピングをお願い。彼女のテーピング技術、すごいんですよ。僕もよく怪我するから、そのせいで上達しちゃって。きっと今より楽になります」



 僕が目で促すと、ハルカは固い表情で鶴野さんに告げた。



「あたしは正直、鶴野さんが走るのには反対です。すぐに病院に行ってほしいと思ってます」



 そう言いつつも、彼女は諦めたように救急箱を開いた。



「だけど……『男にはやらなきゃならない時がある』んですよね? それが今だというなら、協力します。さっきのリョウくん、腰抜けそうになるくらいカッコ良すぎたし。ね、録音したいから後でまた言って? うーん、でもスマホじゃ勿体ないなぁ……よし、思い切ってスタジオ借りて録ろっか。リョウくん、予定空けといてね。約束だよ?」



 それが協力する条件らしい。


 うう……カッコつけちゃったことを今更軽く後悔してるよ。またあのこっ恥ずかしい台詞言わなきゃなんないのか。しかもスタジオで録音って!


 きっと何度も鬼のようにダメ出しされるんだろうなぁ。でも、それも鶴野さんのためだ。僕にもやらなきゃならない時があるってことだよね……。


 ハルカがテーピングを始めると、ずっと黙っていた鶴野さんが口を開いた。



「すまんな、迷惑かけて。だがどうしても、ワシは亀山に勝ちたいんだ」



 そこから彼は、亀山さんとの思い出を語ってくれた。



「亀山とは幼馴染でな、一緒にこの小学校に通っとったんだ。トヨちゃんは何でも一番で、ワシはいつも二番。勉強でも運動でも、トヨちゃんには敵わなかった。その後の人生でもな」



 亀山さんは都会の学校に行き、そのまま就職して仕事でも成功。対して鶴野さんは地元の学校を出て、親のコネで入った役場に務め、見合い結婚……と二人は対照的な半生を送ったそうだ。



「顔を合わせるのはこの村民運動会くらいだったが、亀山はあの通り相変わらずで……あいつと戦う時だけは童心に返ることができたよ。誰かの夫でも親でも上司でもない、『鶴野タツオ』になれたんだ」



 それから時は流れ、鶴野さんは妻を亡くし、子ども達が一人では心配だと訴えたため、ホームに入居した。それと同じ頃、亀山さんは都会からこちらに戻ってきた。彼女は仕事一筋だったせいで結婚しておらず、また生家にも既に家族はいなかったので、気ままな一人暮らしを満喫していたという。


 再び同じ地元で暮らすようになったとはいえ、環境の違いから、会えるのはやはり年に一度の運動会のみ。


 そしてそのイベントは、毎日を無為に過ごしていた鶴野さんにとって一層かけがえのないものとなった。



「ワシは亀山に、どうしても勝ちたい。勝って……言いたいんだ。いつも負けてばかりでバカにされていたタッちゃんは、密かにトヨちゃんのことが好きだったんだと」



 な、何ですと……!?



 突然の告白に固まる僕を見て、鶴野さんは急に恥ずかしくなったらしい。



「あ、あいつ、『自分より強い奴にしか興味ない』と常日頃から豪語してたんだ。それなら、打ち負かすしかないだろう? 初恋の相手に想いを伝えられなかったことだけが、唯一の心残りだったものでな……言うだけ言って、スッキリしたいんだ!」



 ツルツルの頭まで桃色に染め、目を逸らして言う鶴野さんは、自分の恋バナに照れるただの少年だった。



「それなら……何が何でも勝たなくちゃいけませんね」



 テーピングを終えたハルカが、にっこりと笑う。



「鶴野さん、早く戻りましょう。チームの皆にもわけを話して協力してもらうの。だってこれは個人戦じゃなくて、皆で力を合わせて戦う『運動会』なんだから」



 どうやら何か考えがあるらしい。


 ハルカに促され、鶴野さんは恐る恐る立ち上がった。先程に比べると大分痛みが緩和されたようだ。少し歩いて感覚を確かめたところで鶴野さんは振り向き――僕達に向けて、晴れやかな笑顔を見せた。

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