走れ、軟弱者!(十二)


 周囲には、憤怒のゴリラ騎馬隊郡。

 真正面には、暗黒の闇部隊。


 それらにじりじりと距離を詰められ始めると、林田はやしださんは思い出したように大声で告げた。



「たっ、退避だ! 退避ーー!」


「退避ってどこへ?」

「何言ってんすか、林田さん」

「あんたが重すぎて、もう動けないっすよ」



 しかし、ゴリラが見えない騎馬の三人は首を傾げるばかり。



「いいから逃げろっ! 全速力で! お願いだから逃げてくださいーー!!」



 林田さんの懇願も虚しく、ナックルウォーキングで近付いたゴリラ隊は彼の部隊の至近距離にまで迫り、周囲をみっちりと取り囲んだ。林田さんのゴリラ包みの完成である。



「ひいいいいい!!」



 林田さんが、情けない悲鳴を上げる。


 そりゃ叫びたくもなるよ……こんな間近でこんなにたくさんのゴリラを見るなんて、初めてだと思うし。僕だって、まさか運動会やってる最中にゴリラの騎馬隊に遭遇するとは夢にも思わなかったもん。


 ゴウッと、騎手の一頭であるゴリラが歯茎を剥き出して吠えた。それを合図に、ゴリラ騎手達は林田さんに手を伸ばす。



 それを見て、僕は思わず叫びそうになった。


 彼らが怒りに任せて、林田さんをフルボッコにするのかと思ったからだ。



 いくらオバケでも、こんなにたくさんのゴリラに殴られたら一溜まりもない。もう死んでるオバケ相手ならまだしも、彼は生きた人間なんだから!



 しかし僕の恐ろしい想像を裏切り、ゴリラ達は拳を出さなかった――林田さんの体を、ぐりんと回転させただけだ。



「ぎゃあん!」


「えっ、林田さん?」

「な、何してるんすか?」

「ちょ、落ちたら失格ですよ!?」



 騎馬達が驚いたのも無理はない。


 林田さんがアクロバットよろしく、後方二人の肩それぞれに手を置いてブリッジのような姿勢を取り、前方の一人の頭にお尻を乗せて足をM字に大きく開き始めたのだから。



 もちろん本人の意志ではなく、ゴリラ達が林田さんの両手両足を掴んでこのポーズを取らせているのだが…………これは、恥ずかしい!


 しかも林田さんは短パンだから、何かこう……男性の大事な部分を無防備にぐっと突き出して見せびらかしてる変態感がすごい。僕ならゴリラに殴られた方がマシだと泣くレベルだ。




 くっ、ゴリラ達め……怒りに我を忘れているとはいえ、何てひどいことをするんだ!




「こんの変態野郎めぇぇぇ……」



 闇ミキちゃんが呻くように漏らす。



「乙女の敵、いや人類の敵だなぁぁぁ……」



 闇トモカちゃんが唸るように吐き捨てる。



「総員んんん……あのクソゴミクズカスチリクソを殺せぇぇぇぇ!!」



 そしてついに、真・闇ハルカが高らかに咆哮した。



「うおおおおおおおおお!!」



 それを合図に、三人は揃って獣のような雄叫びを上げながらセクシーポーズで挑発している――実際にはさせられている――林田さんに向かって真っ直ぐに進撃した。




 ちょ、ちょっと待って!


 何で申し合わせたように前傾姿勢になってるの……って、まさか!?




「ハヨシネ、はよ死ねぇぇぇぇぇぇ!!!!」


「いやあああああ!!!! やめてええええええええ!!!!」



 僕はあらん限りの声で叫んだ。



 林田さんの林田さんたる部分が高速で迫ってくる。


 いや、迫っているのはこっちなんだけど…………やだやだやだやだ、待って待って待って待って待って!!




 それは! それだけは!! 嫌ーーーー!!!!




「ウボアーーーー!!!!」




 悲痛なる願いは届かず――――僕の顔面は、林田さんの林田さんに力一杯叩き付けられた。




 おええええええ!

 何かちょっとあったかくて柔らかくて、ほんのり湿ってる感じがしたぁぁぁぁ!!



 こんな感触、二度と味わいたくないぃぃぃぃ!!



「リョウくん、ボサッとしてんじゃねえ! 命奪ったら次は魂だ! 徹底的に毟り取るぞ!」



 ショックで真っ白になってる僕に鋭く言い放つと、ハルカは素早く林田隊の後方に回った。



 哀れ、林田さんは白目を剥いて失神していた。が、ゴリラが押さえていたため、落下することは免れている。


 騎馬の方ももう諦めムード……というより騎手の蛮行に疲れ果ててしまったらしく、どーぞ早く済ませてくださいと白けた視線で僕達に訴えかけていた。



 心の中で手を合わせて冥福を祈りながら、僕は林田さんの帽子と二枚のハチマキを抜き取った。




「やった! リョウくん、ハヨシネに勝ったよっ!!」




 ウホォォォーーーーイ!




 ハルカの歓喜の言葉に呼応し、ゴリラ達が猛々しくも華々しい歓声を上げる。


 となると、お次は恒例のアレですよ…………ハルカに向けてウンチの投擲。


 ゴリラがウンチを投げるのは、ア・イ・シ・テ・ルのサインなんだそうな。




 そう、彼らはハルカを心から愛している。前世で彼女が絶世の美を誇るメスゴリラだった頃から、ずっと。


 こうしてハルカが人間に生まれ変わった今も、彼らは彼女の守護霊となって見守り続けているのだ。今度こそ幸せになってほしい、愛する者と結ばれてほしい、その一心で。


 彼らの愛を込めたウンチは、ハルカには決して当たらず、見えない壁に阻まれるかのように煌めきながら消えていく。これは、届かぬ恋が悲しく散る輝き。


 ハルカには、彼らの姿もウンチも見えない。


 それでも懸命にウンチを投げて愛を伝えようとする彼らの姿は、美しくて切なくて、儚くて――――ああ、やっぱりダメだ! 今はそんな風に美化して受け止めていられない!!



 くっさいわー! ホンット無理だわー! もう耐えられないわー!


 ちょ、今のべチョッてしてたぞ!? 誰だ、下痢気味な奴は!!



 ――――そうなのだ。このウンチ、ハルカには当たらないのに僕にはベシベシ当たるの!


 今回は彼女の真上にいるし、かといって逃げようとして騎馬から下りたら失格だしで、集中砲火もいいところなの!



 後方にいるミキちゃんとトモカちゃんはゴリラすら見えてないし、見えたとしてもハルカと僕が盾になって届かないと思うから安心だけど…………もうやだぁぁぁ!


 オッサンの股間に顔突っ込まされるわ、ゴリウンチ塗れになるわ、ウンコマンとあだ名された者の宿命なの?


 だったら人語を話す魚人か、陰気臭さを撒き散らす線香でいいよぉぉぉ!!



「リョウくん、感動して涙ぐむのは後だよ。鶴野つるのさん、まだ苦戦してるみたい。応援に行こう!」



 怒涛のウンチ攻撃のせいで涙目になっていた僕に、ハルカが力強く言う。


 見ると、ずっと膠着状態だった鶴野さんと亀山かめやまさんの騎馬隊もいつのまにか動き出したらしく、激しく競り合っていた。



 闇化でエネルギーを消耗したせいもあるのだろう、ミキちゃんとトモカちゃんはさすがに疲労困憊みたいだ。しかしハルカはまだまだ元気なようで、彼女達を気遣い、殆ど一人で僕の体重を支えながら団長二組の元へ走った。



「しぶといぞ、亀山! 大人しく降参せい!」

「うるさいわ、鶴野! お前こそとっとと諦めろ!」



 相変わらず激しく罵り合ってはいるけれど、わちゃわちゃ伸ばし合う腕は弱々しい。どちらもかなり消耗しているようだ。



「頑張って! 鶴野さんも亀山さんも、最後まで戦い抜いて!」



 ハルカがエールを送ったその時、鶴野さんの突き出した手が――亀山さんの胸に触れた。




「っきゃあ!」




 えっ!? 今の可愛い悲鳴、亀山さんの声!?



 しかし僕が息を飲んだのは、そのせいじゃなかった――――次の瞬間、亀山さんがバランスを崩したのだ!




「トヨちゃんっ!」




 危険を察したハルカが駆け込むより早く、鶴野さんは騎馬から飛び降り、亀山さんの落下地点にスライディングで滑り込んだ。



「だ、大丈夫か、亀山」

「あ、ああ……」



 間一髪で間に合った鶴野さんに抱き留められ、亀山さんが呆然と頷く。が、すぐに亀山さんは顔を真っ赤にして彼の腕を振り解き、慌てて立ち上がった。


 どうやら怪我はないようだ。


 良かった……あんな落ち方で地べたに叩き付けられていたら、最悪、頭を打っていたかもしれないもん。



「鶴野隊、亀山隊、失格! 最後まで残っていたのは、結城隊! よって騎馬戦は、白組の勝利です!」



 審判が、大きな声で僕達のチームの勝利を宣言する。



 けれど僕は、素直に喜べなかった。



 何故なら――そっと立ち上がった鶴野さんが、一瞬顔を歪めたのに気付いてしまったから。


 懸命に隠そうとしていたけれど、よくよく見ると歩き方が少しおかしかった。恐らく、亀山さんを助けようと飛び降りた時に足を傷めたのだろう。



 次はこの運動会のラスト種目、リレー。



 気付かれないように隠したのは、間違いなくそのため――――鶴野さんは、何が何でも走るつもりなのだ。

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